10月1日

 

目に光を与えるものは心をも喜ばせ

良い知らせは骨を潤す。

命を与える懲らしめに聞き従う耳は

知恵ある人の中に宿る。

諭しをなおざりにするものは魂を無視する者。

懲らしめに聞き従う人は心を得る。

主を畏れることは諭しと知恵。

名誉に先立つのは謙遜。

(箴言15章30~32節)

 

秋は来れり。我は聖書に帰らん。地の書にあらずして天の書なる聖書に帰らん。肉の書にあらずして霊の書なる聖書に帰らん。教会の書にあらずして人類の書なる聖書に帰らん。しかも自由の精神を以て之に帰らん。学者の態度を以て之に帰らん。而して神と自由と永生(かぎりなきいのち)とに就て更に少しく知る所あらん。

 


10月3日

 

「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、行って学びなさい。わたした来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。

(マタイによる福音書9章13節)

 

人の救はるゝは行為(おこない)に由るに非ず信仰に由るなり、信じ難き神の絶大の愛を信ずるに由るなり。髪が義人(ただしきひと)を救ひ給ふとは、何人も信ずるに難しとせざる所なり。然れども彼が自ら進んで罪人と和らぎ、其罪を除き、之を彼の子と為し給へりと聞きて、我等は其愛の、人のすべて思ふ所に過ぎて信ずるに最も難きを覚ゆるなり。誠に信じがたきは水を酒に化し、死者を甦らする物理的の奇蹟に非ず。罪人の罪を除き、之を罪として認め給はず、之に代へて聖き心を与へ給ふとの愛の奇蹟 - 信じ難きは誠に此の奇跡なり。而かも神の愛とは斯かる愛なり。而して我等は此の愛を信じて救はるゝなり。福音は此愛を伝ふる者なり。信者は此愛を信ずる者なり。我が平安は茲に在るなり。我が安全は茲に在るなり。我は世が許して以て厚かましと称するまでに神の愛を信じて、神の子たるの資格を我に獲得せんとするなり。

 


10月4日

 

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。

わたしの助けはどこから来るのか。

わたしの助けは来る

   天地を造られた主のもとから。

どうか、主があなたを助けて

   足がよろめかないようにし

まどろむことなく見守ってくださるように。

(詩篇121篇1~3節)

 

我れ時に我が眼を挙げて援助を求む。独り心に問うて曰ふ、我が援助は何処より来たるかと。然り、我が援助は政府より来たらず、教会より来らず、將又わが修養よりも信仰よりも来らず。我が援助はエホバより来る。宇宙を造り給へるエホバより来る。我が援助は人より来らず、又自己より来らず。外より来らず、衷より來る。然かも我ならざる衷より來る。天地を造り給ひて、而かも我が霊に宿り給ふ神より來る。故に我は人に対して独立なり、然れども自己に依らずして他者に頼る我は強し。然れども誇るを得ず。我が援助をエホバに仰いで、我は謙下りて強健なるを得るなり。

 


10月6日

 

イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。

(出エジプト記14章31節)

 

歴史家は曰ふ、昔時のエヂプトにすべての文物は具って居った、唯一つ無いものがあった、それは個人の自由であったと。実にさうであった。エヂプトのみならず、バビロンに於て、アッシリヤに於て、印度に於て、支那に於て、然り東洋全体に於て、すべての文物は具はって在ったが、個人の自由のみはなかった。而して自由はエヂプトに於てイスラエルを以て始まったのである。茲に初て神政は創(はじ)まり、神政と同時に律法(おきて)は定められ、律法に由て民の自由は確証せられたのである。誠にモーセは世界最初の立憲的政治家である。彼に由て、イスラエルの子孫のみならず、人類は初て自由の首途(かどで)に就いたのである。

 


10月8日

 

というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな諸刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。

(ヘブライ人への手紙4章12節)

 

聖書は道徳の書ではありません。聖書は人が道徳の本源なる神に到るの道を示す書であります。故に其人の道徳の程度に従って神の聖意(みこころ)を彼に伝ふるものであります。聖書に奴隷を廃止せよとは書いてありません。然し聖書は人が神の子たることを教へて、奴隷制度の土台を毀(こわ)しました。聖書は戦争の廃止を強ひません。然しながら聖書は人命の貴重なる理由を教へて、戦争をして有るべからざる者となしつゝあります。聖書は道徳の原理を教へます、その形式を教へません。其事それ自身が聖書が神の言(ことば)たる証拠となるではありませんか。

 


10月10日

 

救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神のみ前でキリストに結ばれて語っています。

(コリントの信徒への第二の手紙 2章15~17節)

 

基督教の伝道は表白であります。之は「汝、罪を悔い改めよ」と云ふのではなくして、「我れ我が神の恩恵に由りて斯く成るを得たり、我は汝に此事を知らせんと欲す」といふことであります。さうして有力なる伝道は常にかゝる伝道であります。パウロの伝道が斯る伝道であったことは、彼が幾回となく彼の改信の実歴を彼の聴衆の前に述べたことが聖書に記してあるので分ります。さうして此事は又、彼の書簡が訓戒的でなくして、自己発表的であるのでも能く分ります。神学研究は如何にその蘊奥(うんのう)に達するとも、基督教の伝道師を作りません。世に示すべき心霊的実験の事実を有たない者は、伝道師として世に出てはならないと思ひます。

 


10月11日

 

大河とその流れは、神の都に喜びを与える

いと高き神のいます聖所に。

神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。

夜明けとともに、神は助けをお与えになる。

(詩篇46篇5~6節)

 

