ここの理解の上に立って、七ー九については、「キリストにある歓喜」を、十ー十二については、「キリストにある独立」を、二つを貫く主題を「神に向って歩む者」として語らせていただきます。
第一の、「キリストにある歓喜」ということが、わたくしの意識の問題になった経過を申し上げます。
十二月九日第二日曜の午後、東村山の教友村岡豊兄のお宅で行われた「からし種の会」のクリスマス集会に招かれまして、その時、七十幾歳かのある婦人が、「結婚一年九か月で夫をなくした。その時、キリストに捕えられた。そして、『神のために生きるのだ』という自覚がおきた。そうしたら、もう嬉しくてたまらなくなった。」という趣旨の感話をされました。淡々と語られるそのことばに、その信仰の喜びは、数十年を経て現在につづく揺がぬものであることがわかりまして、畏敬の念を禁ずることができませんでした。
「神のために生きるのだという自覚から、嬉しくてたまらなくなった。」ということばは、わたくしに気づいていなかったものに気づかせてくれました。
それは、わたくしも、「生きているのは、もはや自分のためではない、神のため、キリストのため以外に何もない。そういうものになっている。」という事実に、改めて気づいたのであります。
そうすると、このわたくしに、何ができようとできなかろうと、聖書の学問的知識がどんなに足りなかろうと、わたくしの人格の中心である魂が、本当にキリストのために生きる者とせられているということは、何というありがたいことであろうかと驚き、再びかれることはないであろうと思われる喜びが、静かに湧き出したのであります。
さて、このような事実を、聖書はどのように記しているかを求めました。そして、気づいたところが、ロマ十四・七ー九でありました。
ロマ書十二章から十五章十三までは、信仰の実践についてのべてあり、十四章は、「互にさばくな」という問題を扱っているところですが、「キリストにある歓喜」を保証する根拠としては、前後のすじと一応切りはなして七ー九を考え、「キリストにある独立」を保証する根拠として十ー十二を扱う場合は、前後のすじと関連して考えることにいたします。
も一度読んで、簡単にわたくしの受取り方を申し上げます。
7すなわち、わたくしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。
8わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたくしたちは主のものなのである。
この七、八節は、キリストを信ずるわたしたちは、みんな、キリストのために生きまた死ぬものになっているという、事実の提示であります。
9なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。
九節は、七、八節の事実が、いかなる理由によって起きたかの理由を、「なぜなら・・・・からである」とのべているのであります。
「死者と生者との主となる」とは、死者と生者との支配者となるということで、「死者を支配する」とは、キリストを信じて死んだ者を復活させて下さること、「生者を支配する」とは、聖霊を与えて十字架による罪の赦しを信ずるものとし、キリストのために生きるものに作り変えて下さることであります。
「死んで生き返られた」とは、ご承知の通り、人類の罪の赦しを得させるために、十字架について死に、その使命を果して、神によって復活させられたことであります。
まことに、キリストを信ずる者が、キリストのため、神のために生きる者となるということは、その人の力によるのではなく、キリストの霊が信ずる者に宿って、そのような者として下さるのであります。
キリストを信ずる者を、神のために生きるものとして生れ変らせるキリストの十字架と復活は、なぜ行われたか。ごぞんじのようにヨハネの第一の手紙にこう書かれています。
9神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。 (ヨハネI四・九、十)
この中から、三つの重要な意味を取りあげます。
第一は、キリストは、神がおつかわしになった、神の御ひとり子である。
第二は、神が御ひとり子をこの世につかわされたので、わたしたちは亡びから救われて、永遠に生きるものとなった。
第三は、神は、わたしたちの罪を赦して亡びから救い、永遠に生きるものとするために、わたしたちの罪のあがないの供物として、御ひとり子キリストを、十字架に死なせられた。ということであります。
キリスト教が十字架教であるという時、イエス・キリストだけに十字架があるのではない。御ひとり子を人の子として世に降したもうそのことに、神に痛みがあり、ことに、その御ひとり子を十字架に死なせ給うたということは、ご自身が十字架におつきになったのと同じであります。だから、ョハネは「ここに愛がある」と言うのであります。
