7月1日

 

主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。

(コリントの信徒への第二の手紙4章14節)

 

 

余は此の世より救に入らんと欲する、然し此の世に於て救はれんとは欲しない。即ち余の霊も肉もこの世に於て完全なる者とならんと望まない。体は罪に縁(よ)りて既に死し、肉体は既に罪の故を以て死に定められたる者である。医術が其進歩の極に達するとも、此「死の体」が永久に活くるに至りやう筈はない。壊(く)つべき肉体に宿ること其事が現世の頼るに足らざる最も明白なる証拠である。余は死より救はれんと欲する者である。即ち霊に於ては勿論、体に於ても死せざるの境に入らんと欲する者である。さうして斯かる境遇は勿論世に於て求められ得べき者でない。「キリスト死を廃(ほろぼ)し、福音を以て生命(いのち)と壊(く)ちざる事とを明らかにせり」。さうして此生命と壊ちざる事とは、彼が再び顕(あら)はれ給はん時に、我等に事実となりて顕はるべきものである。

 


7月2日

 

さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」

(マタイによる福音書19章16~17節)

 

何をか善と云ふとの問題に対して、キリストは「善とは神なり」と答へ給へり。孝も善なり、仁も善なり、然れども孝も仁も善の結果にして、善其物は神なり。神を知るは善人となる事也。善を学ぶは神に近づく事也。善を求めずして神を知る能はず、神を知らずして善なる能はず。宗教と道徳、行(おこない)と信仰とは同一物の両面にして、一を去って他を知る能はざるなり。聖書は善人を以て「神と共に歩む者」(創世記5章22節)となせり。神を離れて偶像に仕ふるは善を去って悪を行ふなり。即ち悪を行ふは真正(まこと)の偶像崇拝なり。基督教徒にまれ、仏教徒にまれ、義を重んじ、正(ただしき)を求むるものは、神の子供にしてイスラエルの世嗣ぎたるなり。

 


7月3日

 

呼びかけよ、と声は言う。

わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。

肉なる物は皆、草に等しい。

永らえても、すべては野の花のようなもの。

草は枯れ、花はしぼむ。

主の風が吹きつけたのだ。

この民は草に等しい。

草は枯れ、花はしぼむが

わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

(イザヤ書40章6~8節)

 

 

人をして衆人の誹毀(ひき)に対し自己の尊厳と独立とを維持せしむるに於て無比の力を有するものは聖書なり。聖書は孤独者の盾、弱者の城壁、誤解人物の休息所(やすみどころ)なり。之に依てのみ、余は法王にも、大監督にも、神学博士にも、牧師にも、宣教師にも抗する事を得るなり。余は聖書を捨てざるべし。他の人は彼等に抗せんために聖書を捨て聖書を攻撃せり。余は余の弱きを知れば、聖書なる鉄壁の後に隠れ、余を無神論者と呼ぶもの、世を狼と称するものと戦はんのみ。何ぞ此堅城を彼等にゆづり、野外、防御なきの地に立ちて、彼等の無情、浅薄、狭量、固執の矢に此身を曝すべけんや。

 


7月4日

 

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

(マタイによる福音書16章26節)

 

個人とは個々の霊魂(たましい)である。之を英語で individual と云ふ、分つべからざる者の意(こころ)である。恰(あたか)も理化学で分子のことを atom と云ふと同じである。分子即ちアトムは是れ以上分つべからざる者である。その如く個人も霊的実在物として是れ以上に分つべからざる者である。人類は之を人種に分つことが出来る。人種は之を国民に分つことが出来る。国民は之を階級に分つことが出来る。階級は之を家族に分つことが出来る。さうして家族は之を個人に分つことが出来る。階級は之を家族に分つことが出来る。さうして家族は之を個人に分つことが出来る。然し乍ら分離は之を個人以下に及ぼすことは出来ない。個人は分つべからざる者である。個人は人そのまゝである。神の子、永久の存在者、自由独立不滅の固有性を有し、全世界を代価を払ふても贖ふことの出来ない程、貴いものである。

 


7月5日

 

それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。(コリント後書12章10節)

 

我は恒に我力の足らざらんことを懼れ、神は恒に我力の足り過ぎんことを慮り給う。我は我れ強からざれば弱しと思ひ、神は我れ弱からざれば強からざるを知り給ふ。我は我力を増さんと欲し、神は我力を殺がんと欲し給ふ。我が意ふ所は常に神の見る所と異なる。我の焦慮する時に神は笑ひ給ふ。我は己を知らずして恒に自から苦悩むものなり。

 


7月6日

 

今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。

(コロサイの信徒への手紙1章24節)

 

 

キリストが其死を以て全世界を救ひ給へりと云ふは、決して形容的の言葉ではない、事実中の最大事実である。キリストは実にその死を以て世の罪を負ひ、之を除き給うたのである。而して我等彼の弟子たる者も、亦我等相応に我等の死を以て世の罪を負ひて之を除くことが出来るのである。これ実に感謝すべき事である。我等生きて何事をも為すを得ずと雖も、信仰を以て主に在りて死して幾分なりとも世を永久に益することが出来るのである。人類の救済と云ふも、是れキリスト一人の苦痛だけで成就(とげ)らるゝ事ではない。我等彼の弟子たる者が彼と共に死の苦痛を嘗(な)めて成就らるゝことである。

 


7月7日

 

同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐものとして尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。

(ペテロの第一の手紙3章7節)

 

婦人を遇するの道は、観劇の快を供するにあらず、錦繍玉帯(きんしゅうぎょくたい)を給するにあらず、婢(はしため)をして之に侍せしめて高貴の風を装はしむるにあらず。婦人を遇するの道は、男子自ら身を清うして彼女の貞節に酬ゆるにあり。費を節し家を斉(ととの)へて彼女の心労(つかれ)を省くにあり。夫に此心あらば妻は喜んで貧を忍ぶを得べし。彼と共に義のために迫害を堪ふるを得べし。婦人を遇するの道は、その高貴なる品性を励すにあり、その賤劣なる虚栄心に訴ふるにあらず。

