「沖 縄 の 平 和」

副題・・キリスト教信仰50年で気づかされたこと

那覇聖書研究会  友寄隆静

 

 1963.1.15私は16(1)の時にキリスト教の洗礼を受けました。罪からの救い主としてイェス・キリストを受け入れました。古い自分を捨てて、新しい自分になる新生の印として、洗礼を受けました。浜辺で兄弟姉妹が讃美歌320番「主よ、みもとに近づかん」を歌っている中、牧師に導かれ、海の中に全身を沈める浸礼を受けました。その場所は現在、海を埋め立ててできた野球場、日ハムのキャンプ場「21世紀の森」ができている沖縄県名護市にありますが、昔の面影は全くありません。進学に悩んでいた高校三年の5月頃、友人から頂いた一冊の書物 それは内村鑑三著「キリスト信徒の慰め」でした。岩波文庫の100pもない書物でしたが、「明治の日本に巨人がいた」との衝撃を私に与えました。そのことについては後程改めてお話ししたいと思います。

 

 キリスト教信仰50年を省みて思うことは、小さく弱い愚かな自分であってもイェス・キリストにつながることは、祝福の根源であるということです。キリストの十字架の苦しみは私の罪を贖うためであったことを受入れ、罪の許しの後に 魂の平和をいただき、喜びと感謝をいただきました。それによって「初めに神は天と地とを創造された」という創世記1:1の言葉に触発され、「神様が造られた世界の現実はどのようになっているのか、人々は平和に暮らしているか、人権は尊重されているのか」など関心を持つようになりました

 

 マルチン・ルターは「キリスト者の自由」という書物の冒頭に「キリスト者は全ての者の上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者は全てのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」といいます。キリストによって、罪の奴隷から解放された人間は、完全な自由人とされたが、その自由をどのように活用するか、何もしなくてもよいが、神の愛への応答として何かをせずにはおれない、隣人愛の働きを余儀なくされます。

 どこで何をすればよいかは、お互いの生活する地域によって多様性があります。その地域の課題に寄り添うのが「すべてのものに奉仕する僕」になることで、医療も福祉も教育もそのエリアにあります。

 

 私は次に自分の貧しい経験を通して、皆様のご参考に供したいと存じます。

 無知な人を称する言葉として「井の中の蛙、大海を知らず」とか「山にある者は山を見ず」という言葉がありますが、若き日の私自身がまさしくそのような人間でした。ラジオから流れてくる琉球の古典音楽は暗いイメージで嫌いでした。

 しかし、1965年から4年間、京都での大学生活をする中で、少しずつ意識が変えられていきました。1年目の秋、ホームシックになりました。デパートで購入したソノシートで「旅や浜宿り 草の葉ど枕 寝てん忘りらん 我親うすば」(琉球民謡「浜千鳥」)や「安里屋ゆんた」のメロディーには望郷の念を掻き立てられました。「別れの煙」という歌もありますが、島を離れていく親兄弟、子どもたちの無事を祈って焚かれるのろしに親の情けが身に染みるのを感じました。遠くから見る故里・沖縄は、その時点では情けの島でありました。

 

 又、神学の学びの入り口で、イェス伝研究で、イェス・キリストは本当に処女・マリヤから生まれたのか、ローマ兵にレイプされたのではないか、とか、キリストは海の上を歩いたとあるのは嘘ではないのか、病人の癒しや復活も本当にあったのかなどの問いは、自分の信仰を揺るがす厳しい問いとして悩まされました。貧乏学生で寮生活でしたから、団塊世代の私はあまりの空腹にフライドチキンが出てくる夢を見たり、ギリシャ語のテストの頃にはキリストの髪から流れるナルドの香油の香りが夢の中で香ったりしたのを記憶しています。 

