<内村鑑三著「一日一生」より>

「ホーム」の「家庭礼拝の手がかり」には、週ごとに、内村鑑三の「一日一生」を掲載しています。これまで掲載した「一日一生」を、ここにまとめました。ですから、飛び飛びになっておりますが、どうかご容赦ください。なお、原著では、各日の文頭に文語訳聖書が引用されていますが、新共同訳聖書に差し替えてあります。

(底本 内村鑑三著「一日一生」/警醒社書店版[1926年発行]

 

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1月1日

 

初めに、神は天地を創造された。

(創世記1章1節)

 

「元始(はじめ)に神天地を創造(つく)りたまへり」、此一節に基督信者の宇宙観と人生観との全部あり。宇宙大なりと雖も、是れもと神に由て造られしもの、故に神が之を変更し、又は改造し、又或る場合に於ては其運行を中止し、又は之を早め得るは勿論なり。既に神の創りし宇宙なり。されば是れ我父の園にして我れ其中に住して恐怖あるなし。我れ我国を去て他国に行かんか、神必ず其処にあり。我れ此地球を去て木星又は水星に至らんか、彼れ必ず其処にあり。彼はオライオン星にあり、プライアデス星にあり。而して遠く此宇宙を離れ他の宇宙に至るも、我父はまた其処にあり。神と和し神の子となりて、宇宙は美はしき楽園となるなり。我れ其処に彼の偉業をたゝへ、口に彼の栄光を唱へながら、死の睡眠(ねむり)につけば、彼は再び彼の聖手(みて)に我を受け、我をして新しき天地と新しきエルサレムとに於て永久に彼の聖名(みな)を称ふるを得しめ給ふ。

 


1月2日

 

神は言われた。

「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」

神はご自分にかたどって人を創造された。

神にかたどって創造された。

男と女に創造された。

(創世記1章26~27節)

 

「神はその像(かたち)に従って人を造り給へり」と。又「真正の神殿(みや)は人なり」と。又「汝等は神の殿(みや)にして神の霊汝等の中に在(いま)す」と。然らば人の体躯(からだ)は宇宙に象(かたどり)て造られしものか。而して宇宙もし神の体にして、人もし宇宙に象て造られしならば、人は彼の外形に於ても亦神の像を現はすものにあらずや。神よ願くは我がこの気儘なる想(イマジネーション)を許し給へ。我は汝を人類視(anthropomorphize)せんとするに非ず。我は人を汝が彼に與へ給ひし適当の高位にまで引き上げんとするなり。人は彼自身の肉体を見るに常に卑賎の念を以てし、之を獣類のそれに比し、単に肉塊なりと称し、その如何に貴重にして如何に神聖なるものなるかを知らざるなり。彼は彼の体を汚す時に、神の像を汚すものなる事を知らざるなり。聖なるかな、聖なるかな万軍の主エホバよ。我等の体は実に汝の像に象られて造られし聖き神殿なるにあらずや。

 


1月3日

 

狼は小羊と共に宿り

豹は子山羊と共に伏す。

子牛は若獅子と共に育ち

小さい子供がそれらを導く。

 

わたしの聖なる山においては

何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。

水が海を覆っているように

大地は主を知る知識で満たされる。

(イザヤ書11章6節、9節)

 

恩恵の露、富士山頂に降り、滴りてその麓を潤し、 溢れて東西の二流となり、その西なる者は海を渡り、長白山(ちょうはくさん/中国吉林省東南部の延辺朝鮮族自治州と北朝鮮との国境にまたがる休火山)を洗ひ、崑崙山(こんろんざん/中国古代の伝説上の山岳で、西方にあるとされた)を浸し、天山、ヒマラヤの麓に灌漑(みずそそ)ぎ、ユダの荒野に到り盡きぬ。その東なる者は大洋を横断し、ロッキーの麓に黄金崇拝の火を滅し、ミシシピ、ハドソンの岸に神の聖殿を潔め、大西洋の水に合して消えぬ。アルプスの嶺は之を見て曙の星と共に声を放ちて謡ひ、サハラの砂漠は喜びて蕃紅(サフラン)の花の如くに咲き、斯くて水の大洋を覆ふが如くエホバを知るの知識全地に充ち、此世の王国は化してキリストの王国となれり。我は睡眠より覚め、独り大声に呼はりて曰く「アーメン、然あれ、聖旨(みこころ)の天に成る如く地にも成らせ給へ」と。

 


1月4日

 

エッサイの株からひとつの芽が萌えいで

その根からひとつの若枝が育ち

その上に主の霊がとどまる。

知恵と識別の霊

思慮と勇気の霊

主を知り、畏れ敬う霊。

(イザヤ書11章1~2節)

 

百万の貔貅辺塞(ひきゅうへんさい)を戍(まも)り、シーザーの宮殿に絃声高くして、驍勇恩賞を誇りし時、神は其子をベツレヘムの丘上、牛羊、槽中に其食を探る所に降し給ひて、人類救済の道を開き給へり。革新の世に臨むや常に此の如し。世は挙(こぞ)って之を帝王と軍隊とに待ち望む時に、神は貧兒を茅屋の下に降して、世に新紀元を開き給ふ。今や復たび革新の声高し。我等をして東方の博士に倣ひ、我等の救主を求めんが為にロマに行かずしてベツレヘムに詣らしめよ。

 


1月5日

 

主はこう言われる、

呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、

その心が主を離れ去っている人は。

彼は荒れ地の裸の木。

恵みの雨を見ることなく

人の住めない不毛の地

炎暑の荒れ野を住まいとする。

祝福されよ、主に信頼する人は。

主がその人のよりどころとなられる。

彼は水のほとりに植えられた木。

水路のほとりに根を張り

暑さが襲うのを見ることなく

その葉は青々としている。

干ばつの年にも憂いがなく

実を結ぶことをやめない。

(エレミヤ書17章5~8節)

 

善とは神なりとせば、悪とは勿論神を離るゝを云ふなり。盗む、殺す、姦淫するは、神を離れし結果にして罪そのものにはあらざるなり。我人を殺す時に国法の我を罰するは、我の犯せし殺人罪其物の為に非ずして、我れ我が神を捨てしが故なり。神我と共にあり、我神と共にある時、我罪を犯さんとするも犯し能わざるのみならず、罪てふ念は我に存するなし。我の不完全なる、我の他人を賤(いや)しむる、我の欲情の為に使役せらるゝ、我の傲慢なる、我の人を愛せざるは、皆悉(ことごと)く我れが神を離れしが故なり。故に我にして若し神に帰るを得ば、我は善人となり得るなり。罪より免るゝ途只此一途あるのみ。

 


1月6日

 

御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

(コロサイの信徒への手紙1章13~14節)

  

キリスト教化されんと欲してキリストに来りし者は、必ず彼を棄るに至るべし。新しき思想を得んと欲し、又広き交際に入らんと欲して彼に来りし者も、亦彼を棄るに至るべし。其罪を贖はれ其霊魂を救はれんと欲して彼に来りし者のみ、能く永久に彼と偕に止まるを得べし。或ひは審美的に、或ひは哲学的に、或ひは交際的にキリストを求むるものは終に彼と離れざるを得ず。世の所謂求道者なる者は深く此点に注意するを要す。

 


1月7日

 

あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。

(テサロニケの信徒への第一の手紙1章3~4節)

 

信とは神の誠信を信ずるの信なり。望みとは復活と永生と来らんとする神の王国とを望むの望なり。愛とは十字架に釘けられ、死して甦りしキリストに於て顕はれたる神の愛なり。世に勝つ者は此の三つのものなり。

 


1月8日

 

神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

(ヨハネの第一の手紙4章9~10節)

     

神は愛なり、故に神が我らに賜う最大の賜物は愛である。神は必しも我等に権能(ちから)を賜はない、彼はイエスに之を賜はなかった。神はその愛子が敵に嘲られ、罵らるゝ時に方ても、彼に天より万軍を召びて之を滅ぼすの権能を賜はなかった。イエスは窘(くるし)めらるれども、自ら謙りて口を開かず、屠場に牽かるゝ羔の如く、毛を剪る者の前に黙す羊の如くにして其口を開き給はなかった。然し神はその時に著しく愛を彼に與へ給うた。彼をして十字架の上より「父よ彼等を赦し給へ、その為す所を知らざるが故なり」と叫ばしめ給うた。十字架に釘けられしイエスには、己を救ふに足るの能力(ちから)さへなかった。然し彼は神の子であった。愛のほか、何物をも有ち給はざりし弱き、援(たすけ)なき者であった。

 


1月9日

 

わたしは絶えず主に相対しています。

主は右にいまし

わたしは揺らぐことがありません。

わたしの心は喜び、魂は踊ります。

からだは安心して憩います。

(詩篇16篇8~9節)

 

此懦弱(よわ)き肉体、是れ何をか為し得ん。此罪悪の社会、是れ亦何をか為し得ん。此身に省み、此社会に依り頼みて吾等は失望せざるを得ず。我が扶助(たすけ)は天地を創り給へるエホバより來る。彼に量り知られざるの能力(ちから)ありて存す。而して我は亦我が心の門戸を開きて我を充たすに彼の大能を以てするを得べし。彼れ亦火と霊とを以て、天の変と地の異とを以て我が業(わざ)を助く。我に此の内外の援助(たすけ)ありて我は独り全世界に当ると雖も疑懼(ぎく)の念を抱かざるべし。

 


1月10日

 

人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。

(コリントの信徒への第一の手紙2章11~12節)

 

 余輩はモーセ、イザヤ、エレミヤ、イエス、パウロ等に由て唱へられし古き旧き唯一神教に帰らざるを得ないものである。之に元始に天地と其中にある万物を造り給ひし神がある。之に又インマヌエルと称へられて人類と共に在し給ふ神がある。而して二者は二つの神ではない、同一の神である。宇宙を造り、其上に在り、其中に降りて之を保育し給ふ神である。此神は自然神教の供するが如き高きの中に閉籠められて、天然以外に何事をも為し得ざる神ではない。彼は宇宙を造って宇宙よりも大いなる神である。宇宙を以て徐々として自己を顕はし給ふ神である。彼の意志が人の道である。人は宇宙に由て大に神に就て知る所があるが、彼の意志は之を直に彼に就てのみ識ることが出来る。

 


1月11日

 