神のみ旨によって、神の子が人の子として世に降り、生涯の終りを決するゲッセマネの祈りにおいて、三度祈り、お答えなき神の沈黙の中にみ旨を悟り、人類の罪を負うてだまって十字架におつきになったということは、何という崇高・沈痛な事実でありましょう。
彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。 (イザヤ五三・五)
われらに永遠のいのちを賜い、神とキリストのために生きるものとして下さった十字架と復活は、神のみ旨と、み旨に全く従われたイエス・キリストによって成就されたのであります。
イザヤ書五二・十三ー五三・十二のエホバの僕の第四歌は、第二イザヤの弟子が、第二イザヤの生涯を目撃し、その苦難の意義を記したものであり、それがキリストの十字架の預言となったのだといわれておりますが、このように、「打たれた傷によって、われわれはいやされた。」と書いた筆者は、師の打ち傷の痛みを、自らの痛みとして感じとっている証拠であります。キリストが、十字架の上に、罪のさばきを受けたもうた痛みを感ずることなくして、われらはいやされることはありません。罪を離れて、真に主のものとなることはできません。
誰がまことにキリストの痛みを感じ、主のものとなるのでありましょうか。
ここで話の始めにかえって、「神のために生きるのだという自覚から、嬉しくてたまらなくなった。」といわれた婦人は、どのよりな体験の中でその自覚を得られたかを考えてみましょう。それは、結婚一年九か月で夫をなくし、その時キリストに捕えられ、そして「神のために生きるのだ」という自覚が起きたといわれるのです。
神のため、キリストのために、文字通りいのちをかけて生きている方、または生きられた方々は、最愛の夫を、妻を、あるいは子を取られた悲痛のどん底で、そういう痛みの中で、神の愛を知り、世に死して神のために生きる歓喜の人となられた例が多いのであります。そうでない人は、別のいろいろの苦難の中で、世につく宝をだんだん失って、この世に未練はいささかもなく、ただ神の国を望んで生きるようにせられた人々であります。
神の愛は、それほど厳しく、神以外の何ものをも愛することを許さないのであります。けれども、世につくものがなくなればなくなるほど、歓喜にあふれるものとなるということは、まことに不思議な事実であります。パウロも、「キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものをふん土のように思っている。」(ピリピ三・八)といっております。
沖縄の愛楽園へ訪問した二度目の夜、十数人と懇談しましたが、その時、ある姉妹はこう言いました。
「わたくしがここに入ったのは思春期の頃でした。ライと言われることは死ぬほどいやで、ライじゃない、ライじゃないと言って手を振って先生を困らせました。それから三十年………。わたしの生涯はライのためすべてを奪われました。けれども、イエスの愛を知ることによって、すべてをつぐない得て余りがあります。」
わたしは涙の流れるのをとめることができませんでした。
まことに、イエスの愛は、信ずるすべての人を豊かに慰め、歓喜の人といたします。そして、わがためには生きず、神のために生きるものに作り変えるのであります。
本日ここにお集りの方々も、それぞれの道において召されてキリストのものとなり、み名のために生きて、その人ならではの輝きを発していらっしゃることを信じます。またいくつかの事実を知っておりますが、一々申し上げません。
わたくしどもイエス・キリストを信ずる者は、恩恵により、その信仰によって、天国をさして休みなく進んでいるエスカレーターに、みんな乗っているのであります。自分の力ではない。イエスさまの見えない力に引かれて、刻々に天国に運ばれているのであります。何という歓喜、感謝でありましょう。以上で「キリストにある歓喜」という、話の第一部を終ります。
神に向かって歩む者 (二)
岩島 公
ロマ書十四・十ー十二に基づいて、話の第二部、「キリストにある独立」ということについて、今日わたくしの心を占めていることを簡単に申し上げたいと存じます。
も一度、十ー十二を読みます。
10それだのに、あなたは、なぜ兄弟をさばくのか、あなたは、なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。 11すなわち、「主が言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしに対してかがみ、すべての舌は、神にさんびをささげるであろう」と書いてある。12だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。
