「ホーム」の「家庭礼拝の手がかり」には、週ごとに、内村鑑三の「一日一生」を掲載しています。これまで掲載した「一日一生」を、ここにまとめました。ですから、飛び飛びになっておりますが、どうかご容赦ください。なお、原著では、各日の文頭に文語訳聖書が引用されていますが、新共同訳聖書に差し替えてあります。

(底本 内村鑑三著「一日一生」/警醒社書店版[1926年発行]

 

→「一日一生」(1月〜3月へ)

→「一日一生」(7月〜9月へ)

→「一日一生」(10月〜12月へ)

 


4月1日

 

ごらん、冬は去り、雨の季節は終わった。

花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。

この里にも山鳩の声が聞こえる。

いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。

恋人よ、美しいひとよ

  さあ、立って出ておいで。

(雅歌2章11~13節)

 

我が愛する者よ、我が美わしき者よ、我が希望よ、我が救主よ、起てよ、起(たち)て汝の墓より出で来れよ。見よ、恥辱の冬は既に過ぎ栄光の春は来りぬ。雨もやみてはや去りぬ。憤怒、猜疑、嫉妬の寒風のはや汝の身に及ぶなし。鳥の囀(さえ)づる時はすでに至れり。斑鳩(やまばと)と雲雀(ひばり)と草雀(あおじ)との声我等の野に聞ゆ。無花果樹(いちじくのき)はその芽を赤らめ、桜花の爛漫たるも将に近きにあらんとす、葡萄の樹は花咲きてその馨(かぐ)はしき香気(におい)を放ち、春林到る処に綺羅を装(よそ)はんとす。我が愛する者よ、我が美はしき者よ、我が希望よ、我が救主よ、起てよ、起て汝の墓より出で来れよ。愛を以て汝の敵に勝ち、恩恵を以て憤怒を癒し、野に春色の臨みしと同時に世に温情の春を来らしめよ。

 


4月2日

 

しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。

(ヨハネによる福音書4章23~24節)

 

神を信ぜずして神を知ることは出来ない。初より神を疑って掛っては神は永久に疑問物である。殊に神は至誠者であることを知って、信仰の彼を知るために必要欠くべからざる者であることが能くわかる。至誠の人が何よりも嫌ふことは、人が彼に就て疑を挟(はさ)むことである。至誠は至誠を要求する。至誠は至誠を以て接するにあらざれば其中に存する秘密を授けない。至誠は懐疑に対しては絶対的沈黙を守り、固く其門戸を閉ぢて奥義の外に洩れざらんことを努む。懐疑の己に近づくを見れば至誠は声を励まして曰ふ「ファイ、此処を去れ、我に汝に与ふべきものなし」と。疑うて聖人を見れば聖人は愚人の如し。懐疑の眼に映ずる至誠は愚鈍であり、無情であり、無意義である。至誠の人に於て然(そ)うである。まして神に於てをやである。

 


4月3日

 

見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。

初めからのことを思い起こす者はない。

それはだれの心にも上ることはない。

代々とこしえに喜び楽しみ、喜び踊れ。

わたしは創造する。

見よ、わたしはエルサレムを喜び踊るものとして

その民を喜び楽しむものとして、創造する。

わたしはエルサレムを喜びとし

わたしの民を楽しみとする。

泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。

(イザヤ書65章17~19節)

 

我等に今復活の奇跡の行はれないのは、今は復活の時でないからである。又この朽つべき肉体の復活は永久の救済(すくい)でないからである。神はより大なる復活を我等のために備へ給ふのである。彼が末(おわり)の日に行ひ給ふ復活は、ヤイロの女(むすめ)やラザロの復活と異なり、復(ふたた)び死なざるの復活である。「また死あらず、哀(かなし)み哭(なげ)き痛みあることなし」といふ復活である。而して神はキリストを以て、末の日に此大なる復活を我等と我等の愛する者との上に行ひ給ふのである。我等の死にたる女が復び我等に予(わた)さるゝ時には、我等は再び之を失はないのである。復(ま)たと死別のない会合、之にまさりて歓ばしきことの此世に復とあるべけんや。

 


4月4日

 

 神のために家を建てたのはソロモンでした。けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。

「主は言われる。

『天はわたしの王座、

地はわたしの足台。

お前たちは、わたしに

  どんな家を建ててくれると言うのか。

わたしの憩う場所はどこにあるのか。

これらはすべて、

  わたしの手が造ったものではないか。』」

(使徒言行録7章47~50節)

 

欧米諸国に於て既に腐敗の兆を示せる基督教を取り来り、之を日本に於て復活し、之に新生命を供し、以て再び之を世界に伝布せんとす、これ吾人の天職ならずや。然るに何を苦んで彼らの糟糠(そうこう)を嘗(な)め、彼らの教会と青年会と共励会とを真似し、以て此地に英国又は米国の宗教そのまゝを移植せんと試むるや。基督教は人類の宗教にして英人または米人の宗教にあらず。吾人は之を取て吾人の宗教となすを得べし。外国的宗教は吾人に何の用なきなり。

 


4月5日

 

あなたのことを、耳にしてはおりました。

しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。

それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、

自分を退け、悔い改めます。

(ヨブ記42章5~6節)

 

純潔なる思想は書を読んだのみで得られるものではない。心に多くの辛い実験を経て、凡ての乞食的根性を去って、多く祈って、多く戦って、然る後に神より与へられるものである。之を天才の出産物と見做(みな)すのは、大なる誤謬である。天才は名文を作る、然かも人の霊魂を活かすの思想を出さない。斯かる思想は血の涙の凝結体(かたまり)である。心臓の肉の断片である。故に刀を以て之を断てば其中より生血の流れ出るものである。故に未だ血を以て争うた事のない者の到底判断することの出来るものではない。文は文字ではない。思想である。さうして思想は血である、生命である。之を軽く見る者は生命そのものを軽蔑する者である。

 


4月6日

 

イエスは答えられた。「この水を飲む人は皆、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネによる福音書4章13~14節)

 

人の復活はイエス独特の事業である。是れ彼を離れて行わるゝ事ではない。人は天然的に復活するのではない。イエスに由て復活せしめらるゝのである。故に云ふ「我れ末(おわり)の日に之を甦らすべし」(ヨハネ伝六章五四節)と。「彼に生命あり」と言はれし彼れイエスが、彼が、甦らすべしとの事である。復活を自然的現象として之を解することは出来ない。復活は生命の新供給である、其の新発展である。故に生命の源なる神の子イエスに由てのみ行はるゝ事である。「我れ末の日に甦らすべし」と云ふ。人の(ことば)として妄言の極である。然れども生命の源なる神の子の言としては当然の言である。イエスは天より降りし生命(いのち)のパンである。彼を食ひて人は生長し終に永生に達するのである。

 


4月7日

 

また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

(コリントの信徒への第二の手紙12章7~9節)

 

最も善き聖書の註解はバーンズに非ず、マイヤに非ず、クラークに非ず、最も善き聖書の註解は人生の実験其者なり。之れなからんか、凡ての学識、凡ての修養を以てするも聖書の根本的教義を探る能はず。之れあらんか、いろは四十八文字を読み得ば聖書の示す神の奥義を知るに難からず。教会より放逐され、国人に迫害され、友人の裏切(うらぎり)する所となりて、吾人は始めて基督教の真髄なる十字架の何たるかを知るを得べし。聖書が神の書たるの確証は、それが学識の書にあらずして、実験の書たるに存す。

 


4月8日

 

彼が担ったのはわたしたちの病

彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに

わたしたちは思っていた

神の手にかかり、打たれたから

彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは

わたしたちの背きのためであり

彼が打ち砕かれたのは

わたしたちの咎のためであった。

彼の受けた懲らしめによって

  わたしたちに平和が与えられ

彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

(イザヤ書53章4~5節)

 

死と剣とは生命(いのち)の樹を守て今日に至れり。われら之に近づかんとすれば、山鳴り地震ひて、我らの手の之に触るゝを許さず。あゝ憐れむべきは楽園を逐われし人類かな。然れども一人あり、彼は我等のために再び生命の樹に達する道を開き給へり。ナザレのイエス彼なり。彼は自ら血を流してケルビムと焔(ほのお)の剣の間に我等の歩むべき道を開き給へり。然り、血を流すにあらざれば道は開けざりき。然れども人が政治的自由を得んがために血を流すが如くにあらずして、彼は独り自ら我等の愆(とが)を担ひ、我らの罪の祭物(そなえもの)として献げられ給へり。彼に由てエデン回復の端緒は開かれたり。我らは失望を去て可なり。神の愛は終(つい)にその律法に勝てり。焔の剣は今は我等の身に害を加へざるに至りぬ。

 


4月9日

 