 その頃、経験したことのない不思議な出来事が起こりました。寮で隣室に同郷の先輩がおりましたが、体調不良で京大付属病院に入院、手術されました。退院後のある日、休学すべきかどうか彼から相談を受けましたので、しっかり療養し回復してから勉強することを勧めました。そこで本人は休学を決断しましたので1965.8.18私は彼のボストンバッグを持って京都駅まで行き、見送りました。それから丁度2か月後の10.18私は大学で講義を受けているのに、そのこととは別に心のいら立ちのようなざわめきのような「何だろう、これは」と思うことが一日中続きました。夕方、学校から帰ってみると、電報が届いています。先輩の母親からの電報でこの日、彼が亡くなられたとの知らせでした。朝からのイライラの原因はこの事であったと私の心は瞬時に納得していました。後日、このような精神現象を「虫の知らせ」とよんでいることが分かりました。この出来事のメカニズムは今もわかりませんが、沖縄の祖先崇拝の問題につながる出来事とも無関係ではないものと理解し、私なりの研究を試み、小さな書物(「なぜユタを信じるのか その実証的研究」)を発行することの原点にもなりました。

 

 

 ある日の母の言葉に仰天、衝撃 サタンの存在 

 私の母は、やさしい、思いやりのある人でしたが、家族の幸せを祈る祖先崇拝の信仰者でした。そのために毎年ユタを訪問し、家族の運勢を占ってもらっていました。もう47,8年前の話ですが、ある日、母は私にこのようなことを話してくれました。「この前、那覇にでかけ末吉のユタに家族の運勢判断をお願いした所、あなたの家に位の高い神様を信じている者がいるので、その神様に圧迫されて運勢が出せない」と断られた。自分は北部の田舎からはるばる来たのでぜひ運勢判断してほしいと頼んだけど断られた。位の高い神様を信じているのがいるからとのことです。いないというと、「いや絶対いる」というので、よく考えてみるとキリスト教の教会に通っているのがいると伝えると、「それだ」とのことでした。この母の言葉は私にとって衝撃でした。「私の事を心の中までも知っている見えない存在が、神様以外にもいる。」という衝撃でした。

 母にそのことを語ったユタは、那覇市首里末吉に住む洗い髪の女性であったと聞きましたが、詳しいことは今も知りません。そのことを知らせたユタについての学びの必要を感じ、私は仕事を辞めてその研究を始めることにしました。その様な決断をしたある日、道ですれ違った見知らぬ女性から突然「あなたは私たちの邪魔をしに来たのか」と言われたこともありました。

 

 ユタの語源についてはよくわかりませんが、沖縄の方言でおしゃべりすることを「ユンタクする」といいます。ユタも全体的におしゃべりなのでそのように呼ばれたという見方と、神のお告げを受けたり語ったりするときに体を揺らすパフォーマンスをするところから「ユタめく、揺れる」からきているのではとの見方があります。

 沖縄で先祖崇拝のリーダーシップをとる存在が「ユタ」と呼ばれる人々でありますが。私の見たところユタは8:2くらいの割合で男性よりも女性が多く、彼らの多くは神ダーリとよばれて得体のしれない神に取りつかれる神秘体験者でありました。なりたくてなったのではなく、神に強制され、やむを得ずユタになった人々でした。1950年代にハワイ大学のリーブラ教授の調査では300人以上ではとの資料もありますが1970年代の私の調査では100人以内と感じました。

 

 私の研究方法としては県内の人々にアンケートをすることで、半分以上がユタに関心があるとのことがわかりました。直接ユタ14、5人に会って話を聞くことでそれぞれの体験を教えていただきました。ユタになりかけてクリスチャンになった人や坊さんになった人々の証言を聞き、学者の意見も参考にするなどの方法をとりました。時間の都合で詳細は割愛しますが、その結果 一つのユタ社会の構造がわかりました。それは、沖縄の主婦と位牌と焼香の法事が祖先崇拝の三本柱となっており、その中核としてユタが存在しているということでした。沖縄学の先駆者の一人、佐喜眞興英は「ユタは祖先崇拝の維持者である。」と断言していますが、そのとおりであると思いました。