即ち識る、神は大風を使ひ給ふも大風の如きものにあらざる事を、裂きて砕くは彼の喜び給ふところに非ず。彼は又地震の如きものにあらず、震ひて恐れしむるは彼の好み給ふ所にあらず。エホバは又火の如き者にあらず、焼きて盡すは彼の求め給ふ所にあらず。彼は静粛を愛し給ふ。彼の宝座は萬有静寂の中にあり。彼の声は洪波の如くならず、細流の如し。彼は咆哮たまはず、耳語き給ふ。静粛の中に細き声を聞きて我らはその誠に神の声なるを知るなり。

 


10月13日

 

愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。

(ヨハネの第三の手紙2節)

 

奇蹟を信じて私共は大胆に大事に当ることが出来ます。之に由て、私共は自己の能力(ちから)を計らず、もし正義であり大道であると信じますれば、憶せず懼れず、其の実行を以て自ら任ずることが出来ます。奇蹟の神を信じて、不可能事は私共の念頭に全くなくなります。私共は先ず神意のある所を探れば、それで問題は尽きるのであります。あとは能力の問題であります。さうして能力は私共は之を奇蹟の神に仰ぎます。世界の偉人とは、皆なこの一種の「迷信」を有った者であります。彼等は皆な「神もし我と偕に在らば我れ何をか為し得ざらんや」との奇蹟の信仰を以て彼等の大任を担うたものであります。

 


10月15日

 

また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」

(マルコによる福音書14章23~24節)

 

汝尚ほ我に問うて云はん「何故に神は自ら苦しまざれば人を救ふこと能はざるか」と。余は汝に問はん「何故にハワードは彼の英国の寓居に安居して、欧州の監獄を改良し能はざりしか。何故にリビングストンは彼の故国に於て黒人の為に熱心なる祈祷を献ぐるのみにて、アフリカを救ひ得ざりしか」と。罪を贖はずして罪を救はんとするものは、貧者に食と衣とを与へずして汝安然なれと云ふものなり(ヤコブ書二章十五、十六節)。行なき信仰は死せる信仰なるが如く、贖はざる罪の赦しは虚言なり。キリストの十字架は神愛の実証なり。

 


10月17日

 

妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。

(コロサイの信徒への手紙3章18~21節)

 

完全なるホームを作るは、完全なる人を造るが如く難し。我れ先づ完全ならざれば、我ホームの完全なる理由あるなし。「身修而後家斎(みおさまりてのちいえととのう)」。ホームは我の平安を求むる所にあらずして、平安を与ふる処なり。ホームは幸福の貯蓄所にして、その採掘所にあらず。求めんと欲して成れるホームは必ず破れん。与へんとして成れるホームのみ幸福なるホームなり。ホーム、ホーム、幾多の青年男女がその幻影に欺かれて失望島岸に破船せしや。詩人ヴージルの牧者は「愛」と相識って其岩石なるを知れりと。世に理想的ホームを造り得ずして失望するもの多きは、ホームを以て客観的楽園と見做すもの多ければなり。

 


10月18日

 

栄光の御座、いにしえよりの天

我らの聖所、イスラエルの希望である主よ。

あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。

あなたを離れ去る者は、

地下に行く者として記される。

生ける水の源である主を捨てたからだ。

(エレミヤ書17章12~13節)

 

人は善悪を知るに至って(即ち知ると自ら信ずるに至て)神の如くなれり。即ち神に依ることなくして、万事を処理するに至れり。而して自立と同時に彼は天与の自由を失へり。彼は今は生命の樹に触るゝ能はざるに至れり。然れども彼は彼の失ひし自由を慕うて止まず、屡々手を伸べて之を取て食はんとせり。或は彼の哲学を以て、或は彼の発明にかゝる宗教を以て、彼は生命の樹の果実を獲んとせり。然れども神の恩賜なる此果実を彼は如何なる手段を盡すも獲る能はず。彼の熱心天を焦すも、彼の深慮地を穿つも、彼は自ら努めて限りなく生くること能はず。永生は神の賜物なり。人の之を盗み取らざらんがために、神は旋転る焔の劔を以て之に達するの途を塞ぎたまへり。(創世記三章参照)

 


10月20日

 

諸国の民の神々はすべてむなしい。

主は天を造られ

御前には栄光と輝きがあり

聖所には力と喜びがある。

諸国の民よ、こぞって主に帰せよ

栄光と力を主に帰せよ。

(歴代誌上16章26~28節)

 

神が人より信仰を要求し給ふ理由は能くわかる。神は己に関する人の穿鑿(せんさく)を恐れて彼より信仰を要求し給ふのではない。至誠なる彼は人が至誠を以て彼に近づくにあらざれば、其人を恵むことが出来ないからである。神と人との関係は父と子との関係である。而して父子の関係は世の所謂研究的態度ではない、相互的信頼である。即ち子の側よりしては父に対する信仰である。懐疑と云ふ他人行儀を以て己に対する子に対しては、父は教へんとするも教ふることができない、恵まんと欲するも恵むことが出来ない。

 


10月22日

 

わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。

(ルカによる福音書9章26節)

 

パウロ曰く「我は福音を恥とせず、そは此福音はユダヤ人を始めギリシア人、凡て信ずる者を救はんとの神の大能なればなり」と(ロマ書一章十六節)。声高くして想(おもい)低き哲学者の前に、多く約束して寡(すくな)く実行する政治家の前に、倫理を説いて尚ほ其無能を自認する教育家の前に、富を積んで尚ほ窮迫を訴ふる実業家の前に、文を綴りて思想の空乏を歎ずる文学者の前に、吾等キリストを信じて其の救済の実力を実験する者は何の恥づる処かあらん。吾等の羞恥は無益なり。我等は彼等に優りて幸福且つ健全なる者なり。

 


10月24日

 

陰府の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。

死から彼らを解き放つだろうか。

死よ、お前の呪いはどこにあるのか。

陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。

憐れみはわたしの目から消え去る。

(ホセア書13章14節)

 

七歳の少女を失ひ、彼女の未来に就て憂慮を懐ける彼女の父に書き送りし書簡の一節

 