魂は滅亡に

命はそれを奪うものに近づいてゆく。

千人に一人でもこの人のために執り成し

その正しさを示すために

  遣わされる御使いがあり

彼を憐れんで

「この人を免除し、滅亡に落とさないでください。

代償を見つけて来ました」と言ってくれるなら

彼の肉は新しくされて

  若者よりも健やかになり

再び若いときのようになるであろう。」

(ヨブ記33章22~25節)

 

キリスト救世の業は二様なりき。一は人類に完全なる生涯を教ふるにあり。二は人類の罪を彼の身に負うて之を削除するにあり。前者は救世の最終目的にして、後者は前者に導くの必要手段なり(ペテロ前書二章十二節)。完全なる人を作らんと欲せば、先づ人を不完全ならしむる罪を除かざるべからず。何となれば人その罪より脱せざれば、罪を犯さゞるに至らざればなり。

 


4月10日

 

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。

(ヨハネによる第一の手紙4章7~8節)

 

最高のオルソドキシー(正統教)とはキリストの心を以て兄弟を愛することなり。キリストの慈愛なく、その忍容と従順となくして、吾等如何なる教義を固信するも未だ以て真個の正教徒を以て自から任ずる能はず。若し我等の奉ずる教義にして吾等をキリストの如き者たらしめずば、吾等は自身の信仰に就(つき)て大に疑念を懐(いだ)く可(べき)なり。吾等は信仰に於て鞏固(きょうこ)なるに先(さきだ)ちて、心情に於てキリストの如く温和なるを要す。

 


4月11日

 

こうしてダビデはその子ソロモンに言った。「勇気をもって雄々しく実行せよ。恐れてはならない。おじけてはならない。わたしの神、神なる主はあなたと共にいて、決してあなたを離れず、捨て置かず、主の神殿に奉仕する職務をことごとく果たさせてくださるからである。

(歴代誌上28章20節)

 

メソジスト派の始祖ジョン・ウェスレー死するの前日、彼友人に向ひ数回繰返して曰く、「何よりも善きことは神我等と共に在すことなり」と。神は万物の霊たる人間の有するものゝ中にて最も善なる、最も貴きものなり。神は財産に勝り、身体の健康に勝り、妻子に勝りたる我が所有物なり。富は盗まるゝ懼(おそ)れと浪費さるゝの心配あり。国も教会も友人も我を捨てん。事業は我を高ぶらしめ、肉体も亦我は之を失はざるを得ず。然れども永遠より永遠に至るまで我の所有し得べきは神なり。人の尊貴(とうと)きは、彼は最(いと)も高き神より以下のものを以て満足する能はざるによるなり。

 


4月13日

 

その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子のうちにあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。

(ヨハネの第一の手紙5章11~12節)

 

新事業を求めんと欲せざれ、新生命を求めよ。新事業は必ずしも新生命を生まず、然れども新生命は多くの場合に於ては新事業を作る。成功の秘訣は之を外に於て求むべからず、衷(うち)に於て求むべし。而して衷より出たる新事業は常に健全にして常に永続す。余輩が人に新生命を勧むるは豈(あに)惟(ひと)り宗教道徳のためのみならんや。

 


4月14日

 

すべての民は騒ぎ立ち、国々は揺らぐ。

神が御声を出されると、地は溶け去る。

  万軍の主はわたしたちと共にいます。

  ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。

主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。

主はこの地を圧倒される。

(詩篇46篇7~9節)

 

奇蹟とは神の能力(ちから)の発現でありますから、神の存在と活動とを信ずる者の眼には奇蹟と天然の別はありません。彼に取りては、実は天然と称して、神より全く離れ独り働いて独り生ずる者ではないのであります。彼には唯二種の奇跡があるのであります。尋常的奇蹟、これが天然であります。非常的奇蹟、これが聖書に示してあるやうな奇蹟であります。今日まで万物を天然的に解し来りし彼は、今は意志的に、即ち奇蹟的に之を解するに至りました。彼の宇宙観は神を信ずるに由りて一変致しました。

 


4月15日

 

肉に割礼を受けず、罪の中に死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。

(コロサイの信徒への手紙2章13~14節)

 

我等は不義の子である。神の子と称へらるゝに足らぬ者である。然るに神は我等を憐み給ふ。其窮(かぎ)りなき憐愍(あわれみ)に因(よ)り其独子(ひとりご)を降し給ひ、彼をして完全(まった)き人たるの生涯を送らしめ、義を完全に行はしめ給ひ、而して彼を人類の代表者として受け給ひ、彼に在りて人類を赦し、之を義とし聖め且つ贖ひ給うた。神は今やキリストに在りて人類を視給ふのである。神の眼中に今や罪に死にたる人類あるなく、唯義に生きたる人の子、即ち人類の代表者なるキリストイエスあるのみである。茲(ここ)に於てか人は自己の罪に死にたる事と、キリストの自己に代りて義を完行(まっと)うし給ひしことゝを自覚し、且自白すれば、其時直ちに救はるゝのである。我等は既に贖はれて世に在るからである。

 


4月16日

 

兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。忍耐した人たちは幸せだと、わたしは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。

(ヤコブの手紙5章10~11節)

 

患難を避けしめ給はない、之に陥らしめ給ふ、而して其中より救出し給ふ。患難をして充分に働かしめ給ふ、火をして燬尽(やきつ)くすだけを燬尽さしめ給ふ、而して其中より救ひ出だし給ふ。患難を避くるは之に勝つの道ではない。患難は之に当り、一たび其呑む所となりてのみ終(つい)に能(よ)く之に勝つ事が出来る。これが真正(ほんとう)の救済(すくい)である。死は死によりてのみ之を滅すことが出来る(希伯来[ヘブライ]書二章十四節)。患難は患難の中を通らずして之に勝つことが出来ない。神は信者を患難の中より救出し給ふ。而して完全に彼を救ひ給ふ。

 


4月17日

 

そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。

そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。

「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。

(創世記22章10~13節)

 

エホバは憐憫(あわれみ)の神である。其子を苦めんと欲して苦め給ふのではない、其罪の本源たる利己の心を殺(そ)がんがために苦め給ふのである。既に犠牲の決心と行為とが現はれて、エホバは其余を要求し給はない。天より声あり、アブラハムに告げて曰うた「汝の手を童子(わらべ)に按(つ)くる勿(なか)れ」と。嗚呼救ひ!然り恩恵(めぐみ)!愛子を一たび神に献げて彼は再び神より之を与へられた。アブラハムは茲に再び犠牲の何たるかを覚った。犠牲は棄てるのではない、更に得るのである。燔祭の供物(そなえもの)は神御自身別に之を備へ給うた。牡羊は林叢(やぶ)の中に繋がれて在った。

 


4月18日

 

わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。同様に〝霊〟も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、〝霊〟自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

(ローマの信徒への手紙8章24~26節)

 

神は聖霊として人の霊に臨み給ふ。聖霊として光を供し、聖霊として能(ちから)を加へ、聖霊として万事を遂げ給ふ。聖霊によりてゞある。信者は聖霊に由らずして何事をも為すことが出来ない。彼は聖霊によりて祈り、聖霊によりて万事を究(たず)ね知る。神の能なる聖霊によりて神に到り、神の光なる聖霊によりて神を知る。基督信者は元来他動的である。自動的でない。上より求められし者であって、下より求めし者ではない。彼の信仰其者さへ聖霊に由りて起されし者であって、彼れ自から求めて起りし者でない。聖霊に由りてゞある

 


4月20日

 

この方こそ、「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石」です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。

(使徒言行録4章11~12節)

 

新約聖書は或一つの明白なり、確実なることを伝へる、それは主イエスキリストである。彼が其主人公であるのである。彼を世に示さんがために其二十七書は書かれたのである。彼を種々の方面より見たるその記録が新約聖書である。其見方の異なるは見る立場と人とが異なるからである。而して異なりたる方面より異なりたる人が見て、茲(ここ)に最も完全に彼が世に示されたのである。我等はキリストを知らんと欲して聖書を学ぶのである。而して人は必しもその発せし言葉ではない、又必しも其為せし行(わざ)でもない、其言葉と行為とを通して伝はる精神である、である。我らはキリストの精神を知り其霊を受けんために聖書に行くのである。

 


4月21日

 

ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。

ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。

権威が彼の肩にある。

その名は、「驚くべき指導者、力ある神

永遠の父、平和の君」と唱えられる。

ダビデの王座とその王国に権威は増し

平和は絶えることがない。

王国は正義と愛の業によって

今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。

万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

(イザヤ書9章5~6節)

 

実に欲しき者は此信仰である。キリストと彼の十字架の外に信仰の理由を求めざる信仰である。其証明を此世の事業の成功に於て求めざる信仰である。之を自己の聖成(きよめ)に於て求めざる信仰である。単純なる信仰である。大胆なる信仰である。イエスキリストと彼の十字架の外に、社会事業も我道徳も要らないといふ信仰である。恰もコロンブスが天の星に頼るの外、陸上何物をも標的(めじるし)として有(も)つことなくして、大洋に乗出でし時のやうなる信仰である。而して此信仰があってこそ、我等は大宇宙に逍遙し、人を恐れず罪を恐れず大声疾呼して、新大陸ならぬ新エレサレムへと我等の船を乗出すことが出来るのである。