神よ、わたしの救いの神よ

流血の災いからわたしを救い出してください。

恵みの御業をこの舌は喜び歌います。

主よ、わたしの唇を開いてください

この口はあなたの賛美を歌います。

(詩篇51篇16~17節)

 

事業とは我等が神にさゝぐる感謝の献げ物なり。然れども神は事業に勝さる献物を我等より要求し給ふなり。是れ即ち砕けたる心、小児の如き心、有の儘の心なり。汝今事業を神にさゝぐる能はず、故に汝の心をさゝげよ。神の汝を病ましむる多分此の為めならん。汝はベタニヤのマルタの心を以てキリストに事へんと欲し、「供給(もてなし)のこと多くして心いりみだれ」(ルカ伝十章十節)たるなるべし。故に神は汝にマリヤの心を與へんが為めに汝をして働き得ざらしめたりたり。

 手にものもたで 十字架にすがる

とは汝の常に歌ひし処にして、其深遠なる意義を知らんがために、汝は今働くこと能はざるなり。

 


1月12日

 

彼らがわたしに対して陣を敷いても

  わたしの心は恐れない。

わたしに向かって戦いを挑んで来ても

  わたしには確信がある。

ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。

命のある限り、主の家に宿り

主を仰ぎ望んで喜びを得

その宮で朝を迎えることを。

(詩篇27篇3~4節)

 

産を失ふも可なり、願くは神の聖顔(みかお)を失はざらんことを。病に悩むも可なり、願くは神の聖旨(みこころ)を疑はざらんことを。人に捨てらるゝも可なり、願くは神に棄られざらんことを。死するも可なり、願わくは神より離れざらんことを。神は我がすべてなり。神を失うては我は我がすべてを失ふなり。我等に父を示したまへ、然らば足れり。我が全生涯の目的は神を視、彼を我が有(もの)となすにあり、その他にあらず。

 


1月13日

 

「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体のうちにある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。

(ローマの信徒への手紙7章22~23節)

 

人は罪を犯すべからざるものにして、罪を犯すものなり。彼は清浄たるべき義務と力とを有しながら、清浄ならざるなり。彼は天使となり得るの資格を備へながら、屡々禽獣にまで下落するものなり。登っては天上の人となり得べく、降っては地獄の餓鬼たるべし。無限の栄光、無限の堕落、共に彼の達し得る境遇にして、彼は彼の棲息する地球と同じく、絶頂(Zenith)絶下(Nadir)両極点の中間に存するものなり。降るは易くして登るは難く、降れば良心の責むるあり、登るに肉欲の妨ぐるあり。我が願ふ所のもの我これを行さず、我が悪む所のもの我これを行ふ。我は二個の我より成立するものにして、一個の我は他の我と常に戦ひつゝあり。誠に実に此一生は戦争の一生なり。

 


1月14日

 

これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。

(コリントの信徒への第二の手紙5章18~20節)

 

罪とは神を離るゝことであり、義とは神に帰ることである事が解って、救ひとは何であるかゞ解る。救いとは単に罪を去って義しき人となることではない。斯る事は又実際に人の為し得る事ではない。救ひとは神の側より見て人を己に取り返す事である。人の側より見て背きし神に帰る事である。而して神と人との中保者なるキリストの立場より見て二者の調和を計ることである。而して神と人との場合に於ては、譲るべきは神に於て在らずして人に於てのみ存するが故に、救ひとは人をして神に和がしむることである。人を神に対する其原始(はじめ)の関係に引直すことである。

 


1月15日

 

上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

(コロサイの信徒への手紙3章2~4節)

 

信者は天の事を念ひて地の事を念ふてはならない。其故如何となれば、彼は地に対しては既に死にたる者であって、その生命はキリストと共に神に蔵(かく)れてあるからである。然し永久に蔵れてあるのではない。キリストが其栄光の復活体を以て顕はるゝ時に、我等も彼と共に栄光の中に顕はるゝのである。其事を念うて彼は地に在る肢体の欲、即ち汚穢、邪情、貪婪等に其思念を濁してはならない。天と未来とを有する信者は、地と現世とに囚はれて低き卑き生涯を送ってはならないとの意である。予言を以て高き思想と清き生涯とを奨めたる貴き言である。

 


1月16日

 

御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。

(ヨハネの第一の手紙3章1~2節)

 

信者は今なほ救の途中に於て在るのである。神は彼に在りて善工(よきわざ)を始め給うて、之をイエスキリストの日に於て完全(まっと)うし給ふのである。(腓立比(ピリピ)書一章六節)。かるが故に我等は今完全なる能はずとて敢て悲しむべきではない。我等は今は罪の身を以て罪の世に在るのである。我等の外も汚れ我等の内も亦汚れて、今や完全は求めて得られざる者である。而してかゝる状態に於てあるが故に「聖霊の初めて結べる実を有てる我等も自ら心の内に歎きて(神の)子と成らんこと、即ち我らの体の救はれんことを俟(まつ)」のである(羅馬書八章二三節)。而して此待望は空望として了(おわ)らないのである。其実現する時は必ず到るのである。キリストの再臨は単に彼の再臨に止まらないのである。信者の救の完成うせらるゝも亦其時である。

 


1月17日

 

ああ、わたしは災いだ。

わが母よ、どうしてわたしを産んだのか。

国中でわたしは争いの絶えぬ男

いさかいの絶えぬ男とされている。

わたしはだれの債権者になったことも

だれの債務者になったこともないのに

だれもがわたしを呪う。

主よ、わたしは敵対する者のためにも幸いを願い

彼らに災いや苦しみの襲うとき

あなたに執り成しをしたではありませんか。

(エレミヤ書15章10~11節)

 

我は曾てエレミヤと共に歎じて言へり、嗚呼我は禍ひなる哉、人皆な我と争ひ、我を攻む、皆な我を詛ふなりと。然れども今に至りて我は感謝して曰ふ、嗚呼我は福ひなる哉、人皆我と争ひ、我を攻め、我を詛ひたれば我は神に結ばれて其救済に與かるを得たりと。人に捨てらるゝは神に拾わるゝなりき。人に憎まるゝは神に愛せらるゝなりき。人に絶たるゝは神に結ばるゝなりき。今に至りて思ふ、我が生涯に有りし事にして最も幸福なりし事は世に侮られ、嫌はれ、辱められ、斥けられし事にてありしことを。

 


1月18日

 

あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。

主は、とこしえにいます神

地の果てに及ぶすべてのものの造り主。

倦むことなく、疲れることなく

その英知は究めがたい。

疲れた者に力を与え

勢いを失っている者に大きな力を与えられる。

若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが

主に望みをおく人は新たな力を得

鷲のように翼を張って上る。

走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

(イザヤ書40章28~31節)

 

 思想は凡て実現して其終末に達するものなり。人その思想の実現を見て、彼は既に彼の最終期に達せしなり。常に若からんと欲せば、常に実現せられざる思想を抱かざるべからず。青年は夢想する人なり。夢想竭(つ)き利害を知覚するに及びて彼は老物と化せしなり。常にイムポシブル(不可能)を計画する人、常に大改革を望む人、常に詩人的にして夢想する人、常に利害の念に疎き人、常に危険を感ぜざる人、これ青年なり、壮者なり。既にポシブル(可能)を計画し、既に温和主義を主張し、既に散文的にして実務に着目し、利害の念に鋭く、脚下に注意するものは、彼の齢(よわい)を重ぬる幾回なるを問わず、彼は老物にして既に廃棄物なり。

 


1月19日

 

あなたたちは、あなたたちの神、主が命じられたことを忠実に行い、右にも左にもそれてはならない。あなたたちの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたたちは命と幸いを得、あなたたちが得る土地に長く生きることができる。

(申命記5章32~33節)

 

聖書に云ふ所の「天に在す爾曹(なんじら)の父の完全なるが如く爾曹も完全なるべし」(マタイ伝五章四八節)とは、神の絶対的完全に達し得べしといふにあらずして、神が神として完全なるが如く人も人として完全なるべしと謂ふなり。完全なる馬とは人の如く物言ひ人の如く思惟する馬を云ふにはあらずして、馬の馬たる用を完全になすものを謂ふなり。故に人に罪ありと謂ふは、人が人たるべき完全を欠くと謂ふにあり。基督教が義人一人もあるなしと謂ふは、此事を云ふなり。神が我を責むるは、我雨を降らし得ず、日を輝かし得ざるが故にあらずして、我人を愛すべきに人を憎めばなり、我怒るべからざるに怒ればなり。

 


1月20日

 

わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。

(ローマの信徒への手紙8章1~3節)

 

宗教家は愛国家ならざるべからず。博愛主義に則ると称して、国家の存立すべき理由を解せず、国家の威厳を犠牲に供して、外国宣教師の命に唯之從ふが如きは、是れ未だ宗教の大義を解せざるものなり。真正の宗教家は皆悉く愛国者なりき。国の為めにせざる宗教の如きは、是れ邪教として排して可なり。若し天使の形を装ふもの降りて我に一宗教を授けんとし、我に告げて「余は汝に宗教を授與せんとす。汝の愛国心を去って之を受けよ」と曰はんか、我は其時彼に対(むか)って曰はん「余は汝の宗教を要せず。我は寧ろ我国を守って無宗教家として死せん。我の胸中に燃ゆる一片の愛国心、我は之に換(か)ふべきものあるを知らず。汝我に用なし。去って再び我に来る勿れ」と。

 


1月21日

 

わたしは主、あなたたちの聖なる神

イスラエルの創造主、あなたたちの王。

主はこう言われる。

海の中に道を通し

恐るべき水の中に通路を開かれた方

戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し

彼らを倒して再び立つことを許さず

灯心のように消え去らせた方。

(イザヤ書43章15~17節)

 

奇蹟とは何であるかと云ふに、奇蹟とは神の事蹟であると云ふまでゞ御座います。即ち人を造り宇宙を造り給ひし神が為し給ふ業であると云ふのであります。人間には奇蹟は出来るものではありません(特別なる神の援助を得るに非ざれば)。何故なれば彼自身の位置が自然界の一部分であるのみならず、彼は彼の堕落に依て彼の能力(ちから)の大部分を失ひましたからであります。我等は元来天然以上のものでありましたけれども、我等が神を離れて自己に頼り出しましてより、我等は天然の奴隷と為り下がった者で御座います。然し神は己の造った天然を自由にすることが出来ます。神が宇宙の運行を早めやうが、遅らせやうが、それは時計師が時計の指針を自由にする事と同然で、何も驚くには足らない事であります。