 沖縄の祖先崇拝のシンボルとして、仏壇に安置される祖先の名前が記された位牌のことをトートーメーと呼んで拝んでいます。現在でも沖縄のほとんどの家庭にあります。又 死者の供養として年忌の焼香・沖縄の言葉でスーコーが営まれます。死後初七日から始まり、49日までの一週間ごとの法事、次にあの世の正月としての16日祭、1年忌、3年忌、7年忌、13年忌、25年忌、最後に33年忌の終わりの焼香が行われます。その他毎年の4月頃の墓前でなされる清明祭(沖縄語でシーミー)、旧盆などは全て祖先を神とする祖先崇拝の行事でありますが、その行事の執行者は主婦たちであります。今日8.20は旧盆です。

 

 家庭内で家族の病気や不幸、もめごとなどが起こると主婦たちはユタを訪問します。ユタからは不幸の原因は祖先をしっかり供養しないからである、祖先への感謝が足りない、不足しているから、補正する必要があるとして「ウガン(拝み)」が行われ、依頼者は大金をつぎ込むことになるわけです。運勢判断料金は以前は一回で3千円くらい、拝みは4,5万円が相場でしたが、現在ではその二倍、三倍もすると思います。ユタは依頼者にとってはカウンセラーの一面もありますが、先祖の生活した場所を拝みまわるので経済的にも精神的にも負担は大きいものがあり、中には数千万円費やした人々がいることも聞かされます。中にはユタに騙されて子供ができたという女性もおりました。人間の死に伴う、ご供養の行事と位牌の存在は主婦の関わりによって盛大になり、ユタのお告げによって益々盛んになります。

 現在の沖縄にユタ的体質の人々は結構いるでしょうが、ユタを職業としている人は恐らく50人以内ではないか。それでも位牌と先祖供養の焼香とそれに伴う主婦の活動が継続される以上、ユタ問題もなくならない事でしょう。これは沖縄の内なる平和問題であろうと思います。

 

 次に県外で勉強することによって、私は故里・沖縄がかつて琉球王国であったこと、中国との貿易もして栄えていたが1609年の薩摩の侵略によりその属国として扱われ、1879年明治政府によって首里城明け渡しとなり琉球王国は滅んで沖縄県とされたことを知らされました。

 その後、皇民化教育を受け日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦への戦争協力をさせられ、ついに1945年の沖縄戦で20万人もの戦死者を出した島であることを知りました。1965.11帰省して一人で南部戦跡をめぐり、魂魄の塔近くから見た青いサンゴ礁の海が、深い悲しみをたたえた緑色に見えたことを忘れません。私の父の弟も戦死したことを後で知りました。父も、祖父も戦時の思い出を聞かせてくれたことがありました。日本兵と疑われて米兵に射殺されそうになった郵便局員の父を、見知らぬ女性が「この人は兵隊ではない、郵便局員・ポストマンですから助けてください」とかばわれて助かったこと。

 又、祖父は一本の松の木の陰に隠れたため難を逃れ、戦後もその松を大切に思われていたことなどです。

 沖縄戦は日米による唯一の地上戦であり、沖縄県民94千人、沖縄出身兵、軍属28千人、日本兵66千人、米軍12500人が犠牲となり、計約20万人の命が失われました。鉄の暴風が吹き荒れその惨状は筆舌に尽くせないものであり、ありったけの地獄を集めたものと言われました。ひめゆり学徒の引率者の仲宗根政善氏は著書のなかで「沖縄戦の惨状を世界の人々が知るまでは、草よ伸びるな、樹よ茂るなと私は叫んだ」とあります。学童疎開船・対馬丸の撃沈による1500人余の犠牲者、渡嘉敷島、座間味島、伊江島、読谷村チビチリガマなどにおける集団自決による犠牲者、日本軍による壕追い出しによる犠牲者など悲惨を極めていますが、沖縄戦は米軍の本土上陸を遅らせるための捨て石作戦であった、軍隊は住民を守らなかった、このような歴史的事実から、沖縄の心は戦争につながるものを拒否する思いが沖縄県の平和祈念資料館には刻印されております。

