旧約聖書の旅「創世記」第5回「アブラハムのエジプト寄留」(小山哲司)

 さて、アブラムは、12章7節で主が「あなたの子孫にこの土地を与える」と語るのを聞いた後、シケムの聖所、モレの樫の木の付近に祭壇を築き神を礼拝しました。また、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所にも主のために祭壇を築き、主の御名を呼びました。ロバや羊の為に牧草を追い求める遊牧民としての生活は厳しく、アブラムには自分自身の土地というものは全くありませんでしたので、自分自身の土地が得られるということは有難いことであったに違いありません。主の約束が臨んだ時、アブラムとサライには跡継ぎとなる子供もおらず、また、自分の所有地が一つもなかったということを覚えておいて下さい。

 アブラムは、祭壇を築き、主の御名を呼びながら日を過ごしていたのでしょうが、どんなに祈っても妻のサライに子供が生まれる気配はなく、また、天幕を張っている土地が自分の所有地となる見込みも立ちません。主の約束が成就する兆しが感じられないままに、未知の土地であるカナンの荒野をろばや山羊、羊を追って旅を続けておりました。

 ところが、神に導かれて訪れた筈のカナンに飢饉が襲ってきました。牧草が枯れ、ろばや羊たちが次々に弱っていく様を見て、アブラムの心には疑い、迷いが生じたとしても不思議はありません。そもそも、季節毎に決まった土地を巡回していた当時の遊牧民の常識から考えて、どこに牧草が生えているかも分からない未知の土地に移って行くということは、死と背中合わせになる程危険なことであったのですから。

 「ここにいてはみんな滅びてしまう。この地を離れてエジプトへ行こう。」

 アブラムのこの決断が、神の導きによるものだったとは聖書は記しておりません。カナンの地ではもはや一族が生きのびて行けない状況であり、彼は彼なりに様々な情報集めをして生き残りの方策を考えたのでありましょう。以前住んでいたハランやウルではなく、エジプトを選んだのも彼なりの計算があったものと思われます。エジプトは「ナイルのたまもの」であり、河川に乏しいカナンとは違って、定期的なナイル川の氾濫によって土地が豊かに肥えて古代から農業の盛んな地域であり、アワ、オオムギ、その他の穀物、レンズ豆、ソラ豆、タマネギ、ナツメヤシ、メロン、ザクロなどがとれ、その豊かさはアブラムの耳にも届いていたものと思われます。

 こうしてアブラムは、サライと共にエジプトに下る決断をしたのです。(ここで「下る」と申しましたが、カナンからエジプトへは「下る」、エジプトからカナンへは「上る」と言い表します。エジプトで苦役に服したイスラエル人の思いが、こうした言葉の使い方にも表われています。)

 

 1890年にエジプトのベニ・ハサンにあるエジプトの貴人の墓から、エジプトに入ろうとしているセム人の家族の様子を描いた壁画が発見されました。壁画の先頭に立っているエジプト人とは明らかに異なった顔つきをし、衣装をまとった人々が当時の「砂漠の民」セム人なのです。

 先頭のエジプト人が手にした象形文字で書かれた文書によれば、そのリーダーはアビシャイといい、彼の一族、男女と子供をあわせて36人を連れ、エジプトにやって来たのです。アビシャイは、列の先頭で頭を少し下げて右手で貴人に挨拶をし、左手で綱と牧杖を持っています。山羊の角の間にある曲がった棒が牧杖で、エジプト人が絵の中で外国人を表わすときには、必ず牧杖を持たせているそうです。

 この絵が描かれたのは紀元前1900年頃のことと言われておりますが、それが族長の時代だと仮定すると、アブラムがサライを連れてエジプトに下った時の様子もこのアビシャイの場合と同様だったと思われます。

 今とは違ってパスポートやビザはなかったでしょうが、エジプトに入国する者は誰でも、一族の数と旅行の理由、恐らくは滞在日数をも申告しなければなりませんでした。そして、それらは入国審査をする書記によってパピルスに記され、伝令によって国境担当の官吏に伝えられた上で、入国を許可するかどうかが決められたのです。