 


7月9日

 

試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。

(ヤコブの手紙1章12節)

 

栄光は恥辱の後に來る。人に嘲られ、踏みつけられ、面前にて卑しめられ、悪人として偽善者として彼らの蔑視する所となりて、然る後に吾人に栄光は來るなり。然り、恥辱は栄光の先駆なり、開拓者なり。春の夏に先立つが如く、月欠けて後にその満つるが如く、恥に遭うて吾人に栄光の冠を戴くの希望あり。吾人は喜んで人の辱めを受くべきなり。

 


7月11日

 

つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。

(フィリピの信徒への手紙1章29節)

 

艱難は之を受くる時に決して悦ばしき者にあらず。然れどもその忍耐の実を結びてより、高き信仰を吾人に供するに至って、吾人は艱難を我兄弟なり我姉妹なりと呼ぶに至る。神の造りし者にして実は艱難にまさる者なけん。そは他の者は吾人に示すに神の力と智慧とを以てすれど、艱難は吾人を導きて直ちに神の心に至らしむればなり。

 


7月12日

 

神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。

(ヘブライ人の手紙1章1~3節)

 

人未だ曾て神を見しことなし。然れども神の状は曾て世に顕はれたり。彼(其状を帯びし者)は神の栄の光輝、その質の真像なりき。而して彼の直弟子の多くは彼を目にて見、懇切に観、手にて触れり。彼を見し者は実に神を見しなり。彼は歴史的人物なりき。故に彼は其外貌に於て肉なる人と何の異なる所なかりき。彼は憎まれて人に棄てられ、彼に見るべきの艶色なかりき。我等若し肉体に於ける彼を見しならんか、我等は必ず彼を神として認めざりしならん。彼は労働者なりき、貧しかりき、彼は極悪の罪人として十字架の刑に処せられたりき。而かも彼は神の子なりき、神として人の崇拝を受くべき者なりき。人は彼に由るにあらざれば何人も神を見ること能はざるなり。

 


7月14日

 

神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

(創世記1章3~5節)

 

暗黒を以て始り、光明を以て終り、絶望を以て始り、希望を以て終る。神の行為に凡て此順序あり。希望を約して失望に終らしむるが如き、栄光の冠を戴きて後に恥辱の死を遂ぐるが如き、平和と繁栄とを宣言して戦乱と貧困とを來すが如きは神の決して為し給はざる所なり。「歓びは朝來る」Joy cometh in the morning 戦闘(たたかい)の闇夜去て後に平和の昼は來るなり。若年を貧苦の中に過して老年を気楽の中に送る。夕べを以て始り朝を以て終る。これ善人の生涯にして又神の事業の順序なり。夕陽(せきよう)西山(せいざん)に没して、暗黒天地に臨む時に、吾人に新紀元は臨(きた)るなり。夜は長からん、其戦闘は激しからん、然れども歓喜(よろこび)は朝と共に來る。夕あり朝ありて、宇宙も吾人も歩一歩を進めしなり。

 


7月16日

 

ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。

(ガラテヤの信徒への手紙4章7節)             

 

如何なる理由に依るかは神学上の問題として置きまして、神の子キリストが我々の為に十字架上に贖罪の血を流されしと云ふ事を聞き、且つ之を信ずるに至りますと、罪なるものは始めて我々の上には力なきものとなり、我等は罪を悪(にく)み、義を愛し、今日までは何となく遠ざかって居た神を真に我々の父として認め得るやうになり、生涯が光沢を生じて楽しくなり、死が恐ろしく無くなり、我等の仇敵までが愛すべきものとなり、非常な変化が我々の心中に起るに至ります。

 


7月18日

 

そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。」

(マルコによる福音書15章29~31節)

 

キリストは実に人を救ふためには奇蹟を行ひ得ましたが、自己を救ふためには之を行ひ得ませんでした。人を援けるための異能を備へしイエスキリストは、自己を救ふためには全然無能でありました。弱者(よわきもの)を救はんがためには風をも叱咤して之を止め給ひし彼は、自己の敵の前に立ちては之に抗(てむかい)せんとて小指一本さへ挙げ給ひませんでした。キリストの奇蹟よりも更に数層倍ふしぎなるものは、キリストの無私の心であります。然しながら此のふしぎなる心があってこそ、初めてかのふしぎなる業が行はれたのであります。

 


7月19日

 

あなたは多くの災いと苦しみを

  わたしに思い知らせられましたが

再び命を得させてくださるでしょう。

地の深い淵から

  再び引き上げてくださるでしょう。

(詩篇71篇20節)

 

人生に悲惨事多し。然れども之を償ひて尚ほ余りあるの恩恵事あり。復活これなり。此事ありて、而して又此事を望んで、此涙の谷は歓喜の楽園と化すなり。我も亦多数の人と共に此世に在りて多くの重き苦難に会ひたり。然れども我は望み又信ず、我神のキリストに在りて我を復たび活かし給ふを。而して墓の底より我を挙げ給ひて我をして天の清き所に住ましめ給ふを。而して此大希望の我が衷に存するが故に、我は此世のすべての苦難に勝ち得て余りあり。「嗚呼死よ、汝の刺は安くに在るや。嗚呼陰府よ、汝の勝利は安くに在るや。それ我等が受くる暫らくの軽き苦しみは、極めて大いなる限りなき重き栄を我らに得しむるなり」(コリント後書四章十七節)

 


7月21日

 

しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。

(ガラテヤ書6章14~15節)

 

我等は真正(まこと)の基督教を信じて真正の基督信者とならなくてはなりません。教会信者や、哲学的信者や、或は聖書的信者たるを以て満足してはなりません。事実上、神の子供となり、実際的に神の実力を授かり、基督教を語る者ではなくして、之を自覚して之を用ゆる、或る異能(ふしぎなちから)が我が心に降り来り、人も己も為さんと欲して為す能はざる根本的大変化の我全身に施されしを感じ、その結果として世に懼るべき者とては一つもなくなり、悪魔も我声を聞いて戦慄(ふる)える様なさう云ふ人とならなければなりません。即ちヨブと共に神に対(むか)ひて、我れ汝の事を耳にて聞き居たりしが今は目を以て汝を見たてまつると断言し得るやうな基督信者とならなくてはなりません。