 


1月22日

 

そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それを塵あくたとみなしています。

(フィリピの信徒への手紙3章8節)

 

病むも可なり、余はたゞ神の聖意(みこころ)を知らんと欲す。貧するも可なり、余はたゞ神の聖意を知らんと欲す。人に憎まるゝも可なり。余はたゞ神の聖意を知らんと欲す。余の不幸の極は神の聖意を知り得ざるにあり。余は疾病を恐れず、貧困を恐れず、孤独を恐れず、余はただ神に捨てられて其聖意の余に伝へられざるに至らんことを怖る。神よ、願くは余に如何なる患苦(なやみ)の臨むことあるも、汝と余との間に霊の交通の絶えざらんことを。

 


1月23日

 

それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」

(出エジプト記4章10~12節)

 

憂ふる勿れ汝朴訥(ぼくとつ)の青年よ、汝は常に俊才怜悧の人に愚者として疎んぜられ、汝の世事に長ぜざるを以て不用人物として見做さるゝ事あり。而(しか)も、全能なる神は却て汝が如き者を求め、汝をして人間の思想の達し得べからざる智慧と希望と喜悦とを有せしめんと欲す。言ふを休めよ、汝俊才怜悧なる青年よ、我れ人を統御するの才あれば、我れ世の風潮を観察するの卓見あれば、我は伝道師となりて教会を組織し教理を伝播せんと。汝は宜しく伝道師たるの念を棄てゝ他の事業に就くべきなり。

 


1月24日

 

わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。

(ヨハネによる福音書14章16~18節)

 

我等が基督信者となりたりと云ふは、洗礼を受けて基督教会に入りたりと云ふことではない。又は我等の知能を以てして基督教の教理を理解したと云ふことでもない。我等がクリスチャンと成りたりと云ふことは、我等が或る「聖者」を友として持つに至ったといふ事である。而かも単に或る旧き記録に於て、或る理想の人を発見したと云ふのではない、今活ける或る聖き友人を発見して其伴ふ所となったと云ふ事である。即ち我等は大なるパラクレートス即ち「側に在る者」を得たと云ふことである。寂寞の世に在て孤独の生涯を送るを廃めて、大なる「訓慰師(なぐさむるもの)」を平常の友として持つに至ったと云ふことである。

 


1月25日

 

あなたがたは世の光である。山の上の町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

(マタイによる福音書5章14~16節)

 

イエスの弟子は世の光である。文明の先導者である。知識の開発者である。霊光の供給者である。此事に就て疑いを抱く者は無い。世の所謂基督教に迷信がないではない。所謂基督教会なる者が頑迷無知の巣窟と化したることは幾回もある。然れども過去千九百年間の人類の歴史に於て、イエスの弟子が光明の炬火(たいまつ)の把持者(もちて)であったことは、如何なる人と雖も疑はんと欲して能はざる所である。我は世の光なりとイエスは言ひ給うた。而して信者はイエスに代りて世を照らす者である。勿論イエスの如くに自ら光を放つ能はずと雖も、而も各自の信仰の量に従い彼の光を反射するのである。

 


1月26日

 

主の知恵によって地の基は据えられ

主の英知によって天は設けられた。

主の知識によって深淵は分かたれ

雲は滴って露を置く。

わが子よ、力と慎重さを保って

見失うことのないようにせよ。

そうすれば、あなたは魂に命を得

首には優雅な飾りを得るであろう。

(箴言3章19~22節)

 

詩人テニソンの最も注意せし問題は、霊魂不滅未来存在の問題なりしと云ふ。故グラッドストン氏、亦この問題に彼の終生の思考を注ぎ、死に瀕するの際バトラーの『アナロジー』に評注を加へ、彼の豊富なる観察と思考との結果を世に残して逝けり。政治家にあれ、文学者にあれ、或は商売人にあれ、職工にあれ、常に此世以上の問題を彼の脳中に蓄へおく事は、彼の品格を高め、彼の悟性を明らかにし、彼をして俗界の汚気に触るゝの憂なからしむるために必要なり。

 


1月27日

 

だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。

(テモテへの第二の手紙4章3~5節)

  

宗教なる者は人類と神との間の関係を明かにする者にして、之を世に伝ふるは人類を最も幸福なる地位に立帰らしむる者なれば、此教理を世に伝ふることは、実に善の善にして、博愛事業中此事業に優るもの他にあることなし。伝道は仁人君子の職(つとめ)にして、之に優るの業を余輩は余の思想中に看出だすこと能はざるなり。いま伝道を以て人類を神に立帰らしむるの事業となさば、其区域は実に広且つ大なる者なり。言語を以て教理を説明するは勿論其方法の一なり。然れども説教又は筆硯の業を以て伝道事業の大部分又は全部と見做すは、大なる誤謬と謂はざるを得ず。伝道の要は凡ての方法を以て凡ての人を神に立帰らしむるにあり。

 


1月28日

 

知恵の初めとして

  知恵を獲得せよ。

これまでに得たものすべてに代えても

  分別を獲得せよ。

知恵をふところに抱け

  彼女はあなたを高めてくれる。

分別を抱きしめよ

  彼女はあなたに名誉を与えてくれる。

あなたの頭に優雅な冠を戴かせ

栄冠となってあなたを飾る。

(箴言4章7~9節)

 

人は宗教と科学との衝突を云ふ、然れども我は未だ其の是れあるを認むる能はず。宗教は霊界の科学的考究の結果と云ふべく、科学は物界の宗教的観察と云ふも可なり。吾人は宗教を考究するに科学的方法を濫用するを恐れざるのみならず、普通の科学的常識に適はざる宗教的思想は棄却して採用せず。又之と相対して、科学的研究法に宗教的精神の用なしと信ずる者は、未だ科学宗教両(ふた)つながらを解せざる者と謂はざるべからず。そは真率なる心、謙遜なる心、凡ての物にまさりて真理を愛するの心は、宗教に於ても科学に於ても最始最終の必要物なればなり。

 


1月29日

 

イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」

(マタイによる福音書21章21~22節)

 

世に金銭の勢力あり、政権の勢力あり、知識の勢力あり、然れども未だ祈祷の勢力には及ばざるなり。是れ実に誠実の勢力にして、山をも透し岩をも砕くの勢力なり。世の大事業と称えらるゝものは、皆祈禱の力に依て成りしものなり。祈禱の力に依らずして建てられし国家は虚偽の国家にして、永久的不変の基礎の上に据ゑられしものにあらず。祈禱の力に依らずして成りし美術に天の理想を伝ふるものあるなし。祈禱は精神的生命を得る唯一の秘訣なり。故に祈禱なきの国民より大政治、大美術、將た亦た(はたまた)大文学、大発見、其他大と称すべきものゝ出で来るべき筈なし。

 


1月30日

 

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。

(テモテへの第一の手紙1章15~16節)

 

余輩が若し自身を指してキリスト信者であると言ふならば是れ決して余輩の高徳を誇って云ふのではない。キリスト信者とは名誉の名であるやうに思ふて居るのが抑々(そもそも)真正のキリスト信者でない最もよい証拠である。基督信者は罪人の一種である。自身の罪深きを認めて神の赦免(ゆるし)を乞はんがために基督の十字架に縋(すが)る者である。今でこそパウロが信者であり、ペテロが信者であったと聞けば如何にも彼らの名誉でありしやうに思ふなれども、其当時に於ては是は彼らに取て社交的には大不名誉の事であったのである。人の前に自分の罪人なるを表白し得ない者は決してキリスト信者ではない。然るを、キリスト信者なりしとて文明的君子となりしやうに思ふ人は、未だ基督教の初歩をだに知らない人である。

 


1月31日

 

キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスのうちにあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。

(エフェソの信徒への手紙4章21~24節)

 

イエスは平民である。余は平民の模範として彼を仰ぎまつる。斯く云ひて余はイエスは今の所謂平民であるといふのではない。平民とは其有(も)つ所の位の有無、富の多少に由て定めらるべき者ではない。貴族の中にも平民あれば平民の中にも貴族がある。自己を貴ばざる者、是れが平民である。自己を何にか貴い者であるやうに思ふ者、是れが貴族である。故にイエスは平民であると云はんよりは、寧ろ平民とはイエスの如き者であると云ふべきである。すべてイエスを主として仰ぐ者、彼に罪を贖はれんとする者、是れ皆な平民である。即ち神の子としての貴尊を認むる外、其他の貴尊を悉く拒否する者、是れが真正の平民である。

 


2月1日

 

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。

(ガラテヤの信徒への手紙5章1節)

 

自由は吾人の固有性にあらず。故に完全に自由ならんと欲せば、吾人は完全に自由を有する神に到らざるべからず。即ち吾人は神に依りてのみ真正に自由なるを得るなり。詩人テニソン曰く Our will is ours to make it Thine と。吾人の意志は吾人の意志を以て之を神に捧ぐべき者ならざるべからず。勿論人は不可割的個体なるが故に、如何なる場合に於ても他体に吸収さるべきものにあらず。然れども人その自由を国家の使用に供して却て国家大の自由を獲得するが如く、之を無限の神の使用に供して無限大の自由、即ち真性の自由を享有するに至る。

 


2月2日

 

わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父である神に感謝しています。あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛について、聞いたからです。

(コロサイの信徒への手紙1章3~4節)

 

信、望、愛とは三つであって、実は一つである。信なくして望は起らないが、然し望なくして信を維持することは出来ない。愛は亦望より其活動の動機を仰ぐものであるが、望絶えし後の愛は油の絶えし燈火の如くに熱と光とを失って終(つい)にまた旧(もと)の暗黒に復(かえ)るものである。望を供せずして愛を強ゆるは無慈悲である。望の足らざる信は頑固であって冷酷である。望は三人の姉妹中の中で最も女らしい者である。彼女の側に侍るが故に愛は義務の羈絆(きはん)を脱して自由なるものとなる。彼女のやさしき感化を受けて、信は頑強たるをやめて温雅なるものとなる。望は天の和気を呼んで地の澁苦(じゅうく)を融(と)く。望に温き涙がある。彼女は天の扉を開いて、其中に居る我等の慕ふ聖き姿を顕出(あらわ)すものである。

 


2月3日

 

神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを憂いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めて下さいます。(ヤコブの手紙4章8~10節)

 