 


4月22日

 

そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。

(フィリピの信徒への手紙1章20節)

 

我名は消ゆるも可なり、願くは神の聖名(みな)の崇められんことを。我教会は失するも可なり、願くは我同胞の救はれんことを。我と我に属する凡てのものは消尽さるゝも、我神の栄光の日々に益々揚(あが)らんことを。

 


4月23日

 

神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。

(テモテへの第一の手紙2章4~6節)

 

単純なる信仰、信仰のみの信仰、結果に目を注がざる信仰、信仰のみを以て満足する信仰 ー 此信仰が有って信者に初めて真の平和があるのである。主イエスが「我れ汝に平和(やすき)を与へん」と言ひ給ひしは此平和(へいわ)である。「人のすべて意(おも)ふところに過ぐる平和」とパウロが言ひしは此平和である。是は深い信仰である、強い信仰である、堅い信仰である。此信仰があってこそ信者は世に勝つことが出来るのである。律法(おきて)の行(おこない)を離れて顕(あら)はれたる神の義の信仰、此信仰に由りてのみ大(おおい)なる事業は成就(なしと)げらるゝのである。大文学は出づるのである。大美術は現はるゝのである。大国家は興りて大政治は行はるゝのである。社会はその根底より改めらるゝのである。

 


4月24日

 

そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。

(ローマの信徒への手紙15章17~20節)

 

我れ我事を為すに方(あた)りて富豪の寄付を仰ぐを須(もち)ひず、我の事(つか)ふる天の父は天地万有の造主(つくりぬし)なり。我れ我志を伸ぶるに方て社会の賛同を得るを要せず、我の友なる天使は実座(みくら)に近く我がために祈る。我に糧あり、聖書にあり。我に力あり、祈祷に存す。我は単独にして世界を相手に戦ひ得るなり。

 


4月25日

 

主を恐れることは諭しと知恵。

名誉に先立つのは謙遜。

(箴言15章33節)

 

謙遜なれ、柔和なれ、然れども意気地無したる勿れ。謙遜は勇気なり、然れども意気地無しは卑怯なり。二者その外貌に於て相似て、其内容に於て全く相異なる。而して世に所謂基督的謙遜なるものにして、卑怯の結果なるもの多し。我らの謙遜をして有りあまるの能力(ちから)を有する者の謙遜ならしめよ。世の圧迫を怖れて萎縮するの謙遜(退縮)ならしむる勿れ。

 


4月26日

 

自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。

(ヨハネによる福音書12章25~26節)

 

幸福は人生最大の獲物ではない、義務は幸福に優りて更に貴くある。義務の故に我らは度々幸福を棄てざるを得ない。而して義務のために我等の蒙る損失は決して損失でないのである。エフタは彼の幸福を犠牲に供して彼の国を救うた。而してエフタの女(むすめ)は彼女の生命(いのち)を犠牲に供して彼女の父の心を聖(きよ)めた(士師記十一章参照)。犠牲に犠牲、人生は犠牲である。犠牲なくして人生は無意味である。幸福は人生の目的ではない、犠牲こそ人生の華なのである。もしイスラエルを救はんがためにエフタの苦痛が必要であり、而してエフタ自身を救はんがために彼の女の死が必要でありしとならば(而して余は必要でありしと信ずる)、神の聖名(みな)は讃美すべきである。エフタは無益に苦まず、彼の女は無益に死なゝかった。神は斯くの如くにして人と国とを救ひ給ふのである。

 


4月27日

 

イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼(バプテスマ)を授けられるからである。

(使徒言行録1章3~5節)

 

私はまことに奇蹟を信じます。奇蹟を信ぜずして基督教は信ぜられません。否、奇蹟を信ぜずして如何なる宗教も信ぜられません。私の考へまするに、奇蹟を排斥しまするならば、其れと同時に宗教を排斥すべきであると思ひます。奇蹟を否定しながら宗教の必要を説くのは、飲食の不要を唱へながら健康の幸福を説くの類であると思ひます。奇蹟は宗教の滋養であります、この養汁(ようじゅう)ありてこそ、宗教なる生物は存在し且つ繁殖するのであります。奇蹟を取除いて御覧なさい、宗教といふ宗教は皆な死んでしまひます。

 


4月28日

 

 キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民をご自分のものとして清めるためだったのです。

(テトスへの手紙2章14節)

 

是れは道徳的実験であります。即ち良心の必然的命令に由て自己を糾(ただ)して見ました結果、自己の神に叛(そむ)き、幽暗(くらき)を好むものであることを発見し、此罪人を救ふに足るの救主を求めて、終に茲にキリストに接して、此痛める良心を医(いや)すに足るの或者を看出すに至ったのであります。さうして私は罪とは人に対して犯した者ではなくして、神に対して犯した者であることを知りまする故に、此罪の苦悶を取去ってくれた者は必ず神でなくてはならないことを知ったのであります。

 


4月29日

 

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。

(テモテへの第二の手紙3章15~17節)

 

著者の判然せざる聖書は信頼するに足らないかと云ふに、決してさうではない。聖書は聖書其物のために貴いのであって、其著者のために貴いのではない。真理は其物自身の証明者であるから、自身を人に紹介するに当って人の証明を待たない。何もモーセの言(ことば)であるからとて貴いのではない、神の真理であるが故に貴いのである。我らはダビデやソロモンに教へられんと欲しない、神の聖霊に導かれたく思ふ。預言者エレミヤは我等の如き弱き人であった、併し彼の口より神の言葉が出た。我らは預言者自身を尊まない、彼を以て我らを教へ給ふ神に感謝する。

 


4月30日

 

人間に頼るのをやめよ

  鼻で息をしているだけの者に。

どこに彼の値打ちがあるのか。

(イザヤ書2章22節)

 

正義と言ふ勿(なか)れ、恩恵(めぐみ)と言へ。清浄と云ふ勿れ、赦免(ゆるし)と言へ。正義清浄は人にあるなし。之を彼より要求して我等は失望せざるを得ず。然れども神の恩恵は限りなく存し、其清浄は尽くることなし。神に依て人を救はんと欲すべし、人に依て世を救はんと望むべからず。人を扶(たす)け世を救ふの途は、単に神の救拯(すくい)の水をして尽きざる河の如くに流れしむるにあり。

 


5月1日

 

少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことがおこなわれますように。」

(マルコによる福音書14章35~36節)

 

アゝ神よ、我等をして爾(なんじ)を偉大なる神として解せしめよ。我等の切望とあれば何事によらず之を聴き納れ給ふが如き、我らに肖(に)たる小なる神として爾を了(さと)らしむる勿れ。我等をして爾の前に平伏せしめよ。爾が爾の聖顔(みかお)を我等より背け給ふ時に、我等をして爾は我等の聖父(ちち)なることを認めしめよ。爾に我等の祈禱(いのり)を悉(ことごと)く聴き納れらるゝは善し。然れども爾の聖旨(みこころ)のまゝに導かるゝは更らに善し。我等をして爾に何事をも注文する所あらしむる勿れ。我等をして自から善悪を定めしむる勿れ。汝の為し給ふ所・・・疾病(やまい)にあれ、飢餓(うえ)にあれ、裸程(はだか)にあれ・・・是れ善なりと称せしめよ、アーメン。

 


5月2日

 

兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。

(テサロニケの信徒への第一の手紙4章13~14節)

 

死は大事である、併し最大事ではない。死は取返しのつかぬ災厄(わざわい)ではない。死は肉体の死である、霊魂の死ではない。形体の消失である、生命(いのち)の湮滅(いんめつ)ではない。我等は死して永久に別れるのではない、我らは後に又復(ふたた)び会ふのである。人生の大事は死ではない、罪である。天地の主なる神に背き、生命の泉より離るゝ事である。故に神は人を死より免かれしめんと其途を取り給はなかった。併しながら彼等を罪より救はんとして其独子を遣(おく)り給うた。死の棘は罪である、罪が除かれて死は死でなくなるのである。

 


5月3日

 

心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。私の父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

(ヨハネによる福音書14章1~3節)

 

此世に於ける余の生涯は何(ど)うでも可(よ)い。憎まるゝも可い、誤解せらるゝも可い、貧しきも可い、裸なるも可い。余の永久の運命は此世に於ける余の境遇に由て定められる者でない。余の運命を定める者は、余のために自己(おのれ)を棄て給ひし余の救主イエスキリストである。彼は余のために所を備へんために父の許に往き給うた。彼は又来りて汝等を我に納(う)くべしと約束し給うた。余はこの世に在ては遠人(たびびと)である。暫時の滞留者である。余は一時天幕を此地に張る者である。永久の住家(すみか)を築く者ではない。神が余を呼び給ふ時には直(ただち)に天幕の綱を断ち、之を畳んで彼の国へと急ぐ者である。

