旧約聖書の旅「創世記」第6回「ロトとの別れ」(小山哲司)

 「あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくに違いない。どうか、私の妹だ、と言ってください。そうすれば、私はあなたの故に幸いになり、あなたのおかげで命も助かるだろう。」(12章11~13節)

 

 サライは、或いは、本当に妹であったのかもしれませんが、問題は、サライが妹であったかどうかということではなく、アブラムに主なる神への疑いと不安が芽生え、自己保身の為にサライを妹と称したことにあるのです。

 さて、アブラムの巡らした智恵は、目論見通り確かにアブラムに幸いをもたらしました。

 「アブラムも彼女の故に幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた。」(12章16節)のです。しかし、その代償として、サライは、ファラオの宮廷に召し入れられてしまいました。サライがファラオの妻になってしまえば、神がアブラムに語りかけた約束は反故になってしまいます。アブラムは、この世の幸いを得ることによって信仰の危機を招いてしまったのです。

 この危機を乗り越えることが出来たのは、パロの宮廷を重い病で撃った神の一方的な介入によってでありました。アブラムは危機を前にしてただ沈黙するしかなかったのです。

 「ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた。」(12章17節)

 なぜ、ファラオがサライの秘密を知ったのかについて聖書は沈黙していますが、三浦綾子さんは、聖書の記述を土台としながらも小説家のイマジネーションを働かせ、宮廷でただ一人健やかであったサライがファラオに「自分は、アブラムの妻です」と告白したのではないかと解釈しておられます。

 こうして、アブラムは妻サライを取り戻して、エジプトからカナンの地へと戻って行きます。アブラムの一行の中には、やがてイシュマエルの母となるエジプト人の女奴隷ハガルも混じっておりました。

 創世記は、バビロニアの捕囚期にまとめられた文書であると言われております。創世記の編者たちが経験したイスラエルの歴史は、神への反逆の歴史でありました。神に選ばれ、神に導かれてエジプトを脱出し、カナンの地にダビデ王国を建国したにもかかわらず、主なる神の目に悪とされる王が続出し、しかも、王ばかりではなく、上から下まで国民全体が神に背を向ける中で北イスラエル王国も南ユダ王国も滅んで行ったのです。

 こうした経緯の元で編纂された創世記の人間観は、極めて悲観的な人間観であります。信仰の父祖アブラハムでさえ、様々な欠点を、そして、信仰の弱さを抱えた人物として描かれているのは、その意味では当然のことでありました。

 しかし、こうした人間の弱さ、醜さにも関わらず、神は人間を選び、導いていかれます。サライを妹と偽ったアブラムも、神に導かれながら成長して行くのです。

 

 今日は創世記13章を取り上げます。

 エジプトから送り出されたアブラムは、妻サライと共に、全ての持ち物を携えて再びネゲブ地方に上って行きます。アブラムの甥のロトも一緒でありました。

 エジプトのファラオから与えられた家畜、男女の奴隷に加えて、アブラムは金銀まで所有しておりました。短期間ではあったものの「ナイルの賜物」と呼ばれるエジプトでの滞在は、アブラム一行に思いもかけぬ豊かさをもたらしたのであります。

 13章2節では、「非常に多くの家畜や金銀を持っていた」と訳されておりますが、ヘブル語を直訳しますと「家畜と金銀でとても重かった(カヴェド)」となります。この「重い」という意味のカヴェドは、12章10節で「(飢饉が)ひどかった」という意味にも使われた語でありまして、飢饉の程度が甚だしかったのと同じ程、アブラムの豊かさも甚だしいものになったという意味が込められています。サライを失うかもしれないという危機に直面しながらも主なる神の介入によってそこから助け出され、アブラムは主の恩恵によってこの世の富をも得ることが出来たのであります。

 アブラムはエジプトを出て、ネゲブ地方からベテルに向けて旅を続けます。天幕を張ってはたたみ、たたんでは張ることを繰り返しながらの旅ですから、今日の私たちの考える旅のテンポとは比べ物にならない位ゆったりとしたものでありました。やがて、ベテルとアイの間の以前に天幕を張った所までやって来ました。そこは、彼が最初に祭壇を築いて主の御名を呼んだ場所であります。

 ここで、アブラムの軌跡を振り返ってみましょう。創世記12章8~9節には、次のように書かれています。

 

「アブラムは、そこ(シケム)からベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。」

 

 エジプトから戻ったアブラムの旅路は、主の約束を受けた後の道筋を忠実に遡っていることが分かります。あたかもアブラムが自分の信仰の原点に立ち返ろうとしているかの如くに。