得るの快楽あり、失ふの快楽あり、生るゝの快楽あり、死するの快楽あり。愛さるゝの快楽あり、憎まるゝの快楽あり。而して若し快楽の性質より云はんには、失ふの快楽は得るの快楽より高く、死するの快楽は生るゝの快楽よりも清く、憎まるゝの快楽は愛さるゝの快楽より深し。神を信じて如何なる境遇に処するも吾等に快楽なき能はず。只悲痛の快楽の、快楽の快楽に優る数層なるを知るのみ。

 


2月4日

 

「だから言っておく、自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」

(マタイによる福音書6章25~26節)

 

世より独立するに容易なるが故に貧者は天然と交る益々深いのである。貧とは勿論貧窮の意味ではない。貧とは人の造った富に依らずして神の與へ給ふ恩恵に依ることである。故に貧とは空の鳥や野の百合のやうに成ることである。即ち日光を楽しみ、清風に浴し、努めず、憂ひ慮(わずら)はざるやうに成ることである。天然の快楽なるものは貧せざれば得られないものである。詩人ヲルヅヲス(ワーズワース)のやうに「高き思想」を楽しまんと欲すれば、亦彼の如くに「低き生涯」に甘んじなければならない。

 


2月5日

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

(ヨハネによる福音書3章16節~17節)

 

キリストは何のために世に降り給ひしかと問ふに、新約聖書が此事に関して言ふ所は明白である。即ち彼の血(死)を以て人類の罪を贖ふためである。さうして死して後に昇天し、天の門戸を開いて人の子に神の子と成るための権能(ちから)を與へんためである。是れがキリストの降世の最大目的であって、其他の事は此目的に副(そ)うた余光である。人類の罪を贖ひ、彼の聖霊を罪に沈みし人の子の上に注がんための道を開かんためには、彼の愛子を遣して世をして之を十字架に釘けしむるの必要があった。キリストの生涯を贖罪の生涯と見てのみ、新約聖書は最も満足に解釈せらるゝのである。

 


2月6日

 

良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。

(ヤコブの手紙1章17~18節)

 

善事とは神を信ずることである。悪事とは神より離れて人と自己とに頼ることである。其他に善事もなければ悪事もない。病気必ずしも悪事でない。若し我等を善なる神に導くならば病気も亦善事である。健康必ずしも善事でない。若し健康が人をして自己に頼らしめ、自己を以て慧(さと)しと思はしむるに至るならば、健康は却って悪事である。貧困も同じことである。其反対の富貴も同じことである。キリスト曰ひ給はく、汝何故に善に就て我に問ふや、一つの外に善あるなし、即ち神なりと。善とは神を離れて別にあるものではない。神と神に向ふこと、是が善である。神より遠ざかり、神に逆ふこと、是れが悪である。善悪の差別は是れ丈である、然し是れ生死の差別である。

 


2月7日

 

心の清い人々は、幸いである、

   その人たちは神を見る。

(マタイによる福音書5章8節)

 

神は一つである、故に神は単純である。一なるが故に入り組める、繁雑なる、複雑なる者でないに相違ない。清き心を以てすれば、何人にも解し得らるゝ者であるに相違ない。恰も嬰児(おさなご)の如きものであって、天真爛熳、無偽正善の者であるに相違ない。神の解し難きは彼が複雑なるが故ではない、単純すぎて余りに透明なるが故である。恰も英雄の心の如く、清風霽月(せいふうせいげつ)、一点の塵を留めざるが故に人は彼を解し得ないのである。人は容易に多くの神を信ずる、然し容易に独一無二の神を信じない。純情は彼らの堪へられない所である。故に彼等は多くの不純なる神を作りて、己が不潔を蔽(おお)はんとする。

 


2月8日

 

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイによる福音書6章34節)

 

彼の言葉は詩歌であった。彼の祈禱は感謝であった。彼の無邪気なる、一日の労を了(お)へ給へば、颶風(ぐふう)吹きすさむ波の上に漂ふ小舟の艫(とも)のかたに枕して寝ね給へりとの事である(馬可伝四章三七、三八節)。のみならず、彼が敵に付(わた)さるゝ其夜、恐るべき死は面前に迫り居りしにも拘はらず、彼は弟子等と過越の節筵(いわい)を共にし、諄々として彼等に教ふる所あり、「彼等歌を謳(うた)ひてのち橄欖山(かんらんざん→オリーブ山のこと)に往けり」とありて、讃美歌を以て彼等の質素なる、聖き筵(むしろ)を賑はしたる事が判明(わか)る(マタイ伝廿六章三十節)。実に悲哀の人なりし彼は、同時に又歓喜(よろこび)の人であったのである。彼は能く悲痛を抑制するの途を知り給うた。彼自身が明日の事を憂慮(おもいわずら)ひ給はなかった。彼は未だ曾て世に在りしことなき最大の楽天家であった。

 


2月9日

 

御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。

(テモテへの第2の手紙4章2節)

 

世に真正の伝道程楽しい事はない。是れは事業中の事業であって、一度び其快楽を味うて我等は他の事業に転ずることは出来ない。人の霊魂を救ふことである。彼を心の根底より革(あらた)むる事である。或時は瞬間にして罪人が其罪を棄て神に還り来るのを目撃することがある。彼の家庭は潔まる。彼の妻子と姉妹とは歓ぶ、彼の生涯の方針は全く一変する。彼に依て新事業は企てられ、且つ成就せられる。一片の福音が斯くも深遠なる変化を生ぜし乎(か)と思へば実に驚くばかりである。

 


2月10日

 

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ

彼は自らを償いの献げ物とした。

彼は、子孫が末永く続くのを見る。

主の望まれることは

  彼の手によって成し遂げられる。

(イザヤ書53章10節)

 

キリストの事業は彼の死を以て完成せり。其如く余輩彼の小なる弟子の事業も余輩の死を以て完成するなり。死は最大の事業なり、生涯の高極(こうきょく)なり。人は死せずして未だ其業は就(な)れりと言ふを得ず。誠に基督信者に生前の成功なる者あることなし。彼の事業は死を以て始まるなり。彼は肉眼を以て己が事業の成功を見る能はず。其生命を世の罪の供物(そなえもの)となすを得て、其事業の永(とこし)へに神の手に在りて栄ゆるを見るなり。

 


2月11日

 

だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。

(ヨハネによる福音書3章32節)

 

人類のために盡(つく)さんと欲して世に交際を求むるの必要は一つもない。我等は単に独り在りて人類のために盡すことができる。人は何人も人類の一部分である。故に己に盡して人類のために盡すことが出来る、独り真理を発見することが出来る、独り神と接することが出来る、独り霊性を磨きて完成の域に向って進むことが出来る。我等は人類の好(よ)き標本として己を世に提供することが出来る。単独は決して無為の境遇ではない。

 


2月12日

 

このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペテロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

(ヨハネによる福音書6章66~69節)

 

キリストは余の道徳的宇宙である。余は精神的には彼に在りて生き、動き、また在る者である。故に余は彼を離れて何事をもなし得ない。恰かも木から落ちたる猿の如きものであって、世にキリストを離れたる余の如くに憐れなる者はない。キリストに従ふは余の利得ではない、是れは今は余の生存上の必要である。彼を離れんか、すべての恥辱と失敗とは余を待ちつゝある。余が誉れある生涯を送らんと欲せば、余はキリストに縋(すが)るより他に途はない。憐むべき羨むべき者とは余のことである。

 


2月13日

 

ところで、私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーゼが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。

(使徒言行録26章22~23節)

 

信者の復活の希望は自己に由るのではない。主イエスキリストに由るのである。信者は人として復活せんと欲するのではない。是れ彼が望んで能はざる所である。彼は主イエスキリストに在りて復活するのである。語を換えて云へばキリスト彼に在りて復活を繰り返し給ふのである。信者はキリストの宿り給ふ所の者である。而して「我は復活なり生命なり」と云ひ給ひし彼は、信者の体に宿りて之をも復活し給ふのである(ヨハネ伝11章25節)。イエスの霊の在る所には必ず復活が在る。イエスの霊を接けて復活は之を自然の結果と見ることが出来る。

 


2月14日

 

神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、ご自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。

(テモテへの第二の手紙1章9~10節)

 

現世は我等の理想を行ふには、余りに不完全なる所であります。もし此世が万事を終るものでありまするならば、人として此処に生れ来りましたのは最大不幸であると思ひます。世に辛いことゝて、理想を持って理想を行へない位辛いことはありません。然るに凡て高尚なる人の生涯は皆な此の「充たされざる理想」の生涯であります。理想に応(かな)ふ実物の存在するのが此宇宙の法則でありますのに、現世には吾人の理想に応ふための実物が在りません。是事が来世の存在の最も確かなる証拠ではありませんか。

 


2月15日

 

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

(ヘブライ人への手紙11章1節)

 

信仰は人によっては迷信の如くに見える。信仰は確かに一種の冒険である。之に従って或は失敗に終る乎も知れない。乍然(しかしながら)、信ずる者は信仰の迷信でない事を知る。信仰は心に響く神の声に対する信者の応諾である。彼は形体(かたち)を見ない、又証明を有たない。乍然、彼は確かに信ずるのである。然り、信ぜしめらるゝのである。彼に取りては信仰其物が見ざる所の物の証拠となるのである。彼は言ふのである。我に信仰起れり、故に之に応ずるの実物なかるべからずと。実物を以て信仰を証明するのではない信仰を以て実物を証明するのである是が信仰の力である。此力なくして信仰は之を信仰と称するに足りない。

 


2月16日

 

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

(マタイによる福音書28章18~20節)

 

三位一体の教義は道徳的教義であります。之を信ずるに由て人の人生観は全く一変します。之を拒みます時に彼の品性の変化は始まります。基督教の凡ての教訓は此教義と大関係をもってゐます。之を取ても捨てゝも可(い)いと思ふ人は、未だ基督教を了解しない人であります。さうして基督教が世を救ふための実際的勢力でありまする以上は、三位の神を信ぜずして此勢力を維持することは出来ません。私は私の聖書に照して見まして、又私の理性に訴へて見まして、殊に又私の実験的生涯に応用して見まして、エホバの神は三位一体の神でなくてはならないことを信じて疑わないのであります。

 


2月17日

 

事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その良い業を行なって歩むのです。

(エフェソの信徒への手紙2章8~10節)

 

