旧約聖書の旅「創世記」第3回「アブラハムの旅立ち」(小山哲司)

ません。手掛かりとしては、彼等の生涯が何歳であったのか、何歳のときに子供を生んだのかといったことしか書いてないのです。

 ですから、族長物語から具体的なイスラエルの歴史が始まるとして、アブラハムが生きていたのはいつの時代であったのか、ということが問題となります。

 この「アブラハムがいつの時代に生きていたか」という点については、聖書以外の史料は全く見つかっておりません。例えば、創世記14章は、シディムの谷の5都市(ソドム、ゴモラ、アドマ、ツェボイム、ベラすなわちツォアル)の王たちが、エラムの王ケドルラオメルに対して戦いを挑んだ時のことについて書いています。エラムの王ケドルラオメルは、5都市の王たちが反乱を起こすまで12年間に渡って彼等を支配しておりました。これは、当時としては大きな国際紛争でありますから、周辺諸国の記録に何らかの痕跡を残してしかるべきものです。しかし、これについて記した聖書以外の史料は発見されておりませんし、ケドルラオメルの名前をメソポタミアの史料の中に見つけることも出来ないのです。

 史料がないのは何もアブラハムの時代に限ったことではなく、イサク、ヤコブの時代に登場する公的な立場の人々についても同様です。例えば、サレムの王メルキゼデク(14章17節~)、ゲラルの王アビメレク(20章2節)、エジプトの役人ポティファル(39章1節~)らについては、聖書にしか記録が残っておりません。もし、12章10節から始まるアブラムのエジプト滞在の箇所に登場するファラオやヨセフ物語に登場するファラオの名前が分かればアブラムやその子孫の族長たちが生きていた時代を特定することが容易になりますが、聖書はこうした点については沈黙を守っております。結局の所、残念ながら、族長物語に関しては、聖書と聖書外史料との接点は現時点において皆無であると言わざるを得ないのです。

 このように、族長時代の物語を聖書外の史料を元に検証しつつ、彼等が活躍した時代を確定できない以上、創世記の記述内容を元に彼等の時代を定めて行かなければなりません。創世記の記述を元にすれば、次のような形で年代を定めることになります。

 アブラムがカナンに向けて旅立った時、彼は75歳であり(創12・4)、イサクが生まれたときは100歳でありました(創21・5)。また、ヤコブが生まれたとき、イサクは60歳であり(創25・26)、ヤコブはエジプトに下った時に130歳であった(創47・9)という箇所から、アブラムが旅に出てからヤコブがエジプトに下るまでの期間は215年ということになります。更に、エジプトに於けるイスラエルの奴隷時代は430年(出エジプト12・40)であり、また、エジプト脱出からソロモンの治世第4年における神殿建設の開始までは480年であった(列王記上6・1)とされております。

 さて、ソロモンの死亡時期については、紀元前930年頃とする点でほぼ学者の意見が一致しておりますので、ソロモンの治世が40年であった(列王記上11・42)ことから、ソロモンの治世第4年は紀元前966年頃ということになります。この年を基準点として、これまで述べたことを整理すると次のようにまとめられます。

 

   紀元前2091年ごろ  アブラムがカナンに向けて旅立つ

   紀元前1876年ごろ  ヤコブらがエジプトに下る

   紀元前1446年ごろ  出エジプト

   紀元前 966年ごろ  ソロモンが神殿の建設を始める。

 

 聖書をして語らせると、このような年代に定まるのです。創世記の編者たちは、こうした年代を族長たちの時代として想定したのですが、実は、このような定め方ではいろいろと具合の悪い点が生じてしまいです。

 第一に、考古学上の事実と符号しない点が出てしまいます。

 アブラハムは自分たちの荷物の輸送手段としてらくだを用いております(創12・16、24・10)が、らくだが家畜としてして輸送の手段となったのは紀元前11~12世紀の頃であり、それまではろばが用いられておりました。紀元前21世紀にらくだが家畜として用いられたとは考え難いのです。