 このように厳格な手続きを必要としたのは、エジプトの富のせいでありました。エジプトの富を狙って遊牧民が略奪にやって来るため、「防塞」を築き、「防塞」と「防塞」の間に「王の壁」を作った上で、入国手続きを厳密にする必要があったのです。

 エジプトに入るとき、アブラムがサライのことで心を悩ませたのは、こうした入国手続きがあったためだと思われます。

 

 アブラムは、エジプトが近づいてくると妻のサライに向かって言います。

 

 「どうか、どうか、頼むから、私の妹だと言っておくれ。頼むから・・」

 

 12章11~13節からは、一族の長としての威厳のある姿は窺われず、恥も外聞もかなぐり捨てて妻を拝み倒している気弱な夫の姿しか見えて参りません。主の導きに依り頼み、命懸けの旅に足を踏み出したはずのアブラムでしたのに、「私の神、私の神」と天幕で神に呼ばわり、神からの祝福を受けて、それに押し出されるようにしてハランを後にしたアブラムでしたのに、そうした信仰者としての面影は消え、別人になったかのようです。

 アブラムは、信仰の父祖と言われておりますが、どうやら最初から立派な信仰の持ち主であった訳ではなさそうです。今日の箇所から読み取れるアブラムの姿は、むしろ小心で、利害、打算を当然のこととし、そのためにはあるだけの知恵を回すしたたかな人物であったということになるでしょう。

 そのしたたかさと用心深さは、今日の箇所の並行記事からも分かります。

 創世記20章は、アブラムがサライを妹だと言っているもう一つの箇所です。エジプトでの苦い経験がありながらも、またしてもサラを妹だと言っていることに加えて、13節には「かつて、神がわたしを父の家から離して、さすらいの旅に出された時、わたしは妻に『わたしに尽くすと思って、どこへ行っても、わたしのことを、この人は兄ですと言ってくれないか』と頼んだのです。」と書かれており、ハランを出立したときからサライのことを妹だと称していたことが分かります。サライの美しさはそれだけ群を抜いたものであったのかもしれませんが、アブラムの用心深さも相当なものです。

 ただ、アブラムに同情すべき点がない訳ではありません。それは、20章12節に「事実、彼女は、私の妹でもあるのです。私の父の娘ですが、母の娘ではないのです。それで、わたしの妻になったのです。」と示されているように、サライはアブラムの異母妹であったらしいということ。「異母妹であったらしい」と曖昧に言ったのは、11章27~32節にはサライがアブラムの妻だとは書かれていますが、テラの娘であり、アブラムの妹であったとは一言も書かれていないからです。(「ナホルの妻はミルカといった。ミルカはハランの娘である。」という箇所に注意して下さい。)

 また、可能性として考えられるのは、サライが法的に妹の地位を持っていたかもしれないということです。これは、上メソポタミアのヌジで出土した文書に記されたフルリ人(ミタンニ王国)の生活習慣なのですが、彼らの社会では、妹とは必ずしも血縁を必要とせず、単に法的な地位として存在し得る立場でありました。ヌジのある文書は、ある人が、ある婦人をある人に、妹としてと同時に妻としても与えたことを示しております。その婦人は妻であるのと同時に、血縁はないのに妹としての地位も得たことになりますが、この場合には普通の妻よりも有利な特権と保護を受けることが出来たそうです。サライが、こうした血縁のない妹としての地位を持っていた可能性を否定は出来ません。彼らが住んでいたハランが、ミタンニ王国の圏域にあったことを思い起こしてください。

 こうしてサライが実際に、或いは法的に妹であった可能性に加えて、アブラムにはアブラムなりの計算もあったと思われます。それは、女性と婚姻するにはその親兄弟の同意が必要であり、父親テラが既に死亡しているアブラムとサライの場合には、アブラムの同意がなければサライの婚姻は結ばれないはずだとの計算があっただろうと推察されるからです。「サライが妹だと言っておけば、サライとの婚姻を求めている者は、兄である自分を丁重に扱うだろう。だが、どんなに丁重に扱われても『サライとの婚姻は認めない』と断わればいいのだ。これが、最も賢明な方法だろう。」と考えたのは、身を守る計算としては理解できる面がないわけではありません。