 


7月23日

 

この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が 献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかし、キリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜらな、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。

(ヘブライ人への手紙10章10~14節)

 

キリストの血(彼が死に際して流し給うた血)は既に我らの罪を贖うた(即ち我等を義とした)。然しながらそれが凡ての罪より我等を潔むるのは、これ我等各自に取りては終生の事業である。キリストの血は我らを潔むるものではあるが、一時に潔むるものではない。神の羔は世の始より殺され給ひしものであって(黙示録十三章八節)、其血は世の終まで人の罪を潔むるものである。贖罪は既成の事業であるが、その適用は未成の事業に属する。我らは日に日にキリストの血に由て我等の罪を潔められなければならない。

 


7月25日

 

あなたは地に臨んで水を与え

豊かさを加えられます。

神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えます。

あなたがそのように地を備え

畝を潤し、土をならし

豊かな雨を注いで柔らかにし

芽生えたものを祝福してくださるからです。

あなたは豊作の年を冠として地に授けられます。

あなたの過ぎ行かれる跡には油が滴っています。

(詩篇65編10~12節)

 

神は真(まこと)に忠実なる農夫なり。彼は植生の細事にまで携はり給ふ。彼は種子を護り、之を煖め、之を潤し、其萌芽を見て歓んで之を祝し給ふ。彼は空の鳥を護り給ひて、其一羽たりとも彼の許可なくして地に隕(お)つる事なし(マタイ伝十章二九節)。彼は又野の百合花(ゆり)を愛し、之を飾るにソロモンの栄華の極の時だにも見る能はざりし装を以てし給ふ(同七章二九節)。実(まこと)に悪魔は都会(まち)を作り、神は田舎を造り給へりと云ふ。神は涼しき樹木(きぎ)の陰に在し、萌え出づる畝の間を歩み給ふ。彼は農夫の心を以て種子の萌芽を祝し給ふ。祝すべきかな此神!彼は聖殿(みや)の聖所(きよきところ)に在して民を審判き給ふ神にあらず、畎畝(けんぽ)の間に降(くだ)りて畦丁(けいてい/農夫のこと)と並び耕し給ふ神なり。

 


7月26日

 

被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。

(ローマの信徒への手紙8章19~21節)

 

信者の復活と共に「万物の復興」がある(使徒行伝3章21節参考)。即ち人類と共に呪はれし地と其中にある万物とが原始の完全に帰るを云ふ。キリストの救済は人類を以て止まらない。凡ての受造物にまで及ぶのである。地をして今日の如くに流血のちまた、荒敗の土たらしめし者は人類の罪である。その罪が除かれ、信者を以て代表せらるゝ人類が原始の自由に還りし時に、地も亦人類と共に自由の栄光を頒つのであると云ふ。何物か之にまさるの栄光あらんやである。人は復活し、地は改造され、二者共に罪の結果たる詛ひを脱れて完全なる発達を遂ぐると云ふ、其事が預言者等が預言せる天国の建設である。

 


7月28日

 

たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても

穀物の献げ物をささげても

わたしは受け入れず

肥えた動物の献げ物も顧みない。

お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。

竪琴の音もわたしは聞かない。

正義を洪水のように

恵みの業を大河のように

尽きることなく流れさせよ。

(アモス書5章22~24節)

 

儀式は単純なるを可(よ)しとす。儀式は単純なるだけそれだけ荘厳なり。聖書はキリストの葬式に就て録(しる)す所なし。我等はまた、使徒達は如何にして葬られしかを知らず。神の人モーセ死して「エホバ、ベタベオルに対するモアブの地の谷に之を葬り給へり、今日まで其墓を知る人なし」(申命記三十四章六節)と云ふ。葬式然り。結婚式亦然り。証人(あかしびと)は神と天然と少数の友人にて足れり。俗衆の注目を惹いて荘厳を装ふの要は断じて有るなし。

 


7月30日

 

何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。

(フィリピの信徒への手紙2章14~16節)

 

偉大なる事業は著述にあらず、政治にあらず、実業にあらず、陸海軍の殺伐的事業にあらざるは勿論なり。偉大なる事業は純潔なる生涯なり、他人の利益を先にして自己(みずから)の利益を後にする生涯なり、己に足るを知りて外に求めざるの生涯なり。ソロモン曰く「己の心を治むる者は城を攻め取る者にまさる」と。

 


8月1日

 

ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。

(ガラテヤの信徒への手紙4章8~9節)

 

第二の宗教改革は第一の宗教改革に同じ。即ち行いに対する信仰の勃興なり。第一の場合に於ては行は伊太利国に由て代表されたり。第二の場合に於ては米国に由て代表さる。第一の場合に於ては改革の任は独逸に下れり、第二の場合に於てはその我日本に委ねられんことを希(ねが)ふ。我等は手にパウロの書簡を握るにあらずや。我等は之を以て、弱き賤しき事業の小学を打破すべきなり。

 


8月3日

 

あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、私たちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。

(エフェソの信徒への手紙1章13~14節)

 

悪を避けよ、然らば汝は神を信ずるを得んと云ふは異端なり。真正の基督教は曰ふ、神を信ぜよ、然らば汝は善を為すを得べしと。心を潔くせよ、然らば汝は神の聖霊の恩賜に與かるを得んと云ふは異端なり。聖書は明かに我等に教へて曰ふ、神の聖霊を受けて汝の心を潔められよと。行を先にして信を後にするは異端なり。基督教は信を先にして行を後にする者なり。而かも人その神の恩恵を信ずる薄きや、彼等は自分の行為の報賞として天の恩寵に與からんと欲す。天の地よりも高きが如く神の意は人の意よりも高し。神が我等の不信を怒り給ふは我等が我等の行為を以て神の恩恵を買はんと欲すればなり。

