旧約聖書の旅「創世記」第4回「アブラハムの召命−族長たちの信仰−」(小山哲司)

後代の編集者が伝承を元に編集したことがうかがわれます。更に言えば、アブラハムとの比較においてイサクのエピソードは少なく、アブラハムの物語の中に組み込まれているようにも思われます。例えば、イサクが初めて登場するのは21章ですが、イサクが中心となるのは22章(イサクの奉献)と24章(イサクとリベカの結婚)であり、それ以降になるとイサクというよりはヤコブが物語の中心になって参ります。こうした点からもイサクのエピソードが極めて限定されていることが分かると思います。イサクほどではありませんが、ヨセフの物語もヤコブの物語に組み込まれていると言って差し支えないでしょう。ヤコブとヨセフが亡くなるのは、同じ50章なのですから。そうした意味において、創世記12章以下の族長物語の中心をなすのはアブラハムとヤコブであり、エピソードの豊かさにおいてはヤコブに焦点が当てられていると言うことが出来るのです。

 

 次に、創世記を含む旧約聖書全体に於いて族長物語の位置付けがどうなっているのかについても考えてみたいと思います。そのためには、旧約聖書の各文書の配置の順番を調べるのが役に立ちます。

 私達は、旧約聖書の各文書の配列を何気なくながめております。最初に創世記があり、次に出エジプト記が続き、以下、レビ記、民数記、申命記と続いて行きますが、実は、この配列には意味が込められております。では、どんな意味が込められているのか?と申しますと、旧約聖書をユダヤ教の聖書と比較することによってそれが明らかになって参ります。(ユダヤ教には、新約聖書がありませんので、ユダヤ教で聖書といえば旧約聖書を指すことになります。)

 旧約聖書の配列は、最初にモーセの五書(律法)が置かれ、その次に歴史書、3番目に詩文学、最後に預言書の順番になっております。

 これに対して、ユダヤ教の聖書の配列は、最初に「モーセの五書(律法)」が置かれる点は同じですが、その次は「預言者」が前の預言と後の預言の2つに分かれて置かれ、最後に「諸書」としてその他の書が置かれております。

 キリスト教の旧約聖書とユダヤ教の聖書の配列の違いでまず目に付くのは、キリスト教の旧約聖書の「歴代誌的歴史」の部分がユダヤ教の聖書においては諸書に分類されていること。次に、ユダヤ教の聖書では預言書が、キリスト教の旧約聖書の「申命記的歴史」と合体して「預言者」と言う分類とされていることです。ルツ記、哀歌、ダニエル書の位置付けも、両者では異なっておりますし、時代的にはエズラ記、ネヘミヤ記に先行する歴代誌(上下)がユダヤ教の聖書では諸書の末尾に置かれております。

 

 両者の違いは何に由来するのでしょうか?

 違いの原因として考えられることは、(旧約)聖書の捉え方の違いです。

 キリスト教の旧約聖書の捉え方は、極めて歴史的です。創世記から始まってエステル記に至るまとまりを「過去」の物語とし、ヨブ記から雅歌に至るまとまりを、「過去」の部分で描かれた神の導きの歴史に対してそれぞれの時点における「現在」的応答をしている部分、そして、イザヤ書からマラキ書に至るまとまりを、神がこれから起こそうとする裁きや救いについて語った「未来」に関する部分として、歴史の流れの中で捉えているのです。

 このようにして、各文書を歴史的な順序に沿って配置したものがキリスト教の旧約聖書の配置法です。神の人類に対する救いの計画の過去・現在・未来を示す配置法と言ってもよいでしょう。(こうした旧約聖書の捉え方は、「救済史」的理解と呼ばれます。旧約聖書の後に新約聖書が続くことも、説明しやすいですね。)