 また、出エジプトの時期に関しても、エジプトの史料に全く何の記載もないために聖書外の史料を元に年代を決め難いのですが、イスラエルの人々が住んでいたゴシェンの地は、ラメセスの地とも呼ばれております(出エジプト1章11節)。これは、エジプトのファラオの名前から取られた地名ですが、ラメセスという名のファラオが誕生したのは第19王朝(紀元前1320~1200)のことでありました。とすると、紀元前1446年頃ではつじつまが合わなくなるため、出エジプトの時期は紀元前1320年以降であったと考えなければならないことになります。考古学者たちによれば、紀元前1250年頃のことだろうという点で異論はないようです。

 創世記に描かれているアブラハムの時代のカナンの様子も、考古学上の発掘成果とは食い違いがあります。創世記によれば、アブラハム・イサクの時代にペリシテ人が登場します(創20・2、26・1)が、ペリシテ人がカナンの地に現われるのは、紀元前12世紀のことでありました。ペリシテ人の登場する時期に8世紀ものずれが生じる事になってしまいます。

 第二に、族長の寿命が極端に長くなってしまうことです。

 創世記の記述に従うと、アブラハムが175歳(創21・7)、イサク180歳(創35・28)、ヤコブ147歳(創47・28)、ヨセフ110歳(創50・26)などと、現代の保健・医療制度の下でも実現できないほど族長たちが長命であったことになります。長命ではなかったという証拠がある訳ではありませんが、彼等が実際にこれほど長命であったという説明もまた難しいことです。

 この点については矢内原先生は、次のように述べています。

 「創世記人物の年齢は著しく長寿に記されてあるが、古代人物の長寿は他の民族の伝説においても共通である。これは記録のなかった古代を遥かなる過去と考えることによって、民族の歴史の古きを誇る思想、並びに長寿をもって祝福と考えるところの尚古思想によるものであろう。古代人は近代人よりも長寿であったことを必ずしも否定は出来ないが、伝説の年齢をその数字のままに受け取る必要はない。アブラハムの父テラは70歳のときアブラハムを生んだのであるが、近代の男子が普通に最初の子を得る年齢を25歳乃至30歳とすれば、創世記に記さるる年齢の数字より40年乃至45年を引いたのが、近代的標準における年齢と考えることが出来る。従ってアブラハムがハランを出たときの年齢75歳とあるは、近代的標準で言えば30歳乃至35歳であり、妻サラは彼より10歳年下であるから、20歳乃至25歳に当たる。そうして見れば、エジプト人がサラの美貌を賞めて、彼女をパロの後宮に勧めたことも首肯出来よう。(創世記の記事のままでは、この時サラは65歳であったのである!)」(聖書講義Ⅴ 創世記 p115より)

 従って、これまで述べたことからも分かるとおり、創世記の記述に基づいて定めた年代をそのままの形で受け入れる訳にはいきません。

 では、どうして考古学上の発見と聖書の記述のずれが起こったのでしょうか?

 その原因は、このレポートの第1回目の際にも申し上げたとおり、J資料、E資料、P資料などにより創世記の編纂が始まったのが、ダビデ王国の成立時以降のことであったからです。口から口へ伝承されてきた「史実」が伝承の過程で、或いは、編集の過程で、その時点での社会的・政治的な影響を受け、或いは、編集時点での読者の便宜が考慮されたり、編集者の神学的な思索が反映されたりして、伝承の内容が変化して行ったとしても無理からぬことと言えましょう。  

 「アブラハムの活躍した時代は何時になるのか?」という問いに関しては、アメリカのオルブライト博士らが考古学上の発見に基づき「定説」を1950年代に打ちだしました。アブラハムの活躍した時代は紀元前19世紀であるというのです。しかし、当時の考古学の未熟さやその後の発見などから、現在は紀元前19世紀とは断定できないとされております。この点については、ここでのレポートが聖書考古学を眼目としている訳ではありませんので詳細は省きますが、いつの時代かについては断定できないもののアブラハムという族長が存在していたこと、そして、彼がカナン以外の地-東方にあるカルデアのウル-から来た者であったことについては、ほぼ説が固まっているいるようです。