 エジプトに於いては不安と疑いから神への信頼が揺らぎ、保身のためにサライを妹と偽って窮地に陥りましたが、この時の経験によってアブラムの心にはこれまでとは違う神への思いが湧き上がったのかもしれません。単にネゲブから北上してベテルとアイの間に至ったというよりは、かつて主の前に祭壇を築いた地を目指して旅を続けたのだと私は解釈したいと思います。その目的は、勿論、かつて賜わった約束を思いつつ、その祭壇の前で主を礼拝する為でありました。

 こうしてベテルとアイの間の以前に天幕を張った所までやってくると、そこでアブラムの一行に問題が持ち上がってきます。それは、アブラムとロトの牧童たちの間の争いでありました。

 アブラムは家畜や金銀に富んでおりましたが、甥のロトもまた「羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持って」おりました。アブラムへの神の祝福は、アブラムばかりではなくその周囲にいる者にもその恩恵に預からせる力があったのでしょう。しかし、このロトの得た富と繁栄が、一族の平和を損なう元になってしまったのであります。

 アブラムの牧童とロトの牧童の間に生じた争いは、都市の近郊を移動しながら家畜を飼う半遊牧民の間でしばしば生じた争いであり、遊牧地の権利を巡るものであったと考えられます。具体的には、家畜の数が増えましたので、彼らの家畜にどこの牧草を食べさせたら良いのか、限られた牧草地の割り振りの問題が起きた訳です。更に、7節に「その地方には、カナン人もペリジ人も住んでいた。」とありますが、先住民族であるカナン人とペリジ人の存在が、アブラムたちの事情を更に困難なものにしてしまいました。主なる神によって「将来」の土地の所有権が約束されたとはいうものの、当時の現実としては、先住民の間を縫って生存の地を探さなければならない新米の外国人であった訳ですから。また、一族の内部対立は、先住民たちに付け入る隙を与えることにもなりかねませんでした。

 さて、この争いの持つ意味を聖書の文脈の中で考えてみたいと思います。 12章10~20節では、サライがファラオの後宮に召し入れられてしまったために主の約束が危機を迎えております。約束の子孫が残せるかどうかの瀬戸際に追い詰められたのです。これに対して、13章では、土地の問題で危機を迎えております。地味の肥えた良い土地を得なければ、アブラムの子孫の繁栄が難しくなるのですから。どのような土地を自分の物とするかということは、神の約束の成就に深く関わっていると言って差し支えありません。

 エジプトで直面した「子孫」の危機に続き、カナンでは身内のロトを巻き込んでの「土地所有」の危機を迎えたアブラムが、この問題をどのように解決していったかということが13章のテーマであります。そして、エジプトで徹底的に打ちのめされたアブラムが、その経験によってどのような信仰に変わって行ったかという「成長物語」としてこの章を読むことも出来るのです。

 

 さて、アブラムとロトの牧童たちの争いの原因を一言で言えば、「不足」ということであります。自分たちの家畜を養うのに充分な牧草地が「不足」しているから、割り振りの問題が起きて来るのです。或いは、より良い土地を少しでも多く勝ち取って将来の「不足」に備えなければならないという思いが、「不足」の問題を必要以上に拡大しているとも考えられます。

 こうした「不足」を巡る争いは、創世記の時代に限ったことではありません。現代においても、「不足」に起因する紛争は至るところに生じています。紛争の中には話し合いによって解決するものもありますが、経済面での競争や武力による攻撃という形で紛争の決着を付けようとする場合も多いのです。

 大きな事例としては、南北間の格差に起因する対立の問題があげられますし、私たちの身近な所では、企業間の競争が見られます。いずれにしても、これは「不足」を解消しようとして起きる紛争に他なりません。

 私たちの住む社会では、「不足」は悪であり、マイナスであり、治療しなければならない病巣として受け止められております。では、こうした「不足」や「分配」の問題について聖書は、特にイエスは何を語っているのでしょうか?関連する新約聖書の箇所を見ておきたいと思います(ルカ12:13~21)。

 

 群衆の一人がいった。「先生、私にも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれが私を、あなた方の裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。あり余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることも出来ないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない。』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ。今夜、おまえの命は取り上げられる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ。」(ルカ12:13~21)

 

 現在は、富の分配、不足の解消という問題は、社会的公平という観点から論じられております。そして、所得税に累進課税制度が導入されていることから分かるように貧富の格差の是正が試みられている訳であります。日本は、富の再分配のシステムが機能し、貧富の格差が比較的少ない国だそうであります。一国の社会制度として、これは正しいことでありましょう。