 


8月4日

 

けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。

(ヘブライ人への手紙9章11~12節)

 

神の子イエスキリストのみが完全なる祭物(そなえもの)である。彼のみが実(まこと)に「世の罪を任(お)ふ神の羔(こひつじ)」である(ヨハネ伝一章二十九節)。彼は又完全に己を聖父(ちち)に献げ給うた。而して人は信仰を以て彼の犠牲(いけにえ)を己が犠牲となして、神に対し完全なる犠牲を献ぐる事が出来るのである。イエスキリストは我等の完全なる燔祭(はんさい)、完全なる素祭(そさい)、完全なる酬恩祭(しゅうおんさい)、完全なる罪祭、完全なる愆祭(けんさい)である。カルバリ山上に彼が完全に自己を聖父に献げ給ひてより、茲(ここ)に牛や羊や鳩や小麦や橄欖油(かんらんゆ/オリーブオイル)や乳香を以てする祭事の必要は全く絶えたのである。今や彼を信ずる者に礼典の必要は全く無いのである。

 


8月6日

 

わたしたちは、あなたがたがどんな悪も行わないようにと、神に祈っています。それはわたしたちが、適格者とみなされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。(コリントの信徒への第二の手紙13章7~8節)

 

戦に勝って勝つのではない、真理に従て勝つのである。戦に負けて負けるのではない、真理に反い(そむ)いて負けるのである。真理を究むるのは、剣を磨くよりも大切である。真理は永久に勝つための武器であって、剣は僅かに一時の利を制するための機械に過ぎない。我等は最後の勝利を得んがために、剣を以てするよりも、寧ろペンを以て戦はんと欲す。

 


8月8日

 

青春の日々にこそ、お前の創造主を心に留めよ。

苦しみの日々が来ないうちに。

「年を重ねることに喜びはない」と

   言う年齢にならないうちに。

太陽が闇に変わらないうちに。

月や星の光がうせないうちに。

雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。

(コヘレトの言葉12章1~2節)

 

霊魂(たましい)とは神を食物とする生物であります。丁度蚕が桑葉に依てのみ生活するやうに、霊魂は神に依てのみ生育する事の出来る者であります。桑の葉でなければ蚕は直きに死ぬやうに、神でなければ霊魂も直きに餓死して仕舞ひます。ダビデの詩篇に書いてある通りであります。「鹿の渓水(たにがわ)を慕ひ喘ぐが如く我が霊魂も汝を慕ひ喘ぐなり」(詩篇四十二篇)。霊魂があっても神がなければ、禽獣あってその渇を癒す水のなきやうなもので御座いまして、若し果たしてさうならば、天然とは実に残酷無慈悲なものと云はなければなりません。然し茲に霊魂なる生命の最も進化発達したる者があります。また之を養ふ為の神と神の愛とがあります。

 


8月9日

 

わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。(マタイによる福音書5章17~18節)

 

贖罪の目的は我を完全なる人となすにあり。而して我がキリストの贖罪に与るに至りしは、我は自ら努めて完全なること能はざればなり。故に贖罪は道徳の終極なり。道徳の終る所是れ宗教の始まる所なり。宗教は道徳の上に立てり。道徳の粋是を宗教といふなり。初めにモーセの律ありて後にキリストの恩恵あり。未だ律法の厳格なる綱を以て己を縛りし事なき人は、キリストなる放免者の恩恵に与り得ざる人なり。

 


8月11日

 

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

(マルコによる福音書15章33~34節)

 

 罪悪問題の哲理的説明は未だ供せられません。或はこれ永久の未決問題として存(のこ)るのであるかも知れません。然しながら其実際的解釈は供せられました。是れ罪を知らざる神の独子の十字架上の受難であります。茲処(ここ)に人類の罪は打消されました。茲処に贖罪の犠牲は献げられました。聖なる者の「エリ、エリ、ラマサバクタニ」の声と共に、罪の赦免の途は人類のために開かれました。「是故に(今より後)イエスキリストに在る者は罪せらるゝ事なし」(ロマ書八章一節)、これが罪悪問題の実際的解釈であります。さうして此解釈を得て後は、我等は哲理的説明のなきを意に介せざるに至るのであります。恰も疾病(やまい)を癒されて後に、病人は薬剤の生理的作用の説明を問はざるに至るやうなものであります。

 


8月13日

 

わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。

(ヨハネの黙示録3章19~21節)

 

この世は不完全極まる世なりと云ふ、然り、身の快楽を得んがためには実に不完全極まる世なり。然れども神を識らんがためには、而して愛を完うせんがためには、余輩は之よりも完全なる世に就て思考する能はず。忍耐を練らんとして、寛容を増さんとして、而して愛を其極致に於て味はんとして、此世は最も完全なる世なり。余輩は遊戯所として此世を見ず、鍛錬所として之を解す。故に其不完全なるを見て驚かず、偏(ひと)へに之に由て余輩の霊性を完成せんと計る。

 


8月15日

 

あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。

渇いているなら水を飲ませよ。

こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。

そして主があなたに報いられる。

(箴言25章21~22節)

 

我等にも敵がある。沢山ある。然し敵なればとて我等は彼等を憎まない(キリストの教訓に順(したが)ひて)。我等は友人を憎む事がある。友人とあれば我等は彼等の行為に就て怒る事がある。我等は我等の友人を詰責するに躊躇しない。友人の駁論とあらば、吾等は熱心に反駁する。然れども敵人に対しては我等は之と全く反対の態度に出(いづ)る。敵人が我等に加ふる害に就ては我等は決して怒らない。其嘲笑、侮辱に対しては我等は唯好意感謝を表するのみである。我等は敵人の攻撃に対しては、我等の主イエスキリストの例に倣ひて努めて沈黙を守らうとする。敵人に殴らるゝ時には、我等は彼が我等に対(むか)ひて揚げし手の上に神の祝福(さいわい)の下らん事を祈る。敵人に対しては我等に寛裕と忍耐と宥恕(ゆうじょ)とあるのみである。我等は友人を憎むことあるも、敵人は絶対的に之を愛するのみである。