 それに対し、ユダヤ教の聖書は、聖書を律法・預言者・諸書と3つに区分しておりますが、これは、律法を基本法とし、預言者を基本法の解釈と応用、諸書を参考書と捉える分類方法です。聖書を歴史的に捉えるというよりは、むしろ法的に捉えようという思想が生んだ配置法と言えましょう。

 こうした発想が典型的に表われているのが歴代誌(上下)の位置です。歴代誌(上下)は、時代的にはエズラ・ネヘミヤの前の時代を記録した歴史書の筈ですが、諸書の末尾に置かれております。何故でしょうか?これは、歴代誌がそれよりも先に権威を認められていた「前の預言者」のサムエル記(上下)や列王記(上下)と内容が重複していたために、サムエル記や列王記に加えて歴代誌が聖書の中に取り込まれるべきであるのかどうか、エズラ・ネヘミヤの時代よりも後まで争われたためです。歴史的な順序という発想よりは、その書物の権威をどう評価するかという発想の方が強かった結果だと言って差し支えないだろうと思います。

 以上をまとめますと、ユダヤ教の聖書観では、歴史の中で形成されてきた律法の体系自体が聖書の中心であるのに対し、キリスト教の旧約聖書観は、神の選びと救いの歴史が旧約聖書の中心であると捉えているであるということになります。ですから、族長たちの物語は、神の選びと救いの歴史の導入部分に当たるものであり、新・旧約聖書という神の演出する壮大なドラマの幕開けに相当する部分であるということが出来ましょう。

 さて、旧約聖書全体の構造について申し上げましたが、2ページの図に余り見慣れない言葉が用いられていたことと思います。「律法」はともかく、「申命記的歴史」「歴代誌的歴史」という言葉は、聖書には登場しない言葉であり、後代の学者が名付けた用語でありますから、何を意味している言葉であるのか簡単に触れておきたいと思います。

 旧約聖書の「過去」の部分は、「律法」(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)「申命記的歴史」(ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記、列王記)「歴代誌的歴史」(歴代誌、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記)に分けられておりますが、これは、大まかに言えば次のような主題に対応しております。

 

「律法」    

 神は如何にしてイスラエルを全人類の中から選び、助け、導いて「約束の地」カナンに住まわせて下さったか

 

「申命記的歴史」

 神の恩恵を受けながらも、イスラエルがその約束の地で如何に神に背き、罰を受けることになったか

 

「歴代誌的歴史」

 しかし、そのあと、神は如何にして再びイスラエルをユダの地に帰し、信仰生活の出直しをさせて下さったか

 

 こうした「過去(歴史)」に相当する部分の3区分、及びその主題をみますと、創世記の族長物語は神による選びと導きが中心主題となっているということが分かります。これを踏まえて具体的な聖書の箇所に入って参りましょう。

 

<選び、導く神>

   前回は、創世記12章1~3節の言葉を掲げて終わりました。

 

   主はアブラムに言った。

  「あなたは生まれ故郷

   父の家を離れて

   わたしが示す地に行きなさい。

   わたしはあなたを大いなる国民にし

   あなたを祝福し、あなたの名を高める

   祝福の源となるように。

   あなたを祝福する人をわたしは祝福し

   あなたを呪う者をわたしは呪う。

   地上の氏族はすべて

   あなたによって祝福に入る。」

   アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。

                    (創世記12章1節~3節 )

 

 創世記12章1~3節は、アブラ(ハ)ムに臨んだ神の言葉から始まります。

 族長物語に至る創世記12章1~11章によれば、神の創造と恵みから人間が自らの反逆によって追放され、悪を重ねては神の断罪を受けることの繰り返しの中で次第に数を増すようになり、自分たちの知恵と力を誇ってバベルの塔を建設するに至りますが、神はそうした傲慢な思いに取りつかれた人間の言葉を混乱させ、全地に散らしてしまいます。全地に散らされた人間のうち、セムの子孫にスポットが当てられ、更に、その中のテラ、そして、アブラ(ハ)ムへと神の目が注がれていく訳です。 