 私は信仰生活の中で内村鑑三の書物と出会いました。内村は1861~193070年の生涯をキリスト者として歩んだ明治、大正、昭和の代表的クリスチャンの一人です。Boys be ambitious で有名なクラーク博士の札幌農学校第二期生の時に入信し、アメリカ留学中の26歳の時に回心を体験しております。1903643歳の時に次のような発言をしています。

 「余は日露非開戦論者であるばかりでない。戦争絶対的廃止論者である。戦争は人を殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である。そうして大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得ようはずはない。・・戦争廃止論の声の揚がらない国は未開国である。しかり、野蛮国である。」また104年前の19177月 内村57歳の時にはこうも言っております。

  「まことに平和を愛する者は、戦争については何事に関わらず反対すべきである。たとえ一言なりとも戦争賛成の言葉を発すべからず、たとえ一票なりとも戦争賛成のためには投ずべからずである。・・神を愛する者はその本性として戦争を嫌うのである。戦争を許容してキリスト教はその根本より崩れてしまうのである。」と。しかし、富国強兵政策の日本は、内村の言葉を無視してロシアと戦争をし、第一次世界大戦に参戦し、第二次世界大戦に突き進み敗戦となりました。

 戦争につながるものを拒否する沖縄の心と、戦争絶対反対を叫ぶ内村鑑三の心は共通すると思います。

 又、沖縄の新聞が「戦争のためにはペンをとらない」や琉球大学やノーベル賞受賞者 - 益川博士の「防衛省から軍事のための研究費を拒否する」姿勢も沖縄の心であると思います。

 

 私は1972年に日本復帰するまで、沖縄は27年間、米軍支配下に置かれ、ドルを使用する生活やパスポートで渡航する体験もしたわけですが、なぜそのようにならざるを得なかったのかの意味は解りませんでした。歴史を学ぶ中で分かったことは、日本が戦争で負けたから、講和条約によってそのように決められたということでした。米軍による沢山の被害、事件事故もこのために起こったことが分かりました。

 しかし、1979.4筑波大学の進藤栄一助教授が雑誌「世界」で発表した「分割された領土」は私にとって大きな衝撃となりました。それは、昭和天皇が1947.9に天皇の御用掛・寺﨑英成を通して、マッカーサーの政治顧問・シーボルトに沖縄を売り渡すいわゆる天皇メッセージを寄せたということでした。

 「天皇は沖縄(そのほか必要とされる島嶼)に対する米軍の軍事占領は、主権を日本に置いたままでの長期・・25年ないし50年またはそれ以上の租借方式と言う擬制にもとづいて行われるべきであると考えている」とのメッセージです。 

 あの植物学者の平和天皇がまさかでしょう、と我を疑いました。国会質問で沖縄選出議員の瀬長亀次郎が「これは天皇の国政関与を禁じた憲法に違反する。」と政府の見解をただし、厳しく追及している記事が新聞に掲載されましたが、当時の官房長官は「事実関係の有無がつまびらかでないので、責任ある発言を慎みたい」「米外交文書を裏付けられるような資料は日本側に見つからない」との答弁をしてお茶を濁しました。この時点ではメッセージが天皇自身から出たものなのか、天皇の側近からのものなのか進藤助教授自身もはっきりしませんでした。

  これが戦後沖縄の苦難の原点と気づくまでに私は何十年もかかりました。1991.朝日新聞社発行の天皇の侍従長・入江相政(いりえすけまさ)日記全六巻を3か月かかって読み、その第五巻419pに天皇自身から出されたメッセージであることが分かりました。メッセージから実に44年後の事です。ただその書物が発行された時には、昭和天皇も、入江氏も亡くなっておりました。