 しかし、制度や法律、予算という衣をまといつつも、その背後では様々な個人や団体が自分たちの利益を増し、不足を解消しようとして、制度に対して、或いは有力な個人に対して働きかけをしております。こうしたダイナミズムを見る限りは、「富を得たい、不足を解消したい」という人間の欲望が制度によって満足させられている訳ではありません。

 例えば、現在の日本には、様々な社会団体があり、それぞれの団体の設立の趣旨に従って活動をしております。活動の活発な団体としては、農業団体、流通関係での中小企業団体、公共事業関連での建設団体などがあるそうです。

 こうした団体が組織されるのは、先ず第一に人々が職業上ないし生活上の利益を守ろうという目的からであります。例えば、国家は膨大な予算を組み、経済・社会・教育・労働・厚生などあらゆる面にわたって活動をしておりますが、ある業界において、国家予算の援助があったときにその業界の発展の上に大きなプラスがもたらされるとしたら、その業界の事業者は自分たちの利益を求めて政府や政党に働きかけます。政府や政党の方では、選挙に際して多くの支持票を得たいという希望がありますから、これらの団体の意見を聞き、陳情を受けることになるのです。

 団体が政府や政党に圧力をかける場合には「圧力団体」と呼ばれますが、政府や政党は、圧力団体との関係を良好なものとするために団体の幹部と会食を行ったり、意見交換を行ったりします。また、団体の大会の際などには代表を送ってあいさつをし、祝電、祝辞を送ったりもするのです。こうしたことを怠りますと団体の受けがまずくなり、選挙に不利な状況になってしまいますので、こまめに気を使わなければなりません。

 圧力団体が選挙の際に有効な働きをするのは、「機関決定」と称せられる候補者の推薦が行われるからです。選挙広報を見ますと、候補者の中には何十という団体から推薦・支持を受けている者がおりますが、こうした推薦が欲しいばかりに「世話焼き活動」に奔走する訳です。

 こうして見て参りますと、現代の日本は、自分たちの「不足」を解消し、利益を得ようとする(圧力)団体が数多く存在する国であり、社会のシステム自体がこうした団体の存在、活動を前提としているように思われます。日本の政治過程は、理念・理想以上に利害の調整が重要視されております。圧力団体と政府、政党の関係に見られるような表のシステムですらこのような面を持ちますので、我々の目に触れることのない裏の世界は、私たちの想像を超えているに違いありません。

 

 一方、先ほど引用したルカによる福音書で、イエスは、富の分配、不足の解消という問題に「貪欲さ」というファクターを加えております。ここでいう「貪欲さ」とは、聖書の言葉を借りれば「自分の前に富を積む(ルカ12:21)」ことであり、「神の前に豊かになる」こととは対照的なものであります。ルカに登場する金持ちは、貪欲であるが故に富のことで思い煩い、「自分の前に富を積んで」参りますが、そこに描かれている金持ちの発想は、人間としては当然の発想と映ります。金持ちは、畑の作物が豊かに実ったので、将来の為にそれを蓄えておこうと智恵を巡らしますが、我々が日常的に行っている「貯蓄」とは正にこの金持ちが行ったことに他なりません。将来の生活に備えて蓄えをしている者に、この金持ちを批判する資格があるでしょうか?多分、私たちの殆どが金持ちの発想に近いものを持っているだろうと思います。

 ところが、こうした人間(金持ち)に神は呼ばわるのです、「愚か者よ!」と。これは何故でしょうか?

 ここで、「富」に関する聖書の箇所を一箇所引用致します。

 

 あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにして下さったのである。(申命記8:17~18)

 

 富に関する聖書の考え方が、この申命記の箇所には明確に示されております。我々が得た富の根源には神の存在があり、全ての富は、神が我々に与えてくれた賜物であるということが、聖書の考え方であります。ですから、ルカのたとえ話に登場した金持ちが、神に「愚か者」と叱責されたのは、富の根源にある神の存在を忘れ、自己中心的な富の捉え方をしたためであると理解できるのです。

 

 さて、アブラムは、「貪欲さ」に取りつかれて争いを起こしている牧童たちを前にして、そのかけらも見せようとはしません。

 

 アブラムはロトに言った。

 「私たちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前にはいくらでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、私は右に行こう。あなたが右に行くなら、私は左に行こう。」(創世記13:8~11) 

