旧約聖書の旅「創世記」第2回「メソポタミアからの影響」(小山哲司)

 全く素朴な疑問で恐縮ですが、創世記2章8節に「東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。」とされる「エデンの園」とは、一体何処にあったと考えられていたのでしょうか?

 ここで問題にしようとしているのは、エデンが具体的に何処にあったかということではなく、創世記を書いた者たちがエデンを何処としてイメージしていたかということ。そして、この問題に付いてヒントとなるのは、8節の「東の方の」という方角、そして、10節から14節までの地理的条件に関する叙述です。

   イスラエル人にとって、「東」の方角は自分たちの発祥の地を指す方角であったのでしょうか?「我々は東方から来たのだ」という民族の古い記憶・信仰が、聖書記者の叙述に影響を及ぼしたのかもしれません。

   例えば、東という点では、エデンの方角は「東の方」でしたし、後で取り上げるノアの方舟が漂着したとされるアララト山は、現在のトルコの東端、イラン国境に近いアルメニア地方にそびえ立つ山ですから、これも「東の方」と呼んで差し支えないでしょう(8:4)。また、バベルの塔を建設した人々(ノアの子孫)も、東の方から移動してきてシンアルの地へ住み着きました(11:2)。このシンアルの地とは、バビロニア、すなわちチグリスとユーフラテスの平原に用いられる名であると言われます。そして、イスラエル人の父祖アブラハムは、父テラたちとカルデアのウルを出発した、とされておりますが、このウルは南バビロニアにあった都市を指しております(11:31)。

 こうした点を鑑みますと、イスラエルの人々は、自分たちの出自は(カナンの地の)東方にあったと考えていたのではないでしょうか?

 

 それは、2章10節から14節までに登場するエデンから流れ出ている川の名前の中に、チグリス川、ユーフラテス川が含まれていることからも、この2つの大河に挟まれたメソポタミアの地が意識されていたことが分かります。その他の2つの川、ピションが流れていたハビラはアラビア半島の地域名ですが、ピションがどの川を指しているのかは特定できません。ギホンはナイル川を指すという説もありますが、厳密には不明です。しかし、これらの大河が流れ出ずる地がエデンであり、「東方」に存在していたとする点に、創世記記者の「東方」への関心の強さが伺われます。

 

 さて、東方のメソポタミアからの影響は、このようにして創世記1~11章の随所に出て来ます。創世記3章に記されているエデンの園の不死と禁断の果実の物語も、メソポタミアの影響を感じさせる箇所の一つ。

 考古学者の発掘調査によって、バビロニアの古代文学「アダパ物語(アッカド語)」の記録された粘土板が、ニネベにあったアッスリヤのアシュルバニパル王の図書館跡とエジプト第18王朝(紀元前14世紀)の首都であったテル・エル・アマルナから発見されました。この「アダパ物語」は、創世記3章と関係があるとされておりますが、その概要は次の通りです。

 

 太古、チグリス川とユーフラテス川とが合してペルシャ湾に注ぐところに、エリヅウという古い都がありました。その都にアダパという名の原人が住んでいました。彼はその都の守護神エアによって創造された半神的人間であったのです。彼はエアによって神の如き知恵を授けられておりました。彼の仕事は毎日エアの神殿に奉仕してパンを焼き、水を用意し、夜はエリヅウの城門を守ってエアに安眠を与え、夜明けにはペルシャ湾に船を浮かべてエアのために漁をすることでありました。ある日アダパが海に船を出して漁をしていた時、にわかに南風が激しく吹いて、彼の船を転覆させました。彼は海中に沈み、かろうじて命を拾ったのでありましたが、そのために彼は激しく怒って、ついに南風の翼をへし折ってしまったのです。そこで7日間、涼しい南風は地上に絶え、エリヅウの都は耐え難い厚さに悩まされることとなりました。天上のアヌ神は、自分の部下である南風が少しも吹いて来ないものだから、その原因を調べるとアダパの行為と分かりましたので、彼を天上に召して罰しようとしました。その時、エリヅウの神エアはこれを知り、自分が創造したアダパを救うため、彼が天に召されたときに取るべきいろいろの策略を教えました。即ち、喪服を着て天の門に近づくべきこと、天の門でその門の警護者タンムヅ神とギンジタ神とが、喪服の理由を尋ねたならば、地上より消え去った彼等両神のためであることを告げ、彼等の心を和らげて、その後でアヌ神の前に両神の仲保を乞うべきであることなどを教えたのです。しかし、エアは、万一アヌ神の怒りが解けて、アダパがアヌ神の御心にかない、神格を授けられ、永生を与えられる様なことがあってはならないと予め嫉妬して、天上でアヌ神が永生を与えるためにアダパに供応する食物と水とは決して口にしないようにと偽りのことを教えました。