 しかし、どんなに理屈をつけたとしても、サライが自分の妻であるという事実を隠そうとした点でアブラムは嘘をついた訳であり、その原因が神の約束への疑い、不安に由来するものである以上は、信仰的に道から外れてしまったと非難されてもその批判を甘受しなければなりません。実際、12章10~20節には、アブラムの弁解の言葉は1つもないのです。

 

 アブラムは、国境での入国審査の際に「これは私の妹のサライです。」と申告しました。そして、アブラムの予想通りにサライの美しさはエジプト人の目に留まり、早速、国境の官吏からファラオに報告が上げられました。

 サライは、アブラムよりも10歳年下(創世記17章17節参照)ですから、この時点では少なくとも65歳になっていたはずです。美しい女性は幾つになっても美しいのでしょうが、平均寿命が伸びた現代でも、65歳の女性が美しさの故に注目を集めるというのは少々考え難いことではあります。しかし、サライの生涯が127年であって現代人よりも遥かに長命であったことを思うと、65歳は丁度人生の半ば。まだまだ女性としての美しさを保っていたと考えるべきなのかもしれません。

 官吏からの知らせを受け、サライの美しさに心を引かれたファラオは、サライを宮廷に召し入れることになりました。これは、アブラムの予想もしない展開であったと思います。

 

 「それにしても、ファラオがサライに目を付けたとは・・・。ファラオが相手ではどうすることも出来ない。」

 

 アブラムの心積りとしては、エジプト人の有力者がサライに心引かれる可能性までは考えていたでしょうが、ファラオがサライを宮廷に召し入れるという所まで考えていたかどうか。自分の予想を超えた事態を迎えたアブラムは、しかし、ファラオの言いなりになってサライを宮廷に送り出すしかありませんでした。

 サライがファラオの宮廷に召し入れられれば、アブラムの子孫を増やし、カナンの地をその子孫に与えるという主の約束は成就しないことになります。主とアブラムとの間に結ばれた約束が迎えた最大の危機は、実はサライが宮廷に召し入れられた時だったのです。

 彼の行動とは裏腹に、アブラムのサライへの思いは決して軽いものではありませんでした。当時の法律(ハンムラピ法典など)では、妻が子供を産まない場合には、不妊を理由として妻を離婚することができましたし、奴隷を2番目の妻として子供をもうけることが出来ました。でも、アブラムは、サライが子供を産まないにもかかわらず、離婚もせず、自ら進んで奴隷妻を娶ることもしません。ハガルにイシュマエルを産ませたのは、サライがそうすることをアブラムに求めたからであり、アブラムが求めたことではなかったのです。

 ですから、アブラムのサライに対する思いは強く、自分の妻はサライしかいないという思いに支えられたものでありました。

 では、何故、サライを妹と偽ったのかという思いが心の内に湧き上がって参りますが、一種の極限状況の下では、どんな立派な人物でも思わぬ過ちを犯してしまうもの。そうした非難を信仰の歩みを始めて間もないアブラムに突きつけるのは、酷なことなのかもしれません。

 アブラムの予想に反してサライがファラオの宮廷に召し入れられる一方で、

アブラムの予想通りに、アブラムはサライの兄として、この世の富を手に入れることが出来ました。「わたしはあなたのゆえに幸いになり(13節)」という彼の言葉が成就し、その言葉の通りに「彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた。(16節)」のです。

 これは神との契約を危機に陥れることと引き替えに得られた富でありますが、この世の富(利益)を得ることには、えてしてこのような神への信仰からの離反を伴う面があると私は考えます。これは、富自身が悪であるという訳ではなく、富を前にしたときの人間の弱さが原因であります。こうした人間の弱さを知るには、日々新聞を読んでいればそれで充分です。仕事を始めた当初は正義感に燃え、社会の為に、国家の為に働こうと考えていた筈の者が、職業人としての人生の最後に痛烈な批判を受け、或いは逮捕されるという事態は悲しむべきことではありますが、富の誘惑の強さと人の弱さ、そして、原罪の存在を示す良き例証ではないでしょうか。他人事として済ます訳にはいかない弱さを私達一人一人が身に帯びていることをも考えさせられます。