 1979.4.19「お召と言うことで出たら昨夜、赤坂からお帰りの車中でうかがった「沖縄をアメリカに占領されることをお望みだった」という件の追加の仰せ。蒋介石が占領に加わらなかったので。ソ連も入らず、ドイツや朝鮮のような分裂国家にならずに済んだ。同時にアメリカが占領して守ってくれなければ、沖縄のみならず日本全土もどうなったかもしれぬとの仰せ。」

 

 もしソ連が日本を占領すれば、天皇制もなくなってしまう。天皇制を残すためには沖縄を米軍に任すことが日米の利益になるという考えです。

 そのことから4、5年の間にシーボルトからマッカーサーへ、マッカーサーから米国務長官マーシャルへ、そして講和条約の構想担当者ケナンへ伝達され、日米交渉の中で「日本の天皇のこんなメッセージがあるよ、いいじゃないか、確かに日米双方の利益になる」という判断が働いて1952.4.28の平和条約第三条の国家意思になったと思われます。

 進藤氏は天皇メッセージが「今も米軍の基地負担に苦しむ沖縄の苦難と分断の原点」と評しています。

 (平和条約第三条)をお読みします。 

 「日本国は、北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)そうふ岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。・・・」

 昭和天皇メッセージが平和条約第三条にすっぽりと重なるこの事実。

 

 日本がこの条約によって連合軍の占領から解放され独立が決定したこの日、1952.4.28天皇制の存続が決定したこの日、沖縄は苦難のどん底に落とされたと言えましょう。なぜか、米軍支配下の沖縄でどんなことが起こったか、1955伊江島と伊佐浜で銃剣とブルドーザーによる土地の強制接収が行われました。

 1959.6.30米軍ジェット機が宮森小学校に墜落し、小学生17人が死亡し、200人が怪我をしました。那覇市で青信号で横断歩道を渡っていた中学生の男子が米軍の自動車 に引かれて死亡。容疑者は無罪となりました。多くの女性たちが米兵にレイプされました。米軍による凶悪事件も頻発しました。那覇市長の瀬長亀次郎はアカの市長として不当に市長の座を追われました。沖縄の苦難の底流にあるものは何か、進藤氏同様、昭和天皇によるメッセージであり、明らかに憲法違反の発言でもあると言えます。

 

 2019.2県民投票が行われ、投票した人々の7243万人余が辺野古基地建設に反対しました。保育は幼子の命を愛し、成長を促進する貴重な仕事であることから、戦争につながる基地建設への反対は当然であることを、私は職員たちに伝えました。辺野古基地建設反対は戦争につながるものを拒否する沖縄の心であります。しかし、日本政府は沖縄の心を無視して、基地建設を強行しております。非暴力の市民を排除するための1700億円の警備費、軟弱地盤が見つかり、完成も見通せないまま、9800億円もの国民の税金を使っての強行。

 

 それだけではありません。辺野古はじめ米軍基地、自衛隊基地を撮影しにくいようにドローン規制法を造り、報道の自由も規制しています。

 米兵が犯罪を犯しても基地内に逃げ込めば逮捕もできない、裁判もできない、民家に流弾が突き刺さっても、ヘリコプターが落ちても、容疑者不詳のまま捜査終結をする。地位協定の改正には全く手を付けない国。又 負担の根拠のない2100億円もの思いやり予算を米軍に差し出して、日米同盟の強化に寄与するという国の現実。

 

 それだけではありません。去る86日は日本のコロナ感染者が100万人に達した日ですが、広島の原爆記念日でした。その原爆記念日に出席していながら、日本の総理大臣は核兵器禁止条約への参加を拒否しました。私はそのことを一国民として恥ずかしく思いました。戦争を拒否して、命の大切さ、平和の尊さを訴えることは人間としての崇高な活動であるのに、なぜ国はそれを否定するのか、アメリカの核の傘に依存し、地球の裏側まで戦争に出かけることのほうが大事なのか。憲法九条よりも日米安保条約という軍事同盟の方を国が重要視する限り、沖縄の心が日本の心になることはないでしょう。