人の来世問題に就ては種々の難問題有之候(これありそうろう)。之を満足に説明し得る者は世界中一人も無之(これなき)ことゝ存じ候。然れども我等は此事を知る、即ち神は愛なることを。而して愛なる神は決して我等の愛する者を来世に於ても悪しきに扱ひ給はざることを。キリストは万民のために死に給へりと聖書に記しあれば、キリストの贖罪の功徳に与かり得ざる者とては宇宙間一人もなき事と存じ候。聖書の教ゆる所は詮ずる所是れのみと存じ候、即ち神は愛なりとのことゝ存じ候。

 


10月25日

 

主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り

聖なる山に住むことができるのでしょうか。

それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。

心には真実の言葉があり

舌には中傷を持たない人。

(詩篇15篇1~3節前半)

 

正義は正義なり。正義は事業よりも大なるものなり。否、正義は大事業にして、正義を守るに勝さる大事業あるなし。人生の目的は事業にあらざるなり。事業は正義に達するの途にして、正義は事業の侍女 handmaid に非ざるなり。教会も学校も、政治も殖産も、正義を学び之に達するための道具なり。現世に於ける事業の目的は事業其物の為にあらずして、之に従事するものゝ之に由りて得る経験、鍛錬、忍耐、愛心にあるなり。基督教は事業よりも精神を貴ぶものなり。そは精神は死後永遠まで存するものにして、事業は現世と共に消滅するものなればなり。

 


10月27日

 

わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。子たちよ、偶像を避けなさい。

(ヨハネの第一の手紙5章20~21節)

 

真理は事にあらず、人なり。哲理にあらず、宗教なり。教義にあらず、人格なり。絶対的真理は主イエスキリストなり。彼に聴き、彼に倣ひ、彼を信じて吾等に真理と生命とあり。彼に於て之を索(もと)めずして宇宙に於て之を探らんと欲するが故に、世は永久に真理を看出す能はざるなり(ヨハネ伝十四章六節)。

 


10月29日

 

神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。

(テモテへの第二の手紙4章1~2節)

 

救済(すくい)の第一期は自己(おのれ)を救ふことであります、其第二期は世を救ふことであります。自己を救はずして他人を救はんとするは、無益の労であることは言ふまでもありません。然しながら何時までも自己の救済の事にのみ心配して他人を救はんとせざる者は、終には自己の救済までをも危くするものであります。救済は永久の事業であります。是れは万民が救はれるまでは止むべきものではありません。我は救はれたれば安心なりとて万民の救済に心を配らざる者は、彼の救済は半ばにして尽き、彼は矢張り救はれざりし時と同じやうに沈淪(ほろび)に行く者であります。私は固く信じて疑ひません。神は私共丈を救はんが為に私共に其救済を垂れ給はざりしことを。神は私共を以て世を救はんが為に私共を救ひ給うたのであります。

 


10月31日

 

神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。

(テサロニケの信徒への第一の手紙5章9~10節)

 

キリストは我等の義であり、聖であり、贖(あがない)である。我道徳であり、宗教であり、救拯(すくい)である。キリストに在りて、神に対して我が為すべきことは凡て為されたのである。我は我が不義の此儘、キリストを信じて神の義者(ただしきもの)として彼の前に立つことが出来るのである。我は我が汚穢(けがれ)の此儘、キリストを信じて神の聖者(きよきもの)として彼の前に立つことが出来るのである。我は未だ救はれたる者に非ずと雖も、キリストを信じて既に救はれたる者として神に取扱はるゝものである。完全なる救拯は神より出て信仰に由りて我有(わがもの)となるのである。是れユダヤ人には躓く者、ギリシヤ人には愚なる者である。然れども召されたる者には最大の真理、最高の哲学である。

 


11月1日

 

わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。(ルカによる福音書9章26節)

 

パウロ曰く「我は福音を恥とせず、そは此福音はユダヤ人を始めギリシア人、凡て信ずる者を救はんとの神の大能なればなり」と(ロマ書1章16節)。声高くして想低き哲学者の前に、多く約束して寡く実行する政治家の前に、倫理を説いて尚ほ其無能を自認する教育家の前に、富を積んで尚ほ窮迫を訴ふる実業家の前に、文を綴て思想の空乏を歎ずる文学者の前に、吾等キリストを信じて其救済の実力を実験する者は何の恥づる處かあらん。吾等の羞恥は無益なり。吾等は彼等に優りて幸福且つ健全なる者なり。

 


11月3日

 

キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。

(コロサイの信徒への手紙2章9~10節)

 

基督教は信仰の事である。然りパウロの言(ことば)に従へば、基督教はキリストであるとの事である。故に基督教を学ぶにオクスフォード又はケムブリッヂに学ぶの必要はないのである。又ヨーク又はカンタベリーの大僧正に就て之を質(ただ)すの必要はないのである。「イエスは神に立てられて汝等の知恵また義また聖また贖となり給へり」と使徒パウロは言うた。信者の神学はイエスである。彼の倫理はイエスである。彼の潔斎(洗礼)はイエスである。彼の完成はイエスである。イエスである、然り、イエスである。教会ではない、監督ではない、長老ではない、又彼等が唱道する神学又は教義ではない。イエスを信じて我等日本人も亦今日直(ただち)に基督教の奥義に達することが出来るのである。

 


11月5日

 

あなたがは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。

(エペソの信徒への手紙5章8~9節)

 

確信は自己(おのれ)より始まらざるべからず。万斛(ばんこく/「非常に多い」の意味)の流動体中に結晶体の溶解しあるにもせよ若し一固形体の其中に投入せらるゝにあらざれば凝結の始まるべきなし。之に命ずるも水液の凝固すべき筈なし。之を叱咤するも何の益かある。我をして先づ凝結の基礎たらしめよ、然らば我より凝固は始まるべし。我をして万有の土台の上に屹立せしめよ、然らば周囲は自ら来りて我より整列するに至るべし。是れ革新事業成功の大秘訣なり。