 さて、アダパはエア神の教えた如くに喪服を着て天の門にいたり、警護の二神の同情を得て、彼等の仲保によって、アヌ神の怒りを解くことが出来ました。アヌ神はアダパに神格を授けて永生を与えようとして食物と水を与えようとしましたが、アダパはエアの指図にしたがってそれを拒絶しました。このようにして永生をうべき機会を失って彼は再び地上に帰ってきましたが、人類の父となる特権を与えられたのにもかかわらず、病苦と不安と戦いつつ死への道を辿らなければなりませんでした。

 

 このアダパ物語と創世記3章の記事の類似点を幾つか挙げてみましょう。

(一)アダパとアダムの名前の類似性。二人とも人類の祖先とされている。

(二)アダパがアダムと同様に知恵を得たこと。

(三)永生を得られなかったのが、創造者たる神がある種の食べ物(アダパは食   物と水、アダムは生命の木の実)を食べさせなかったからだとする点。

(四)両者とも、衣服を神に作ってもらった点。

(五)アダパが病苦と不安に悩んだことと、アダムの労働、エバの出産の苦痛。

 このように、類似点が挙がる一方で、違いがあるのは勿論です。相違点は、次の通り。

(一)アダパ物語は、多神教的な色彩が濃いこと。

(二)エア神の動機は嫉妬であり、倫理的な動機付けが弱いが、創世記に描かれ   る神は正義の神であり倫理的な服従を人間に要求していること。

 アダパ物語が創世記3章に影響を与えたとは断定できませんが、何らかの影響があったことを否定は出来ません。しかし、創世記記者は多神教の影響を全く排しており、アダパ物語には含まれていない義なる神の姿を明確にしている点に、創世記の独自性が表われております。

 

 次に、創世記6章のノアの洪水の記事に移ります。これも、メソポタミアに類似の物語が伝えられており、何らかの影響が考えられる箇所です。しかも、アダパ物語と創世記3章が類似している以上に類似性が高いのです。

 この類似の物語は「ギルガメシュ叙事詩」といい、やはりニネベのアシュルバニパル王の図書館から出土した粘土板に記録されていた物語です。この粘土板自体は紀元前7世紀に記録されたものですが、これと似た更に古い時代の物語が複数発見されておりますので、こうした物語がノアの洪水の物語に影響を与えたことは確実視されております。

 では、「ギルガメシュ物語」の概要を見ていきましょう。

 

 四つの神アヌーとベルとニニップとエンヌギとが洪水をもって人類を滅ぼそうと協議しましたが、エア神は彼の礼拝者ウトナピシュティムに、船を作ってのがれるようにと告げました。ウトナピシュティムは、松脂で水の漏らないような船を建造して食料と水とを運び入れ、その中に彼の家族と奴隷と船頭とまた生けるあらゆる種類の動物とを入れました。

 さて、七日間、風と雨との嵐が起こり、神々は天に逃れ、驚きをもって絶叫しました。女神イシュタールは人間のために仲保をなすとやがて雨は止み、ウトナピシュティムは船の外、遥か彼方に陸地を認めたのです。船は、やがてチグリス川の東、ニッザーの地にある山の頂きに漂着し、七日の後、ウトナピシュティムが鳩とつばめと烏とを順次送出すと、初めの二つは帰ってきましたが、最後のものは帰ってきませんでした。そこでウトナピシュティムは全ての生き物を外に出して山の頂上で犠牲を神にささげました。すると女神イシュタールが近づき、誓の印として虹をもたらしました。

 

(ギルガメシュ叙事詩抄訳)

ウトナピシュティムはギルガメシュに語った。

「おおギルガメシュ、私は君に秘密の物語を告げよう。神々の決議を語ろう。

シュリッパクは、君の知っている通り、ユーフラテス川の堤にある。

その町は、古くて、神々がその中にいた。

大いなる神々が、彼等の心に洪水を起こすべき決議をした。

それらは彼等の父アヌーが計画したのだ。

彼等の協議者は、戦士のベルであった。

知恵の主エアも、彼等と共に協議した。

彼は彼等の決議を芦の小屋に告げた。

『芦の小屋よ、芦の小屋よ、聞け!