 


5月4日

 

あなたの心を諭しの言葉に

耳を知識の言葉に傾けよ。

(箴言23章12節)

 

聖書は何が故に神の言辞(ことば)であるかと云ふに、勿論其中に神にあらざれば到底語ることの出来ない事が書いてあるからである。其文章の優劣は我等の論ずる所ではない。歴史的事実の錯誤の如き、科学的証明の不足の如き、以て神の聖旨(みこころ)の如何を示すに当っては左程大切なる事柄ではない。我等は人生に関し、宇宙に関する神の真理を識りたく欲(ねが)ふものである。さうして聖書は最も明白に我らの要求する此説明を与へてくれるのである。即ち聖書の完全なるは其辞句文章等の外形に在るのではなくして、之を一徹する神の聖旨に存するのである。聖書が神の言辞であるといふのは、其中に神の心が充ち溢れて居るからである。

 


5月5日

 

愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。

(ペテロの第一の手紙4章12~13節)

 

恩恵(めぐみ)とは身の幸福ではない、霊の光明である。財貨(たから)とは全世界ではない、眼に見えざる真(まこと)の神である。唯一(ただひとつ)の真の神である。唯一の真の神と其遣し給ひしキリストを識ること、是れが永生である、最大幸福である、最大の賚賜(たまもの)である。而して此至大至高の恩恵に与からんがためには、貧も可なりである、世と友人とに棄てらるゝも可なりである。疾病(やまい)も可なりである。然り、死其物も可なりである。余輩はイエスに在りて、死其物に於てすら神の笑顔を拝し奉るのである。

 


5月6日

 

わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

(フィリピの信徒への手紙3章12~14節)

 

基督教は人を善の器となすものにして、先哲が以て詩人の夢想と認めし最大希望を我等に於て充たすべしと宣言するものなり。我若し基督教に由て未だ此完全に達する道を得ざれば、我は未だ基督教を解せざる者なり。基督信者は大望を抱かざるべからず。在印度宣教師ウイリアム・ケリー曰く Atempt great thing for God, expect great thing from God.(神の為に大事を計画し、神より大事を望め)と。我は人力の及ばざる大変化を我身に来たさんと欲するものなり。

 


5月7日

 

すると、正しい人たちが王に答える。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」そこで、王は答える。「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

(マタイによる福音書25章37~40節)

 

聖クリソストム曰く「真正なる神殿は人なり」と。北斗、参宿(しんしゅく)、昴宿(ぼうしゅく)の密室、是れ神の宿り給ふ所にあらず。雷霆(らいてい)奔鳴(ほんめい)して山河揺撼(ようかん)する時、是れ神が吾人に語り給ふ時にあらず。嬰児(みどりご)槽(まぶね)に臥(ふ)する処、是れ真(まことの)神が世に臨みし給ひし所なり。神は人にあり。彼は人に於て吾人の敬愛と心従とを要求し給ふ。人に事ふるは神に事ふることにして、人を離れて神に事ふること能はず。

 


5月8日

 

思い起こせ、ヤコブよ

イスラエルよ、あなたはわたしの僕。

わたしはあなたを形づくり、わたしの僕とした。

イスラエルよ、わたしを忘れてはならない。

わたしはあなたの背きを雲のように

罪を霧のように吹き払った。

わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。

(イザヤ書44章21~22節)

 

若し救はるゝは我が行為(おこない)又は我が信仰に由るならんか、我は今猶危地に立つ者なり。そは我は何時罪を犯し、我が信仰は何時冷却し、又何時変移するや、期すべからざれば也。然れども我は聖書に由りて救拯(すくい)の我が行為(おこない)又は信仰に由るに非ずして、変りなき神の変りなき聖旨(みこころ)に基くを知りて、我に始めて真個(まこと)の平安あるなり。其時我は我が行為の不完全を意とせず、我が信仰の冷却を恐れず、纏(まと)へる罪の重荷を脱して、憚(はばか)らずして神の至聖所に入るを得るなり(ヘブル書十章十九節)。神若し我が味方たらば誰か我に敵せんや。我れ我神が其無限の愛を以て我を予め其救拯に定め給へりと識りて、我は世の反対を恐れず、教会の否認を恐れず、我が罪と不信とを恐れず、唯「我は信ず」と言ひて一直線に進むなり。

 


5月9日

 

一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。

(ヘブル人への手紙6章4~6節)

 

神に逆ひたればとて其刑罰として直ちに病に罹(かか)り、貧に迫り、又は社会の地位を失ふものではない。否な、多くの場合に於ては身の境遇の改善は神を捨去りし結果として来るものである。神に逆ひし覿面(てきめん)の刑罰は品性の堕落である。即ち聖きことゝ高きことゝが見えなくなって、卑しきことゝ低き事を追求するやうになることである。然し乍ら是れ最も恐る可き刑罰であって、人に取て実は是れよりも重い刑罰はないのである。さうして此刑罰の殊に重い訳は之を受けし者が其の刑罰たるを解し得ない事である。我等は神に祈て如何なる他の刑罰を受くるとも此恐るべき品性堕落の刑罰を受けざるやう努むべきである。

 


5月11日

 

主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。

(創世記2章19節)

 

人は神に像(かたど)りて造られし者なり。故に彼は神の意匠を究むるの理解力を有す。神が天然物を造り給ひし目的の一は、人智を発達鍛錬せんとするにありたり。神の造り給ひし物を究めて、吾人の智能を研磨するは吾人の当(まさ)に為すべき事なり。神はその造り給ひし獣と鳥とを率ゐ来りて之をアダムに示し、彼をして之を学ばしめ給ひしとなり。依て知る博物学の研究は人類が創造の初(はじめ)に於て神より直(ただち)に示されしものなる事を。神の造り給ひしものを直接に神より受けて之を学ぶ。神を知り、真理を究むるの方法にして何者か之にまさる者あらんや。博物学は人類最初の学問なり。獣を分類すること、鳥を説明すること、これアダムの受けし教育なりき。美(うる)はしきかな天然学、害なくして益多く、天然を通して直に天然の神に達す。来れ人よ、来りて森に禽鳥の声を聴き、出でゝ山に野獣の常性を学べよ。

 


5月12日

 

また、 一人の力強い天使が、「封印を解いて、この巻物を開くにふさわしい者はだれか」と大声で告げるのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開くことのできる者、見ることのできる者は、だれもいなかった。この巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見当たらなかったので、わたしは激しく泣いていた。すると、長老の一人がわたしに言った。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」

(ヨハネの黙示録5章2~5節)

 

若し人の力に依て此罪悪世界が救はれるものならば、そんな人は何処に居ますか。病人は病人を救ふことは出来ません。不義の人が他人の不義を治すことの出来よう筈が御座いません。社会全体が腐敗して居る時に、其一分子たる人が立(たっ)て之を救ひ得よう筈がありません。若し救ひ得るならば彼は社会の力に依て救ふのではありません。社会以上の力、即ち神の力に依て救ふのであります。故に社会を救ふに社会其物に頼らなければならぬとならば、社会救済事業などゞ云ふ事は、到底出来ない事で御座います。

 


5月13日

 

この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。

(ヘブライ人への手紙11章13~16節)

 

地は人類の住所なりと云ふ、然らざるなり。地は人類の墓地なり。彼の住所は他に在り、「手にて造らざる窮りなく存(たも)つ所の屋(いえ)なり」。地の花は彼の墓を飾るに善し、其山は彼の遺骸を託するに適す。然れども地其物は彼の住所となすに足らず。地に就て争ふ者は誰ぞや。政治は墓地の整理ならずや、戦争は墓地の争奪ならずや。永久の住所を有する我等は喜んで地は之を他人に譲るべきなり。

 


5月14日

 

そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」

(エゼキエル書37章4〜6節)

 

「其兒子(こども)の無きが故に慰めを得ず」と云ふ(マタイ伝二章十八節)。然し唯一つ慰めを得るの道があるのである。若し何かの方法に由り愛する者が再び活くるを得るならば、若し今は眼を閉(ふさ)ぎ唇を緘(とじ)るものが、何かの能力(ちから)により、活きて再び前我(わがまえ)に立ち、我と共に語り、我愛を受け又我に愛を供するならば、一言以て之を謂はば、彼が若し復活するならば、其時は我は実(まこと)に慰めを得て、わが悲歎は完全に癒さるゝのである。人は復活と聞いて笑ふなれども、然れども、復活は死別の苦痛に悩む者に何人にも起こる希望である。永久の離別は我等の忍ぶ能はざる所である。復活の希望なくして、再会の期待なくして、死は「慰めを得ざる苦痛」である。

 


5月15日

 

わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しいものは信仰によって生きる」と書いてある通りです。

(ローマの信徒への手紙1章16~17節)

 