 


8月16日

 

信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。

(ヘブライ人への手紙11章17~19節)

 

信仰は書斎に籠り書籍の裡に埋まりて獲らるゝ者ではない。教師の説教を聞いて獲らるゝ者ではない。人生の実際問題に遭遇して、血と涙とを以て其解釈を求めて終に獲らるゝ者である。「復活の信仰」、アブラハムは其一子イサクを献げて此信仰を獲た。神学者に就てゞはない、哲学書を繙いではない。其一子を献ぐるの辛き実験に由て、人生最大の奥義なる復活の信仰に達したのである。貴いかな患難、貴いかな試練。貴いかな試練を経て我に臨む大なる光明。寔に使徒ヤコブの言へるが如し「兄弟よ、もし汝ら様々の試練に遇はゞ之を喜ぶべき事とすべし」と(ヤコブ書1章2節)。

 


8月18日

 

主はご自分の民を喜び

貧しい人を救いの輝きで装われる。

主の慈しみに生きる人は栄光に輝き、喜び勇み

伏していても喜びの声をあげる。

(詩篇149篇4~5節)

 

神は凡ての途を以て我等を恵まんと欲し給ふ。心の衷よりは福音を以てし、眼よりは美観を以て、耳よりは音楽を以て、鼻よりは香気を以て我等を恵まんと欲し給ふ。我等は恵の途は何れも之を塞ぐべからず。神をして衷よりも外よりも我等を恵ましめて、裕(ゆた)かに恩恵(めぐみ)に沐浴すべきなり。我が机上に聖書あり、野花あり、造化あり、絵画あり、香水あり(以上勿論何れも高価のものに非ず)。我はすべて之を喜ぶ。我はすべて是等に由りて我が神を知る。而して夜毎に燈火を滅して暗所(くらきところ)に隠れたるに在す彼を拝す。昼は神を見、夜は彼を感ず。我が宗教は理性一方又は感情一方の宗教にあらざるなり。

 


8月20日

 

あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。

(コリントの信徒への第二の手紙11章2~3節)

 

「キリスト我が衷に在り」。我が側(わき)にあるに非ず、我と偕に在るに非ず、亦単に我が衷に宿て我が心の客たるに非ず、キリスト我が衷に在りとは、我存在の中心に在り給ふとの意(こころ)ならざるべからず。即ち彼我が意志となり、我がペルソナとなり、我をして彼と我とを判別し能はざらしむるに至る事ならざるべからず。此時に於ける彼と我との和合は親密なる夫婦の和合にもいや愈(まさ)りて、彼我なるか我彼なるか之を判別する能はざるものなり。二心同体に宿る之を友誼と云ふと。然れどもキリストとキリスチャンとの一致は二心の抱合なるに止らで、二個のペルソナの相流合して一となりしものなり。此故に二者は永久に離るべきものに非ず。(ロマ書八章三節)

 


8月22日

 

ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてもたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。

(フィリピの信徒への手紙1章27~28節)

 

若し日本今日の基督信者にして一致せんか、天下何者が之に当るを得ん。然れども教派分裂の弊を極むる欧米諸国の宣教師に由て道を伝へられし我国今日の基督信徒の一致は、熊と獅子との一致を望むよりも難し。若し幸いにして神の霊強く我等の中に働き、彼れ我等をしてキリストを思ふが如くに我等の国を思はしめ、外(ほか)に頼るの愚と恥と罪とを覚らしめ給はゞ、一致は芙蓉の巓(いただき)に臨み、琵琶の湖面に降りて、東洋の天地に心霊的一生面(いちせいめん)の開かるゝを見ん。然れども其時の到るまでは我等は今日の分裂孤立を以て満足せざるべからず。是れ或は我等が人に頼ることなくして神にのみ頼ることを学ばんがための神の聖旨(みむね)なるやも知れず。

 


8月23日

 

では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

(ローマの信徒への手紙6章21節~23節)

 

永遠の来世が確実となるに至りまして、価値のない今世の真個の価値が附いて来るのであります。先づ第一に私共は世を厭はなくなるのであります。此世の苦痛は来世の希望を以て慰め得て余りあるのであります。今世は又来世に入るの準備の場所として無上の価値を有するに至ります。其物自身のためには何の価値もない此世は、来世に関連して必要欠くべからざる者となるのであります。日々の生活の業の如き、心思を労する程の価値なきやうに思はれますが、然し之に由て来世獲得の途が開かるゝを知って、小事が小事でなくなるのであります。実に来世に存在の根底を置かずして今世は全然無意味であります。来世を握るの特権を賦与せられまして、此無意味の今世が意味深長の者となるのであります。

 


8月25日

 

「この方は、罪を犯したことがなく、

 その口には偽りがなかった。」

 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。

(ペトロの第一の手紙2章22~24節)

 

畢竟するにキリストの死は死ではなかった。是は生を以て死に打勝つことであった。死は最も醜悪なる形を以て彼に臨みしに、彼は最も善美なる道を以て之を迎へた。キリストに由て死は聖化されて、すぐれて美はしき者となった。キリストは寔(まこと)に死を亡(ほろぼ)し給うた(テモテ後書一章十節)。キリストはその死状(しにざま)に由て、死なる者をして無からしめ給うた。死は苦痛であり、煩悶であり、悔恨であり、絶望であるのに、茲に苦痛を忘れ、煩悶を忘れ、悔恨を覚えず、絶望を知らない死の模範が供せられた。即ち愛の絶大の力が示された。愛は人生の最大の敵なる死にさへ勝ち得る力である。死をして死ならざらしむる者は愛である。彼は唯愛した、而して死に勝った。実に愛を除いて他に死に打ち勝つの力はない。

 


8月27日

 

アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わがイスラエルに預言せよ』と言われた。」

(アモス書7章14~15節)

 

世の大宗教家と称するものにして却て神学校出身の人に多くあらざるを見る。神の人テシベ人エリヤはギレアデの野人なり。而して此人その天職と精神とを他に授けんとするや、十二耦(くびき)の牛を馭しつゝありしシャパテの子エリシャを選べり。ダニエルは官人なり。アモスは農夫なり。而して神が其子を降して世を救はんとするや、彼をしてヒレル、ガマリエルの門に学ばしめず、却って彼を僻村ナザレに置き、レバノンの白頂キションの清流をして彼を教へしめたり。一乾物店の番頭たりしムーデー氏こそ、実に十九世紀今日の宗教的最大勢力ならずや。神学校は天性の伝道師を発育せしむるも、これを造る所にあらず。神学校の製造に係る伝道師こそ世の不用物にして、危険物なれ。伝道師養成は創造主(つくりぬし)にあらざれば為し能はざることなり。

 


8月29日

 

わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

(ヨハネの黙示録21章1~4節)

 

イエスはヤイロの娘を死より甦らし給ひて、之をその嘆ける父母に還し給うた(マコ伝五章)。その如く末(おわり)の日に於て、彼は凡て彼を信ずる父母の祈求(ねがい)に応じて其曾(かつ)て失ひし女(むすめ)を復活し給うて、之を再び彼等の手に還し、彼等の心を歓ばし給ふのである。すべての真(まこと)のクリスチャンは、喜ぶべき末の日に於て、ヤイロが実験せし如き禁(た)へ難き程なる歓喜を実験するのである。「イエス女の手を執りて之に曰ひけるはタリタクミ、之を譯(と)けば女よ起きよとの義なり」と。信者は凡て自ら何時か一度、此喜ばしき声を聴き、能力(ちから)ある此聖事(みしごと)を拝見するのである。

 


8月30日

 

それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを得る。」

(マタイによる福音書16章24節~25節)

 

この美麗なる造化は、我等が之を得んが為めに造られしにあらずして、之を捨てんがために造られしなり。否、人若し之を得んと欲せば先づ之を捨てざるべからず(マタイ伝16章25節)。誠に実に此世は試練の場所なり。我等意志の深底より世と世のすべてを捨て去りて後初めて我等の心霊も独立し、世も我等のものとなるなり。死にて活き、捨てゝ得る。基督教のパラドクス(逆説)とは此事を云ふなり。

 


9月1日

 

主は喜ばれるだろうか

幾千の雄羊、幾万の油の流れを。

わが咎を償うために長子を

自分の罪のために胎の実をささげるべきか。

人よ、何が善であり

主が何をお前に求めておられるかは

お前に告げられている。

正義を行い、慈しみを愛し

へりくだって神と共に歩むこと、これである。

(ミカ書6章7~8節)

 

尖塔天を指して高く、風琴(ふうきん/リードオルガン)楽を奏して幽(かす)かなる処のみ神の教会にあらざるなり。孝子家計の貧を補はんために寒夜に物を鬻(ひさ)ぐ処、是れ神の教会ならずや。貞婦良人(おっと)の病を苦慮し、東天未だ白まざる前に社壇に願を罩(こ)むる処、是れ神の教会ならずや。人あり世の誤解する所となり、攻撃四方に起る時、友人(とも)ありて独り立って彼を弁ずる処、是れ神の教会ならずや。嗚呼神の教会を以て白璧又は赤瓦(せきか)の内に存するものと思ひし余の愚かさよ。神の教会は宇宙の広きが如く広く、善人の多きが如く多し。

 


9月3日

 

わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。

(ヨハネの第一の手紙4章19~21節)

 

最も善き事はキリストを信じ、彼に在りて善を為すことなり。即ち彼に善を為さしめらるゝ事なり。其次に善き事はキリストに倣ひ、彼を真似て善を為すことなり。其次に善きことはキリストを知らざるも天然の声に聴きて善を為すことなり。更に恕すべきは無智無識の結果、善を為し得ずして恒に神の聖旨(みむね)に戻ることなり。然れども最も悪しくして全然恕すべからざることはキリストを識り、聖書を研究し、神学を講じ、キリストの神格を論じ乍ら、兄弟を憎み、其陥(かんせい)を計画し、彼らの堕落するを見て心に喜楽を感ずることなり。神が憎み給ふ者の中に信仰篤くして(篤しと称して)罪を犯す者の如きはあらず。

 


9月5日

 

主は、従う人に目を注ぎ

助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。

主は悪を行う者に御顔を向け

その名の記念を地上から絶たれる。

主は助けを求める人の叫びを聞き

苦難から常に彼らを助け出される。

主は打ち砕かれた心に近くいまし

悔いる霊を救ってくださる。

主に従う人には災いが重なるが

主はそのすべてから救い出し

骨の一本も損なわれることのないように

彼を守ってくださる。

(詩篇34篇16~21節)

 

恩恵(めぐみ)は直ちに来るものではない、困難を通して来るものである。困難は恩恵を身に呼ぶための中間物である。燃料なくしては火がないやうに、困難がなくして信仰も歓喜(よろこび)もない。火に先立つものは煙である。信仰に先立つものは疑懼(おそれ)である、煩悶である。是れありて、是れに天よりの火が(うつ)りて、初めて天よりの平安(やすき)と喜楽とが我等の心に臨(きた)るのである。困難を経ずして深き信仰を得んとするは、先づ煙を見ずして火と暖とを得んとするが如くである。

 


9月6日

 

あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

(ローマの信徒への手紙8章15~17節)

 

私が復活を信じまするは、私が神の大能を信ずるからであります。宇宙と其中にある凡ての物を造り、また人を造り、人の内に宿る霊魂を造った神は、容易に死者を甦へらする事が出来ると信ずるからで御座います。是は嘗て使徒パウロがアグリッパ王に向って述べました所の彼が復活を信ずる理由であります。パウロは申しました「神既に死にし者を甦らせ給へりと云ふとも爾何ぞ信じ難しとするか」(使徒行伝廿六章八節)。即ちパウロの意は、若し人が甦らせたりと云ふならば信じないが、大能の神が甦らしたと云ふならば、決して信じ難い事ではないと云ふので御座います。