 紀元前1250年の出エジプトを遡ること数百年の昔に、アブラムと呼ばれる人物が、家族と一緒にカルデアのウルという町から旅に出た。その時期は、ひょっとすると紀元前19世紀頃かもしれないし、もっと後かもしれない。聖書の記述を元にしたよりも、時代的にもっと新しいだろうということです。少々曖昧で頼りない結論ではありますが、現時点ではこれ以上のことを断定することは出来ません。アブラハムを始めとする族長の物語にも「史実」が込められておりますが、史実としての価値が強まるのは出エジプト以降の記述であり、旧約聖書の編集が始まった紀元前10世紀以降の記述であることを付け加えておきたいと思います。

 アブラハムの時代について述べて参りましたが、当時のメソポタミアの情勢についても少し触れておきます。どうしてメソポタミアなのかといえば、聖書の舞台であるカナンの地はイスラエルの人々の生活の舞台でありました。そして、カナンの地はエジプトとの強い結び付きがあり、イスラエルの人々もエジプトの地に移住した歴史があったにもかかわらず、自分たちの出自をカナン、エジプトに求めることは全くと言ってよいほどないのです。第1回のレポートの際にも申し上げたように、自分たちの出自は「東方」にあると、繰り返し述べているのです。このイスラエルの人々の「出自」である(と少なくとも自覚されている)東方-メソポタミア-について概観しておくことは、今後の学びを進めて行く上で必要なことだと思います。

 「メソポタミア」という言葉には、「川の間に挟まれた土地」という意味があります。その名が示すとおり、メソポタミア地方にはチグリス川、ユーフラテス川という大きな川が流れておりました。この2つの大河の流域に人々が定住し、メソポタミア文明を築いていったのです。

 さて、メソポタミアの人々の歴史を遡りますと、紀元前7000年頃-この時期は新石器時代にあたります-には、既に泥とアシを用いて家を造って住んでいたようです。暖炉や貯水漕の設けられた家もあったようですが、素材が泥とアシですから、粗末なものでありました。それが、2000年ほど経つうちにレンガを作る技術を身に付けてより堅牢な家の構造に変わっていきました。

 人々の生活の場は、北部から次第に南下し、紀元前4000年頃には南部の湿地帯にも人々が定住するようになりました。南部に定住した人々は、湿地帯の治水工事を行って排水溝などを設置して農耕に適さなかった土地をも耕地として利用できるようにしていきます。彼等の努力が実を結び、食料の生産量が増加したために、メソポタミアの各地に築かれた村々は町へと成長を遂げ、後の都市国家が誕生する条件を整えていきます。

 このようにして紀元前4000年頃から食料生産力の増大に連れて村や町の人口も増えていき、それらの一部は、自分たちの守護神を祭る神殿を建設し、神官を兼ねた王の下で組織化されていきます。こうして最初の都市国家が成立していきます。 

 最初の都市国家といわれているのは、シュメール人の都市国家です。シュメール人は民族的に何族に属するのか不明であり、その紀元もはっきりとはしません。彼等がメソポタミアに作ったのは都市国家というよりは、都市国家群と言ったほうが正確な表現であると思います。現在の国家の感覚から言えばまことに小さな都市が国家となり、それが、各地に点在していた訳ですから。当時の代表的な都市の名前を挙げますと、エリドゥ、ウル、ウルク、バドティビラ、ラガシュ、ニナー、ギルス、ウンマ、ニップール、キシュ、シッパル、アクシャク等です。アブラハムが父親のテラと生活していたウルの名前もこの中に見つけることが出来ます。

 シュメール人たちは文字を発明したため、当時の記録が残っております。文字は、最も古い時代のものは絵文字を含んでおりましたが、楔形文字として完成されました。このシュメール人の完成させた楔形文字は、アッカド人、ヒッタイト人、フルリ人などに借用されながら紀元後1世紀まで命を保っていきます。こうした文字の使用目的は、当初は主に神殿の運営と管理であり、やがて、文字の専門家としての書記の手によって政治・経済・外交の公文書にも使われる様になって行くのです。

 ここで横道にそれますが、シュメール人の社会においても、文字を使えるかどうかは次第に重要なこととなっていき、当初は神殿の単なる記録係であった書記の社会的な地位も重要なものとなって行きます。例えば、徴税請負人の帳簿を付けたり、承認の発注書や領収書を代筆するのはすべて書記の仕事でした。公証人の様に、遺言書などの作成を手伝って、それが法的に有効であることを確認することもありました。また、当時のエリート職である神殿の役人や軍隊の経理係として立身していく道も開かれていたのです。こうした書記たちは単に文字を知っていただけではなく、高度な数学的な知識も持っておりました。数学の知識を用いて土地の測量を行い、税金の額を算出する基礎資料とするなど、数学(幾何学)の活躍する場も多かったのです。