 1章から11章までが楽園追放に象徴される人間の罪と混乱の物語であるとするならば、罪を犯して全地に散った人間の中から救いへ導くべき民を選び、救いの歴史の幕を開けるのが12章から始まる族長物語であると言って良いでしょう。

 12章1~3節において神がアブラ(ハ)ムに語ったことは、まず第一に「祝福」でありました。「祝福」という言葉が、この3節の中に4回も使われております。そして、その「祝福」の内容は、アブラ(ハ)ムの子孫が大いなる国民になること、アブラ(ハ)ムの名が高まること、アブラ(ハ)ムによって地の人々が祝福されることでした。そして、アブラ(ハ)ムが冒険の旅に歩みを進めると、主はすかさず次の言葉を与えて下さいます。

 

  主はアブラムに現われて、言われた。

 「あなたの子孫にこの土地を与える。」

  アブラムは、彼に現われた主のために、そこに祭壇を築いた。(7節)

 

 こうしたアブラ(ハ)ムの動的な応答に、聖書の主張する信仰の在り方をみることが出来ます。私達キリスト者の抱く信仰は極めて動的・歴史的なものでありまして、神を信じて行動を起こす時に神との生きた交わりが実現するのですが、アブラ(ハ)ムも、神の祝福の言葉を信じて冒険の旅に踏み出すことによって次なる約束の言葉を与えられたのだと思います。

 ここで、冒険の旅と申しましたが、今から3千数百年前のメソポタミア地方を旅することは、正に冒険以外の何物でもありませんでした。前回のレポートで申し上げた、当時の国際関係を思い起こしてください。小都市国家の抗争の中から覇権を握る大国が興り、またそれが他の国・他の民族によって滅ぼされるという国々の興亡が、古代メソポタミアの歴史であったのです。こうした状況の中を行き先も知らずに旅に出る危うさをイメージしなければ、1~3節の神の祝福の意味は分かりません。

 神の祝福の言葉を受けてアブラ(ハ)ムは旅立ったと申しましたが、むしろ、アブラ(ハ)ムの旅立ちには、神の祝福の言葉が必要であった、これがなければ出発できなかったとまで言い切ったほうが良いのかもしれません。ハランの地でそれなりに安定した生活をしていたアブラ(ハ)ムを、そこから根こそぎにしてしまうだけの強さを持った神からの迫りがあったからこそ、アブラ(ハ)ムは立ち上がることが出来たのです。それだけの強さを持った霊的な力を持って神がアブラ(ハ)ムの前に姿を現わされたのだと思います。この場合の神の祝福、神の迫りというものは、恐らくは神から与えられた言葉であり、同時に霊の働きである強い衝動、或いはインスピレーション(霊感)であったのでしょう。

   

 申命記26章5節に、次のような信仰告白が述べられております。

 

「私の先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこの私達を虐げ、苦しめ、重労働を課しました。私達が先祖の神、主に助けを求めると、主は私達の声を聞き、私達の受けた苦しみと労苦と虐げをご覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇蹟をもって私達をエジプトから導きだし、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。私は、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました。」

 

 ここで述べられている滅びゆく一アラム人とは、厳密に言えばヤコブを指しておりますが、アブラハムのことと置き換えて考えても差し支えありません。そして、アブラハムの旅立ちについて最も歴史的事実に近いものが、この信仰告白には込められていると言われております。

 新共同訳聖書によれば「滅びゆく一アラム人」と訳されておりますが、他の聖書、例えば新改訳聖書では「さすらいのアラム人」と訳されており、どちらも文法的には可能な訳です。いずれにしても、小さな家族単位の遊牧民であり、ロバや羊、山羊などを飼育しながら都市の周囲で生活をしていた族長たちは、いつなんどき滅ぼされるか分からないような不安定な生活をしていたのです。そんな彼等が「あてどもなく」「安住の地を去る」には、やはり強烈な神の迫りを体験したと考えるのが自然です。

 では、アブラ(ハ)ムはどのようにして神の迫りを体験し、神の声を聞いたのでしょうか?