私は確かに信じます。基督教は奇蹟を離れて論ぜらるべきものではありません。奇蹟を引抜いて後に残ったキリストの教訓が基督教であるならば、基督教とは実に微弱なる宗教であります。基督教の能力(ちから)ある所以は最も高尚なる道徳を奇蹟を以て強ゆるからであります。若し其教訓が光でありまするならば、其奇蹟は実に力(パワー)であります。力なき光は個人と社会と国家とを全然改造し得る光ではありません。

 


5月16日

 

わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

(コリントの信徒への第二の手紙6章8~10節)

 

「何も有たざるに似たれども凡ての物を有てり」とは基督信者の事である。我等に土地一寸もなけれども宇宙万物は凡て我等の属(もの)である。我等の家は雨を漏らし、風に脆きも我等は千代経し岩を隠家(かくれが)となす者である。我等を養ふに美味はなけれども我等は天の霊を呼吸して生くる者である。世に実は我等に優る富者はないのである。

 


5月17日

 

かつてあなたは大地の基を据え

御手をもって天を造られました。

それらが滅びることはあるでしょう。

しかし、あなたは永らえられます。

すべては衣のように朽ち果てます。

着るもののようにあなたが取り替えられると

すべては替えられてしまいます。

しかし、あなたが変わることはありません。

あなたの歳月は終ることがありません。

(詩篇102編 26~27節)

 

所謂現世的宗教は宗教ではありません。来世を明らかにする故に宗教は殊に人生に必要なのであります。殊に此事を明らかにするが故に基督教は殊に必要なのであります。「キリスト死を廃し福音を以て(永遠の)生命と壊ちざる事とを明らかにせり」とあります(テモテ後書1章10節)。キリストに由りて来世は明らかになったのであります。彼に由て私供彼の弟子等は今此世に在て猶ほ希望の中に私供の戦ひを続けて居るのであります。而かもキリストは決して私供より遠く離れて在すのではありません。唯幕一枚であります。彼は幕の彼方にありて私供の祈禱を聴き、いと近き援助として在し給ふのであります。

 


5月18日

 

あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。

(ヨハネによる福音書5章39節)

 

聖書は一名之をイエスキリストの伝記と云うても宜(よ)いと思ひます。其の旧約聖書なるものは、キリストが此世に生れ来る迄の準備を述べたものであって、新約聖書はキリストの此世に於ける行動や、或は直接にキリストに接した人の言行等を伝へたものであります。若し聖書の中からキリストと云ふ人物を取除いて見るならば、丁度穹形(ゆみがた)の石橋より要石を引抜いたやうなもので御座いまして、其全体が意味も形象(かたち)もないものとなるだらうと思ひます。聖書の解し難いのは文字の故ではなく、又理論の込み入って居る訳でもなくて、実にキリストが其の要石である事が解らないからで御座います。其故に一度キリストと彼の真意とが解りさへすれば、聖書ほど面白い書は世の中にまたと無く、又此れほど読み易い書は無いやうになります。

 


5月19日

 

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え

喜び歌って御前に進み出よ。

知れ、主こそ神であると。

わたしたちは主のもの、その民

主に養われる羊の群れ。

(詩篇100篇1~3節)

 

私の祈禱(いのり)の大部分は祈願ではありません。私は先づ満腔の感謝を以て私の祈禱を初めます。私は斯くも麗はしき宇宙に生を給ひし事に就て、私の神に感謝致します。私は私に良き友人を給ひし事に就て、私に身を委ぬべき事業を与え給ひし事に就て、私に是非善悪を判別して正義の神を求むる心を与へ給ひし事に就て、殊に私が神より離れて私利私欲を追求せし時に当って、私の心に主イエスキリストを現はし給ひて、私の霊魂を其の救済の途に就かしめ給ひし絶大無限の恩恵(めぐみ)に就て深く感謝致します。さうして感謝の念が私の心に溢(あふ)れまする時には、私は路傍に咲く菫(すみれ)のために感謝致します。私の面(おもて)を吹く風の為に感謝いたします。亦朝早く起き出でゝ東天に黄金色の漲(みなぎ)る時などは、思はず感謝の讃美歌を唱へる事も御座います。

 


5月20日

 

大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」

(ルカによる福音書14章25~26節)

 

憎むとは情実の羈絆(きずな)を斷つ事である。即ち最も乾燥せる眼を以て彼らの利害を看ることである。即ち彼等の欲望の成されんことを希はずして、彼等に関する神の聖意(みこころ)の就(な)らんことを欲することである。斯くならなくては真正(まこと)の孝子となることは出来ない。斯くならなくては真正の父でもなければ夫でも兄弟でも姉妹でもない。君父の命とならば何事にても従はんと欲する支那的の忠孝は甚だ不実なる忠孝である。若し東洋人の忠孝なるものが国と家とを興したることがありとすれば、同じ忠孝によりて滅びたる国と家とは沢山あると思ふ。毒物と知りつゝ老父の欲する酒を勧めて彼を死に至らしめし孝子もあらう。毒婦と知りつゝ主君の愛する妾婢を彼に許して彼と彼の家とを転覆せしめし忠臣もあらう。時によっては君を鞭(むちう)つ位の臣でなければ真正の忠臣と云ふことは出来ない。

 


5月21日

 

わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。

(ガラテヤの信徒への手紙2章15~16節)

 

キリストの死に依て、神は身を神に託する(Believe, leave)ー即ち信ずるーものを赦すを得るに至れり。神は赦し度(た)きものを赦し得るに至れり。(神は何事をも為し得べしと雖も、正義に合はざる事は為す能はず)。故にキリストは人の為にのみ生命を捨てずして、神の為にも死に給ひしなり。キリストは血の流るゝ手をひろげて人類に悔改めを勧め給ふと同時に、神が人類の悔改めを納れて彼等を赦すの道を開き給へり。キリストの十字架は実に恩恵(めぐみ)の新源泉を開きたり。神はキリストに依て尚一層の神愛を自現し給へり。

 


5月22日

 

トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

(ヨハネによる福音書14章5~7節)

 

イエスの垂訓に組織立ちたる順序あるなし。彼は学者の如く熟思して真理を発見し給はざりき。彼は世の創始(はじめ)より之を彼自身に於て有(も)ち給へり。熟せる果実が枝より落つるが如くに真理は彼の口より落ちたり。彼は真理其物なれば、彼れ口を啓(ひら)き給へば教訓は自然と彼より流れ出でたり。而して真理とは実に如此(かくのごと)きものならざるべからず。野の百合花(ゆり)の労(つと)めず紡がずして色を呈し香を放つが如くに、イエスは学ばず究めずして深き真理を世に供し給へり。雪山(せっさん)十二年の苦業の結果にあらず、ナザレ三十年の曇りなき成育の余韻なり。之に清風の香気あり、亦山を走る羚羊(かもしか)の自由あり。

 


5月23日

 

善を求めよ、悪を求めるな

お前たちが生きることができるために。

そうすれば、お前たちが言うように

万軍の神なる主は

お前たちと共にいてくださるだろう。

悪を憎み、善を愛せよ

また、町の門で正義を貫け。

あるいは、万軍の神なる主が

ヨセフの残りの者を

憐れんでくださることもあろう。

(アモス書5章14~15節)

 

基督信者は柔和で慈悲深き者でありますが、さりとて無主義、無節操、骨のない海月(くらげ)のやうな者ではありません。彼は愛すべき者を愛すると同時に、憎むべき者をば憎みます。彼は東洋流の君子英雄とは全く違ひ、善も悪も美も醜も皆之を容れて我が物と為す政治家的度量は有しません。彼は罪を黙許し悪を友とすることは出来ません。彼は罪人を憐みます。然し罪に対しては彼の満腔の憎悪の情を発表し、少しなりとも悪を賛するが如き挙動を示しません。彼はまた何よりも偽善を憎みます。殊に神の名を利用して悪事を働く者の上には、彼は彼の満心満腹の憎悪を注ぎます。彼は縦(よ)し自分の身を引き裂かるゝとも怒りは致しますまいが、然し偽善者の跋扈(ばっこ)を見ては彼は憤怒に耐えません。彼は決して怒らない者ではありません。神の為、正義の為には燃やし尽すが如き発火を以て怒ります。

 


5月25日

 

悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。

(エフェソの信徒への手紙6章11~13節)

 

我等キリストの福音を以て此世に立つ以上は、戦闘は全然之を避けんと欲するも能はない。我等は勿論他を苦しめんがために戦はない、又我が怨恨(うらみ)を霽(はら)さんがために戦はない。我等は勿論何よりも静粛を愛する。若し我が好愛を言はんには我等は終生聖書と天然とを友として、讃美と詩歌の生涯を送りたく欲(ねが)ふ。然れども是れ御自身十字架を負ひて我等を罪より救出し給ひし所の主が我等に許し給はざる所である。我等は悪魔と奮闘せざるを得ない。而して其悪魔は単に裡(うち)なる霊の悪魔ではない、外なる肉の悪魔である。佞人(ねいじん/心がよこしまな人)である、奸物である、酒である、賄賂である、淫猥である、残忍である。我等は時には彼等の怒れる顔を恐れずして、「主は汝を憎み給ふ」と言ひて彼等を詰責しなければならない。