 


11月7日

 

財宝を多く持って恐怖のうちにあるよりは

乏しくても主を畏れる方がよい。

(箴言15章16節)

 

無実の名義を廃せよ。我等をして有の儘ならしめよ。虚名は相互の不信を招き、確信確定をして難からしむ。先づ独立の名義を立てゝ然る後に独立の実を致さんとするが如き、先づ虚勢を張りて然る後に実権を得んとするが如きは、革新建設の途にあらざるなり。実権は実力に超ゆるを得ず、名は実を代表するを要す。一方より力を借りて他方に向って独立を誇るが如き、外国人に給を仰ぎながら名義上その長となり主となるが如き、是れ惰弱腐敗の大原因なり。我等の最も弱き時は、虚権を握り、虚勢を張る時なり。我等は外見の破壊を懼れざるべし。倒るべきものは倒れざるべからず。堅屋は岩石の上にのみ建つるを得るなり。

 


11月8日

 

初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言葉について。この命は現れました。御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。

(ヨハネの第一の手紙 1章1~2節)

 

基督教は理論にあらずして事実なり。理論のみを以て基督教を悟らんとするは、理論のみを以て化学を研究せんとするが如し。理論のみを以てしては、吾人は到底基督教の何者たるかを了解し能はざるなり。博士ハックスレー曰へるあり「哲理の聖殿に於て拝せんとするものは、先ず実験室の前殿を通過せざるべからず」と。余輩も亦言はんと欲す「基督教の聖殿(Holy of Holies)に於て霊なる神に接せんと欲するものは、先ず心情の実験室を通過せざるべからず」と。歴史家ネアンデルの所謂「神学の中心は心情(ヘルツ)なり」との意も、蓋しこゝに基するならむ。

 


11月10日

 

目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます

天にいます方よ。

 

ご覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ

はしためが女主人の手に目を注ぐように

わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ

憐れみを待ちます。

(詩篇123篇1~2節)

 

信仰の道は易いかな、たゞ任せ奉(まつ)れば足る。然れば光明(ひかり)我に臨(きた)り、能力(ちから)我に加はり、汚穢(けがれ)我を去り、聖霊われに宿る。信仰は完全に達するの捷路(ちかみち)なり。知識の径(こみち)を辿るが如くならず、修養の山を攀(よ)づるが如くならず。信仰は鷲の如くに翼を張りて直(ただち)に神の懐に達す。学は幽暗を照すための燈(ともしび)なり、徳は暗夜に道を探るための杖なり。然れども信仰は義の太陽なり。我等はその照す所となりて、恩恵(めぐみ)の大道を闊歩し、心に神を讃美しながら我等の旅行を終り得るなり。

 


11月12日

 

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

(コリントの信徒への第一の手紙13章1~7節)

 

神の神たるは、人の善きを思うて悪しきを思はざるにあり。悪魔の悪魔たるは、人の悪しきをのみ思ひ得て人の善きを思ひ得ざるにあり。神は人の善性を喚起奨励して世を救ひ、悪魔は彼の悪政を刺戟(しげき)増長して終に之を亡す。救済と云ひ、改良と云ひ、善の奨励に外ならざるなり。

 


11月14日

 

神に従う人の道は輝き出る光

進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。

(箴言4章18節)

 

英国は基督教国にあらず、然れども基督教は英国に在り。米国は基督教国にあらず、然れども基督信者は米国人の中に在り。その如く日本も亦永久に基督教国とはならざるべし、然れども多くの基督信者は日本人の中より起るべし。神は彼の簡(えら)み給ひし者をすべての国民の中より召き給ふべし。一国民を挙げて悉く其子となすが如きことを為し給はざるべし。国民は恒に「此世の国民」たるべし。而して此世の国民が悉く失(う)せし後に、其中より簡まれし神の子供は存(のこ)るべし。地と其中にある物は皆な焚尽くさるべし、然れどもエホバを愛する者はいよいよ光輝(ひかりかがやき)を増して昼の正午(さなか)に至るべし。

 


11月15日

 

金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。

(テモテへの第一の手紙 6章10~12節)

 

人は生れながらにして現世的である。彼は来世の事は之を思はざらんことを努む。彼に現世的たるを勧むる必要は少しもない。水の低きに就くが如くに人は地に就くものである。而して宗教は人を地より天に向って引き上ぐる為に必要である。宗教にして明白に来世的ならざらんか、世に来世を示すものは他に何者もないのである。云ふまでもなく宗教の本領は来世である。政治、経済の本領が現世であるが如くに、宗教の本領は来世である。来世を明白に示さず、之に入るの道を明白に教へない宗教は、宗教と称するに足らざる者である。宗教は人を現世の外に導き、彼に来世獲得の道を供して、間接に然かも確実に現世を救ふのである。

 


11月17日

 

なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

(コリントの信徒への第二の手紙5章14~15節)

 

基督信者の善行の本源はパウロの言へる「キリストは我等のなほ罪人たる時われらの為めに死に給へり、神は之によりて其愛を彰(あら)はし給ふ」との事実に存するなり。余輩はもはや道徳上の義務として悪を避け善を為すにあらずして、キリストの愛に励まされて(sunechei, constraineth. 強ひられて)なすなり。即ち我が心足りて余裕あれば、我は世に与へざるを得ざるに至ればなり。「我福音を宣べざれば実に禍なり」我れ善業に従事せざれば実に禍なり。我の心中に存する此溢るゝばかりの恩恵、我若し是を他に漏らすにあらざれば、我は歓喜(よろこび)を以て破裂せんとす。我は実に「愛によりて病みわづらふ」ものなり(雅歌五章八節)。