 

 以前、日本政府関係者から「沖縄を甘やかすな」と言われたことがありました。しかし、沖縄をダシにして、自分は安全地帯にいて、沖縄に危険を押し付けている日本・大和の皆さんこそ沖縄に甘えているのではありませんか。

 来年は日本復帰から50年、サンフランシスコ平和条約から70年になっても沖縄に米軍基地の70%を押し付け爆音被害と人権侵害を続けることが、日本国の沖縄に対する構造的差別となっています。また、裁判所もこのような国の現実を追認し、沖縄の苦しみに塩を塗り付けるような、心の痛む判決を出し続けています。

 

 私は沖縄の内なる平和の問題と外なる平和の問題について触れましたが、この二つに共通することは、目に見えないサタンの働きがあるということです。即ち、本物、真理から人々の目をそらそうとする存在がサタンであるということです。 

 イェス・キリストの十字架による罪の贖い、復活の出来事から目をそらそうとする、関心を持たさないようにすることと、沖縄の問題を全国民の問題として知らせない事が共通していると思います。サタンはイェス・キリストにつながることを最も嫌います。罪許されて光の子となれば必ず平和の働きに参加しようとするキリスト者が増加しますので、イェス・キリストから目をそらさせたいのです。沖縄だけに基地を負担させて、よそ事と思わせる方が国として都合がいいのです。

 もう一言添えさせてください。沖縄県は2002年沖縄平和賞を創設しました。第一回目の受賞がペシャワール会でした。現地代表の中村哲医師はアフガニスタンの人々を愛し、砂漠に川が流れ、緑の大地にしようと働きました。人々を貧困から解放しようとした行動は、医療の枠をはみ出すようにも見えましたが、その働きは志半ばで理不尽な凶弾に倒されました 。しかし、その愛の働きは神様に良しとされていると信じます。神は、イェス・キリストを死から復活させたようにいつの日か必ず中村哲医師をも復活させ、犯人たちには必ず、神の裁きが下されることと思います。

 最後に、キリストにつながることの祝福は、知らず知らずのうちに多くの素晴らしい友人、兄弟姉妹との交流により、私を成長させてくださいました。

 

 主にある私の親友・前田さんは私にない沢山の美点のある50年以上の友人です。神様から頂いた友人です。

 阿波根昌鴻さんは、苦難の伊江島の人々に寄り添い非暴力で米軍と闘い続けてきました。私と30年間もお交わりいただきました。

 

 平良修牧師は1966.11高等弁務官就任式の時、「この高等弁務官が最後の高等弁務官となりますように」と祈られた信仰の勇者であります。40年以上の交流をいただいております。

 そして、40年以上も共に神様を賛美し、祈り、学びあう集会の皆さんです。

 二匹の魚と五つのパンが、どのようにして五千人の人々を満腹させたのか、そのメカニズムは逆立ちしても理解できません。キリスト教信仰50年、私もこの世の塩水も飲み、失敗も、悲しみも多くありましたが、天秤にかけると圧倒的に神様の恵みの方が多かったことを感じています。

 命の造り主にして命を愛する神様は「地の果てまでも戦いを止めさせ、弓を折り、槍を断ち、戦車を火で焼かれる」(詩篇46:9,10)戦争の大嫌いな神様であることを確信いたします。

 

 命を愛し、癒しと平安と希望を与えるキリスト者医科連盟の皆様のお働きが、ますます祝福され、よき実りをもたらしますようにお祈りして私の話を終了させていただきます。

 

 ご清聴ありがとうございました。

 

2021.8.20  キリスト者医科連盟総会にて