ここは、十四章一節からつづいて「兄弟をさばくな」ということを言っているのですが、ここの重要な意味は二つあります。
第一は、十、十一節によって、わたくしどもは、神の前にさばかれるもので、さばくことは不可能だということ。
第二は、十二節で言っている通り、「だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。」ということであります。
第一の意味は、八節の「わたしたちは主のものなのである。」と、四節の「他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。」で明瞭になります。わたくしどもは神に従う僕であり、さばきは、ご主人である神が、一人一人の心の底を、人間ではわからないところまで見通してなさることだから、人間の分際で、信仰の問題について他人をさばくことは不可能であり、倣慢であります。そもそも、信仰とはひとりびとりと神さまとの直接関係であって、他人がくちばしを入れる余地は全くないのであります。
第二の、「神に対して自分の言いひらきをすべきである。」というのは、五・六節で、「ある人は、この日がかの日よりも大事であると考え、ほかの人はどの日も同じだと考える。各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからでる。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。」を受けていると思います。すなわち、聖書は信仰について原理を示し、個々の具体的な問題は、信者の信仰による判断にまかせております。だから、そういう具体的な実践となると、人によって判断が異なって来ます。パウロは、それはそれでよい、だが、その判断には確信がなければならぬ。そのおのおのの確信するところを、さばきの座に立った時にのべて、自分の行為について言いひらきをすべきだというのです。
ヨハネ三・十八に「彼を信じる者は、さばかれない」とあるの
に、ここでは「さばきの庭に立つ」とあるのは矛盾のようですが、前者は救われるか滅ぼされるかの審判で、後者は信者の諸の行為の審判であるのであります。
さて、わたくしは、話の第二部は、「キリストにある独立」についてのべると申しました。どこからそのような意味をわたくしはとらえるか。
それは、「わたくしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。」ということに関してであります。
「言いひらきをする」必要はどこにあるのか。
そもそも、信仰の具体的実践は、すべて、自分がただひとりで、祈って神の前に決断して進まなければならないことばかりであります。いかに立派な先生のでも、真似ごとでは神に向かって信仰を生きるものではありません。そのような、何ものをも真似しない、真に自己の判断に基づく行為は、世の人々に承認されることは少ない。神さまも何とおっしゃるか、神さまの前に出て伺ってみなければわからないのであります。だから、自分の信仰にかけて決断し、実行したことを、「わたくしはこう信じて、とう行って来ました。」と言いひらきをしなければならないのです。けれども、言い開きをする場が与えられているということは、神さまだけに向かって生きて来たものにとって、何というありがたいことでしょう。しかし、それは、パウロの言うように確信ある決断でなければなりません。確信なくして、神さまに向かって、正面切って申し上げることはできよう筈がありません。
それでは、いかにして確信ある決断ができるか。第一は、キリストの十字架によって、罪はすっかり赦されていることを信じていること、第二は、神さまのため、キリストのためだけと思って、人を愛するために決断すること、であります。このような信仰にあって、このような態度で問題を決断して生きる者は、み前に出て恐れることなく申し開きができます。なぜなら、そのような第一の信仰も、第二の態度も、恩恵により、キリストから賜わったものであるからであります。かくして、神以外は何ものをも恐れぬ「キリストにある独立者」となるのであります。キリストによらずして、独立はありません。キリストを信ずる者に、この独立を賜うのであります。キリストにあって、神に向かって歩む者に、歓喜があり、独立があるのであります。
一九七三年のクリスマスにあたり、このキリストにある歓喜と、キリストにある独立を賜わった神とキリストに、心からの感謝を捧げるものであります。