我にして自ら悔改むるにあらざれば神は我を救ふ能はずとは、偽預言者と偽牧師の屡々(しばしば)我等に告げし所なり。然り我は悔改めざれば救はれざるべし。然れども神は聖霊を以て我を悔改めしめ給う。我れ躬(みず)から意志の努力を以て悔改めしに非ず、是れ到底我の為し得ざる業なり。然れども神我に宿り我意志を以て彼の意志をなし、而して彼の意志の能力(ちから)を以て我をして悔改めしめ給う。我れ独力を以て悔改めしに非ず、然かも神は之を我が悔改めとして受け納(い)れ給う。嗚呼(ああ)、神秘中の神秘とは神と意志との神秘なり。然かも贖罪の神秘は此の神秘の中に存す。我等は哲学的に之を説明し能はざらん、而かも最も確実なる事実として我等は此の事を知るなり。そは我等の意志に関する事実は最も確実に知り得ればなり。

 


2月18日

 

ひととき、お怒りになっても

命を得させることを御旨としてくださる。

泣きながら夜を過ごす人にも

喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。

(詩篇30篇6節)

 

エホバは怒り給はざるにあらず、我等に刑罰の臨まざるにあらず。然れども是れたゞ暫時のみ。彼の恩恵(めぐみ)は延びて終生に渉るなり。懲罰は例外なり、而して恩恵は常則なり。涙は時に浮ばざるにあらず、然れども是れ単に旅人の一夜を我家に過すが如し。朝来れば彼は去り、而して歓喜(よろこび)は彼に代りて永(とこし)へに我と共に住むなり。苦痛は暫時のみ、歓喜は永久なり。涙は旅人の如くにして去り、感謝は家人の如くにして来り住む。然り、歓喜は朝と共に来らん。旭陽暗黒を排して昇る時に、我が唇に讃美の声揚る。

 


2月19日

 

魂は滅亡に

命はそれを奪うものに近づいてゆく。

千人に一人でもこの人のために執り成し

その正しさを示すために

  遣わされる御使いがあり

彼を憐れんで

「この人を免除し、滅亡に落とさないでください。

代償を見つけて来ました」と言ってくれるなら

彼の肉は新しくされて

  若者よりも健やかになり

再び若いときのようになるであろう。

(ヨブ記33章22~25節)

 

人類は神から堕落したのであります。彼が「天の所」(エペソ書1章3節)に於て神の側(かたわら)に於て神と偕に有つべき地位から堕落したのであります。彼に臨みし凡ての悲痛は、此堕落に原因して居るのであります。罪の中の罪とは神を捨て去ることであります。随(したが)つて救済(すくい)の何であるかゞ判りませう。救済は先づ第一に人を神に連れ還ることであります。さうしてキリストの十字架は、神と人との間に立ちて此独特の用をなすものであります。キリストは道徳を説いて僅かに人心の改善を計り給ひませんでした。彼は罪其物を滅し給ひました。即ちキリストに依て神と人との間に在りし離隔は取去られました。

 


2月20日

 

見よ、わたしの僕は栄える。

はるかに高く上げられ、あがめられる。

かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように

彼の姿は損なわれ、人とは見えず

もはや人の子の面影はない。

それほどに、彼は多くの民を驚かせる。

彼を見て、王たちも口を閉ざす。

だれも物語らなかったことを見

一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。

(イザヤ書52章13~15節)

 

復活はまことに大(おおい)なる奇蹟である。然(しか)し乍(なが)ら、品性の純聖は更に大なる奇蹟である。而して此奇蹟があって、彼奇蹟は奇蹟ではないのである。イエスの在りし事が既に奇蹟中の最大奇蹟である。道徳の法廷に於て一点の指す所なき人の在りし事、其事が最大の奇蹟である。而して復活は此人に在った事である。之を自然の結果と見て誤らないのである。イエスは人であって人でないのである。而して内が外に現はれんがために、体が霊に応(かな)はんがために、彼の場合に於ては、生は死に勝ちて、彼は死してより高き形状(ありさま)に於て復活したのである。

 


2月21日

 

現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。(コリントの信徒への第一の手紙8章5~6節)

 

天地は広し、人は多し、然れども其の中に唯二人あるのみ。神と我と是なり。彼我を愛し、我又彼を愛し、我は彼の命に聴いて凡ての事を為す。我は彼に誉められて喜び、責められて泣く。彼に善しとせられん事は我が終生の目的なり。我彼と共に働き、彼と栄光と恥辱とを頒(わか)つ。彼、崇めらるれば我歓び、彼、瀆(けが)さるれば我怒る。我れ彼に我手を引かれて彼の造り給ひし宇宙を逍遙し、其中の諸(すべて)の獣と天空の諸の鳥とを示され、我が生物に名づける所は皆其名となる。我はまことに今の世にありて始(はじめ)のアダムなり。我の外に人あるなし。唯神、我と偕にあるのみ。神と我とのみ。故に我は彼に在りて万人と万物とを愛す。我は神に由らずして何物にも繋がらず。亦神に由りてすべての者に繋がるなり。

 


2月22日

 

しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。

(コリントの信徒への第一の手紙15章20~22節)

 

信者が復活するのではない、彼の衷に住みたまふイエスが復活するのである。彼は義によりて生き給ふのである。而してイエスは信者の衷に在りて復活し給うて、信者と共に復活し給ふのである。信者はイエスの復活の同伴に与かるのである。彼と共に挙げらるゝのである。「我れ生くれば汝等も生くべし」と彼が言ひ給ひしは此事である(ヨハネ伝14章19節)。斯くて信者の復活に敢て不思議なる所はないのである。イエスの復活が当然であり自然であるが如くに、信者の復活も亦当然であり又自然であるのである。

 


2月23日

 

しかし主よ、わたしの主よ

わたしは力を奮い起こして進みいで

ひたすら恵みの御業を唱えましょう。

神よ、わたしの若いときから

  あなたご自身が常に教えてくださるので

今に至るまでわたしは

  驚くべき御業を語り伝えて来ました。

わたしが老いて白髪になっても

神よ、どうか捨て去らないでください。

御腕の業を、力強い御業を

  来るべき世代に語り伝えさせてください。

(詩篇71篇16~18節)

 

千九百年前の往昔(むかし)に在りて基督教の一切(すべて)は槽中(そうちゅう)の嬰児に存せり。其時未だダンテの神曲あるなく、クロムウエルの英国あるなし。之を守るに唯マリヤの繊手(せんしゅ)とヨセフの堅忍とありしのみ。而かも神の植ゑ給ひし木は成育(そだ)ちてレバノンの香柏よりも高きに至れり。我等今の時に方(あた)り其一枝を此地に植ゑんと欲して何をか懼(おそ)れん。今や全宇宙の我等の業を援(たす)くるあり、亦幾万の聖徒の我等の言(ことば)を証(あかし)するあり。我等にして若し此小暗塊(しょうあんかい)を酵化し得ずんば、後世は我等を評して何と言はん。

 


2月24日

 

山が移り、丘が揺らぐこともあろう。

しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず

わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと

  あなたを憐れむ主は言われる。

(イザヤ書54章10節)

 

霊魂の要求するものは愛であります。純潔無私の愛であります。また宏大無辺の愛であります。霊魂は実に莫大なる要求を為すものであります。彼は到底金殿玉楼位を以ては満足致しません。美衣美食位で彼の飢渇は決して癒さるゝものではありません。彼に侍せしむるに三千の宮女を以てしても、徒(いたず)に彼の悲哀を増す計りであります。幸福なるホームを以てしても、善良なる友人を以てしても、是も亦彼の満腔(まんこう)の欲望を満たすには足りません。霊魂は実に其友として、また其父として、其救主として宇宙万物の造主(つくりぬし)たる独一無二の活ける真の神の愛を要求致します。之れなければ彼は死んだものです。之あれば彼の欲する凡てのものを獲たのであります。

 


2月25日

 

だから、 自分の核心を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行なって約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。

「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。

遅れられることはない。

わたしの正しい者は信仰によって生きる。

もしひるむようなことがあれば、

その者はわたしの心に敵わない。」

しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。

(ヘブライ人への手紙10章35~39節)

 

信仰とは信ずべからざることを信ずるにあらざるなり。二と二を合すれば五なりとは、宇宙が消え失せるとも我は信ずる能はざるなり、而して信ずべからざるなり。虚喝手段を以て人を善道に導き得べしとは、如何なる証明ありと雖も我は信ぜざるなり。信仰とは信ずべきことを、懼れず、躊躇せず信ずるを云ふなり。

 


2月26日

 

物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。

(フィリピの信徒への手紙4章11~13節)

 

キリストが我が心の中に寓(やど)り給うて、感謝が我が生命となる時に、我の為し得ない善とては一つも無くなる。我は其時如何なる敵の如何なる愆(とが)をも自由に赦す事が出来る。如何なる辛苦にも堪ふることが出来る。如何なる犠牲をも払ふことができる。其時我は善の勇者であり、愛の富者であって、穢(けが)れたる我身が至る処に香気を放つやうに感ずる。若し是れが救済(すくい)でなく、復活でなく、昇天でないならば、我は、救済、復活、昇天の何である乎を知らない。其時我は詩人の言葉を藉(か)りて歌う。

 神は我が足を麀(めじか)の足の如くし、

 我を我が高処(たかきところ)にたゝせたまふ(詩18篇33節)

 


2月27日

 

すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。

(ヨハネによる福音書5章21~22節)

 

神がキリストを以て我等を鞫(さば)き給ふに至って、審判(さばき)は我等が思ひしが如く怖るべき者でなくなったのである。審判と聞けば甚だ恐ろしく感ずるなれども、キリストが審判(さば)き給ふと聞いて、恐怖は去りて感謝が来るのである。キリストは誰ぞ、神と人との間に立つ一位の中保者、人を神に執成し給ふ者、人の罪の軽減と赦免とを希(ねが)ふ者、柔和なる救主、罪人の友・・・神はキリストに審判を委ね給うて罪の軽減と赦免とを期し給うたのである。茲(ここ)に於てか我等は多くの罪を犯しゝに拘はらず、我等に無罪放免の希望(のぞみ)が提供されたのである。我等は今は我等を鞫く者の何人であるかを知るが故に、臆せずして彼の臺前(みまえ)に立つことができるのである。

 


2月28日

 

また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。どのような時にも、「霊」に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。

(エフェソの信徒への手紙6章17~18節)

 