 この世の大きな富を手に入れたアブラムの周囲には、甥のロトを始めとして一族のものがおりました。アブラムには、「あいつは命が惜しいばかりに、自分の妻を売った男だ」と、彼らから冷ややかな視線が注がれていた筈です。それにじっと耐えながら、なす術もなくサライのことを案じているアブラムの姿を想像すれば、これは哀れとしか言いようがない。人間の弱さを、そして、それを糊塗しようとする知恵のもたらす結末を、アブラムは身をもって味わったに違いありません。

 

 こうした状況に対し、主なる神ヤハウェが介入されます。

 12章10~20節にヤハウェが登場するのは、たった1箇所。17節だけです。

「ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた。」

 この展開の仕方は、出エジプトを思い起こさせます。12章10~20節は、エジプトに下り、そこで虐げられ、神が介入してエジプトに災いをもたらすことによって解放されるという、出エジプトの伏線になっていることが分かります。

 この部分については、三浦綾子さんが小説家の観点から興味深い解釈をしていますので、少々長くなりますが引用します。

 

「ロトはその日の夕暮れ、ソドムの門にすわっていた。当時町の門では、商取引や裁判などが行われていたから、門にすわることの出来たロトは、ソドムの町の有力者の一人であった訳である。だが、ロトは妙に不安だった。その夕暮れの空はひどく黄色い色をしているのだ。

(今に、この町に異変が起きるのではないか)

 ロトのいい知れぬ不安は、別にこの日が初めてではない。ロトは淫猥なソドムの町に、絶えず神の裁きを予感していた。そのロトの思いを嘲笑するように、アイシャドーを毒々しく付けた若い女が、豊かな体をくねらせて過ぎ、その後から、腕を絡み合わせた男が二人、互いを抱くようにして過ぎて行った。ソドムの町は何千年後の今に至るまで、「ソドミズム」という言葉を残すほど、男色の多い、性に乱れた町であった。

(ああ、こんな町に来るのではなかった)

 ロトは苦々しげにつぶやいた。ロトはふっと、伯父のアブラハムを思い出した。アブラハムは、神に従順な、信仰の篤い人であった。ロトには、さしたる信仰はなかったが、このアブラハムを敬愛していた。神がアブラハムに、「おまえの国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい」と言われた時、アブラハムは直ちに、住み慣れた土地を後に、妻と使用人とを連れて、見ず知らずの他国に旅立った。その時、ロトはアブラハムについて一緒に住み慣れた国を出た。それ程にロトはアブラハムを慕っていた。

 アブラハムの妻サラは、絶世の美女であった。アブラハムは、エジプトの国に入った時、妻を妹と偽った。余りにも美しいサラを、正直に、自分の妻であるといえば、エジプトの男たちの妬みを買い、下手をすれば殺されるかもしれないとアブラハムは思ったからだ。果たしてエジプトの王パロは、サラに心を奪われ、アブラハムからサラを譲り受けた。代わりに多くの羊、牛、ろば、らくだ、それに男女の奴隷をアブラハムは与えられた。この時だけは、ロトもアブラハムに幻滅を感じた。

(何だ!信仰篤い伯父だと尊敬していたが、わが身かわいさに、妻を王に売るような男だったのか)

 信仰が篤いなどといっても、しょせん人間はこんなに醜い弱い存在なのだと思った。この時ロトは、初めて、伯父の妻サラに、自分が心引かれていることを知った。パロに売られていくサラを思うと、一夜眠ることさえできなかったからである。しかし、サラが一歩パロの王宮に足を入れた途端、パロと王宮に住む人々は、一人残らず激しい腹痛と高熱に悩まされた

「何かのたたりだ!」

 人々は思った。みんなが苦しみうめくなかに、ただ一人、サラだけが健やかであった。王パロはサラのもとに平伏して叫んだ

「あなたはいったい、どなたなのです?」

「私はアブラハムの妻、サラです。」

「アブラハムの妻、あなたは彼の妹ではないのか?」

 パロは恐れて、一指も触れずに直ちにアブラハムのもとにサラを帰した。たくさんの金銀をも添えて。

(あの時だ。おれがアブラハムから心が離れたのは)」

        (「旧約聖書入門」三浦綾子著 光文社 P88~90)

 