 では、こうした書記たちはどこで文字を身に付けたのでしょうか?文字の必要性が高まるに連れて、文字を身に付けさせるための機関が必要となり、神殿や宮殿には付属の学校が設けられるようになっていきました。バビロニア時代の記録によれば、この学校は「粘土板の家」と呼ばれ、6~18歳の裕福な家庭の子だけが通うことが出来たようです。授業は朝から午後遅くまで行われ、楔形文字の読み書きに始まって、数学、動植物学、鉱物学など数多くの分野の授業が行われておりました。授業内容はなかなか厳しかった上、教師による体罰も行われたために学校に行かなくなったり、学校を中退する生徒もかなり多かったようです。当時のウルの「粘土板の家」の生徒が書いた粘土板が見つかっておりますので、その内容をご紹介します。「粘土板の家で助手がぼくに言った。『君は何故遅刻をしたんだ?』ぼくはぶたれるんじゃないかと思って怖かった。先生がぼくの粘土板を読み、怒ってぼくを叩いた。シュメール語の先生も、ぼくの話し方が間違っているといって、ぼくをたたいた。」こうして文字を身に付けた書記たちが働いていたのは神殿や宮殿が多かったのですが、当時の神殿や第2回のレポートの際にご紹介したジッグラトゥ(聖塔)はそこで働く人も多く、当時の人々の生活の中心となっておりました。

 前回のレポートの際には神殿やジッグラトゥにおいて祭られていたメソポタミアの神々については余り触れておりませんでしたので、ここで簡単に見ておきたいと思います。

 メソポタミアの人々が信仰していた神々は、空・風・大地・水の4つの要素を支配します。特にシュメール人が最高神としてあがめたのが天空の神であるアン(後のアヌ神)でした。やがて、このアン神に代わって、風と空気の神であるエンリル神が主神となっていきます。また、エンキ神は水と知恵を司り、地母神にあたる女神はニンフルサグやニントゥなどと呼ばれておりました。これらは、シュメール人が重要だと考えた4神ですが、彼等はその他にも100余りにのぼる自然界の神々を信仰しており、それらすべての神々をまとめて「アヌンナキの大神たち」と呼んでおりました。「日本の八百万の神々」にも似た多神教が、メソポタミアの宗教風土であったのです。メソポタミアの支配権がシュメール人からバビロニア人の手に移っていくに連れて、主神がエンリルからマルドゥクに変わっていきますが、多神教の風土自体は変わりません。

 紀元前3000年以降になると、シュメール人の都市国家の周辺においても、セム系の民族を中心に幾つかの国家が建設されていきます。ユーフラテス川の中流域にアムル人が築いたマリ王国、現在のシリア北西部に築かれたエブラ王国などが挙げられます。これらの王国でも、神殿が築かれ、多くの神々が礼拝されておりました。古代メソポタミアの宗教的な風土は、正に多神教の風土であり、唯一絶対なる神という存在は伺われません。

 さて、シュメール人の都市国家は常に領土拡大を目指していたため都市国家間の抗争が頻繁に起こっておりましたが、紀元前2370年ごろにウンマのルーガルザゲシ王が初めて南メソポタミアの統一に成功しました。

 しかし、ルーガルザゲシ王の支配も長続きはせず、まもなく、アッカドの王サルゴン1世(在位前2350年~2316年ごろ)が、ルーガルザゲシ王を倒して、メソポタミアの支配者となり、北のアッシリア、東のエラム、西のマリ等を次々に征服して、地中海からペルシア湾に至る大帝国を建設しました。

 このアッカド帝国の支配も長続きはせず、150年ほど続いた後にザグロス山脈に住む遊牧民のグティ人(グティウム)によって滅ぼされました。グティ人は、紀元前2200年頃から約1世紀に渡ってメソポタミアを支配することになります。