 

 アブラムは、ロトに向かって「私たちは親類どうしだ」と言っておりますが、「親類」に当たる言葉としてヘブル語ではアヒームが使われており、これは「兄弟」という意味であります。単に血縁関係にあるという以上に、ロトとの関係は親しいものであることを強調したかったのでしょう。そして、アブラムはロトよりも年長でありましたから、当然のこととして土地を選ぶ権利があった筈です。その上、主なる神によって「土地を与える」という約束がなされていたのですから、尚更アブラムには土地を選択する権利があったと考えられます。

 ところが、アブラムは、「あなたが左に行くなら、私は右に行こう。あなたが右に行くなら、私は左に行こう。」と言って、その選択の権利をロトに譲ってしまいます。エジプトで、自分の命を救おうと妻サライを妹と偽ったあの小心さ、そして、世慣れた智恵は何処へ行ってしまったのでしょうか?良い土地を得なければ、これから先の一族の生活が不安定なものになるのは目に見えています。これまで増やしてきた家畜、金銀が失われてしまうかもしれません。そんなことで、果たして主なる神の約束は成就するのだろうか?こうした思いがアブラムの心をよぎらなかった筈はありません。それにも関わらず、アブラムは自分の権利をロトに譲り、「自分の前に富を積もうと」はしなかったのです。

 

 ベテルの辺りは、パレスチナでも高地にあたりますから、ヨルダン渓谷全域から死海南端のツォアルにまで達する「ヨルダンの平地」を含む広い地域を見渡すことが出来ました。アブラムの言葉を聞いたロトが、目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯がツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように見渡す限りよく潤っておりました。

 この時、ロトがアブラムの言葉に否を唱え、「年長者として、一族の長として、あなたに選ぶ権利があるのです。」と言わず、アブラムに言われるままに潤った土地を選んでしまったのはどうしてでしょうか?それは勿論、ロトの弱さであると言えばそれまでなのですが、この点については、前回に続いて作家の三浦綾子さんの文章を引用したいと思います。

 

 エジプトを出てカナンの地に来た時、アブラハムはロトに言った。

「どうして、このごろ、私の牧者とおまえの牧者たちは仲が悪いのだろうね。あまりこじれてしまわぬうちに別れるほうがいいのではないかね。」

 その原因をロトは知っていた。むろん、国を出た時から見たら、奴隷も家畜も何倍にも膨れ上っている。ロトもアブラハムのおかげで大金持ちになったのだ。実は、ロトは内心アブラハムに批判の目を向けていたから、その気持ちが、いつしかロトの奴隷やアブラハムの奴隷に反映していたのだ。

「ああ、それではお言葉にしたがって別れましょう。」

 ロトには妻子がいたが、サラを見ることが出来なくなるのは苦痛だった。

「ロトよ、さあ、神に与えられたこの地の好きなところにおまえは住むがいい。」

 アブラハムに言われて、ロトは土地を一望した。ヨルダンの低地があまねく神の園のように、エジプトの沃野のように、潤沢な土地であるのをロトは見た。

(今日から、おれはサラを見ることが出来なくなるのだ。よし!腹いせにこの見渡す限りのヨルダンの低地をもらってやれ!)

 たぶんアブラハムは立腹するに違いない。そう思ったが、ロトは、

「伯父上、わたしに、あのヨルダンの低地を残さず与えて下さい。おねがいします。」

と、ずうずうしくも言った。さすがの穏和なアブラハムも怒るかと思いきや、彼は微笑を浮かべてロトの手を握り、

「幸せに暮らしなさい。何でも困ったことがあれば、すぐに言ってくれるように。いつも、おまえのために祈っているから」

と言って、別れて行った。ロトはそのアブラハムの姿に、未だかつて見たことのない敬虔なものを感じた。ロトは深く心打たれ、自分を恥じた。

 ここで、わたし(三浦)は思うのだが、もし自分がアブラハムの立場なら、このような寛大な別れ方はできまいと思う。自分は伯父であり、一族の権力者である。しかもロトには、すでにたくさんの家畜や奴隷、その他を分け与えているのだ。遠慮は不要である。私がアブラハムなら、良い土地はことごとく自分が取り、悪い地をロトに与えたに違いない。たとえ、百坪の地を分けるとしても、日当りの良いほうをまず自分のものとするに違いない。

