ガラテヤ書(松本智昌)

ガラテヤ書の学び13回目/讃美歌 239番、496番/聖書 ガラテヤ書6章17節/ 前回振り返り。
私たちは、いまや律法や観念に生きる者ではなく、キリストを信じキリストに結ばれて、どのような時にも、全ての人に対して「善」を行うことができる「神の僕」とされているのです。キリストによる救いと祝福とを、全ての人に、言葉と、生活と、態度をもって証しできる器とされているのです。それは何よりも聖徒の交わりの中で養われ強められてゆきます。私たちが、同じ「信仰の仲間たち」に対して「善を行う」(キリストによる救いの喜びを言いあらわし、祝福を受け渡してゆく僕となる)ならば、それはかならず、御言葉に堅く立つ者となり、キリストに贖われた喜びの生活をすることと成り、必ず社会全体へと広まってゆくのです。
「ガラテヤ書の学び」第12回/讃美歌 30番、502番/聖書 ガラテヤの信徒への手紙 6章7節/まず前回の内容を振り返っておきましょう。パウロは5章の 24節でキリストイエスのものとなった人と表現していることは、自分が中心の自分だけがという生き方に別れを告げて、キリストイエスを主として彼に従う者として新しい生き方を始めることです。 しかし私たちは常に霊の導きを離れて肉の業に陥る、罪に逆戻りする危険を絶えず持っています。だから私たちは、自分の力や誇りに生きるのではなく、霊の導きを祈り求めつつ生きようではないかとパウロは云っているのです。その時私たちは罪深い者でありながら霊の実を結ぶ者となります。
「ガラテヤ書の学び」第11回/讃美歌 23番 285番/聖書 ガラテヤ書5章24節/まず、前回の内容を振り返っておきたいと思います。前回は、本当の自由を得て信仰を持てば自然と湧き上がってくる愛があります。つまり律法という教えをひたすら守る宗教生活では、自ら湧勇き上がる愛の活動は、生まれないが、イエス·キリストの愛を知り、その愛を受け止めた時に、自己中心的な生活を送っている私たちにも起きてくるイエス・キリストへの愛。これこそキリスト教信仰の本質であり、その信仰によって救われたなら、救われた人はその生活の中で何もしないことはなく、自らが愛の実践活動を行おうとするようになります。 5章は、霊の結ぶ実、肉の業について述べています。パウロは5章の24 節でキリスト・イエスのものとなった人と表現していることは、大切なことです。自分が中心の、自分だけがという生き方に別れを告げて、キリスト・イエスを主として彼に従う者として新しい生を始めることです。と同時に私たちは常に霊の導きを離れて肉の業に陥る、 罪に逆戻りする危険を絶えず持っています。
「ガラテヤ書の学び」第10回/讃美歌 292番、501番/聖書 ガラテヤ書5章1節〜15節/前回は、奴隷の女ハガルとその子イシマエルを「律法主義者」に例え、自由の女サラとその子イサクを「キリストに贖われた全ての人々」に例えている部分をお話ししました。つまり、わたしたちは、女奴隷の子(罪と死の支配を受けている者)ではなく、自由の女の子(キリストに贖われた自由の民)なのであるという例え話です。十字架のイエスを信じるものは、正当な相続人となり、在天の神の子どもということになり、神を「父」と呼ぶことが出来るわけであります。さて、本日は、5章を取り上げます。5章のテーマは、キリスト者の自由についてです。5章の1節は4章からの続きです。キリストは、私たちに真の自由を与えるために、私たちを罪から解放して下さった。また、それゆえ、私たちは、堅くキリストの贖いのもとに立つ者とされています。 それと同時に、私たちは、主にある、真の自由に生きる者として、二度と奴隷のくびきに繋がれてはならないということも、同時に伝えています。
「ガラテヤ書の学び」第9回/讃美歌354番、380番/聖書 ガラテヤ書4章21節〜31節/最初に、前回の内容を振り返りたいと思います。前回は、律法と福音の問題をさらに詳しく説明するため、パウロは「相続人」という言葉でたとえています。この「相続人」とは一般的に財産を持っている人の「子ども」のことだからです。「相続人が子どもである間は、全財産の持ち主でありながら、父親の定めた時期までは、管理人や後見人の監督の下に置かれている。」つまりイエスが十字架にかかる前までは、律法の管理下にあり、よみがえったイエスを信じるものは正当な相続人となり、神の子どもとなれるということを、パウロは説明したのです。さて、本日の聖書の箇所に入っていきたいと思います。4章の21節からの二人の女の例えは、旧約聖書創世記16章の “アブラハム物語” を引用しつつ、大胆な聖書解釈をしています。すなわち奴隷の女ハガルとその子イシマエルを「律法主義者」にたとえ、自由の女サラとその子イサクを「キリストに贖われた全ての人々」にたとえていることです。これは、
