ヘブライ人への手紙(萩野谷興)

「ヘブライ人への手紙」第13回/讃美歌290番、522番/聖書 ヘブライ人への手紙第12章12〜13節/  本日は、これまで学んできた「ヘブライ人への手紙」の最後の2章(12、13章)について報告いたします。その中で自分の心に残ったことを中心にお話ししようと思います。まず、12章を取り上げますが、それと10章、11章との関係を捉えておきましょう。新改訳聖書では、11章1節〜12章末に「信仰による歩み」という小見出しが付けられていますが、その直前の10章38節に「信仰によるわたしの義人は生きる」とあり、「信仰とは何か?」が問題として示されています。
「ヘブライ人への手紙」第12回 /讃美歌 494番、518番/聖書 ヘブライ人への手紙11章1〜7節/本日取り上げるヘブライ人への手紙11章は、「信仰とは何か」について書かれた、非常にポピュラーな箇所です。本日の箇所に入る前に、前回までの内容を振り返っておきましょう。神の御心を行って約束のもの、即ち永遠の贖いを受けるためには、忍耐が必要となります。何故忍耐が必要となるのでしょうか?ヘブライ人への手紙の読者たちは、試練を受けていました。はっきりとは分かりませんが、ユダヤ人からの迫害があったようです。また、伝統的な祭祀的な礼拝への復帰の動きがありましたし、キリストの再臨の兆しがないことによる、信仰の揺らぎもありました。こうしたことから、手紙の読者に対する励ましが必要となったのです。  本日取り上げる11章について、新改訳聖書は、「信仰の本質(1〜3節)」「信仰の先輩の模範(4〜40節)」と小見出しを付けています。また、塚本虎二は、11章全体を「信仰の英雄列伝」と捉えています。手紙の読者が遭遇している試練や迫害は、決して彼ら特有のものではなく、
「ヘブライ人への手紙」第11回/賛美歌270番、324番/聖書 ヘブライ人への手紙 10章19〜39節/本日の箇所に入る前に、前回までの学びの内容を確認しておきたいと思います。キリストは、神と人間との間をへだてている罪を、ご自分の罪として負い、完全に取り除いて下さいました。それによって、神が人間を聖なるものとみなし、聖なる神の子(聖徒)として 下さいました。 本日取り上げる10章19節以下では、旧約の聖徒たち、新約の信仰の先輩たちの例を引きつつ、キリストの贖いによって、新しい契約の聖徒とされた者の生活が、どうあるべきかを説いています。信仰生活の実践論と言って良いでしょう。 本日の聖書の箇所は、大きく3つに区分されますが、最初の部分は、19節から25節です。塚本虎二は、ここに「だから安心して聖所に入ろう」という小見出しを付けています。まず、聖所に入れるという確信が述べられ、続いて20節で、その理由が説明されています。そこに「垂れ幕」という言葉が使われていますが、共観福音書では、イエスが十字架の上で息絶えた時、至聖所の垂れ幕が真っ二つに裂けたという記事があります。
「ヘブライ人への手紙」第10回/讃美歌 515番、537番/聖書 ヘブライ人への手紙 9章1節から10章18節/前回は、8章を取り上げて、古い契約と新しい契約について学びました。本日学ぶ9章1節から10章18節は、キリストの贖罪の優越性をテーマとしています。ヘブライ人への手紙の中でも、最も重要な箇所と言って良いでしょう。 9章では、古い契約による贖いと新しい契約による贖いが対比されます。古い契約、即ち旧約における贖いは、神殿の幕屋においてなされました。幕屋の構造が述べられていますが、添付した図をご覧下さい。聖所の後ろに、垂れ幕によって隔てられて、至聖所があることが分かります。幕屋の備品についても述べられており、旧約聖書の記述とは、若干のずれがありますが、大きな問題ではありません。 問題なのは、この幕屋で行われる祭司、大祭司による礼拝が不完全であり、罪を完全に贖うことができないということです。祭司は、聖所で、日毎に犠牲をささげますが、大祭司は、年に「一度かぎり」、自分自身と民の贖いのために動物の血を携えて、至聖所に入ります。しかし、それらは不完全なもので、