 口では良い地を選べといっても、内心では、まさか良い地を独り占めにするまいと思っているから、良い地を選びとったロトに、

「おまえも意地汚ない男だな。今まで恩になったことを忘れたのか。そんな根性では、ろくな目には会わないぞ」

と罵って別れることになるのではないか。

 だが、アブラハムは平和に別れた。それは多分エジプトにおいて、わが身可愛さの余り妻のサラを、パロに売った堕落した自分の信仰への、厳しい悔い改めがあったからに違いない。妻を売ろうとしたにもかかわらず、神はパロたちを疫病にかからせ、妻に一指も触れさせなかったばかりか、多くの家畜をも与えさせて、アブラハムに神の愛を示し給うた。恐懼したアブラハムは、この後全てを神に委ねて生きようと、固く心に誓ったに違いない。

(三浦綾子「旧約聖書入門」光文社刊 P91~92より)

 

 こうしてロトはアブラムと別れて行きますが、移り住んだ低地の町々からやがてはソドムにまで天幕を移して行きます。ソドムの住人は邪悪であり、主に対して多くの罪を犯していたにも関わらず、ロトはそこでの生活にひかれて行ったのです。

 こんなロトではありましたが、旅の最初から行動を共にしてきた甥であり、子のないアブラムにとっては息子のような存在でした。別れは辛いものだったことでしょう。その辛さは、良い土地を奪われたことの辛さではなく、親しく、信頼してきた人間との関係が破綻したことの辛さ、悲しさでありました。

 

 ロトと別れたアブラムに、神の言葉が臨みます。

 

「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地をすべて、私は永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数え切れないように、あなたの子孫も数え切れないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」(13:14~17)

 

 ここで神がアブラムに語りかけた言葉を、12章1~3節、7節の言葉と比べてみましょう。

 ロトの選択によって、最良と思われる土地が得られなくなったにもかかわらず、神の言葉は12章よりも約束の内容を強調していることが分かります。

 「土地」に関しては、12章は次のような表現をしております。

 

 「わたしが示す地に行きなさい。」(12章1節)

 「あなたの子孫にこの土地を与える」(12章7節)

 

 一方、13章では、次のような表現になっています。

 

 「見える限りの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。」(13章14節)

 

 「見える限りの」という修飾語が付けられ、土地の範囲がより明確になった上、「永久に」という修飾語によって所有の期間の長さが強調されております。

 

 「子孫の繁栄」という点については、12章は次のような表現をしております。

 

 「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」(12章2節)

 

 13章では、この点についても表現が強調されて、次のようになります。

 

 「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数え切れないように、あなたの子孫も数え切れないであろう。」(13章16節)

 

 12章の「大いなる国民」という文言がもっと具体的になり、「大地の砂粒のように」「数え切れないであろう」と数の多さが強調されています。

 良い地をロトに譲ったアブラムは、この世の常識からいえば「繁栄」から大きく後退したように思われますが、神の目にはそうは映らなかったようです。神との約束の原点に立ち返って「自分の前に富を積む」ことをしなかったアブラムは、知らず知らずのうちに「神の前に富を積む」ことになったのかも知れません。

 このような価値の逆転は聖書のもたらした最も麗しい思想であると、私は思います。この世の視点から見た価値と信仰の視点から見た価値とは、見事に逆転しており、我々が日頃使っている評価の物差しは、聖書の世界では通用しないのです。この世の物差しを当てはめればロトに土地の選択権を譲ったアブラムは愚か者のお人好しであり、その好機に乗じて良い土地を根こそぎ自分のものとしたロトは、抜け目のない大した人物ということになりますが、ソドムに移り住んで行ったロトがどのような歩を辿ったかについては皆様ご存じの通りであります。この逆転した価値観は、新約聖書にも受け継がれていき、イエスの山上の垂訓に麗しい実を結びます。

 さて、この世の価値観に従って成功を収めた者は賞賛と嫉妬の対象となるものですが、昨今は事情が違ってきたように思います。特に、最近の政界・官界・財界のリーダーたちの惨めな姿を目のあたりにしておりますと、各界の頂点に登り詰めた筈の人々が、その絶頂から転落して「晩節を汚す」どころか、自ら命を絶つところまで追い詰められてしまう姿には、キリスト者ではなくとも疑問を覚えます。どうやら、これまで、私たち日本人が考えてきたこと、行って来たことには、何か大きな間違いがあったようです。単純化していえば、良い高校に入り、良い大学に入り、良い就職をして、出世のレールに乗ることが人生のポイントであり、経済的な安定を得ることが大切だと考え、口先では「人生はそればかりではない」と言いながらも、そうした価値観から解き放たれずに歩んできたからこそ、道を誤る者が続出して来たのだと思います。こうした世の有様を見るにつけて、経済的な効用に価値を求める功利主義に人生を明け渡してはまずかろうと思うのです。もし、「どこか間違っているのではないか?」と真剣に思うならば、自分の人生を明け渡すべき相手をもう一度問い直すべきではないでしょうか?