 


5月26日

 

いかに美しいことか

山々を行き巡り、良い知らせを伝えるものの足は。

かれは平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え

救いを告げ

あなたの神は王となられた、と

   シオンに向かって呼ばわる。

(イザヤ書52章7節)

 

詩人、地主に言うて曰く「土地は汝の所有(もの)なり、然れども風景は我が所有(もの)なり」と。神の天然を楽むに、山林田野を我有(わがもの)とするの要なきなり。詩人、政治家に言うて曰く「政権は汝に在り、教権は我に存す」と。人の心を支配するに、軍隊、警察、法律、威力に拠るの要なきなり。詩人、宗教家に言うて曰く「寺院と教会とは汝に属す、然れども霊魂は我に帰す」と。人に神の愛を示し、救拯(すくい)の恩恵(めぐみ)を伝え、聖霊の歓喜(よろこび)を供するに僧侶、神官、監督、牧師、伝道師たるの要なきなり。

 


5月27日

 

もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物とがあれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。

(テモテへの第一の手紙6章6~9節)

 

汝の今日の業に安んぜよ。先づ大事業をなすの念を放棄せよ。エレミヤその弟子バルクを戒めて曰く「汝己の為に大いなることを求むるか、之を求むる勿れ」と。我等各々社会の教導者たらんことを欲するが故に、我等の革新事業は挙(あが)らざるなり。我等各自に革新すべき区域の供せられしにあらずや。汝既に安心立命の位置に立ちしとせんか、然らば先づ汝の家族に及ぼし、汝の友人を教化せよ。汝の隣人に慰謝(なぐさめ)の清水一杯を与へよ。汝に至る貧者をして、汝より善を施されずして汝の門前を立ち去らざらしめよ。我に勤めんとするの精神あらんか、我の今日の位置に於て為すべきの業は積んで山をなせり。

 


5月28日

 

はっきり言っておく。わたしを信じるものは、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。

(ヨハネによる福音書14章12節)

 

前あるを知らず、後あるを知らず、右あるを知らず、左あるを知らず、他あるを知らず、己あるを知らず、唯何者かゞ来って我が心志(しんし)を奪ひ、我が手を取り、我が情を激して、我をして我の欲(おも)はざる事をなさしむ。此時我の全身は燃え、我に知覚あつて無きが如し。我は何を為し何を書きつゝあるやを知らず。唯知る、彼我を去りし後に、我は彼の手に在りて我以上の事を為せしことを。

 


5月29日

 

「さあ、我々は主のもとに帰ろう。

主は我々を引き裂かれたが、いやし

我々を打たれたが、傷を包んでくださる。

二日の後、主は我々を生かし

三日目に、立ち上がらせてくださる」

(ホセア書6章1~2節)

 

キリストの愛神主義は利他利己両主義の上に超越して、最も多く他を利して最も多く己を利するの道を我に教へたり。我は罪を自覚してこれを避くるを得べし。我は我に付与されし赦免は神の公義に戻らざるものなるが故に、我が全体の応諾を以て之に与るを得べし。我の求めんと欲する処のものにして、天の我に付与せざるものなし。造化は実に失敗ならざりしなり。エムマヌエル、神我等と共に在り。人生は一度通過するの価値あるものなり。

 


5月30日

 

ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」

(ルカによる福音書13章14~16節)

 

釈迦は婆羅門の破壊者であって、キリストとパウロとは猶太教の破壊者であった。ダンテとサボナローラとルウテルとは羅馬加特力(ローマカトリック)教会を破壊し、ブラウンとウェスレーとヂョーヂ・フォックスとは、英国の監督教会を破壊した。破壊する事は時と場合とに依ては決して悪い事でないのみならず、甚だ必要なることである。もし西郷南州や大久保甲東が旧幕時代の日本の社会を破壊しなかったなら如何(どう)であったらう。我等日本人は今日此頃も尚ほ中古時代の迷夢の裡(うち)に昏睡して居たではあるまいか。破壊を恐れるのは老人根性である。進歩を愛する者は、正当なる破壊を歓迎すべき筈である。

 


5月31日

 

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているいるなら、キリストの復活とも同じようになるからです。

(ローマ人への手紙6章3~5節)

 

キリストに同化されし者、キリストの活ける体の一部分となりし者、その困苦と歓喜と、その恥辱と栄光と、その死と復活とを、彼の中に在て彼と偕に父なる神より分与せられし者、是れが基督信者である。「信ずる」とは此場合に於ては知識的に是認することではない。亦感情的に信頼することでもない。キリストを信ずるとは彼の神格の中に我が人格を投入することである。さうして我を無き者として彼をして我に代って我が衷にあらしむることである。是が即ち信の極であって、キリストは我等より斯かる信仰を要求し給ふのである。キリストが神であり、霊の宇宙であり、我等が其霊界の一部分となるを得て、始めて我らの聖化も満足に行はれ、亦キリストの光は我等を通して世に現はれるのである。

 


6月1日

 

若いときにも老いた今も、わたしは見ていない

主に従う人が捨てられ

子孫がパンを乞うのを。

(詩篇37編25節)

 

基督教は貧者を慰むるに、仏教の所謂「万物皆空」なる麻酔的教義を保てするものに非ず。基督教は世をあきらめしめずして世に勝たしむるものなり。富めると貧なるとは前世の定めにあらずして、今世に於ける個人的境遇なり。貧は身体の疾病と同じく、之を治する能(あた)はずんば喜んで忍ぶべきものなり。我の貧なる、若し我の怠惰放蕩より出でしものならば、我は今より勤勉節倹を事とし浪費せし富を回復すべきなり。天は自ら助くるものを助く。如何なる放蕩児と雖も、如何なる惰(なま)け者と雖も、一度翻(ひるがえ)りて宇宙の大道に従ひ、手足を労し額に汗せば、天は彼をも見捨てざるなり。貧は運命にあらざれば、我等手を束ねて之に甘んずべきにあらず。働けよ、働けよ。正直なる仕事は如何に下等なる仕事なりと雖も、之を軽んずる勿れ。

 


6月2日

 

イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまづいた。

(マルコによる福音書6章1~3節)

 

彼は法王、監督、牧師、宣教師、神学博士の類にあらざりき。彼は曾(かつ)て頭に僧冠を戴きしことなく、また身に僧衣を着けしことなし。即ち彼は今日世に称する宗教家にあらず。彼は曾て彼の信仰のために俸給を受けしことなし。彼はナザレの一平民にして、彼の父の業を継いで大工を職とせしものなり。故に彼は直覚的に神を識りし者にして、神学校または哲学館に彼の宗教的知識を養ひし者にあらず。余輩が彼を尊敬するは彼が大平民なりしが故なり。

 


6月3日

 

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。

(ヘブライ人への手紙11章3節)

 

神を信ずる事は、読んで字の如く神を信ずることなり。神の存在を信じ、摂理を信じ、保護と指導とを信ずる、恰(あたか)も吾人肉体の父のそれを信ずるが如くに信ずるを云ふなり。信ずると口に云ふにあらず、実に信ずるなり。而して吾人処世の方針を全く此信仰に基きて定むるを云ふなり。詩人コレリッジ時の宗教家を評して曰く、彼等は信ずると信ずる者にして、信ずる者にあらずと。信神の事決して容易のことにあらず。

 


6月4日

 

わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行なった義の業によってではなく、ご自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。

(テトスへの手紙3章3~5節)

 

余は余が好んで救はれたのではない、余は余の意に逆って救はれたのである。余は現世を愛した。然るに神は現世に於ける余の凡ての企画を破壊し給ひて余をして来世を望まざるを得ざらしめ給うた。余は人に愛せられん事を希(ねご)うた。然るに神は多くの敵人を余に送って、余をして人類に就て失望せしめて、神に頼らざるを得ざらしめ給うた。若し余の生涯が余の望みし通りのものであったならば、余は今は神もなき来世もなき、普通の俗人であったであらう。余は神に余儀なくせられて神の救済(すくい)に与ったものである。故に余は世の救はれしことに関して何の誇る所のない者である。

 


6月5日

 

神は羽をもってあなたを覆い

翼の下にかばってくださる。

神のまことは大盾、小盾。

(詩篇91編4節)

 

神の命を待てよ、然らば何事も行はれん。身を神に任せよ、然らば凡ての力は汝に加へられん。汝は神の属(もの)にして汝の事業は神の事業ならざるべからず。是故に汝に計画なるものあるべからず。汝に焦心憂慮の要あるなし。神は彼自身にて活動する者なれば、吾人は全身を彼に献ぐれば足る。自から計り、自から行はんと欲して吾人は神より離絶するものなり。而して斯く為して偉大なる行為の吾人の手に依て成らざるは勿論なり。吾人若し人に対し活動的たらんと欲せば、神に対しては全然受動的たらざるべからず。