 


11月19日

 

主に感謝をささげて御名を呼べ。

諸国の民に御業を示せ。

主に向かって歌い、ほめ歌をうたい

驚くべき御業をことごとく歌え。

聖なる御名を誇りとせよ。

主を求める人よ、心に喜びを抱き

主を、主の御力を尋ね求め

常に御顔を求めよ。

(歴代誌上16章8~11節)

 

神にありて最も深い者は愛である。人にありて最も深い者は信である。神は愛を以て人に臨み給ひ、人は信を以て之に応へまつる。茲に神と人との真個の和合が行はる。神の喜び、人の救ひ、天地の調和、神人(しんじん)の合一とは此事である。神は永生(かぎりなきいのち)を人に賜はんと欲し給ふ、而して人は信仰を以て之を受く。賜はんと欲するの愛、受けんと欲するの信・・・宗教と云ひ、永生と云ひ、決して解するに難い事ではない。神の愛と人の信、律法(おきて)も預言も福音も神学も之を以て尽きてゐるのである。

 


11月21日

 

わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。

(ヨハネによる福音書14章21節)

 

聖霊を受けんと欲すれば神の誡命(いましめ)を守らなければならない。聖霊は単に祈ったゞけでは得られない。聖書を研究したゞけでは得られない。決心と勇気とを以て神の命令を実行して裕(ゆた)かに与へらるゝものである。聖霊は神が其子の善行(よきおこない)に報いんが為に下し給ふ最大の恩賞である。我等は信仰の行為に由てのみ聖霊の獲得を確実にすることが出来る。研究に由て霊欲を起し、祈祷に由て之を呼求め、実行に由て之を獲得するのである。実行は洵(まこと)に最も有力なる祈祷である。「働くは益なり」と謂ふが、神の最大の賜物たる聖霊を獲んとするに方(あたっ)て、その殊に然るを覚ゆるのである。

 


11月22日

 

地の果てのすべての人々よ

わたしを仰いで、救いを得よ。

わたしは神、ほかにはいない。

(イザヤ書45章22節)

 

世の教師は曰ふ「先づ己を浄めて然る後に世を浄めよ」と。然れども神は曰ひ給ふ「汝等我を仰ぎ望め、然らば救はれん」と。我れ己を浄めんと欲して終世此業に従事するも能はず。然れども神の羔なるイエスキリストを仰ぎ望んで、我は我霊魂の癩病の即座に浄めらるゝを覚ゆ。往けよ世の教師よ、汝は我に自省を説いて我に半生の苦悶を供せり。我は今より神に聴いて仰望の秘術に従って歩まん。

 


11月24日

 

神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。

(ペテロの第二の手紙3章12~14節)

 

脱葉(だつよう)地を蔽(おお)はんとする頃、吾人の希望は愈々(いよいよ)大なり。旧世紀は終らんとし、旧制度は廃(すた)れんとし、旧き天地は去て新しき天地は吾人の中に望まんとす。颯々(さつさつ)たる秋風これ落葉を促すの声ならずや。粛殺たる世態、これ旧事物の死滅を表すの状にあらずや。御仁は野色惨然たるを見て、吾人の志を強うするや大なり。

 


11月26日

 

わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。

(ヨハネによる福音書14章13~14節)

 

菅相丞の歌なりと言伝へまする「心だに真の道にかなひなば祈らずとても神や守らん」などの語は、度々祈禱反対論の為に引出(ひきいだ)さるゝものでありまして、私共のやうに祈禱に多くの時間を費す者は、却て無益の事を為す者のやうに思はれます。然し祈禱反対論は、多くは基督信者(真正の)の祈禱の如何なるものなるかを辨(わきま)へないで起るものであります。元来我々基督信者は、神の聖旨の就らん事を祈るべき者で御座いまして、決して我々の私意私策の行はれん事を祈るべき筈のものではありません。故に我々の祈禱は必ず聴かるべき祈であります。真正の基督信者は、彼の祈禱に於て神の行為を預言しつゝある者で御座います。彼は決して為し難き事を神より要求するものではありません。

 


11月28日

 

あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。

(ペテロの第一の手紙3章3~5節)

 

われ未だ眼を以て天使を見しことなし。然れども我の愛せしものが病床にありし時、大理石の如き容貌、鈴虫の音の如き声、朝露の如き涙--彼れ若し天使にあらざれば何を以て天使を描かんや。我は斯くの如きものが終生病より起つ能はずして我が傍にあるとも、決して苦痛を感ぜざるべし。彼は日々我の慰謝(なぐさめ)なり。我を清め我を高め、我をして天使が我を守るの感あらしむるものなり。汝若し天使を拝せんとならば、往きて病に臥する貞淑の婦人を見よ。彼は今生に於て、既に霊化して天使となりしものなり。

 


11月29日

 

「背信の子らよ、立ち帰れ。

 私は背いたお前たちをいやす。」

「我々はあなたのもとに参ります。

 あなたこそ我々の主なる神です。

 まことに、どの丘の祭りも

 山々での騒ぎも偽りにすぎません。

 まことに、我々の主なる神に

 イスラエルの救いがあるのです。」

(エレミヤ書3章22~23節)

 

日本は  亜細亜の試験場なり。恰も希臘が欧羅巴の試験場なりしが如し。欧羅巴の未来が希臘に依りて決せられしが如く、亜細亜の未来は日本に依りて決せらるゝなり。日本人の採用する制度と、その開発する宗教と哲学と芸術とが、竟に東亜全体に普及し、永くその模範となりて人類半数以上の運命を支配するに至るは、ソロン、フィヂアス、プラトー等の事業が西洋文明の基礎を定めしが如くなるべし。依りて知る、吾人日本人の責任は、僅に同胞四千万の安全幸福にのみ止まらずして、ヒマラヤ山以東に住する蒼生五億余の将来に関するものなることを。この重大の責任あるを知る者にして、いかでか軽佻浮薄なるを得んや。