ヘブライ人への手紙第9回/讃美歌 256番、136番/聖書 詩篇51篇1〜6節/本日は、ヘブライ人への手紙8章1節〜13節を取り上げます。最初の1節、2節は、これまで述べてきたことの要点がまとめられています。それは、私たちには、大祭司がおられ、その方は、天の神の右に座し、真の幕屋なる聖所で仕えておられるということです。英訳聖書ですと、「大祭司がおられる」という部分が、「We do have」と訳されており、日本語訳よりも強調されています。塚本虎二が「私たちにこんな大祭司があって」と訳しているのは、こうした強調のニュアンスを表現したものと言えるでしょう。 3節から5節にかけては、イエスが天上の幕屋で祭司の務めを行わなければならない理由が述べられています。大祭司は、罪の犠牲をささげることになっており、地上では、現に大祭司がその務めをしています。それに対して、イエスは、地上では、既にご自身を十字架上でささげてしまわれたので、もはや、地上で務めを行う必要はないのです。神がモーセとの間に結んだ契約と、ゴルゴダの丘で血を流されたイエスによって与えられた新しい契約は、
ヘブライ人への手紙第8回/讃美歌 502番、534番/聖書 ヘブライ人への手紙7章1節~28節/本日取り上げる7章は、5章10節からつながる箇所です。4章14節から5章10節で、手紙の記者は、神の子イエスが大祭司だと説明しました。そこで一旦中断されていたメルキゼデクについての説明が、7章で詳しく再開されています。メルキゼデクは、旧約聖書には2回しか登場しません。創世記14章18節~20節と詩篇110篇4節です。サレムの王メルキゼデクとは、平和の王、義の王という意味ですが、彼については、旧約聖書で重視された系図がありません。先祖、生涯、そして、子孫について、全く分からないのです。そのことにより、生涯の初めもなく終わりもないメルキゼデクは、神の子に似せられており、永遠に祭司職に留まっていることの象徴だとされます。 そうした意味で、メルキゼデクの祭司職は、キリストを予め表しており、キリストの型なのです。次に、手紙の記者は、問題を提起します。
聖書 ヘブル書6:9−12/讃美歌 229番、508番/5:11-6:20は、挿入的な箇所です。5:10の次には、7:1が続くのが自然で、メルキゼデクを取り上げています。挿入の理由は、読者の信仰の状態を憂慮してだと思われます。固い食物が食べられる大人の教師ではなく、乳を必要とする幼子のようでは、メルキゼデクのことを説明するのは難しいということでしょう。悔い改め、信仰、洗礼、按手、復活、永遠の裁きといった、旧約聖書にも述べられている事柄は、キリストによって新しい意味が与えられました。異邦人キリスト者は、元の状態との断絶がありましたが、ユダヤ人キリスト者は、ユダヤ教的な理解に後退しやすかったので、霊的な成長が奨励されました。一度キリスト者となりながら背教するのは、イエスを再度十字架に掛けるに等しく、取り返しがつきません。戒めの一方で、「愛する者たちよ」と呼ばわり、読み手の善行を認め、信仰と忍耐をもって神の約束を受け継ぐ人々を見習えと励ましています。神の約束と誓いは絶対的であり、それに望みを寄せる私たちの先駆けとなって、イエスは、メルキゼデクに等しい大祭司として至聖所に入られたのです。
聖書 ヘブライ人への手紙4章1~13節 賛美歌 67番 518番/前回は、3章の途中で終わってしまったので、補足します。3 章7節以降は、神の民の安息がテーマとなっており、同じ言葉が何度も繰り返されています。「今日」「(神の)安息」「(心を)頑なに」「反抗」「不従順」などです。イスラエルの民は、神の業を見たにもかかわらず、神の言葉に聞き従おうとせず、不従順となって神に反抗しました。ここで言う不従順や反抗は、反乱といった強い意味を持っています。その結果、モーセを含めて、エジプトを出たイスラエルの民は、安息の地カナンに入れず、ヨシュアら、次の世代しか入ることが許されませんでした。 4章1~13節には、神の民の安息を失わないように注意すべきだという趣旨が述べられていますが、これは、イエスを信じることによる天的な意味での安息を指します。イスラエルの民は、安息の地カナンに入りましたが、神の安息は、それだけでは満たされません。天的な意味での神の安息を受けるため、私たちの弱さを知っておられる神に感謝しつつ、不信仰に陥らないように注意することが、今、求められているのです。