 


6月6日

 

何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

(フィリピの信徒への手紙2章3~5節)

 

キリストのやうな生涯は、悪人に殺さるれば、夫れで終りになるもので御座いませうか。若しキリストが復活しないで、彼の生命も空しくユダの山地の塵となって消え失せて仕舞うたものならば、此の宇宙とは何と頼み少なき処ではありませんか。然し之れはさうでは御座いません。謙遜なる事キリストの如き者の生涯は、永遠にまで存在する価値のあるもので御座います。さうして我々の生涯と雖も、彼の生涯に倣へば同じく永久の性を帯ぶる事が出来ます。即ち永生とは実に謙下(へりくだり)の結果であります。キリストのやうに謙遜なるを得れば、我々も永生に入ることが出来ます。

 


6月8日

 

ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカによる福音書5章30~32節)

 

キリストは罪人の友であると云ふ、洵(まこと)に其通りである。キリストは税吏(みつぎとり)、罪ある者の友であった。併し乍ら罪人の友であると云ふのは悪人の友であると云ふ事ではない。キリストは悪人の友ではない。人は悪をなしてキリストの敵となるのである。キリストが罪人の友であると云ふは、彼は世が称して以て罪人となす者の友であると云ふのである。即ち自ら罪を悔いて神に赦されし者、或は身に罪を犯せし事なきも、世の慣例習俗に従はざるの故を以て罪人として世に目せらるゝ者、或は人の猜(ねた)む所となりて罪なきに罪ありと称ばるゝ者・・・キリストは斯かる罪人の友であると云ふ事である。即ちパリサイ人が称して以て罪人と見做す者の友であると云ふことである。

 


6月9日

 

世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。このキリストを、私たちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全なものとなるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。

(コロサイの信徒への手紙1章26~28節)

 

聖書は大なり。然れども活けるキリストは聖書よりも大なり。我らもし聖書を学んで彼に接せざれば、我らの目的を達せりと云ふ能はず。聖書は過去に於ける活けるキリストの行動の記録なり。而して我らは今日彼の霊を接(う)けて新たに聖書を造らざるべからず。古き聖書を読んで新しき聖書を造らざる者は、聖書を正当に解釈せし者に非ず。聖書は猶ほ未完の書なり。而して我らは之に其末章を作るの材料を供せざるべからず。

 


6月10日

 

わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。

(ペテロの第一の手紙1章3~4節)

 

 

 信者は安心して死に対すべきである。必しも生を求めず、又必しも死を願はず、生くるも主のため死するも主のためである。死すべき時に死するは大なる恩恵(めぐみ)である。もし徒らに生を希(ねが)うて、死すべき時に死なざれば不幸是より大なるはない。死すべき時に死するの死は光明に入るの門である。死は最大の不幸なりと謂ふは、信者の謂ふべき事ではない。彼はたゞ死すべき時に死なんことを願ふのである。其時よりも早からず、其時よりも遅からず。

 


6月11日

 

天が地を超えて高いように

慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。

東が西から遠い程

わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。

父がその子を憐れむように

主は主を畏れる人を憐れんでくださる。

主はわたしたちを

  どのように造るべきか知っておられた。

わたしたちが塵にすぎないことを

  御心に留めておられる。

(詩篇103篇11~14節)

 

余は未だ能く神の何者たる乎を知らず、然れども其の余の悪を憎み給ふに優りて余の善を愛し給ふ者なるや敢て疑ふべきにあらず。余が終末(おわり)の裁判(さばき)の日に於て神の前に立つや、余の悲歎は余の悪の多き事にあらずして、余の善の少き事ならん。而して余は其時余の予想に反して、愛なる神が余の犯せし凡ての悪を忘れ給ひて、唯だ余の行せし些少の善をのみ記憶し給ふを発見して驚愕の念に堪へざるべし。「神の恩恵(めぐみ)の広きは海の広きが如く広し」。吾等神の忿怒(いかり)に就てのみ念ずるは誤れり。神は忿怒の神に非ず、恩恵の神なり、即ち赦免(ゆるし)の神なり。

 


6月13日

 

息子は言った。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」しかし、父親は僕たちに言った。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。」

(ルカによる福音書15章21~23節)

 

汝は言はんとす「我の如き罪人いかで無限の愛を受くべけんや。我先づ己を清くして然る後神の愛を以て充たさるべきなり」と。嗚呼誰か汝を清くし得んや。汝は己を清め得ざりき。汝を清め得るものは唯神のみ。汝の清まるを待ちて神に来らんとせば、永遠まで待つも汝は神に来らざるべし。母の手より離れて泥中に陥りし小児は、己を洗浄する迄は母の許に帰らざるか。泥衣のまゝ泣いて母に來るにあらずや。而して母はその子が早く来たらざりしを怒り、直ちに新衣を取って無知の小児を装ふにあらずや。永遠の慈母も亦然せざらんや。

 


6月14日

 

わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見習う者となって欲しいのです。(ヘブライ人への手紙6章11~12節)

 

「凡ての事是れ信じ」(コリント前書13章7節)とは何事によらず之を信ずとの意にあらず。凡ての事是信じとは、凡ての善き事是れ信ずとの意なり。余輩は天に愛の父の在すを信ず。余輩は罪の赦免を信じ、霊魂の不滅と肉体の復活とを信ず。余輩は又萬物の復興と天国の来臨とを信ず。余輩の信ずべからざる事は悪が終に世に勝たんとの事なり。此世が全滅に帰して混沌の再び宇宙を掩ふに至らんとの異なり。信仰は希望なり。善を望まざる信仰は信仰にして信仰にあらざるなり。

 


6月15日

 

あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。

主に逆らう者の天幕で長らえるよりは

わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。

主は太陽、盾。

神は恵み、栄光。

完全な道を歩く人に主は与え

良いものを拒もうとはなさいません。

万軍の主よ、あなたに依り頼む人は

いかに幸いなことでしょう。

(詩篇84篇11~13節)

 

地に属するものが余の眼より隠されし時、初めて天のものが見え始まりぬ。人生終局の目的とは如何、罪人がその罪を洗ひ去るの道ありや、如何にして純清に達し得べきか、此等の問題は今は余の全身を奪ひ去れり。栄光の王は神の右に座して、ソクラテス、パウロ、クロムウエルの輩、数知れぬ程御位の周囲に座するあり。荊棘の冠を戴きながら十字架に上りしイエスキリスト、来世存在を論じつゝ従容として毒を飲みしソクラテス、異郷ラベナに放逐されしダンテ、其他夥多(あまた)の英霊は今は余の親友となり、詩人リヒテルと共に天の使に導かれつゝ、球より球まで、星より星まで、神霊界の広大を探り、此地に咲かざる花、此土に見ざる宝玉、聞かざる音楽、味はざる美味・・・余は実に思はぬ国に入りぬ。

 


6月16日

 

あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、

(ペテロの手紙1章5~6節)

 

神の聖業(みしごと)は今猶ほ其半途(なかば)に於て在るのである。彼は今その畑に永生の種を播き給ひつゝあるのである。今より後に復活あり、地の改造あり、大審判ありて、然る後に彼の救済(すくい)の聖業は終り、而して最後に新しき天と新しき地との実現を見るのである。言あり曰く「神の水車は転(めぐ)ること緩かなり、然れども挽くこと精巧なり」と。神は急ぎ給はない、多く時を取り給ふ。彼の目には千年も一日の如し。万年も長き時に非ず。而かも彼はその愛する者を忘れ給はない。その始めし善工(よきわざ)を終らずしては止み給はない。人の眼より見て今より救済の結末、完成されたる天地の実現を俟つは耐へ難き忍耐ではあるが、然し神は人が明日を期するが如くに其福(さいわ)ひなる時を待ち給ふのである。

 


6月17日

 

世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神は私たち一人一人から遠く離れてはおられません。

(使徒言行録17章24~27節)

 

余は神は在ると信ずる。その最も確かなる証拠は余自身が存在することである。余は余の父母を通して世に生まれ来った者であるが、然し余には余の父母が生むことの出来ないものがある。即ち余には余の霊魂がある。即ち独り断じて独り行ふ所の者がある。是れは余の父母とは何の関係もない者であって、是れは直(ただち)に神より出で来った者である。是が即ち余自身であって、余の人格である。余の肉体の変遷と同時に変遷せざるもの、余の責任の存する所、余の不朽の部分、自我の中心点、余は斯かる玄妙なる者の余の衷に在るを知るが故に神の存在を信じて疑わないのである。

 


6月18日

 

実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって、敵意を滅ぼされました。

(エペソの信徒への手紙2章14~16節)

 