 


12月1日

 

だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、ご自身を立てた方に忠実であられました。

(ヘブライ人への手紙3章1~2節)

 

我等が神に対して為し得る事は唯一つある。即ち、神がキリストを以て我等に降し給ひし赦免(ゆるし)の事実を信じ、罪の身このまゝ、不信の心このまゝを彼に捧げまつる事である。而して一たび彼に捧げまつりし以上は、再び自分の事について苦慮することなく、たゞ神の羔なるイエスを仰瞻(あおぎみ)て我等の一生を終るべきである。我れ罪の勢力の復興して我が心霊を襲ひ来るを見んか、我等はイエスを仰瞻るべきである。我れ不信の悪魔の我主に対する熱心を毀(こぼ)たんとて我に迫るを感ぜんか、我はイエスを仰瞻るべきである。

 


12月3日

 

イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」

(ヨハネによる福音書5章17節)

 

他の宗教が一定の時期を経過すれば必ず死往くに、基督教のみが年毎に新たなるは何故なるか。何故に古き聖書は歳と共に古びざるか。是れは哲学的真理が完全無欠であるからであるか。さうとは思へない。基督教の不朽なるは神の不朽なるによるのである。活きたる神が常に之に伴ひ、其真理を以て人の心に働き給ふからである。然しながら神が在し給ふ間は--爾(そ)うして神が在し給はない時とては未来永劫決してない--聖書の真理が其活力を失ふ時はない。我等は神を信じつゝ基督教の真理を究めて其救済(すくい)に与かるべきである。

 


12月5日

 

イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」

(マタイによる福音書13章31~32節)

 

真理は芥種の如くにして、永遠にまで成長するものなり。キリストの救てふことは真理なり。ルーテル之を聞いて起ち、バンヤン之を聞いて初めて安し。然れどもルーテルをしてルーテルたらしめたるは、単に師父スタウビッツの一言に由るにあらずして、尚三四年間の寺院内に於ける単独の思考と祈禱とを要せり。感情的のバンヤンに於てすら、彼れ赦罪の大真理を悟りしより、尚十二年間ベッドフォド監獄内の鍛錬を要せり。大真理を得しときは之を感ずると感ぜざるとに関せず、余輩が一大進歩を為せし時なり。之に反して如何ほど感情を起すとも、如何ほど涙を流すとも、余輩の理性を動かさゞる変動は、遠からずして消えて跡なきに至らん。

 


12月6日

 

イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」

(ヨハネによる福音書14章22~23節)

  

神が在ると云ふのは何にも哲学的に然う説明していふのではありません。彼の在ることが実験的に証明せられるからであります。我等の意識の中心に於て何よりも明白に、何よりも確実に、彼は顕はれ給ふからであります。キリストの神性とても同じことであります。是れは教義ではありません。是もまた実験であります。議論の証明に由てゞはなく、能力の供給に由て彼の神秘力が我等に伝へらるゝに由て解ることであります。

 


12月8日

 

「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

(ルカによる福音書21章34~36節)

 

彼等(初代信者等)がイエスを救主として仰いだのは此世の救主、即ち社会の改良者、家庭の清洗者、思想の向上者として仰いだのではない。殊に来らんとする神の震怒の日に於ける彼らの仲保者又救出者として仰いだのである。方伯(つかさ)ペリクス其妻デルシラと共に、一日パウロを召してキリストを信ずるの道を聴く。時に「パウロ公義と撙節(そんせつ/節制の意味)と来らんとする審判とを論ぜしかば、ペリクス懼れて答へけるは、汝姑(しばら)く退け、我便時(よきとき)を得ば再び汝を召さん」とある(行伝廿四章廿四節以下)。而して今の説教師、その新神学者、高等批評家、その他政治的監督、牧師、伝道師等に無きものは、方伯等をして懼れしむるに足る来らんとする審判に就ての説教である。

 


12月10日

 

そして、彼らは新しい歌をうたった。

「あなたは、巻物を受け取り、

その封印を開くのにふさわしい方です。

あなたは、屠られて、

あらゆる種族と言葉の違う民、

あらゆる民族と国民の中から、

御自分の血で、神のために人々を贖われ、

彼らをわたしたちの神に仕える王、

また、祭司となさったからです。

彼らは地上を統治します。」

(ヨハネによる黙示録5章9~10節)

 

キリストを信ずるものとは、信仰を以て、キリストに現はれたる神の生命(いのち)を我が有(もの)と為した者で御座います。少なくとも其精神や行為が、能くキリストの精神行為に似た者であります。キリストは天国の王でありまして、その市民は小キリストであります。一言以て之を云ひますれば、天国の市民は赦されし罪人であります。決して君子ではありません。道徳家ではありません。慈善家、神学者の類ではありません。勿論富豪(かねもち)でも貴族でもありません。自己の罪を悔いて、之を神の前に白状し、終に神の救済(すくい)に与って、新しき人になったものであります。基督教の伝ふる天国の市民とは、実に斯くの如き者を指して申すので御座います。

 


12月12日

 

今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。

(コロサイの信徒への手紙3章8~10節)

 

人は生れながらにして神の子であるのではない、彼はキリストを信ずるに由て神の子とせられたのである(約翰伝一章十二節)。人は固(もと)より不滅であるのではない、彼はキリストより永生(かぎりなきいのち)を受けて不滅となるのである。「我れ生くれば汝等も生きん」と彼は言ひ給うた(同十四章十九節)。人は無である、神は有である。而して人の無限に貴きは、彼は自己の無なるを覚(さと)り得て、神に在りて有たることを得るからである。

 


12月13日

 

それから主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほおっておかれることがあろうか。」

(ルカによる福音書18章6~7節)