 


9月8日

 

しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのではなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。

(ローマの信徒への手紙4章23~25節)

 

聖書に所謂「罪」とは反逆である。故に其所謂「義」とは何であるかゞ解る。罪とは反逆であるが故に義とは帰順である。凡ての罪は反逆より来り、凡ての徳は帰順より生ず。義とせらるゝとは単に義と宣告せらるゝことではない、子とせらるゝことである、復たび子として神に受納(うけい)れらるゝことである。人は神に背いて凡ての不義に陥りしが如くに、神に帰りて凡ての徳に復するのである。聖書の示す所に由れば、罪も徳も神に対せずして在る者ではない。神を離れて罪があり、神に帰りて徳がある。宗教は本にして道徳は末である。人類は罪を犯しゝが故に神を離れたのではない、神を離れしが故に罪を犯すのである。その如く、徳を立てゝ神に帰るのではない、神に帰りて徳を建つることが出来るのである。

 


9月10日

 

 天は神の栄光を物語り

大空は御手の業を示す。

昼は昼に語り伝え

夜は夜に知識を送る。

話すことも、語ることもなく

声は聞こえなくても

その響きは全地に

その言葉は世界の果てに向かう。

(詩篇19篇1~4節)

 

秋は豊熟の期にして謝恩の節なり。盛夏酷熱の鍛錬と苦悶とを終へて、万物ひとしく平静安息に就くの時なり。池水の滑かなる、煙雲の幽かなる、落葉の紅なる、果実の豊満なる、一として平和満足を示さゞるはなし。清流に臨みて満腔の感謝を天に捧ぐるの時、樹蔭(こかげ)に逍遙して劫遠(ごうえん)の希望を思ふの時は、実に寰宇(かんう/広い世界の意)秋天の静(しずけさ)を帯び、万物調和して混乱の跡を留めざる時にあり。我国の歌人が疎柳(そりゅう)蟋蟀(こおろぎ)にのみ意(こころ)を留むる多くして、碧空清気に思(おもい)を寄する者少なきは、日本詩歌の一大欠点と云はざるを得ず。

 


9月12日

 

なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

(ローマの信徒への手紙3章20~24節)

 

逆説の如く見えて真理中の真理なることは、人は自ら努めて善人たる能はざること是なり。罪に依って孕(はら)まれ罪の中に成長せし人が、自己の努力にのみ依って罪より脱せんとするは、泉が水源より高く昇らんとするが如く、水夫が風に頼らずして意志の動作にのみ依て船を行(や)らんとするが如く、望むべからざる事なり。我等の救はキリストに於て神に繋がるゝより来るものなり。而して如何なる理由の其中に存するにもせよ、福音的基督教の確信として動かすべからざることは、キリストの生涯と死とは救霊上必要にして、キリストに依らざれば人は神と一体なる事能はず、又彼が神に対して犯せし罪の許さるゝことなしとの事是なり。

 


9月13日

 

わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。

(コリントの信徒への手紙 二 4章5~7節)

 

伝道問題が困難を告ぐるに至るは、分与すべき霊の欠乏するに因る。恰も千萬の餓鬼を養ふに当って僅かに数石の米麦あるのみの場合に於ては、之に無味淡々たる水を加へ、一椀の粥も之を平等に分与するの難を感ずるが如し。世に快楽の業と称するものにして、有り余るの財を貧者に施与するに勝さるものあるなし。而して伝道もし霊の分与ならば、何者か此快楽に勝るものあらんや。伝道の困難を訴ふる者は、宜しく一度此に省みて可なり。

 


9月15日

 

君候に依り頼んではならない。

人間には救う力はない。

霊が人間を去れば

人間は自分の属する土に帰り

その日、彼の思いも滅びる。

いかに幸いなことか

ヤコブの神を助けと頼み

主なるその神を待ち望む人

(詩篇146篇3~5節)

 

神の人モーセの墓を隠して之を人に知らしめず、預言者エリヤを火車(ひのくるま)を以て天に迎へし神は、ペテロ、パウロをも無名の所に無名の死を遂げしめ給ひしならん。二者ともにキリストの忠実なる僕、彼らの最も忌み嫌ひし所のものは、人に崇拝せらるゝ事であった。神は凡てであって、人は皆無である。神の充実なるに比ぶれば、人は空の空なるものである。我ら神を追求(おいもと)むる者の眼には人が大きく見えてはならない。

 


9月17日

 

わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に〝霊〟を与えてくださいました。

(コリントの信徒への第二の手紙1章21~22節)

 

パウロの謂ゆる「霊の質(かた)」とは、信者の復活体の元始(はじめ)であって其核心(がいしん)とも称すべきものである。信者は之を受けて既に復活体の元質を受けたのである。「霊の質」の成長発達したる者、それが復活体である。復活体は死後に於て奇蹟的に上より被(き)せられる者ではない。その元質は信者が信仰状態に入りし其時に既に与へられし者であって、死後にその完成に達するものである。かくして信者の復活は半ば未来の希望に属し、半ば既成の事実である。信者は既に復活の原質を握る者にして、同時に又主と共にその栄光を以て顕はれんことを俟つ者である。信者はその肉体に於て既に復活隊の種子(たね)と其核心とを有つ者である。彼は今既に復活されつゝある者である。

 


9月19日

 

神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、ご自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

(ローマの信徒への手紙3章25~26節)

 

然り人は信仰に依りてのみ義とせらるゝなり。儀式に依るにあらず、血肉に依るにあらず、位によるにあらず、学識に依るにあらず、行に依るにあらず、只十字架の辱めを受けしナザレのイエスを信ずるに依るのみ。これ迷信の如くに聞えて真理中の真理なり。人の経験中の最も確実なるものなり。我れ此の福音を信ずるは聖書が斯く云ふが故にあらずして、我の全性が之に応答すればなり。我の経験が之を証明すればなり。歴史が之を確かむればなり。自然が之を教ふればなり。然り信仰!信仰に依らずして人の救はるべき道あるなし。