汝の家を破り、船を造れよ。

汝の家財を捨て、汝の生命を求めよ、

汝の持ち物を投げ捨て、生命を保てよ、

船の中に、生けるもの、種子を携えよ!

汝の造るべき船の、その寸法を計れよ、

そして、その幅と長さとが、釣合のとれるようにせよ、

船は大海に浮かばねばならぬのだ。』

私はエア神の言うことが分かった。

そしてエア神に言った。

『主よ、主よ、あなたの仰せになったことを私は必ず守ります。

私は町や若者たちや長老たちに、何と告げればよいのでしょう?』

エア神は口を開いて言った。

『人々にかく説明してやるがよい。

ベル神が私を憎んでいることを知ったのだ。

私はもう君たちの町に住まないであろう。ベル神の領地にいたくないのだ。

私はエア神と共に大海に行き、彼と共に住むでしょう。』・・・・・

五日目に私は形を作り上げた。

船の高さは120キュピトで、

屋根の広さも120キュピトであった。

私は船体を造り、その四方を囲み、6階造りにした。

私は各々を7つの部分に分けた。

その部分の中を9つに分けた。・・・・・

私は舵に注意を払った。そして必要なものを準備した。

私は6サースの緑青を外側に塗った。

私は3サースの緑青を内側に塗った。・・・・・

偉大なるシャマス神(の指揮により)船は完成された。

(船架から船を動かすことは)困難なるものであった。

人々は上や、下に、船の道を潔めてくれた。・・・・・

私の持ち物をみな(船に)積み込んだ。

私のもっている全ての銀を積み込んだ。

私のもっている全ての金を積み込んだ。

私のもっている全ての生けるものを積み込んだ。

私は全ての家族と親族とを船に乗り込ませた。

野の家畜も、野の獣も、職工も全てを乗り込ませた。

シャマスが時を定めた。(かく言いながら)

『雨を送るものが、汝の上に、雨を送るであろう。

恐ろしき雨の嵐を夕に送るであろう。

船に乗れよ、そして戸を閉じよ』

定められた時が近づいてきた。

雨を送るものが夕に重き雨の嵐を送った。

私はその日の近づくのを見た。

かかる日の近づくのを見ることさえ、私には恐怖であった。

私は船に乗り、戸を閉じた。

船をあやつるために、私は、船人のブザーカーガルに、

主権を委任し、積み荷を彼に託した。

暁の来ると共に、天の蒼海より暗黒の雲が起こった。

アダトは黒雲の中に雷電を起こした。・・・・・

ある日颱風が襲い、速やかに来たり(そして水は)山々を(隠した)。

それは決闘のごとく迅速に、人々の上に迫ってきた。

誰一人同胞を顧みることが出来なかった。

天にいる諸神も、互いに相知ることが出来なかった。・・・・・

六日六晩、嵐と洪水と颱風とが、大地を圧倒した。

七日目が近づいたとき、颱風と洪水とは、

戦いのごとく戦った後に、戦いをやめた。

海はしずかになった、暴虐なる嵐は止み、洪水は退いた。

私が海を顧みたとき、叫びは静まっていた。

そして全人類は、土くれの如くなっていた。

丸太の如くに、全てが漂っていた。

私は窓を開いた。光が私の頬に落ちてきた。

私は圧倒せられ、ひざまずいて泣いた。私の頬には涙が流れた。

私は四方の海を見回した。十二哩のかなたに島が現われた。

ニッザーの山に船は静かに止まった。・・・・・

七日目が近づいたとき、私は鳩を飛ばした。

鳩はあちらこちらと飛び回ったが、

休み場を見い出し得ないで帰ってきた。

私は燕を飛ばした。燕はあちらこちらを飛び回ったが、

休み場を見い出し得ないで帰ってきた。

私は烏を飛ばした。烏は行き、水の乾いたところを見た。

それは食い、があがあと鳴いた。しかし帰ってこなかった。

私は全ての生けるものを四方に放ち、

そしてささげものを持ってきた。

私は山の頂きに犠牲をささげ、

七つと七つの香の皿を供えた。

私は芦を積み上げた上に糸杉を香にした。

神々はその甘き香をかぎ、神々はその香をかいだ。

神々は蝿の如くその犠牲の周囲に集まってきた。

やがて神の后が近づいてきた。

彼女はアヌ神が彼女の好みに従って造ってくれた宝玉(虹)を持ち上げて

『おおここにいられる神々!