キリストに於ける信仰は余を罪より救ふものなり。然れども信仰も亦神の賜物なり(エペソ書二章八節)。余は信じて救わるゝのみならず、亦信ぜしめられて救はるゝ者なり。此に於てか余は全く自身を救ふの力なきものなるを悟れり。然らば余は何をなさんか。余は余の信仰をも神より求むるのみ。基督信徒は絶間なく祈るべきなり。然り彼の生命(いのち)は祈禱なり。彼尚不完全なれば祈るべきなり。彼尚ほ信仰足らざれば祈るべきなり。彼能く祈り能わざれば祈るべきなり。恵まるゝも祈るべし、呪わるゝも祈るべし。天の高きに上げらるゝも、陰府の低きに下げらるゝも我は祈らむ。力なき我、わが与ふことは祈ることのみ。

 


2月29日

 

兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。

(ヘブライ人への手紙3章12~13節)

  

ナザレのイエスよ、余は汝に此試誘(こころみ)と勝利ありしが故に汝に感謝す。余は之に由て汝の余の如く試みられし者なるを知る。汝は総(すべ)ての事に就(つい)て余の如く誘(いざな)はれたり。故に汝は能(よ)く余の荏弱(よわき)を體恤(おもいや)り給ふなり(希伯来(ヘブライ)書四章十五節)。汝自ら悪魔と戦ひ給ひて能く其の威力の強大なるを知り給ふ。我等幾回か彼の欺く所となり、方略を講じ、声望を求め、汝に事(つか)へんと欲して却って屢々(しばしば)彼に拝跪(はいき)せり。願はくは汝の智恵を今我等に賜ひ、我等も汝に倣(なら)ひて能く神の声と悪魔のそれとを区別するを得、瞭(あきら)かなる眼を以て汝の正道を読み(馬太伝六章廿二節)、右にも左にも曲ることなく、汝に依(より)て総ての誘惑に勝ち、此所に汝の天国の建設を賛助(たす)け、彼所(かしこ)に汝の栄光に与からん事を、アーメン。

 


3月1日

 

ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘しているうちに腿の関節がはずれた。

(創世記32章25~26節)

 

嬉しき時は神に我が罪を指示(さししめ)された時である。ペニエルに於けるヤコブの如く天使に傲慢の髀(もも)の樞骨(つがい)の巨筋(おおすじ)を絶たれて歩行(ある)き得ぬに至る時である。又ダビデが神より預言者ナタンを遣はされて其の罪を糺(ただ)され、汝は其人なりと言はれし時の如きときである。其時は我は人と自己とを離れて神に縋(すが)る。其時十字架は我が眼の前に輝く、其時我に懐疑は一つもなくなる。自己が罪人の首(かしら)であることを感じた時に、キリストイエス罪人を救はん為めに世に臨(きた)れりとは信ずべく又疑はずして受くべき話である。而して神に我が傷(罪)を指されずして此の感は起らない。我は義人なりと思ふ時に、我れ他人の罪を責めつゝある間は、此の美はしき感は起らない。一言の申訳(もうしわけ)なくして我れが神の前に立つ時に、キリストは其十字架を負ひ給ひて我が心の眼の前に顕(あら)はれ給ふ。

 


3月2日

 

ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも、一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。

(コリント人への第一の手紙3章21~23節)

 

基督教が解って見ますると世人の生涯は夢の生涯であります。物でないものを物と解し、地獄に落ち行くのを天堂に昇行(のぼりゆ)くのであると解する底(てい)の生涯であります。曰く戦争、曰く外交と。キリストの心を以て之を見ますれば、是れ小の小なる問題であります。若(も)し人、全世界を得るとも其霊魂を失はゞ何の益あらん乎。露西亞(ロシア)の天子が其欲(おも)ふ通りに亜細亜大陸の全部を得た所が、爆裂弾一発で永遠の死に往かねばならないと思へば、満州問題の如き、彼に取りては極小の問題でなくてはなりません。取った所が僅かに五千二百二十五萬平方哩(マイル)に過ぎない此地球、無窮の宇宙に永在することの出来る権利を授けられたる人は、斯かる小なるものゝために彼の全力を注がんとは致しません。

 


3月3日

 

心の貧しい人々は、幸いである。

  天の国はその人たちのものである。

(マタイによる福音書5章3節)

 

天国の富者たらんと欲する者は地上に赤貧者たらざるべからず。而して貧の極は身の貧にあらずして、心霊の貧である。赤貧洗ふが如しと言ふ者も時には俯仰(ふぎょう)天地に恥ぢずと言ふ。斯く言ふ者は、身は貧すれども心霊は甚(はなは)だ富める者である。貧に内なると外なるとがある。心霊の貧者は内に何物をも有たない者である。その実例は使徒パウロである。彼は心霊の貧しき者であった。誇るべきの智慧なく、倚(よ)るべくの德なく、彼の自白せる如く「彼は罪人の首」であった。而して神の前に立ちて謙虚の底にまで引下げられし彼は、キリストに在りて其の諸徳を認むるを得て栄光の天にまで引上げられたのである。

 


3月4日

 

神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。

(ローマの信徒への手紙8章29~30節)

 

人は何人も自ら望んで天国の市民たる能はず、血肉は神の国を嗣ぐこと能はず、人の智も才も富も位も、彼を神の子となすに足らず、たゞ神の簡(えら)び給ひし者のみ主を其栄光に於て見るを得べし。天国の建設は神の事業なり、人の之に関与するは啻(ただ)に其の労役者たるに止まる。其計画、其進行、其完成は総べて神の聖旨(みむね)に従ふ。神には神の意志在て存す、人は之を変更し、又は伸縮する能はず。神の召し給ひし者のみが其子と称せらるゝを得るなり。彼の召を蒙(こうむ)ることなくして、智慧ある者も、能(ちから)ある者も、貴き者も、天国の市民たること能はず。

 


3月5日

 

キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。

(ガラテヤの信徒への手紙3章13節)

 

キリストの肉体上の苦痛は、彼の心霊上の苦痛を表はせしのみ。赦罪の恩恵は彼の神経上の疼痛(いたみ)によりて来(きた)るにあらずして、心霊上の憂愁によりて来るなり。カルバリ山にあらずして、ゲッセマネの園こそ人類の罪の贖はれし所なれ。キリストに棘(いばら)の冕(かんむり)を被(かむ)らしめしものは我が罪なり。彼に苦き盃を飲ましめしものは我の罪なり。彼を十字架に釘打たしめしものは我の罪なり。天主教徒が常に十字架を身に纏(まと)ひてキリストを思ひ、誠実なる新教徒某が常に十字架上のイエスの像を机上に置き、「汝の罪がキリストに此苦痛を与へたり」と独語して己の罪を責めたりとは、迷信邪説として悉(ことごと)く排すべからざるなり。

 


3月6日

 

主はお前の罪をことごとく赦し

病をすべて癒し

命を墓から贖い出してくださる。

慈しみと憐れみの冠を授け

長らえる限り良いものに満ち足らせ

鷲のような若さを新たにしてくださる。

(詩篇103篇3~5節)

 

誠実なる汝の神は宇宙の主宰者(つかさ)にして無限の愛なるを知れ。此神に対する汝の位置は君に対する臣の位置にあらずして、慈母に対する赤子の位置なるを記憶せよ。我等は神より萬を受けて一を返上する能はず。我等の誠実其物さへも神の賜物なるを如何せん。我等の財をも身をも霊をも神に献ぐるとも、神は只神のものを受けしのみ。神は与ふるものにして、我は受くるものなり。神は恵むものにして、我は恵まるゝものなり。神は愛するものにして、我は愛せらるゝものなり。無限の愛は愛せんことを要して、愛せらるゝことを要せず。神を愛せんと欲するものは、神に愛せられざるべからず。

 


3月7日

 

あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪いものでありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。

(ルカによる福音書11章11~13節)

 

天才は慕ふべし、然れども聖霊の至美(すぐれ)たるに如かず。天才は一時賜金(しきん)の如し、吾人之を消尽(しょうじん)するの危険あり。聖霊は終身恩給の如し、汝の能力(ちから)は汝が需(もと)むる所に従はんと。天才は少数者にのみ与へられ、聖霊は何人も之を受くるを得べし。天才は神を否む者にも与へられ、聖霊は父の愛に沐浴してのみ之を享(う)くるを得べし。天才は貴族的なり、聖霊は平民的なり。我等は心を卑(ひく)うして、萬民と共に天の此恩賜に与からんと欲す。

 


3月8日

 

キリストがあなたがたのうちにおられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたのうちに宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。

(ローマの信徒への手紙8章10~11節)

 

イエスの宿り給ふ信者と雖も、其肉体は性来(うまれながら)の罪の故に死する者である。然れどもイエスは信者に宿り給ふに方(あたっ)て其霊魂に宿り給ふが故に、霊魂はイエスの義の故に生く。自己の罪の故に肉体は死し、イエスの義の故に霊魂は生く。信者にありては、復活は彼の霊魂を以て始まるのである。然れども信者の復活は彼の霊魂を以て止まる者ではない。イエスの霊の宿るところとなりて、復活は霊魂より更に肉体に及ぶのである。人は霊魂のみではない、又肉体のみではない、霊魂と肉体とである。霊肉は彼の実在の両方面である。故に霊魂に始まりし復活は肉体にまで及ばざるを得ないのである。

 


3月9日

 

わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。

(ヨハネによる福音書6章39~40節)

 

「主は即ちかの霊なり」とある(哥林多[コリント]後書三章十七節)。主キリストは特別の霊である。「人の衷(うち)には霊魂(たましい)のあるあり」と云ふこの霊ではない、新生命の根源なる其霊である。霊体の精たる其霊である。「神の種其衷に在り」とある新生命の胚珠である(ヨハネ第一書三章九節)。此種が人の衷に宿りて、茲に霊体の発育が始まり、終に復活昇天の道程を経て永生状態に入るのである。主が「我は復活(よみがえり)なり生命(永生[かぎりなきいのち])なり」と言ひ給ひしは、此事を

 

言ひ給うたのである(ヨハネ伝十一章廿五節)。信者の復活はイエスを離れてあるのではない。復活はイエスにおいてあるのであって、彼に於てのみ在るのである。

 


3月10日

 

義のために迫害される人々は、幸いである。

  天の国はその人たちのものである。

わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

(マタイによる福音書5章10〜12節)

 