 関根正雄先生は「古代イスラエルの思想家」という本の中で次のような仮説を述べておられます。

 関根先生によれば、アブラハム、イサク、ヤコブといった族長たちは、自分たちが信じている神を自分たちの天幕の中で拝んだのではないか、としておられます。時代が進むに連れて、神は天地に満ちる姿を現わすようになりますが、その出発点においては、天幕というごく限られた小さな空間が神存在の中心であり、そこで族長たちの神の名が呼ばれ、その名を通して、その神の霊がその「礼拝」に参加した家族たちに臨み、圧倒したのであろうというのです。アブラハム当時の天幕が残っている訳ではありませんし、具体的にどうであったかという点は厳密には分かりませんが、モーセの会見の天幕や、砂漠から肥沃な土地に入り込んだ遊牧民が神の名を刻み込んだ石を残したことなどを例として挙げ、この仮説は十分に成り立ち得るとしておられます。 

 こうした天幕において神の名を呼ぶという礼拝の在り方は、われわれ日本人にとっては馴染みの深いものかもしれません。日蓮宗や浄土宗の題目や念仏を唱えるという行為は、考えようによっては一種の神の名を唱える礼拝行為とも考えられますし、それによって一つの教団ができ上がり、それを支えるだけの霊力を持つのですから。天幕の中で神の名を呼ぶという礼拝を通して、アブラ(ハ)ム、イサク、ヤコブは彼らに臨んだ神の霊力の前に圧倒され、強い迫りを受けた、と考えておきたいと思います。

 では、この時に呼ばれた神の名は何だったのでしょうか?

 創世記には、神に対する呼び方が幾つも出て参ります。ヤハウェという名、エルという名など、神は幾つかの呼び方をされておりました。この場合のエルは、カナン地方で崇拝されていた神の名前であり、アブラハムたちは、カナンに入って初めてエルという名に出会った筈です。また、ヤハウェという名については、出エジプト記の6章2~6節で、神が自分の名について次のように語っている点が注目されます。

 

 神はモーセに仰せになった。「わたしは主(ヤハウェ)である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現われたが、主(ヤハウェ)というわたしの名を知らせなかった。わたしはまた、彼らと契約を立て、彼らが寄留していた寄留地であるカナンの土地を与えると約束した。わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。

 

 ここを見れば明らかなように、ヤハウェという名が使われるようになったのはモーセ以降のことで、それ以前には使われることのない名前であったのです。聖書の神の最も古い神の呼び名とされているのは、創世記26章24節に登場する「アブラハムの神」という呼び名です。こうした呼び名は、創世記の随所に登場しますので、その例を幾つか挙げておきましょう。

 

「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。」(創世記28章13節)

「もし、私の父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方が私の味方でなかったら」(同31章42節)

「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神、主よ」(同32章10節)

「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(出エジプト3章6節)

 

 以上の様な神の呼び方が、族長たちの時代に呼ばれた神の呼称でありました。このようにして個人と結び付いた神が、土地に縛られることもなく信じるものと行動を共にしていくという点に、旧約聖書に記された神の特徴を見ることが出来ます。これに対して、異教の神として登場するバール神は農業の神であり、土地との結び付きが強かったのです。

 従って「わたしの父の神、わたしの父アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神よ!」と呼ばわる声が天幕に満ちて、族長たちの時代の神礼拝が行われていたと考えられるのです。

 こうした神礼拝を繰り返す中でアブラ(ハ)ムに神の霊が迫り、創世記12章1~3節の言葉が臨んだのではないでしょうか。

 

<古代における「祝福」の力>

 

 創世記12章1~3節の神の言葉の中心は「祝福」であり、その具体的な内容はアブラ(ハ)ムの子孫が大いなる国民になること、アブラ(ハ)ムの名が高まること、アブラ(ハ)ムによって地の人々が祝福されることであると申し上げました。