私の首にかけている宝玉に誓って私は忘れますまい。

この日を決して忘れることなく永久に記憶しましょう・・・・・』

エア神は口を開いていった。彼は戦士ベルに言った。

『おお軍神よ、あなたは神々の王に違いあるまい。

 

しかしあなたは、私の意見を用いないで、なぜ洪水を起こされたのですか?

罪人にはその罪を罰し、悪人にはその悪を罰してもよい。

御心を和らげて・・・・・(人類を滅ぼさないで欲しいものです。)

洪水を起こす代わりに、獅子を遣わされたら、人は滅びるであろうに。

洪水を起こす代わりに、狼を遣わされたら、人は滅びるであろうに。

洪水を起こす代わりに、疫病を遣わされたら、人は滅びるであろうに。』

・・・・・

エア神は只一人船の中に入って行った。

彼は私(ウトナピシュティム)の手をとって前に引き出した。・・・・・

 

彼は私達の間にたたずみ、祝福をして下さった。・・・・・」

 

 叙事詩の概要と抄訳から分かるとおり、ノアの方舟の物語とギルガメシュ叙事詩の一部は極めてよく似ております。類似点を挙げれば次の通りです。

(一)主人公に洪水が来るという神からの示しがあったこと。

(二)主人公が船を造ったこと。

(三)主人公が家族と動物とを伴って船に乗り込んだこと。

(四)洪水の後で、船が山の頂きに着いたこと。

(五)主人公が鳥を放ってみたこと。

(六)主人公が神に犠牲をささげたこと。

(七)誓いの印として虹を呼び出していること。

 

 細かな部分までそっくりと言えば大げさですが、良く似ております。ただ、ノアの方舟の物語において、神が洪水を起こした理由は、人類の「罪」の問題であったのに対して、ギルガメシュ叙事詩においてはエンリル神の休息を妨げる人間の「騒々しさ」に対する神の怒りでありましたので、洪水の原因が決定的に異なっております。更に、神々の協議といった多神教的な色彩は一掃されておりますので、旧約聖書の記者はギルガメシュ叙事詩の影響を受けつつも、唯一神の信仰に立って洪水の意味を組み替えたと言えるでしょう。

 

 ところで、こうした洪水物語が存在しているということは、何らかの洪水が実際にあったということなのでしょうか?物語の背後に、その本となる事実があったのかという素朴な疑問が涌いて参ります。

 この点については、メソポタミア地方の発掘調査により、洪水によって出来たと思われる地層が発見されており、古代において洪水が起こったこと自体は確認されています。

 しかし、ノアの方舟の物語に示されるような世界を壊滅させる様な規模での洪水があったかといえば、それ程の規模の洪水の痕跡は残っていないようです。

 1929年にイギリス人ウーリイ卿によってウルの遺跡で発見された3.5メートルの「水によって運ばれた混じり物のない粘土」の層は、洪水の痕跡としてセンセーショナルな話題を提供しましたが、ウルの周辺を発掘して見ると、年代がまちまちで、厚さもまちまちの粘土層が発掘されるばかりでした。どうやら、洪水の範囲は狭く、回数も一度ではなく、小規模の洪水が度々起こっていたということが真相のようです。そうした洪水の中で特に規模の大きかったものの記憶が、ギルガメシュ叙事詩の背景にあり、さらにそれがノアの方舟の物語に影響を与えたと考えられます。

 

 洪水物語の次は、バベルの塔(11:1~9)です。

 バベルの塔に関しては、ギルガメシュ叙事詩のような並行物語は存在しておりません。物語こそ存在しませんが、バベルの塔のモデルとおぼしき塔はメソポタミア地方の各地に実在しておりました。