キリスト曰く、 凡て汝等を殺す者自ら神に事(つか)ふると意(おも)ふ時至らんと(約翰[ヨハネ]伝十六章十二節)。彼等が我等を責むるは吾等を悪人と信じてなり。故に彼等の迫害に大いに我等の同情を寄すべきものあり。彼等は正義のために我等を殺さんとするなり。社会のために、人道のために、然り或場合に於ては我等の信奉する基督教のために我等の生命を奪はんとするなり。故に彼等の憤怒に一片の誠実の愛すべきあり。我等は彼等のために祈り、彼等を憎むべからざるなり。

 


3月11日

 

はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

(ヨハネによる福音書12章24節)

 

死は死ではない、新生である。死を以て新生命は始まるのである。肉にありて障礙(しょうげ)なき霊的生命なる者はない。「肉は霊に逆らひ霊は肉に逆らふ、此二つのもの互に相敵(もと)る」と言ふ(ガラテヤ書五章十七節)。霊が完全に霊的ならんと欲せば、その敵なる肉の消滅を期せざるを得ない。而して死は霊の障害を除いて茲(ここ)に其自由の発達を遂げしむるのである。肉を離れて霊は自(おのず)から成長し、其活動を旺(さかん)にする。霊は肉に宿りて一人の霊である。然れども肉を離れて多くの霊と共になることが出来る。「我れもし地より挙げられなば万民を引きて我に就(きた)らせん」とイエスが言ひたまひしは此事である(ヨハネ伝十二章三二節)。イエスと雖も肉を離れて地より挙げらるゝまでは、万民を引きて自己に化することが出来なかったのである。

 


3月12日

 

イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、「ここから、あそこに移れ」と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」

(マタイによる福音書17章20節)

 

信とは此場合に於ては霊の能力(ちから)であります。これは人が万物の霊長として神より授かるの特権を与へられたものでありまして、此能力を以てして彼が天然界の上に施さんと欲して施し得ざる事はないとのことであります。然るに人類は神を離るゝと同時に、此能力を失ったのであります。彼は今は天然を支配するものではなくして、その束縛の中に苦しむものであります。さうしてキリストの降世の一つの大なる目的は、人類に此最初の特権を再び附与せんがためであります。即ちキリスト御自身が常に天然の上に超越して其束縛を受けられなかったやうに、我等彼を信じ彼を愛する者にも亦此同じ能力を与へんためであります。

 


3月13日

 

人間に頼らず、主を避けどころとしよう。

君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。

(詩篇118編8~9節)

 

頼るべきは神なり、人に非ず。彼に依頼むは侯爵伯爵に依頼むよりも遥かに好し。人に依りて失望絶えず、侯伯に頼みて耻辱(ちじょく)多し。彼等は憎愛常ならず、褒貶(ほうへん)時に循(したがっ)て変ず。エホバは然らず、彼は永遠に変らざる磐(いわ)なり。彼は衰ふる時の匿所(かくれば)なり。死する時の支柱(ささえ)なり。彼に依頼みて暗黒は愈々(いよいよ)光を放ち、衰落は益々慰謝を加ふ。彼に依頼みて耻辱あることなし。旭日の愈々光輝(かがやき)を増して昼の正午(まなか)に至るが如く、彼に依頼みて我等の生涯は歳の愈々邁(すす)むに循て栄光を増して天の福祉(さいわい)に近づくなり。富貴も名誉も、位階も勲章も何の慰藉(いしゃ)を我等に供せざる時に、エホバは其聖顔(みかお)を我らに向け給ひて、我らの寂莫(さびしさ)を癒し給ふ。

 


3月14日

 

イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。

(ヘブライ人への手紙13章8~9節)

 

我れ史を繙(ひもと)きて、国は興きて又亡び、民は盛えて又衰ふるを読む。唯見る一物の時代の敗壊の中に在て巍然(ぎぜん)として天に向って聳(そび)ゆるあるを。キリストの十字架是れなり。世は移り人は変るとも、十字架は其光輝を放ちて止まず。万物悉(ことごと)く零碎(れいさい)に帰する時に是れのみは惟(ひと)り残りて世を照らさん。十字架は歴史の中枢なり。人生の依て立つ盤石(ばんじゃく)なり。之に依るにあらざれば鞏固(きょうこ)なることあるなし、永生あるなし。十字架を除いて他は皆な悉く蜉蝣(ふゆう→かげろう)なり。キリストのみが窮(きわま)りなく存(たも)つ者なり。

 


3月15日

 

主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら

主よ、誰が耐ええましょう。

しかし、赦しはあなたのもとにあり

人はあなたを畏れ敬うのです。

 

わたしは主に望みをおき

わたしの魂は望みをおき

御言葉を待ち望みます

見張りが朝を待つにもまして

見張りが朝を待つにもまして。

(詩篇130篇3~6節)

 

我が衷を省みて渠処(かしこ)に何んの善きものはない。其処(そこ)にあるものは汚穢(おわい)、悪念(おねん)、邪欲、貪婪(どんらん)のみである。若し我れ自から之を取払ふにあらざれば、我は神に近づく能(あた)はずとなれば、我は到底神に近づく事の出来ない者である。然しながら神は我が罪よりも大である。彼は我の罪あるに関はらず我を救い給ふ。即ち彼は我がために我が罪を殺して我を彼の属(もの)となし給ふ。我の救拯(すくい)の希望は単に神の恩恵(めぐみ)に存してゐる。彼にして我を恵み給ふにあらざれば我の救わるゝ希望は一つもない。

 


3月16日

 

わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。

(コリントの信徒への第2の手紙4章8~10節)

 

神の為に為さんと欲せば、先づ自己に死せざるべからず。党派心なり、愛国心なり、未だ自己の其内に混合するあり。自己に死して後、我は初めて神に於て生く。神に生きて我に恐怖なし。恐怖去って我に明通あり。神の為にする伝道に憂慮、政略、方法(自然の常道を除いて)の我の事業を混乱せしむるなし。世界は我に化すべきものにして、我は世界に屈服投合すべきものにあらず。世は同音一斉に彼方(かなた)に立つも、われは断々乎として独り此方(こなた)に立つべし。我に松柏(しょうはく)の霜雪(そうせつ)に凋(しぼ)まざるあり。我に大嶽(だいがく)の儼(げん)として動かざるあり。我の存在は万人を利し、我の一声は波濤(はとう)を鎮む。神の為にするありて、伝道は初めて世を益するに至る。


3月17日

 

 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。

(コリントの信徒への手紙1章18節)

 

如何にして我が霊魂を救はんか ー この号叫(ごうきょう)の声がなくしては到底基督教は解るものではありません。基督教は或人が謂ふ仏教のやうな哲学の一種では御座いません。又禅宗のやうな胆力鍛錬の為の工夫でもありません。基督教とは霊魂を救はん為の神の大能であります。キリストの降臨と云ひ、十字架上の罪の贖(あがない)と云ひ、皆要するに霊魂を救はんが為の神の行為でありますれば、是等の出来事を霊魂以外の事柄に当て篏(は)めては、其真義は少しも解らないので御座います。

 


3月18日

 

主の御使いは、手にしていた杖の先を差し伸べ、肉とパンに触れた。すると、岩から火が燃え上がり、肉とパンを焼き尽くした。主の御使は消えていた。ギデオンは、この方が主の御使であることを悟った。ギデオンは言った。「ああ、主なる神よ。わたしは、なんと顔と顔を合わせて主の御使を見てしまいました。」

(士師記6章21~22節)

 

然れどもギデオンは恐るゝに及ばず、彼は死せざるべし。エホバは彼を殺さんとして彼に顕(あら)はれ給ひしにあらず。彼を救ひ、彼を以て彼の家と国とを救はんために彼に顕はれ給ひしなり。神は又神として彼に顕はれ給はず、エホバとして顕はれ給へり。エホバは神なり。然れども宇宙の主権者としての神にあらず、人類の救主としての神なり。彼は万有を主宰し給ふ。彼の手には権勢と能力あり。然れども彼れ人を救はんとして世に臨(きた)りたまふや、彼は身に謙遜を衣(き)、人の如き形状(ありさま)にて現はれ給へり。エホバは人の見るを得る神なり。先きにモーセに顕はれ、エホバなる名を彼に示し給ひ、後にイエスキリストとして世に顕はれ、万人の罪を贖ひ給ひし者なり。

 


3月19日

 

あなたは 御計らいに従ってわたしを導き

後には栄光のうちにわたしを取られるであろう。

地上であなたを愛していなければ

天で誰がわたしを助けてくれようか。

わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが

神はとこしえにわたしの心の岩

わたしに与えられた分。

(詩篇73篇24~26節)

 

元来霊魂と肉体とは一つのものでありまして、二者は容易に相離るべきものではありません。然るに罪悪の結果として、人たるものは一度は霊肉其処を異にせねばならぬ悲運に陥りました。是れ実に世の罪人が死刑に処せらるゝと同然でありまして実に悲しむべきの至りで御座います。私共が啻(ただ)に死を忌むのみならず亦之を非常に怕(おそ)れまするのは、即ち私共人類たるものは罪の罰として死刑に処せらるゝを知るからであります。死の観念に非常の悲惨の情の附随して居るのは、全く之が為であると思ひます。あゝ人誰か死を怖れざらんやです。また人誰か復活を望まざらんやです。罪の結果として一度は死に遇(あ)はねばらなぬならば、罪の赦しの結果として新しき体の与へられん事は、人の心の奥底に潜んで居る至当の祈願では御座いませんか。

 


3月20日

 

死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。

(コリント人への第一の手紙15章42~44節)

 

復活を迷信と云ふのは祈禱を迷信と云ふのと同一で、畢竟(ひっきょう)その何たるを解しないからであります。基督教の教ふる復活なるものは、此肉体が肉体のまゝで甦ると申すのでは御座いません。復活の真意は更生でありまして、生命が更に肉体に加へらるゝ事であります。我等は死して復び此世に帰らん事を望む者では御座いません。我等は死して更に新しき生命を与へられ新しき世界に往かうと願ふのであります。

 


3月21日

 

あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

(マタイによる福音書5章13節)

 