 

信仰の生涯は外面の無事平穏なるに対して、内部は多事動揺の生涯である。神を信じ、彼の黙示に接し、彼の約束に與かり、然も其約束の速かに実行せられざるより或時は彼を疑ひ、時に或は全く彼と離絶せんとする。茲に忍耐の必要が起り、信じ難きを信じ、望み難きを望む。時には聴かれざる祈禱に信仰の根底を挫かれ、時には懐疑の雲に希望の空を覆はる。独り泣き、独り叫び、独り祈る。かくして彼は数年又は十数年、又は数十年を経過せざるを得ず。然れども見よ時到れば天開け、我眼はそこに我が故郷を見るに至る。神は我父となりて、我は彼の子と称せらる。世は外に拡張しつつありし間に、我は内に穿ちつゝあったのである。我は遂に生命の水に掘り当てた。流れて永生に至るの泉は我衷より迸しるに至ったのである。

 


12月15日

 

 何よりもまず心得えてほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。(ペテロの第二の手紙1章20~21節)

 

聖書は神に就て書いた書であります。即ち神の本性、神の意志、神の権能、神の慈愛といふ様な事柄は聖書が最も明白に、亦最も真実に我々に教へてくれる所のものであります。勿論他にも是等の事項に就て記載したる書が無いではありません。然し些(すこし)の曖昧模糊たるところ無く、恰(あたか)も天日を仰ぎ睹(み)るが如く明瞭に神を吾人に伝ふる書は、外には決してありません。聖書は其冒頭に「如是我聞(にょぜがもん/『このように私は聞いた』の意味。仏教経典の冒頭に置かれる言葉)」とは曰はずに、「神曰ひ給ふ」と申します。聖書は神の存在を証拠立てんとはせずに、「原始(はじめ)に神あり」と申します。聖書は其文体に於て直感的なるばかりでは御座いません。其の伝ふる真理に於ても決して推理的や想像的ではありません。人として面前(まのあたり)神を見た者はありませんが、聖書の記者は皆心に直接に神を感じたものであります。それ故に神を知らんと欲するならば、此書に頼る外は御座いません。

 


12月17日

 

まことに、イスラエルの聖なる方

わが主なる神は、こう言われた。

「お前たちは、立ち帰って

静かにしているならば救われる。

安らかに信頼していることにこそ力がある。」と

しかし、お前たちはそれを望まなかった。

(イザヤ書30章15節)

 

平穏にして、即ち沈黙を守りて依り頼まば、即ち自ら努めずして神の行動(はたらき)を待たば、汝は力を得べし、即ち強くなるべし、即ち汝の敵に勝つを得べし、即ち救はるべし。嫉妬(ねたみ)の毒矢に身を曝す時、国人挙(こぞ)りて我を迫害する時、我れ一人羊か狼の群中に在るが如き地位に立つ時、我は唯静寂を守り、凡ての救済(すくい)を神より望み、彼をして我が城砦たり、守衛たり、武器たらしむべきなり。我は弱けれども彼は強し。我れ彼と共に在りて我一人は全世界よりも強し。救はエホバにあり、願くは恩恵(みめぐみ)汝の民の上にあらんことを、アーメン。

 


12月19日

 

わたしの口に新しい歌を

わたしたちの神への賛美を授けて下さった。

人はこぞって主を仰ぎ見

主を畏れ敬い、主に依り頼む。

(詩篇40篇4節)

 

私共の云ふ祈禱なるものは祈願ではありません。之は何も祈らなくては居られないから祈るのではありません。神は愛の父でありますから、私共が彼に要求せずとも、私共に必要のある時には私共の祈祷を俟たずして、凡ての物を私共に賜ふもので御座います。抑(そもそ)も祈禱とは私共の天真の溢れ出たるものを云ふのであります。即ち私共の心の中に堪え切れぬ感謝の情が発して、言語となりて現はれたもので御座います。又或時には包み切れぬ憂悶の情の溢れて涙となりしものであります。若し之を祈禱と申すのが躓きの石となりまするならば、是を詩歌と申しても宜しう御座います。即ち基督信者の祈禱とは神の前に演ずる詩文であると云ふも、決して不都合はありません。

 


12月20日

 

わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。

(ヨハネによる第一の手紙4章14節)

 

花は消え、鳥は去り、森は其衣を褫がれて天然は裸体となれり。唯見る夜毎に參宿の剣を帯びて粛然として頭上に輝くを。是れ神の子が世に望むの期節なり。世は冷淡を極め、心に虚飾絶え、只威力の我等の頭上に剣を輝ふの時、キリストは我等の心に臨み給ふ。今は救拯の時期なり。世界の人、心を静かにして彼を迎へよ。

 


12月22日

 

そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

(ヨハネによる福音書3章14~15節)

 

若しキリストにして世に降り給はざりせば如何。若し世に孔子あり、荘子あり、釈迦あり、モハメットあり、プラトーあり、アレキサンダーあり、シーザーありしも、若しキリスト微(なか)りせば如何。嗚呼イエスなき我は勇士たるを得て戦場に屍を露(さら)すを得しならん。壮士たるを得て国賊を刺すを得しならん。或は慈善家たるを得て貧者のために我が身を予(あた)ふるを得しならん。然れども罪を贖(つぐな)はれしの感謝、神の子たるを得しの歓喜、自己に死して神に生けるの快楽、復活の希望、永生の約束、嗚呼是れイエスなくして我が受くるを得し天の賜(たまもの)にあらず。

 


12月24日

 

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

(コリントの信徒への第二の手紙5章17節)

 