茲(ここ)に如何なる手段を以てしても怒らすことの出来ない唯一人の人があった。棘(いばら)の冠を被らせても、掌(てのひら)を以て打っても、唾きしても、十字架につけても、怒らす事の出来ない一人の人があった。憤怒(いかり)の颱風(はやて)は吹かば吹け、此愛の巖(いわ)を動かすことは出来なかった。憎悪(にくみ)の潮は来らば来れ、此愛の堤を崩す事は出来なかった。キリストの死は憎悪に対する愛の勝利であった。茲に憎悪は非常の勢力を以て愛と衝突してその撃退する所となった。今より後ち憎悪はその猛威を誇ることは出来ない。既に一回人の子の打破る所となりて、その殲滅は既に宣告せられた。キリストの愛の死に由て世界平和の端緒は開かれた。キリストは十字架に上りて、愛は最高の位に即(つ)いた。

 


6月19日

 

怠け者よ、蟻のところに行って見よ。

その道を見て、知恵を得よ。

蟻には首領もなく、指揮官も支配者もないが

夏の間にパンを備え、刈り入れ時に食糧を集める。

怠け者よ、いつまで横になっているのか。

いつ、眠りから起き上がるのか。

しばらく眠り、しばらくまどろみ

しばらく手をこまねいて、また横になる。

貧乏は盗賊のように

欠乏は盾を持つ者のように襲う。

(箴言6章6~11節)

 

勤労の報酬は満足されたる良心なり。更に尽くさんと欲するの決心なり。智能の益々明瞭を加ふることなり。欲心の減ずることなり。生存其者に興味を感ずることなり。未来の恐怖の絶ゆることなり。万物の霊長たる人類は是より以下の報酬を以て満足すべからざるなり。

 


6月20日

 

それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。

(コロサイの信徒への手紙2章2~3節)

 

キリストは余に自己を賜うた。彼に在る生命(いのち)を賜うた。聖霊を賜うた。神と人とを愛する心を賜うた。忍耐と希望と歓喜とを賜うた。然り彼は余に神を賜うた。而して神と共に宇宙万物を賜うた。彼は余の死せる霊魂を活かし給うて、余をして内に富み且つ慧(かしこ)き者とならしめ給うた。夫れ故にキリストは余のすべてゞある。余の食物又衣服又家屋である。彼は又余が神の前に立つ時の誇り(勲章)である。彼は又余の知識である。彼は又余の「曙の星」であって、余の歌の題目、美術の理想である。彼は又余の自覚の根底であるから、余の哲学と倫理との基礎である。キリストは余に自己を与へ給うて余に万物を与へ給うた。

 


6月22日

 

あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。

(ガラテヤの信徒への手紙3章26~28節)

 

我は世に讐敵(しゅうてき)のあることを思はずして、我の同情者のあることを思ふ。我は世に我の瑕瑾(かきん/わずかな欠点)を探り索(もと)むる批評家のあることを思はずして、我の真意を理解する愛友のあることを思ふ。そは敵意は我の意を縮め、友情は之を寛(ひろ)めて我をして人生を厭(いと)はざらしむればなり。これ己惚(うぬぼれ)の如くに見えて然らず。今日の如く人々皆「四海讐敵」なりとの念を懐(いだ)く時に際しては、我が心中に人類に対する温き愛情を保有するの必要あり。

 


6月23日

 

あなたの重荷を主に委ねよ

主はあなたを支えてくださる。

主は従う者を支え

とこしえに動揺しないように計らってくださる。

(詩篇55篇23節)

 

「汝の重荷をエホバに委ねよ」、自身之を負はんとする勿れ。自ら之を担はんとするが故に汝に堪へ難きの苦痛あるなり。之をエホバに委ねよ、彼は容易(たやす)く之を担ひ得るなり。而して汝の重荷を汝に代(かえ)て担い給ふに止まらず、之と共に汝自身をも担ひ給ひて汝の心に平康(やすき)を賜ふなり。彼は義人、即ち彼に依頼む者、即ち彼と義しき関係に於て在る者の動かさるゝことを決して允(ゆる)し給はざるべし。しかり、決して允し給はざるなり。世の謂ゆる義人の動くことあり。然れども神の義人の動くことなし。神の義人は信仰の人なり、信頼の人なり、義を神より仰ぐ人なり。我は義人なりと云ふ人にあらず、罪びとなる我を憐み給へと云ひて神の慈愛に縋(すが)る者なり。而して斯かる者は決して動かさるゝことなし。

 


6月25日

 

さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

(ヘブライ人への手紙4章14~16節)

 

余はキリストが余に代りて成し就げ給ひし善行に由て救はれるのである。余が大胆にも多くの余不相応の要求を以て神に近づき得るは、全くこれがためである。如何に慈悲深き神なればとて、余は余のために余を恵み給へと言ひて彼に近づくことは出来ない。然しながら、キリストのために余を恵み給へと言ふのであるならば、余の如き者と雖も、大胆にアバ父よと叫びながら神の宝座(みくらい)に向って進み行くことが出来る。余は余のために何物をも要求する資格をもたない。併しながら、キリストのためとならば、万事を父に向て要求することが出来る。

 


6月26日

 

主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。

(列王記上19章11~12節)

 

 

聖霊の充分なる降臨は当人の全生涯に渉る神の聖働である。この不完全なる且つ小なる我は、一時に聖き限りなき神の霊を受くることは出来ない。初に苗、次に穂出で、穂の中に熟したる穀を結ぶと云ひ(マコ伝四章二十八節)、誡命(いましめ)に誡命を加へ、度(のり)に度を加へ、此処(ここ)にも少しく、彼処(かしこ)にも少しく教ふと云ふ(イザヤ書二十八章十節)。健全なる聖霊の降臨は徐々たる降臨である。我らの願ふべきことは、其一時に迅風の如くに降らずして、永く軟風の如くに戦(そよ)がんことである。雷火の如くに臨まずして、朝の露の如くに潤さんことである。万止むを得ざる場合の外は、我に急激の変化を来さゞらんことである。

 


6月27日

 

しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、

「かつては神の民ではなかったが、

 今は神の民であり、

 憐れみを受けなかったが、

 今は憐れみを受けている」

のです。

(ペテロの第一の手紙2章9~10節)

 

基督信者とは勿論キリストを信ずる者である。然し彼は実は自から信じて信者となったのではなくして、神に信ぜしめられて信者と成ったのである。彼の信仰は救済(すくい)の結果であって、信仰が救済の原因であるのではない。「汝等の信ずるは神の大いなる能(ちから)の感動(はたらき)に由るなり」とは聖書が力を籠めて宣伝ふる所であって、我等は信仰に由て救はると云ふものゝ、其信仰其物が神の特別なる恩賜(たまもの)であることを我等は決して忘れてはならぬ。

 


6月28日

 

ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまづかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。(コリント前書1章22-24節)

 

パウロ曰く神は愚者を以て智者を辱かしむと。宗教家は神と人との間に立つ取次人なれば、神は自己の知恵を以て此地位に立たむとと欲すべからざるなり。大宗教家の怜悧なる人に少なくして、却って朴訥なる人に多き所以は、蓋し此点に存することと信ずるなり。或論者の如く、ルーテルを以て先見博聞の人と見做すが如きは、大いなる誤謬なり。彼の事業は神の事業にして、彼の偉大なりし所以は、偏(ひとえ)に彼の自ら力なきを覚り全く神に依頼せしに由るなり。

 


6月29日

 

しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。

(マタイによる福音書5章44~45節)

 

愛、愛、我らの希(ねが)ひ求むべきものは是である。権能(ちから)は要らない、有って甚だ危険である。智恵は要らない、有って却て我らを迷はす。要るものは愛である。敵を倒すための権能ではない、我を倒さんとする我敵を愛する愛である。是れ我等の最も要求すべきものである。我等基督信者は権能を以て自ら守らんとしない。「愛の中に恐怖(おそれ)あることなし、全き愛は恐怖を除く」とあれば、我等は愛を以て敵に向はんとする。我等は権能の足りないのを歎かない。愛の足りないのを悲む。愛を以て溢れさへすれば、天井天下怖るべき者は一もない。

 


6月30日

 

そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

(ローマの信徒への手紙5章3~5節)

 

忍耐と云へば普通辛らい事と思はれて居る、我慢することゝ思はれてゐる。基督信者の忍耐とは爾(そ)んなものではない。基督信者の忍耐とは優に耐えると云ふことである。即ち神に依て、希望を以て、歓びつゝ何の苦をも感ずることなく、耐ゆると云ふことである。大船が波濤に耐ゆるやうに、大厦(たいか)が地震に耐ゆるやうに、一種の快味(かいみ)を以て世の苦痛に耐ゆることである。是を忍耐と云ふのは耐ゆると云ふ意味から然う云ふのである。忍ぶと云ふ意味から云ふのではない。若し基督信者の忍耐を意義なりに表はさうとするならば、これを歓耐(かんたい)と云ふのが適当であると思ふ。彼の信仰の充実する時には我慢、辛抱の意味に於ての忍耐は彼には無い筈である。