地の生命(いのち)は甚だ腐れ易くある。その新鮮なる時期(とき)は短く、その溌剌たる期間(あいだ)は少時(しばらく)である。地上の生命は忽焉(たちまち)にして腐敗し、暫時(しばらく)にして硬化す。茲(ここ)に於てか塩の必要があるのである。既存の善事を保存し、其美を発揚し、之をして更に地の涵養を助けしむる或者の必要があるのである。而して神の生命の言葉を心霊に受けし信者が、地の此必要に応ずるのであるとの事である。信者によりて福音以外の諸徳、信者以外の諸善が保存せられ、発揮せられ、流布せらるとの事である。而して此事は世に隠れなき事実である。キリストの福音によりて、旧道徳と旧信仰とは、真正の意味に於ての復活を見たのである。


3月22日

 

わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けて下さいます。

(テモテへの第二の手紙4章6~8節)

 

信者は神の僕である。主人より特殊の要務を委ねられたる者である。故に彼は此要務を果すまでは死すべきでない、而(しか)して彼は其時までは決して死なないのである。リビングストンの言ひし「我等は天職を終るまでは不滅なるが如し」との言(ことば)は信者の確信である。彼に猶ほ天職の完成せざるものがあれば、彼は死なないのである。然れども彼が若し既に果すべきの事を果し了(おわ)りしならば彼は死ぬるのである。彼は長寿の祈求(ねがい)を以て神に迫りてはならない。既に用なき者は此世に存(ながら)へるの必要はないのである。「何ぞ徒(いたず)らに地を塞(ふさ)がんや」である(ルカ伝十三章十節)。僕は主人の用を果たせばそれで去って可(い)いのである。彼は心に言ふべきである。我は長く生きんことを欲せず、我は唯我主の用を為さんと欲すと。

 


3月23日

 

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

(ヨハネによる福音書9章1~3節)

 

茲(ここ)に災禍(わざわい)が全然恩恵(めぐみ)の立場より解釈されたのである。盲目と云へば何れの国に於ても特別の天罰として認めらるゝに関はらず、イエスは茲に断然と盲目は天罰にあらず恩恵の顕(あら)はるゝための機会なりと云ひ給うたのである。実に大胆なる言(ことば)にして斯くの如きはない。是は神の子を待たずしては言ふ事は出来ないことである。イエスの此言に由て災禍に対する人類の思考(かんがえ)は一変したのである。然(しか)り一変すべきである。災禍ではない。天罰ではない、神の恚怒(いかり)の表現ではない、其反対である。災禍は神の行為の顕はれんがための機会である。故にもし人が之を其目的を以て用ひるならば恩恵である。身の艱難は凡て神の我等に降し給ふ恩恵であると、これイエスが特別に人に伝へ給ひし大福音であって、基督信者なるものはすべて此福音に循(したが)って人生を解釈すべきである。


3月24日

 

主よ、憐れんでください。

  絶えることなくあなたを呼ぶわたしを。

あなたの僕の魂に喜びをお与えください。

わたしの魂が慕うのは

  主よ、あなたなのです。

主よ、あなたは恵み深く、お赦しになる方。

あなたを呼ぶ者に

  豊かな慈しみをお与えになります。

(詩篇86篇3~5節)

 

未来に於て神の裁判はある、必然(きっと)在る。然し愛の神は御自身人を鞫(さば)き給はずして、審判は凡て之を子に委ね給うた。而して恵深くして赦しを好み給ふキリストに鞫かれて、我らは最も恩恵的に鞫かるゝのである。而してご自身衿恤(あわれみ)を好みて祭祀(まつり)を欲(この)み給はざるキリストは、人を鞫き給ふに当りて重きを其人の衿恤に置き給ふのである。衿恤はキリストが人を鞫き給ふ時の標準である。所謂正義と称へて清浄潔白なる事ではない、或は信仰と称(とな)へて教義と儀式と伝道の事に於て欠くる所なき事ではない。衿恤である、憐愍(れんみん)である、赦す心である、恵む質(たち)である、愛の行為である。人の永遠の運命は之に由て決せらるゝのである。最後の裁判(さばき)は愛の裁判である。愛せしか、愛せざりしか、これに由て限りなき刑罰か、限りなき生命(いのち)かの別が定まるのである。

 


3月25日

 

神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

(ローマの信徒への手紙8章28節)

 

復活を信じて宇宙と人生とを観じて御覧なさい。宇宙とは何と麗はしい處と成るではありませんか。人生とは何と喜ばしいものに成るではありませんか。「我等悉(ことごと)く寝むるにはあらず、我等みな末(おわり)の箛(らっぱ)の鳴らんとき忽(たちま)ち瞬間(またたくま)に化せん。そは箛鳴らん時死にし人甦へりて壊(く)ちず、我等も亦化すべければなり。」此信仰があってこそ死は其の恐怖を脱(さ)り、世に怕(こわ)い事、悲しい事はなくなって仕舞ふのであります。冬が去って春の来まするのも、鶯が、梅が枝に初春の曲を唱へまするのも、花の晨(あした)も月の夕も、凡て皆一点悲惨の分子をも交へざる希望、快楽の基となりて、我等は天然の美を楽んで、其悲と惨とを思はざるに至るのであります。

 


3月26日

 

イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。

(ヨハネによる福音書6章53~54節)

 

「我れ」 ー 能力(ちから)の充実せるイエスキリスト、天の中(うち)地の上のすべての権力(ちから)を賜はれりと言ひ給ひし彼れ、世に在りし間に死者を甦へらすの実験を有(も)ち給ひし彼れ、其他種々の不思議なる行(わざ)を為し給ひし彼れ、又人類を向上せしむるに於て歴史上最大の力たりし彼れ、又我等彼れを信ずる者の心霊にありて何人も為す能はざる道徳的変化を成就(なしとげ)たまひし彼れ、神の子、人類の王、我らの救者(すくいて)たる彼れ主イエスキリストが死者を甦らし給ふとのことである。ペテロとか、パウロとか、ヨハネとか云ふ人が此奇跡を行ふと云ふのではない。我は生命(いのち)なり復活(よみがえり)なりと云ひ給ひし神の子イエスキリストが此事を為し給ふと云ふのである。何も不思議はないのである。

 


3月27日

 

 エノクは 六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。

(創世記5章21~24節)

 

「歩む」とは「静かに歩む」の意である。飛ぶにあらず、走るにあらず、歩むのである。雄飛と云ふが如き、疾走と云ふが如き、絶叫と云ふが如き事を為さずして、忍耐を以て神に依頼み、其命に従って静かに日々の生涯を送る事である。敢て大事業を成さんとせず、大伝道を試みんとせず、大奇蹟行はんとせず、たゞ神の命維(こ)れ重んじ、彼の言葉維れ従ひ、神を信ずる是れ事業なりと信じて、無為に類する生涯を送る事である。信仰の生涯の大部分は忍耐である。静粛である、待望である。神に在りて自己に足るの生涯である。又神より何物をも受くることなきも、彼れ御自身を賜はりしが故に、其他を要求せざる生涯である。


3月28日

 

初めからのことを思い出すな。

昔のことを思いめぐらすな。

見よ、新しいことをわたしは行う。

今や、それは芽生えている。

あなたたちはそれを悟らないのか。

わたしは荒れ野に道を敷き

砂漠に大河を流れさせる。

(イザヤ書43章18~19節)

 

人の世に生るゝや、彼は新たに生る。彼は祖先の遺伝を受くること甚だ少し。悪人の父より善人生れ、病弱の母より健児生る。神は各人を以て新たに其聖業(みしごと)を始め給ふ。祖先の悪しきは憂ふるを須(もち)ひず。人は各自アダムとエバとの如く直(ただち)に神に造らるゝ者なり。嬰児が呱々(ここ)の声を揚ぐる毎に革新の声は揚る。希望は時々刻々此世に臨みつゝあり。腐敗の累積は敢て恐るゝに足らざるなり。

 


3月29日

 

ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。

(コリント人への第一の手紙4章5節)

 

造化の不完全を憤り、信者に欠点多きを怒りて、神を誹(そし)り、信者を嘲(あざけ)り、福音を斥(しりぞ)け又は之を棄つる者は、神の聖業(みしごと)を其中途に於て見て之を其完成に於て視んと欲せざる者である。救拯(すくい)は既に始まったのである。然れども救拯は既に了(おわ)ったのではない、完成の途上に於てあるのである。而してその完成するや、目未だ見ず耳未だ聞かず人の心未だ念(おも)はざる者である(コリント前書二章九節)。然れば我等は俟(ま)つべきである。信者は己が完成せられんことを俟つべきである。不信者も亦神と福音と信者とに就て其最後の断案を下さんと欲するに方(あた)つて、其時の到るまで俟つべきである。


3月30日

 

キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。

(ガラテヤの信徒への手紙1章4節)

 

キリストは医者でもなければ又政治家でも御座いません。彼の天職は霊魂の救主たることでありまして、彼の為されし仕事の性質から申しましても、彼は人類中に比類の無い者で御座いました。霊魂を救ふ者とは人の犯せし罪を赦し、其良心に満足を与へる者で御座います。かう云ふ人物は道徳家でもなければ、又哲学者でもありません。如何なる君子、碩徳鴻儒(せきとくこうじゅ/仏教・儒教の指導者)なりとも人の罪を贖うて之を赦す事は出来ません。霊魂の存在と其要求する物の何たるかを知れば、キリストの何人なるかを知るに難くないと思ひます。私共が霊魂を有する以上は、キリストの如き人物の降世と彼の為されし事業とは、私共の生存上の大必要であると云はなければなりません。

 


3月31日

 

この朽るべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽るべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。

「死は勝利に飲み込まれた。

死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

(コリントの信徒への第一の手紙15章53~55節)

 

然り余は信ず、余の救主は死より復活し給ひしを。義人を殺して其人死せりと信ぜし猶太人の浅墓さよ。何ぞヒマラヤ山を敲(たた)きて山崩れしと信ぜざる。余が愛するものは死せざりしなり。自然は自己の造化を捨てず、神は己の造りしものを軽んずべけんや。彼の体は朽ちしならん、彼の死体を包みし麻の衣は土と化せしならん。然れども彼の心、彼の愛、彼の勇、彼の節 ー 嗚呼若し是等も肉と共に消ゆるならば万有は我等に誤謬を説き、聖人は世を欺きしなり。余は如何にして、如何なる体を以て、如何なる処に再び彼を見るやを知らず。唯

  “Love does dream, Faith does trust

  Somehow, somewhere meet we must.” ー Whittier.

  愛の夢想を我れ疑はじ

  何様(どう)か何処かで相見んと。(ホイッチャー)