 ここで、この神の祝福ということについて述べたいと思います。

 私たち、現代の日本人にとっての「祝福」というものは、人が何かを成功したときに「おめでとう」と言ったり、人生の門出に将来の成功・幸福を祈念して「幸多かれ!」と言ったりしますけれども、特に後者の方は「そうなるかどうか分からないけれども、そうなればよい」という期待の言葉であるに過ぎません。「祝福」の言葉を大勢の方から頂いても、だからその人の人生が本当に祝福に満ちた幸福な人生になるとは、それを願いこそすれ誰も確信はしていないことでしょう。

 古代のメソポタミアにおける「祝福」の言葉は、こうした我々の感覚では理解できないような具体的な力を持った言葉であったようです。

 古代においては、祝福の言葉、或いは呪いの言葉というものには具体的な力があると考えられており、その言葉自体が凄まじい力を持って言葉の向けられた相手に働きかけて行ったのです。ですから、祝福の言葉が掛けられれば、それはその言葉の向けられた相手に祝福が実現したことと同じことであり、逆に、呪いの言葉が向けられれば、相手には呪いが実現したことになるのです。このように「祝福の言葉」自体の持つ力が大きい上に、更にその言葉を神がアブラ(ハ)ムに語ったということの意味合いは、途方もなく大きなものであっただろうと思われます。

 神の祝福の言葉がアブラ(ハ)ムに臨んだとは、実は、このような意味を持っていたのです。神の言葉が臨んだ時点で、既に、その祝福の言葉は現実のものになり、アブラ(ハ)ムの子孫が大いなる国民になり、アブラ(ハ)ムの名が高まり、アブラ(ハ)ムによって地の人々が祝福された、という結果が、その時点では目には見えなくても実現したことと同じなのです。それなりに安定していたハランの地からデーモンの潜む荒野に出て行くためには、ここまで強い神の祝福の力が必要とされていたと考えなければなりません。逆にいえば、それがあったからこそ、アブラ(ハ)ムはハランを捨ててカナンの地へと出発することが出来たのです。

 しかるに、アブラ(ハ)ムは「滅びゆく一アラム人」であって大国の指導者でもなければ、大きな部族の長でもありませんでした。小さな家族を引きつれて、都市の周辺で山羊や羊を飼う遊牧民にしか過ぎません。まして、その妻であるサラ(イ)は不妊であって、サラ(イ)から子供が誕生することを期待は出来ませんでした。客観的な状況は、神の祝福とは裏腹にその現実味が乏しいと言わなければなりません。単なる気休めの言葉であればともかく、それ以上の意味を持つ言葉であるとは考えられない状況であった訳です。

 このような、可能性の乏しい状況の中に神の言葉は突入し、そこに言葉が言葉の意味するような状況を作り出して参ります。それは、神の言葉が単独で勝手に働くということではなく、言葉が臨んだところの人間の応答と呼応しながら、神と人との交わりの中で現実を作り変えて行くといえば良いでしょうか。

 アブラ(ハ)ムは、神の言葉が臨んだ通りにハランの地を出発してカナンへと向かいました。神の祝福の言葉が実現されるとは考えられない状況の中で、しかし、神の祝福の言葉に信を置いて冒険の旅へと足を踏み出した点に、アブラ(ハ)ムが信仰の父祖であると言われる由縁があると思います。

 

<約束の地>

 こうしてアブラ(ハ)ムはハランを出発しました。妻サラ(イ)と甥のロトを伴い、ハランで得た僕たちを引き連れての旅でありました。ハランでの生活の中で、アブラ(ハ)ムの生活は次第に豊かなものとなって来ていたことでしょう。ハランは当時の通商交易路の要所にある町でありました。