イエスが処女より生れ給ひしは、神が普通の出産法を賤(はずかし)め給うたからではない。人類以上の生命を此世に持ち来すために必要であったからである。贖罪(あがない)はキリスト降世の唯一の目的ではなかった。これ罪の世に現はれ給ひし第二の人に自(おのず)と懸りし職分であった。処女の懐胎は新人を世に供するために必要であった。余輩は聖書の記事に由るのみならず、宇宙の進化の順序よりして、又吾人人類の切なる要求よりして、此の大なる事実を信ずるものである。

 


12月26日

 

荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ

砂漠よ、喜び、花を咲かせよ

野ばらの花を一面に咲かせよ。

花を咲かせ

大いに喜んで、声をあげよ。

砂漠はレバノンの栄光を与えられ

カルメルとシャロンの輝きに飾られる。

人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。

(イザヤ書35章1~2節)

 

呱々(ここ)の声は嬉々の声なり。その初て響き渉るや全家は歓喜を以て震ふ。新しき人は希望をもたらして我らの中に臨みたればなり。ベツレヘムの夕、万物の長子が呱々の声を揚げし時に、宇宙は歓喜を以て震へり。「終(おわり)のアダム」は不朽を齎(もたら)して人類の中に臨みたればなり。此時天は地に応へて言へり、男子(おとこのこ)は人の中に生れたりと。此時造化は声を合せて歌へり、我らの釈放の期(とき)は来れりと。クリスマスは宇宙の祝日なり。天と地とその中に在る凡てのものとが其釈放、自由、完成を祝する日なり。

 


12月27日

 

恵みの業をもたらす種を蒔け

愛の実りを刈り入れよ。

新しい土地を耕せ。

主を求める時が来た。

ついに主が訪れて

恵みの雨を注いでくださるように。

(ホセア書10章12節)

 

米国の詩人ホイットマンの云ひました「大なる友人」とは私共の友人であります。彼は私が独り杖を曳(ひ)いて散歩する時の唯一の談話相手であります。凋林(ちょうりん/葉の落ちた林のこと)に葉絶えて、丘陵為めに粗色を呈する時に、寒月梢(こずえ)の上に懸りて、氷の如き光を送りまする時に、私共は独り小川の辺(ほとり)に立(たち)て「我が父よ」と呼び、「我が友よ」と叫びます。さうして暮色蒼然として独り我が家に近づきます頃は、私共の心の中は燦爛(まばゆ)きばかりになりまして、空天に輝く星までが私共のために讃美を唱へて呉れます。世に斯んな友を持つ者は他に何処に在りますか。

 


12月28日

 

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

(コリントの信徒への第一の手紙10章13節)

 

我は時々、夜半独り静かに双手を我が胸に当てゝ言ふ、我れ若し今死するならば我は平和に死に就くを得べきかと。而して斯く独り己に問うて、我は未だ曾て一回も満足なる答を得る能はざりき。然れども主は我に教へて言ひ給ふ、何故に死について憂慮(おもいわずら)ふや、汝は今死するにあらず、故に死に勝つの力は未だ汝に与へられざるなり。明日の事を憂慮ふ勿(なか)れ、明日は明日の事を憂慮へ、一日の苦労は一日にて足れり、汝の力は汝の日の数に従はん、汝が死する時に方(あたっ)て死に勝つの力は汝に加へらるべしと。依(より)て知る、死に就くの準備の、忠実に今日の職に従事することなるを。我は死を懼(おそ)るゝを要せず。我も亦(また)主の恩恵(めぐみ)に由りて平康(やすき)を以て死に就くを得べし。

 


12月29日

 

まことに、主は彼らを捨ておかれる

産婦が子を産むときまで。

そのとき、彼の兄弟の残りの者は

イスラエルの子らのもとに帰って来る。

彼は立って、群れを養う

主の力、神である主の御名の威厳をもって。

彼は安らかに住まう。

今や、彼は大いなる者となり

その力が地の果てに及ぶからだ。

(ミカ書5章2~3節)

 

葉落ちて枝空し。然れども知る、芽成らずして葉落ちざることを。木を割りて見よ、厳冬の梢の既にその皮下に春陽の花を隠すを見ん。凋落は復興の兆なり。世の日に日に朽ちゆくは、革新の準備すでに成りたるに因る。

 


12月30日

 

その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。

(ヨハネによる福音書 1章9~12節)

 

天国とは何人の入るべき処でありますか。或人が使徒パウロに来って此事を聞きました「我等救はれん為めに何を為すべきか」と。その時パウロは何と答へましたか。彼は慈善家になれとは申しませんでした。又は青年会の事務に熟練して其幹事と為って奔走せよとは申しませんでした。パウロは斯く答へました「主イエスキリストを信ぜよ、然らば汝及び汝の家族も救はるべし」と。即ち救はれて天国に入るには唯此の一途あるのみでありまして、他の途はすべて虚偽の途で御座います。

 


12月31日

 

わたしの魂は塵に着いています。

御言葉によって、命を得させてください。

わたしの道を申し述べます。

わたしに答え、あなたの掟を教えてください。

あなたの命令に従う道を見分けさせてください。

わたしは驚くべき御業を歌います。

(詩編119編25~27節)

 

 余は余の罪深き者なるを感ず、故に余に聖書研究の必要があるのである。「汝等の罪は緋の如く赤くあるも雪の如く白くならん」(イザヤ書1章18節)との言葉を読んで、余は無上の慰藉を感ずるものである。余は無智の者である、故に聖書研究の必要がある。「神の愚は人よりも慧(さと)し」とか、又は「神は智者を愧(はず)かしめんために世の愚かなる者を選び給へり」などいふ聖書の言(ことば)を読んで、余は余の無智無学に就て失望せざるに至るのである。余は亦弱き者、富なく、友なく、世の称する権力とては一として有たざるものである。此時に方つて余は聖書に「是は権勢(いきおい)に由らず、能力(ちから)に由らず、我霊に由るなり」(ゼカリヤ書4章6節)など云ふ如き言を読んで、余の消えんとする希望を回復する者である。