家庭礼拝の手がかり(小山哲司)

「家庭礼拝の手がかり/四福音書によるイエスの復活」(小山祐子) /最初に、本日の聖書をお読みします。ルカによる福音書24章28〜35節です。  彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊るため、中に入られた。そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。すると、十一人とその仲間が集まって、「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。そこで二人も、道中に起こったことや、パンを裂かれたときにイエスだと分かった次第を話した。
イエスの受難研究(後半)半田梅雄 /四、荒野より十字架へ   イエスの十字架への道程は、突然イエスが決意をされたより、あるいは、突然、当時の支配階級の人たちが、イエスの律法破壊者(即ち神への反逆者)の印の押して処刑したのではなく、それらは、それぞれ一つの手段として用いられているが、むしろその前哨戦は、荒野におけるイエスのたたかいにおいて、原形が決定されているように思う。イエスの公生涯のスタートにおける悪魔との戦いという、ある意味では抽象的かも知れないが、その戦い の中に彼の生涯のすべての原形、十字架の原形、復活の原形というものが、決定的に含まれているのではないかと思う。(マタイ四の1〜10)
2021.3.21「家庭礼拝の手がかり/イエスの受難研究(前半)(半田梅雄)」  これは、1974年8月に、半田梅雄兄が、夏期聖書特別研究集会で行なった聖書講話の前半です。  最初に本日の聖書をお読みします。マタイによる福音書26章47〜56節です。/イエスがまだ話しておられると、12人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ、それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。そのときイエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ち掛かって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。
「過去のキリスト者から学ぶ」服部洋司良/ 本稿は昨十二月十七日水戸集会において、お話したものであリます。  イエス様が復活されましてから後、キリスト教が生れまして今日で約二千年の歴史がございますが、この間に本当に生命力あふれる平和の歴史を作り出したのは、やはり、キリスト教の純粋な福音を信じ、守りぬいた人々によるものが多いと思います。  そのような人々は多数あげることができますが、その中にメイフラワー号で新大陸に渡った清教徒人々があげられると思います。彼らが信仰ゆえに多くの困難をへてプリマス植民地に渡航し、そこに新らしい社会を建設する最初の開拓者となったことは、あまりにも有名でございますが、そのような大きな働きをするにあたり、彼らがどのような信仰をもって臨んだかにつきまして、石原兵永先生の書かれた「清教徒」の中の一部を読んでみたいと思います。 「ロビンソンおよびピルグリムたちの信仰にとっては、まず第一に、神は宇宙独裁の主であった。人間のための神ではなく、神のための人間と世界であった。
「家庭礼拝の手がかり/職業と人生⑵」  これは、東京で理髪業を営む鈴木武直兄が、1966年5月22日に、水戸無教会で行なった講演の第二部です。鈴木兄は、福島県相馬市出身で、幼い時に北海道に移住され、高等小学校を卒業すると同時に理髪業に進まれました。やがて浅見仙作翁によって信仰へと導かれ、浅見翁の紹介を得て、内村鑑三のもとで学ぶようになりました。鈴木兄は、理髪師として活動するうちに、信仰への熱心から、顧客への伝道を行うようになり、忙しい業務を担いつつ、伝道雑誌「荒野の歌」を発行するほか、保護司として、刑務所の死刑囚に対しても福音を説き、良き友となって接しました。/「職業と人生⑵」鈴木武直/ 生活の原理  一般に生活というと経済のことを思う、しかしそれはあくまでも、第二義的なもので、如何に人間らしく生きるかということにあるのでありまして、人間が人間らしく生きるということは、如何に道徳的に生きるかということでありまして、人生の眞の目的は、高い品性を備えるにあるということができます。内村先生が京都に居られた時のことですが、奥様の実家を訪問された、
「家庭礼拝の手がかり/職業と人生」 これは、東京で理髪業を営む鈴木武直兄が、1966年5月22日に、水戸無教会で行なった講演です。鈴木兄は、福島県相馬市出身で、幼い時に北海道に移住され、高等小学校を卒業すると同時に理髪業に進まれました。やがて浅見仙作翁によって信仰へと導かれ、浅見翁の紹介を得て、内村鑑三のもとで学ぶようになりました。鈴木兄は、理髪師として活動するうちに、信仰への熱心から、顧客への伝道を行うようになり、忙しい業務を担いつつ、伝道雑誌「荒野の歌」を発行するほか、保護司として、刑務所の死刑囚に対しても福音を説き、良き友となって接しました。「職業と人生」鈴木武直 / あなたがたのうちに良いわざを始められたかたがキリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している(ピリピ人の手紙1・6)。   <世界一の理髪師にならうと思う> 私が現在の職業に従うようになったのは、両親のすすめであり、自分でも㐂んで修業する気になったからでもありました。
「家庭礼拝の手がかり/ただキリストにありて」(劉熙世)/ はじめに聖書を読ませて頂きます。  ロマ一〇・十二〜十三 「ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。なぜなら、〝主の御名を呼び求める者は、すべて救われる〟とあるからである。」  ガラテヤ三・二十七〜二十八 「キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。」  コロサイ三・十〜十一 「造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。」  今日はからずも水戸へ参りまして、この集会へ出席させて頂き、霊の糧をたくさん恵まれたことを、心から感謝いたします。
神に向かって歩む者 (二) 岩島公/ ロマ書十四・十ー十二に基づいて、話の第二部、「キリストにある独立」ということについて、今日わたくしの心を占めていることを簡単に申し上げたいと存じます。も一度、十ー十二を読みます。 10それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか、あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。 11すなわち、「主が言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしに対してかがみ、すべての舌は、神にさんびをささげるであろう」と書いてある。12だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。ここは、十四章一節からつづいて「兄弟をさばくな」ということを言っているのですが、ここの重要な意味は二つあります。第一は、十、十一節によって、わたくしどもは、神の前にさばかれるもので、さばくことは不可能だということ。第二は、十二節で言っている通り、「だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。」ということであります。
神に向かって歩む者(一) 岩島 公 昭和四十八年十二月二十三日、水戸無教会クリスマス集会で語ったもの。 7すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。8わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。9なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。10それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。11すなわち 「主が言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしに対してかがみ、すべての舌は、神にさんびをささげるであろう」 と書いてある。12だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。(ロマ十四・七−十二) わたくしが今日語ろうとするすべての思いは、この中にこもっております。
「家庭礼拝の手がかり/水戸無教会の原点-松本文助兄の信仰-」/聖書 ルカによる福音書6章27〜28節/讃美歌 365番/ 本日は、水戸無教会聖書集会の出発点ともいうべき、松本文助兄の文章を3つご紹介します。「創刊にあたって」、「神の国は受くべきものなり」、そして、「病者もまた働くなり」です。  松本文助兄は、水戸無教会創設時の中心メンバーであり、水戸幼稚園を集会の会場として提供したほか、水戸無教会誌の発行人として、発行の責任を担われました。  最初に聖書をお読みします。ルカによる福音書6章27節から28節です。 しかし、私の言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。/ 水戸無教会誌創刊号(1955年発行)より 「創刊にあたって 」 松本文助  「汝らを詛う者を祝し、汝らを辱しむる者のために祈れ」(ルカ六:二八)との聖言は理想の如く感じていた。そして之は傳道の如き場合に迫害を受けたとき、このような態度を取るべきであると考えていた。

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