 ファラオの宮廷での経緯は聖書に記されておりませんが、三浦綾子さんは、聖書の沈黙を小説家のイマジネーションで補い、神の介入とサライの勇気ある告白という展開で描いてみせます。

 このようにして、アブラムは、神の介入の恩恵を受け、サライを取り戻してエジプトからカナンの地へと戻って行くのです。

 

 これまで読み進めて来て分かるとおり、12章は光と影、信仰と不信仰の章であると言えます。

 12章1節から9節までのアブラムは、信仰の父祖と言われるにふさわしい姿を私たちに示します。主なる神に信頼を寄せ、天幕の中で神の名を呼ばわり、神の言葉が臨めばそれに促されるままに未知の土地へと危険な旅に旅立つのです。

 10節から20節までのアブラムは飢饉という危機を迎えて周章狼狽し、知恵を回してエジプトの地へ向かいます。打算的な知恵を回して富を得ますが、サライを奪われて信仰的には絶体絶命の危機に直面する訳です。カナンの地で飢饉を凌いでおれば、少なくとも信仰の危機を経験することはなかったことでしょう。

 アブラムの陥った罠の入り口は、疑いと不安であります。神に対する信頼よりも自分の知恵を重んじれば疑いの虜となり、疑えば不安が湧き上がります。これはアブラムに限ることはありません。イエスの弟子もそうでしたし、疑いと不安を経験しない人間などおりません。人としての弱さを持ったアブラムの姿に触れる時、私たちは「信仰の父祖」と言う言葉だけでは表現し切れないアブラムの人間としての複雑さを感じるのです。

 創世記は、ひいては旧約聖書は、こうした人間の持つ弱さを容赦なく描いていきます。それも、繰り返し繰り返し、飽きることなく。遡って見れば、エデンの園から人間が追放されたのも、神の言葉よりもサタンの言葉に信を置いた人間の不信が原因でした。アブラムを取り上げてみても、エジプトから戻った後にもサライを妹と偽ってトラブルを引き起こしたことがあり(20章)、息子のイサクも同じ轍を踏みます(26章)。人間とは、どんなに立派な者であったとしても、こんなにも醜く、信仰に欠け、神に背を向けてしまう存在なのだと、これでもかこれでもかと見せつけられている思いが致します。

 創世記の編者は、何故、自分たちの先祖の姿をこんなにも赤裸々に描き、その醜さを隠すことなく露にしてしまったのでしょうか?

 第1回のレポートの際にご説明した通り、創世記が最終的に取りまとめられたのはP資料が成立した時期、即ち、バビロンの捕囚期から紀元前444年頃にかけてとされております。創世記12章自体はJ資料とされているのですが、それを用いて創世記を現在の形に組み立てたのはP資料の編者たちであります。

 バビロンの捕囚に至る北イスラエル王国、南ユダ王国の崩壊の歴史は、大森先生のエゼキエル書の講義で示されている通り、神への反逆の歴史でありました。神に選ばれ、神に導かれてエジプトを脱出し、カナンの地にダビデ王国を建国したにもかかわらず、主なる神の目に悪とされることを行う王が続出し、しかも、王ばかりではなく、上から下まで、国民全体が神に背を向ける中で、北の王国も南の王国も滅んで行ったのです。預言者は、これを神の審きと理解しました。

 バビロンの地へと連れて行かれたP資料の編者たちに突き付けられたのは、人間とは、その創造の時点から神に反逆を重ねてきた存在であるという否定できない事実でありました。しかしその一方で、こうした人間の罪にも関わらず、主なる神はイスラエルを見捨てず、約束の成就へと導いて下さるという信仰を抱き続け、バビロンをはじめ異教の神々に戦いを挑む武器として創世記をまとめ上げたのです。

 ですから、創世記の根底に流れているのは、人間に対する極めて悲観的な見方であります。アブラムしかり、イサクしかり、ヤコブだって決して褒められた人物とは申せません。しかし、そのような人間をも神はお選びになり、導きを与えられ、その関わりの中で人はつまずきながらも成長し、神の導かれる歴史は進展して行くのです。

 以上の様な立場からアブラムを捉えたが故に、彼の人生の汚点をも赤裸々に描いてしまったものと思われます。

 