 メソポタミアで発見された塔(ジックラトゥ)としては、南メソポタミアのウルの遺跡が有名です。これは、現在、発掘で知られている最古のジックラトゥであり、シュメル時代(紀元前2100年頃)のものです。それより古い時代にもジックラトゥが建設されていたことが、古い時代の円筒印象に図柄として残っております。こうした点から分かる通り、メソポタミアの大都市は、古くから巨大な塔(ジックラトゥ)を建設していた訳です。

 

 こうしたジックラトゥは、元来、その都市の神を崇拝する神殿の一部であり、それと同時に強大な政治権力や経済的な繁栄、高度な技術と文化の象徴でもありました。だからこそ、バビロニアやアッシリアの王たちは、しばしばその碑文にジックラトゥの建造を誇らしく刻み込んだのです。

 では、イスラエルの人々とジックラトゥの接点は何処にあったのでしょうか?

 それは、バビロンの捕囚の時期にあったと考えられております。

 紀元前6世紀の初めにバビロニアに強制連行されたユダの捕囚民たちは、バビロンのジックラトゥに目を見張っただろうと思われます。その当時のバビロニアの王ネブカドネツァルは、碑文に次のように刻ませています。

 

 私はバビロンのジックラトゥ、エテメンアンキ(「天地の基礎の家」の意味)を新たに建て、その基礎を冥界の胸に置き、その頂きを天に届かせた。

 

 このジックラトゥは、今世紀初頭のドイツ調査隊によるバビロンの遺跡調査で発掘されました。地上の部分は残っておりませんでしたが、ジックラトゥを素描した当時の文書などから判断すると、一辺が92メートルもの正方形の基礎を持つ階段状のピラミッドで7段からなり、高さが90メートルほどもあったと考えられております。現代の我々の基準からしても大きな建造物ですから、古代の人々の目にはどれほど巨大に映ったことでしょうか。

 さて、バベルの塔には並行物語がありませんから、この物語がどのような過程を経て成立したかは分かりません。ただ、バビロンで捕囚の時代を過ごした人々の手を経ていることだけは確かです。アッカド語というバビロニアの言語が、バビロニア帝国が滅亡するBC538年まで西アジア全域の外交公用語であったことも、この物語に何らかの関係を持っていたことと思われます。

 多分、捕囚の地で巨大なジックラトゥに象徴されるのバビロンの権力と文明を見せつけられ、自分たちの置かれた状況のみじめさを思いながら、こうした文明に潜む問題点に捕囚の人々の目は向けられて行ったのではないかと思います。そして、唯一なる神に背を向けた文明は人間の奢りを助長し、人間を一つにまとめるどころか、逆に人の群れを内部から崩壊させてしまうと、バベルの塔の物語を通して指摘したのです。

 

 ここまで、創世記1章から11章までをメソポタミアとの関係に焦点を当てながら駆け足で見て参りました。

 これまで取り上げた創世記3章、6~7章、11章に見られるメソポタミアからの影響を見てお分かりの通り、創世記の1~11章にはメソポタミアの神話、事物の影響が色濃く反映しております。しかし、前回、7月の発表の際に、創世記冒頭の天地創造の物語は、バビロンの創造神話に対するアンチテーゼであると申し上げたように、捕囚のユダの人々はメソポタミアの繁栄と文化を前にしてもそれに飲み込まれることなく、唯一なる神に思いをはせて自分たちの信仰を守り通そうとし、逆に、メソポタミアの物語を自分たちの信仰の立場から書き直し、更に、文化の象徴であったジックラトゥをこの世に混乱(バラル)をもたらすものとして、断罪しているのです。

 こうした捕囚の民の信仰は、歴史上では父祖アブラハムから足跡をたどることが出来ます。そして、アブラハムは、古代の中心であったメソポタミアのウルの地から、その生涯の旅へ最初の一歩を標すのでありました。

 

 

(参考書)「創世記Ⅰ」(月本昭男著 日本キリスト教団出版局)/「目で見る聖書の世界」(月本昭男著 日本キリスト教団出版局)/「歴史としての聖書」(ケラー著 山本書店)/「旧約聖書Ⅰ 創世記」(岩波書店)/「旧約聖書略解」(日本キリスト教団出版局)「図説 旧約聖書の歴史と文化」(新教出版社)「ギルガメシュ叙事詩」(山本書店)