 グティ人の支配に対して、シュメール人の都市国家は結束して立ち上がり、ついにはウルク王のウトゥヘガルのもとでグティ人の追放に成功しました。その後にメソポタミアの支配権を握ったのはウル第3王朝のウル・ナンム王でした。この王朝(~紀元前2000年頃)の下でシュメール文化は最後の輝きを見せてくれます。

 ウル第3王朝も短命に終わり、東のエラム人と西のアムル人がメソポタミアの覇権を争い、やがてアムル人がバビロニアを建国し、紀元前1792年ごろにハンムラビ法典で有名なハンムラビ王が登場します。このハンムラビ王の時代に、バビロニア王国は周辺の諸国を制圧して、全メソポタミアを支配下に置いたのです。

 しかし、ハンムラビ王の死後は小アジアに台頭してきたヒッタイト人の侵入を受け、紀元前1600年ごろにバビロニアは彼等の手によって破壊されます。ヒッタイト人が引き上げた後、バビロニアを滅ぼしたのは、ザグロス山脈に住むカッシート人(インド=ヨーロッパ語族)であり、彼等によって南メソポタミアは支配されていきます。

 一方、チグリス川上流の北メソポタミアには、紀元前2500年頃からアッシリア人の国家が建設されておりました。その勢力はアッカドやバビロニアに押されて強大なものではありませんでした。特に、紀元前15世紀には、フルリ人(インド=ヨーロッパ語族)の国家であるミタンニ王国に制圧されます。紀元前14世紀にその支配から逃れた後、鉄製の武器や戦車、馬を使った軍事力にものをいわせて周辺諸国を制圧し、全オリエントを統一していきます(アッシリア中王国 前1375~前1047年)。

 古代メソポタミアの国家の移り変わりを大まかに見て参りましたが、この古代メソポタミアでの国家の興亡は誠にめまぐるしいものがあり、当時の国際関係は緊張の連続であったということができます。そして、次々とメソポタミアの支配者として名乗りを挙げた国々が、また別の国によって、あるいは遊牧民によって滅ぼされ、長期に渡って安定した「帝国」は登場しませんでした。

 アブラハムが、父親テラと共に住んでいたカルデアのウルは、シュメール人の造った古都であり、そこからハランに向かうユーフラテス川沿いの道は、アッカド、バビロニア、ミタンニといった王国の支配下・影響下に置かれておりましたし、当時の国際商業都市であったマリ王国も通過した可能性があると思われます。アブラハムが住み着いたハランも国際的に重要な交易路にあり、月の神シンの礼拝の中心地として有名な土地でありました。ハランからカナンの地へ向かう途中には、エブラ王国を通過したとも考えられます。カルデアのウルからカナンへの旅は、当時の国際交易路を利用した旅であった可能性があります。

 では、アブラハムは、どのようにして、何故、カルデアのウルを旅立ったのでしょうか?

 どのようにしてか?という点については、創世記11章31節に記されているとおり、家族単位の隊商の旅であったと考えるべきでしょう。当時の、メソポタミアからパレスチナに至る半遊牧民のこうした旅は、旅行者がその一族と結び付きのある町々を移動する形でおこなわれたそうです。そして、町と町との間には約30キロ毎に定住地があり、居住地と水に困ることはありませんでした。こうした形での旅であったとすると、父親のテラが亡くなったハランの地は、アブラハムの一族に縁りのある土地であったとも考えられます。

 次に、何故、アブラハムはカルデアのウルのから旅立ったのでしょうか?これはよくわかりません。ウルが南メソポタミアの大都市であり、メソポタミアの多くの神々に支配された土地であったからそこを避けたのだという解釈もあるようですが、彼等が一時寄留したハランも月の神シンの礼拝で有名な土地でありましたから、多神教を嫌悪してウルを旅立ったと単純に解釈することはできません。特に、父親テラはウルにおいて異教の神々に対する信仰を抱いていたようですから(ヨシュア24:2)、主なる神への思いを深めてハランへ旅立ったとは言えないのです。