 事件に関わって自ら命を絶った方々には、私たちの思い至らないような事情や絶望感があったことと思います。今日の時点で4名の方が命を絶たれたと聞きます。事件の大きさを思うと、死を選ぶことでしか償えない問題だと考えたことは分からなくはありません。しかし、周囲の人々から後ろ指をさされ、冷たい視線を投げかけられながら、自分の罪を悔い改めてとぼとぼと歩む人生であったとしても、それはそれで良いのではないでしょうか。

 アブラムも、エジプトでサライをファラオの宮廷に召し入れられた時には、こうした絶望感に襲われた筈です。サライが戻った後も、サライを含めて周囲の人々がアブラムを見る見方には厳しいものがあったことでしょう。アブラムは、こうした視線を浴びながら罪の痛みに苛まれ、主なる神の前にぬかずいたことだろうと思います。アブラムがエジプトからベテルに戻る旅路は、財産の豊かさとは裏腹にとぼとぼと足を引きずるような旅路であったのかもしれません。

 しかし、こうした痛みを伴った経験の中で、アブラムは変えられていきます。苦しみと葛藤が人を成長させるという以上に、神との交わりの中でアブラムは変わって行った。そこに、信仰の恩恵があったのだと私は思います。

 

 金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。(Ⅰテモテ6:8~9)

 

 これは2000年近く前に書かれた牧会書簡の一節ですが、今日の私たちはこの言葉に謙虚に耳を傾けなければならないと思います。

 

 主なる神の言葉を受けたアブラムは、天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木の所に来て住み、そこに主のために祭壇を築きました。マムレは、ヘブロンの真北にあり、アブラムがカナンに来る前から聖蹟でありました。そこに設けられた「天幕」と「祭壇」は、アブラムの生活の象徴とも考えられます。

 ヘブロンは、アブラムが活動の拠点とした地であり、その付近のマクペラの洞窟を買ってサラを葬り、アブラム自身、そして、イサク、リベカ、ヤコブ、レアも葬られ、マクペラの洞窟はアブラム一族の墓となった所であります。また、やがて、ダビデ王国が確立されたのもこのヘブロンでありました。主がアブラムに語られた約束は、ダビデ王国の成立によって一応の成就を見る訳であります。

 

<結 語>

 前回のレポートの際に、12章1~9節と10~20節は、光と影のコントラストをなしていると申し上げました。同様に、12章10~20節と13章は、影と光のコントラストをなしております。

 利己的で保身に心を砕くアブラムの姿は、人間の弱さ、醜さを表わしており、一方、己の利益を顧みることなく神の約束を信頼するアブラムの姿は、果敢な信仰者の在りようを示しております。そして、興味深いことには、聖書はこうしたアブラムの姿を率直に示すばかりで、そこに倫理的な判断・評価を加えておりません。

 これは、信仰という道がどのようなものであるかを描いているとも言えます。アブラムと同様に、私たちの中にも、この世的な抜け目のなさと神への信頼とが奇妙に入り交じっており、そうした相反する要素が一体となって私たち人間が存在しています。私たちの中には、光と影が複雑に絡み合いながら同居しているのであります。

 主なる神は、こうした複雑な人間の姿を受け止めて下さいます。アブラムの光に対しては、約束を与えて応答をなし、アブラムの影に対しては、断固たる姿勢で現実に介入をなさる。そして、常にアブラムの傍らに立ってその歩みを導いて行かれるのであります。同じように、今日の私たちの傍らにも導きの神、主はいまし給うのです。

 

<今回の参考書> 

 

「現代聖書注解 創世記」(ブルッグマン著 日本基督教団出版局)/「ケンブリッジ旧約聖書注解 創世記」(デヴィッドソン著 新教出版社)/「新聖書注解 旧約Ⅰ」(いのちのことば社)/「旧約聖書入門」(三浦綾子著 光文社)/「旧約聖書略解」(日本基督教団出版局)/「ヘブライ語聖書対訳シリーズ1 創世記Ⅰ」(ミルトス・ヘブライ文化研究所編 ミルトス)/現代の政治学(飯坂良明 他著 学陽書房)/「マイペディア」平凡社