「ガラテヤ書の学び」第8回/讃美歌 243番、492番/聖書ガラテヤ書4章7節/最初に前回の内容を振り返っておきましょう。前回は、律法とは何かについて取り上げました。それは、「私たちの罪を明らかにするために、モーセを通して(救いの約束に)加えられたものである」という意味です。法律(律法)の目的は、私たちを“罪の自覚”へと導くことにあるのです。「律法は約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものです。」すなわち「律法」の審きにみずから打たれて十字架上に死んで下さった贖い主イエスは、本来なら私たちが担うべき「律法」の審きを身代わりに担って下さったのです。そのことによって「律法」は「成就」され、神の義が貫徹されました。だから、その十字架のイエスを信ずる信仰によって、全ての人が「神の国の民」とされるのです。4章では、3章全体を通して語ってきた「律法と福音」の問題をさらに詳しく、譬えを用いて解き明かしています。このときパウロは「相続人」という言葉を敢えて用いています。この言葉こそ、特別な意味を持つからです。つまり、パウロは、
「ガラテヤ書の学び」第7回/聖書 ガラテヤ書3章15節〜29節/讃美歌 7番、355番/前回は、神がアブラムに約束した時から福音はあり、福音は、キリストを信ずる人全てが救いに導かれるという神との約束だとお話ししました。後に示された律法は、これを正しく行えれば、同じように救いに預かれますが、人間には、到底、律法を守り通すことは出来ません。そこで、完全に律法を全うすることが出来る神の子イエスが、律法の呪いをすべて担って十字架にかかって下さいました。それによって、私たち人間の救いの道が、開かれることになったのです。さて、本日の聖書の箇所は、ガラテヤ書3章16節から29節です。16節には、神がアブラムと結ばれた約束が取り上げられていますが、これは、創世記13章で、神がアブラムを祝福し、「カナンの地を、すべてアブラムとその子孫に与える」と約束したことを指しています。パウロは、アブラムの子孫とは、イエス・キリストのことだとガラテヤ人に伝えています。アブラムが神に祝福された時代は、紀元前2000年頃だと思われますが、これは、モーセを通して律法が示されるよりも、数百年も前のことです。
聖書 ガラテヤ書3章1–14節/讃美歌 332番、501番/前回は「人の義とされるのは信仰による。律法の行いによらない」というパウロがガラテヤ人に伝えた福音の根本についてお話ししました。私はキリストとともに十字架につけられて、既に死んでおり、私に代わってキリストが生きておられるということです。さて、まことの福音から外れてしまったガラテヤ教会の人々にあきれたパウロは、異なる福音を伝えて、ガラテヤ人たちをたぶらかした人々がいると感じていました。神がアブラムに約束した時から福音はあり、キリストを信ずる人全てが救いに導かれるとは、神の約束です。後に示された律法は、正しく行えれば救いに預かれますが、人間にはできません。律法を全うできる神の御子イエスが、律法の呪いをすべて担って十字架にかかったことにより、私たちの救いの道が開かれました。律法で駄目だったから福音で拾われたのではありません。キリストは「律法を成就するために」世に来られたのです。それは、律法では義とされえない私たちを救うためです。福音は、神が人を救おうとして備えられた途であり、律法(おきて)は、人が神に救われようとして備えた途なのです。
聖書ガラテヤ書2章11節~21節/讃美歌87B、499番/前回は、テトスの割礼問題を中心に「人が義とされるのは信仰による。律法の行いによらない」という福音の根本について話しました。さて、人が信仰によって義とされるのは、自己以外の者の義によると言えます。全ての人がキリストを信じる時、即ちキリストの価値を自分の価値として認められる時に、ユダヤ人でも異邦人でもなく、キリストが信者に代わって生命を営み、その者はキリスト信者になります。アンテオケにおいてパウロがペテロを譴責した問題は、人の価値は自己にあるか自己以外にあるかということで、自己以外の神の子イエスに在るとパウロは主張したのです。しかし、現実には未だ全くそうはなっていません。私は既に死んだ者であるが、未だ全く死んだのではなく、私は今なお肉体に在って生きています。私は未だ復活せず、罪に汚された肉体に在って生きています。即ち私は未だ全く死んでおらず、キリストは未だ全く私を占領しておられません。それでは、私は如何にすべきか?失望すべきか?そうではなく、私には今為すべき事があり、「われを愛してわが為に己を捨てし者、神の子を信ずる」事であります。
ガラテヤ書2章1〜10節より テトスの割礼問題  彼は異邦人であった。そして割礼を受けずに、ただキリストを信じただけでキリスト信者となったといっていた。これは許すべきことであるかと、エルサレム教会の多くの信者は思った。パウロはもちろん割礼を受ける必要はないと言ったが、使徒教会の多数は、必要であると言った。こうしてパウロ一行のエルサレム行きは、争いを起こす原因となった。そして平和を愛するパウロは、この些細な割礼の一事を譲るべきではないか。譲れば万事が平和である。全世界に単一の福音が伝えられるのである。パウロともあろう者は、この際、度量を示して、テトスに割礼を受けさせて、エルサレム教会の信用承認を得るべきではないか。他の人ならば、この際譲ったであろう。しかしパウロは譲らなかった。これは福音の大事である。「人の義とされるのは信仰による。律法の行いによらない」というのが、パウロの説いた福音の根本である。割礼というような、律法の行いは不要であると説いたのです。