 そして、ハランへ。父テラを見取った後に、アブラハムはそこを去ってカナンへ向かいます。

 ところで、11章の27節から述べられているテラの系譜には暗い影が宿っております。アブラム、ナホル、ハランの3人の子供の内、ハランはカルデアのウルで亡くなり、長男であるアブラムの妻サライは不妊症で子供がありませんでした。そして、妻子のあるナホルは、ハランまでは同行したものの、そこからカナンへの旅には同行しません。多くの子孫による一族の繁栄を考えれば先の見通しの立たない状態であったのです。

 ウルを旅立つアブラムについて、創世記は詳しい叙述をしておりませんし、考古学も何も教えてくれませんから、聖書の事は聖書をして語らしめなければなりません。アブラハムの旅立ちに関する聖書の箇所を何箇所か見ておきたいと思います。

 

(イザヤ書41章8~10節)

 私の僕イスラエルよ。

 私の選んだヤコブよ。

 私の愛する友アブラハムの末よ。

 私はあなたを固くとらえ、地の果て、その隅々から呼び出して言った。

 あなたは私の僕、

 私はあなたを選び、決して見捨てない。  

 恐れることはない、私はあなたと共にいる神。

 たじろぐな、私はあなたの神。

 勢いを与えてあなたを助け

 私の救いの右の手であなたを支える。

 

(イザヤ書51章1~2節)

 私に聞け、正しさを求める人

 主を尋ね求める人よ。

 あなたたちが切り出されてきた元の岩

 掘り出された岩穴に目を注げ。

 あなたたちの父アブラハム

 あなたたちを生んだ母サラに目を注げ。

 私はひとりであった彼を呼び

 彼を祝福して子孫を増やした。 

 

 イザヤ書の2つの引用箇所によれば、主なる神がアブラハムを呼びだし、選んで僕としたということです。予言者イザヤが活動したのは、北イスラエル王国の滅亡をはさむ紀元前8世紀後半ですから、創世記の編集の時期と重なっております。

 

(使徒言行録7章2~4節前半)

 そこで、ステファノは言った。「兄弟であり父である皆さん、聞いてください。私達の父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかった時、栄光の神が現われ、『あなたの土地と親族を離れ、私が示す土地に行け』と言われました。そこで、アブラハムはカルデア人の土地を出て、ハランに住みました。

 

 ステファノの解釈によれば、主なる神がアブラハムに臨んだのは、彼がカルデアのウルにいた時のことであり、神からの呼ばわりに応えてアブラハムはウルを去り、ハランへ向かったということになります。創世記11章27節~32節にはこうした消息は書いてありませんが、カルデアのウルに居た時に神からの呼ばわりがあったという解釈が当時は一般的であったのかもしれません。

 

(ヘブライ人への手紙11章 8~10節)

 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行く様に召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み同じ約束されたものを共に受け継ぐものであるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。

 

 ヘブライ人への手紙の筆者は不明ですが、この筆者は「信仰によって」という箇所を強調しております。この「信仰によって」アブラハムは、神からの召しに応え、行き先も知らずに出発したのです。確かに、創世記11章によれば、ウルを出発した時点では目的地が何処であるとされておりませんから、行き先知らずの旅であったのでしょう。 

 こうして信仰により、国際関係の錯綜しているメソポタミアの地をさまよい歩いたアブラハム、子もないままに年老いていったアブラハムに、主なる神は大いなる国民の父となる約束をなさるのであります。 

                                    

 主はアブラムに言った。

「あなたは生まれ故郷

 父の家を離れて

 わたしが示す地に行きなさい。

 わたしはあなたを大いなる国民にし

 あなたを祝福し、あなたの名を高める

 祝福の源となるように。

 あなたを祝福する人をわたしは祝福し

 あなたを呪う者をわたしは呪う。

 地上の氏族はすべて

 あなたによって祝福に入る。」

 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。

                  (創世記12章1節~3節 )

 

 次回は、この主ヤハウェの言葉から聖書の旅を進めていきたいと思います。

 

(今回の参考書)

 「最新・古代イスラエル史」(マッカーター・ジュニア編 ミルトス)

 「現代聖書注解 創世記」(ブルッグマン著 日本キリスト教団出版局)

 「メソポタミア文明」(カセッリ監修 教育社)

 「世界の歴史Ⅰ 古代オリエント」(杉勇著 講談社)

 

 「聖書年表・聖書地図」(和田幹男著 女子パウロ会)