 アブラ(ハ)ムは、多分、エブラ王国を通過してからカナンの地に入り、シケムの聖所、モレの樫の木に至ります。シケムは、紀元前1900年頃からカナン人の都市国家として栄えた町で、モレは古くからその辺りにあった聖所を指しております。

 ここに至った時に、神がアブラ(ハ)ムに臨んで言われます。

 

「あなたの子孫にこの地を与える。」(7節)

 

 12章1~3節にも含まれてはおりますが、7節に至って、このような明確な形でアブラ(ハ)ムとその子孫が受け継ぐ地が神の言葉によって示され、約束されます。

 12章1~3節及び7節の、子孫と土地を巡る神の約束は、この後も創世記に繰り返し登場します。そうした箇所を何箇所か示しておきましょう。

 

   創世記15章 1~16節

   創世記17章 4~ 8節

 

「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。わたしは、あなたが滞在しているこのカナンの全ての地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。」(アブラハムに対して)

 

 創世記26章2~5節

   

「エジプトに下ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。あなたがこの土地に寄留するならば、私はあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する。わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地を全てあなたの子孫に与える。地上の諸国民は全て、あなたの子孫によって祝福を得る。アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めや命令、掟や教えを守ったからである。」(イサクに対して)

   創世記28章13~15節

   創世記35章11~12節

 

「わたしは全能の神である。

 産めよ、増えよ。

 あなたから一つの国民、いや多くの国民の群れが起こり

 あなたの腰から王たちが出る。

 わたしは、アブラハムとイサクに与えた土地を

 あなたに与える。

 また、あなたに続く子孫にこの土地を与える。」(ヤコブに対して)

 

 ここに示した様な子孫と土地に対する神の約束は、創世記を、ひいては聖書全体を貫くテーマとなって行きます。また、聖書の時代ばかりか20世紀末の今においても。第二次世界大戦後、1948年にイスラエルが独立しましたが、その起源をたどれば創世記の神がアブラハムに語られた言葉に至りつくのであり、正に世界の歴史を動かす力を持った言葉であったと言えましょう。

 しかし、神の言葉が成就することを妨げる人間の罪の問題がありました。神の言葉に対する不安と疑いから神に対する造反を行い、造反と信仰への立ち返りを繰り返しながら、アブラハム、イサク、ヤコブら族長たちの旅は神の指し示す地へと導かれて行くのです。

 

<まとめ>

 本日のレポートでは、創世記12章から始まる族長の物語が創世記の中で、更には、旧約聖書全体の中でどのような位置を占めているかについて学びました。

 旧約聖書の中心は神の選びと救いの歴史にあり、族長物語は、神が如何にしてイスラエルを全人類の中から選び、助け、導いて「約束の地」カナンに住まわせて下さったかという、モーセの五書に記されている神の救済の幕開けにあたるものであります。

 族長アブラハムは、天幕の中で神の名を呼ばわりながら神の霊の臨在の体験をし、強い霊力を持った祝福の言葉に押し出されるようにしてハランの地を後にしました。まことに取るに足りない滅びに瀕したアラム人の遊牧民を神は敢えて選び、その子孫が繁栄して約束の地を受け継ぐのだと、アブラハムに、イサクに、そして、ヤコブに繰り返し語り続けます。

 人間の罪の故に、神への造反はしばしば起こりますが、神は、罪多き人間を顧みられ、約束の地へ、そして救済へと導いて行かれるのです。

 

(今回の参考書)

 

「古代イスラエルの思想家」(関根正雄著 講談社)/「聖書の信仰と思想-全聖書思想史概観」(関根正雄著 教文館)/「ユダヤ教の誕生-『一神教』成立の謎-」(荒井章三著 講談社)/「現代聖書入門-旧約・中間時代-」(G・E・ライト/R・H・フラー著 日本基督教団出版局)/「旧約聖書に強くなる本」(浅見定雄著 日本基督教団出版局)/「創世記」(旧約聖書翻訳委員会 岩波書店)