 さて、今日は、10節から20節までをレポートして参りました。物語自体は単純なものですが、単純なるが故に省かれてしまった部分や、当時の事情などを補ってお話しいたしました。不充分なものではありますが、ご容赦いただきたいと思います。

 ここから、どのようなことを私達が霊の糧としてくみ取ったら良いかは、各々が噛みしめるべきことでありますが、私なりに感じたことを申し上げたいと思います。

 まず第一に、信仰生活には波があり、絶頂から奈落へ落ち込むのは簡単なことだ、ということです。12章1~9節を、アブラムの信仰生活の一つのピークだとすると、その直後には奈落の底に転落して行きます。このギャップの大きさには驚かされます。結果的に富は得たものの、周囲からの尊敬、妻からの愛情を犠牲にし、そして、何よりも罪の意識に苛まれて苦しんだことでありしょう。

 第二に、この世の知恵を回す場合には気を付けなければならない、ということです。私がアブラムの立場であれば、彼と同じ様な知恵を回すのではないだろうか?こう自問自答した場合に、絶対に否とは申せません。

 特に現代人は知識も情報も豊富であり、人生の様々な問題に知恵を提供し、アドバイスを与えてくれる人や機関が多いものですから、特に信仰上の解決を求めることなく様々な問題に対処してしまいがちです。教育の問題、結婚の問題、仕事の問題、隣人との問題、社会との関わり等々、これらに対する解答が聖書の中に具体的に書かれている訳ではありませんので、人間としての、社会人としての知恵を回して処理してしまいますが、それが常となりますと、信仰の立場で考えなければならない問題をも、日常の惰性からこの世の知恵を回して処理してしまうことになりはしないだろうかと懸念します。これは、キリストの福音がどれだけ我々の日常生活の中に受肉しているかという問題とも考えられます。

 第三に、パウロが唱え、ルターが再発見したと言われている「信仰義認」の教理は、創世記の人間の捉え方と密接な関係があるのではないか、ということです。私は神学の勉強を専門的にして来た訳ではありませんので、ここでは感想として申し上げますが、10~20節のアブラムには誇るべき点は全くありません。ゼロというよりはマイナスであります。主なる神の介入がなければ、アブラムは救いのないドラマの登場人物として終わってしまったことでしょう。ここに、創世記という一連のドラマの主役は、人間ではなく神であることが示されております。

 誇るべき点のないアブラムには、ただ、神の恩恵を懇願するしか道がありませんでした。彼の行為を取り上げるならば、勿論、立派な行為もありますが、今回取り上げたように目を覆いたくなる行為もあり、信仰に生きようとしつつも何度も失敗を重ねた人物であると総括できます。しかし、それにも関わらず、神はアブラムを義と認めています(15章5~6節)。

 

「主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることが出来るなら、数えて見るがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

 

 「信仰による義」は、「(律法を守る)行為による義」に対するアンチテーゼであり、パウロはこの立場からユダヤ人クリスチャンと戦いましたし、ルターの宗教改革もこの立場から展開されました。これは、創世記が人の醜さを率直に描き、どんな信仰者であっても神の前で己に誇るべき点はないという立場を貫いたからこそ出来たことであります。

 創世記に描かれている人と神との関わりを学ぶことによって、信仰によらなければ救われない人間の姿、ひいては自分自身の姿を知り、パウロの言葉を受け止める下地を養うことが出来るのではないかと思います。

 では、最後に、ガラテヤ書を引用して、本日のレポートを終えたいと思います。

「あなたがたに『霊』を授け、また、あなた方の間で奇跡を行われる方は、あなた方が律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなた方が福音を聞いて信じたからですか。それは、『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。」(ガラテヤ書3章5節~9節)

 

(今回の参考書)             

 

「現代聖書注解 創世記」(ブルッグマン著 日本基督教団出版局)/「新聖書注解 旧約Ⅰ」(いのちのことば社)/「旧約聖書入門」(三浦綾子著 光文社)/「旧約聖書略解」(日本基督教団出版局)/「旧約聖書に強くなる本」(浅見定雄著 日本基督教団出版局)/「旧約聖書の女性たち」(鈴木佳秀著 教文館)/「歴史としての聖書」(ケラー著 山本書店)/「創世記」(旧約聖書翻訳委員会 岩波書店)