 


9月20日

 

「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

(マルコによる福音書2章10節~12節)

 

キリストはどう云ふ人でありますか、キリストとは人の罪を赦す為めに、此世に降られた人であります。また罪を赦すとは前にも述べました通り、罪の念を我等の心より取払ふことで御座います。これは到底人間の能力で出来る事ではありません。若し茲に誰か私が神に対して犯した罪を赦すと云ふ人がありますれば、私は其人の僭越を嘲ります。人の罪を赦し得るものは唯だ神のみであります。キリストが神なりとの最も確実なる証拠は、彼が人の罪を赦し得るとの事であります。故に此特権を有し居たまひしキリストが奇蹟を行ふ事の出来たのは勿論で、奇蹟を為し得ない様な救主は真正の救主ではありません。

 


9月22日

 

わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。

(ペトロの第二の手紙1章16~18節)

 

世間一般の人の云ふやうに奇蹟は全くないものとすれば如何ですか。是は宗教上の信仰を其根本(もと)より破棄する事であると思ひます。宗教が世に存在する理由は、即ち私共が之を要求するの理由は、其中に超自然的、超人間的の勢力があるからで御座います。若し自然以上に私共の頼るべき勢力が無いとすれば、私共は科学をさへ研究すれば別に宗教を学ぶの必要は御座いません。若し又人より外に頼るべき存在者がないとするならば、私共が如何程人の世の無情を唱へても無益の事であります。人の天性が自づと宗教を要求する所以は、彼に自づと超自然的の勢力、即ち奇蹟のある事を信ずるの本心があるからでは御座いませんか。

 


9月24日

 

新しい歌を主に向かってうたい

美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。

主の御言葉は正しく

御業はすべて真実。

主は愛の業と裁きを愛し

地は主の慈しみに満ちている。

(詩篇33篇3~5節)

 

洗礼を受けて後十数年種々の馬鹿らしき経験と失敗の後、天賦の体力と能力とを物にもあらぬものゝ為に消費せし後、余は余の罪の有のまゝにて父の慈悲のみを頼みとして父の家に帰り来り、理屈を述べず、義理を立てず、唯余の神が余の為めに世の初めより供へ給ひし神の小羊の贖ひに頼らざるを得ざるに至れり。嗚呼神よ、余は信ぜざるを得ざれば信ずるなり。イエスキリストの十字架の故に、赦すべからざる余の罪を赦せよ。余は今爾(なんじ)に献ぐるに一の善行あるなし。余は今余を義とする為めに一の善性の誇るべきなし。余の献物(ささげもの)は此疲れ果てたる身と霊魂(たましい)となり、此砕けたる心なり。

 


9月26日

 

わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。

(フィリピの信徒への手紙1章3~6節)

 

信者は神の僕であると同時に又神の愛子である。故に神は彼が成熟して天国の市民たるの資格を具ふるまでは、彼を此世より召し給はないのである。信者の此世に在るは、疵(きず)なき汚(しみ)なき者となりて、主の台前に立たんとする其準備をなさんがためである。而して此準備の成るまでは彼は此世を去らん事を欲せず、而して又神は彼をして世を去らしめ給はないのである。然れども準備すでに成り、彼の新郎(はなむこ)たる羔を迎ふるの修飾(かざり)整ひし暁には、彼は何時此世を去りても可(よ)いのである。問題は長寿短命のそれではない、完備不備のそれである。新郎を迎ふるの準備成りて、新婦(はなよめ)は一刻も早く彼の懐に赴き度くおもふのである。

 


9月27日

 

主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え

山々に草を芽生えさせられる。

獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば

食べ物をお与えになる。

主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく

人の足の速さを望まれるのでもない。

主が望まれるのは主を恐れる人

主の慈しみを待ち望む人。

(詩篇147篇8~11節)

  

死者の復活のみ大能の証明にあらず。五穀の豊熟も亦異能(ふしぎなるちから)の休徴(しるし)なり。バルナバとパウロ、ルカオニヤの人に告げて曰く「神は汝等を恵みて天より雨を降らせ、豊穣なる時を与へ、糧食と喜楽を以て汝等の心を満たしめ、以て己れ自ら証し給へり。」(使徒行伝14章17節)と。今や金波稲田(きんぱとうでん)に靡(なび)き、玉粒香穂(ぎょくりゅうこうほ)に低(た)る。何ぞ秋郊(しゅうこう)に福音に接して、罪を悔いて父に帰らざる。

 


9月29日

 

また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりをするだろう。

(マタイによる福音書13章47~50節)

 

咲く花は多し、実となるは少し。実となるは多し、熟するは少し。慰めよ我霊(わがたま)、汝の伝道も亦斯くの如し。聞く者は多し、信ずる者は少し。信ずる者は多し、救はるゝる者は少し。天然の法則は又神の聖旨(みむね)なり。汝は「伝道の失敗」を唱へて、汝の心を懊(なや)ますべからざるなり。

 


10月1日

 

目に光を与えるものは心をも喜ばせ

良い知らせは骨を潤す。

命を与える懲らしめに聞き従う耳は

知恵ある人の中に宿る。

諭しをなおざりにするものは魂を無視する者。

懲らしめに聞き従う人は心を得る。

主を畏れることは諭しと知恵。

名誉に先立つのは謙遜。

(箴言15章30~32節)

 

秋は来れり。我は聖書に帰らん。地の書にあらずして天の書なる聖書に帰らん。肉の書にあらずして霊の書なる聖書に帰らん。教会の書にあらずして人類の書なる聖書に帰らん。しかも自由の精神を以て之に帰らん。学者の態度を以て之に帰らん。而して神と自由と永生(かぎりなきいのち)とに就て更に少しく知る所あらん。