旧約聖書の旅「創世記」第7回「王たちの戦い」(小山哲司)

 

 さて、アブラムの巡らした智恵は、目論見通り確かにアブラムに幸いをもたらしました(12章16節)。しかし、その代償として、サライは、ファラオの宮廷に召し入れられてしまいました。サライがファラオの妻になってしまえば、神がアブラムに語りかけた約束は反故になってしまいます。アブラムは、この世の幸いを得ることによって信仰の危機を招いてしまったのです。

 この危機を乗り越えることが出来たのは、パロの宮廷を重い病で撃った神の一方的な介入によってでありました。アブラムは危機を前にしてなす術もなくただ沈黙するしかなかったのです(12章17節)。

 こうして、神の介入によって妻サライを取り戻したアブラムは、エジプトからカナンの地へと戻って行きます。アブラムの一行の中には、やがてイシュマエルの母となるエジプト人の女奴隷ハガルも混じっておりました。

 エジプトを出たアブラムは、神の約束の言葉を受けてから最初に祭壇を築き、神を礼拝したベテルとアイの間の土地を目指して旅を続けます。これは、あたかも自分の信仰の原点に立ち返ろうとするかのように思われます。エジプトに於いては不安と疑いから神への信頼が揺らぎ、保身のためにサライを妹と偽って窮地に陥りましたが、この時の経験によってアブラムの心にはこれまでとは違う神への思いが湧き上がったのかもしれません。

 ベテルとアイの間の以前に天幕を張った所までやってくると、そこでアブラムの一行に問題が持ち上がってきます。それは、アブラムとロトの牧童たちの間の争いでありました。アブラムの牧童とロトの牧童の間に生じた争いは、遊牧地の権利を巡るものであったと考えられます。具体的には、家畜の数が増えましたので、彼らの家畜にどこの牧草を食べさせたら良いのか、限られた牧草地の割り振りの問題が起きたのです。

 さて、アブラムは、「貪欲さ」に取りつかれて争いを起こしている牧童たちを前にして、そのかけらも見せようとはしません。

 

 アブラムはロトに言った。

 「私たちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前にはいくらでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、私は右に行こう。あなたが右に行くなら、私は左に行こう。」(創世記13:8~11) 

 

 ロトよりも年長であり、神から約束の言葉を頂いていたアブラムには、当然のこととして土地を選択する権利があったと考えられます。

 ところが、アブラムは、「あなたが左に行くなら、私は右に行こう。あなたが右に行くなら、私は左に行こう。」と言って、その選択の権利をロトに譲ってしまいます。ここには、エジプトで妻サライを妹と偽った小心で策略家のアブラムの姿はありません。

 こうしてロトはヨルダン渓谷沿いの地味豊かな低地を選び、アブラムと別れて行きますが、移り住んだ低地の町々からやがてはソドムにまで天幕を移して行きます。こんなロトではありましたが、旅の最初から行動を共にしてきた甥であり、子のないアブラムにとっては息子のような存在でした。別れは辛いものだったことでしょう。その辛さは、良い土地を奪われたことの辛さではなく、親しく、信頼してきた人間との関係が破綻したことの辛さ、悲しさでありました。

 ロトと別れたアブラムに、神の言葉が臨みます。

 

「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地をすべて、私は永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数え切れないように、あなたの子孫も数え切れないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」(13:14~17)

 

 ここで神がアブラムに語りかけた言葉を、12章1~3節、7節の言葉と比べてみると、約束の内容が拡大され、強調されていることが分かります。良い地をロトに譲ったアブラムは、この世の常識からいえば「繁栄」から大きく後退したように思われますが、神の目にはそうは映らなかったようであります。

 アブラムは、エジプトで妻サライを裏切った経験から、心に大きな痛みを感じていたと思われますが、こうした痛みと正面から向き合う中で、アブラムは変えられていきます。そして、それがロトとの別れの場面で、選択の権利をロトに譲るという行為として実を結んでいったのです。苦しみと葛藤が人を成長させるという以上に、神との交わりの中でアブラムは変わって行った。そこに、信仰の恩恵があったのだと私は思います。

 レポートの冒頭で12章は、光と影のコントラストをなしていると申し上げました。同様に、12章10~20節と13章は、影と光のコントラストをなしております。

 エジプトで見られた利己的で保身に心を砕くアブラムの姿は、人間の弱さ、醜さを表わしており、一方、己の利益を顧みることなく神の約束を信頼するアブラムの姿は、果敢な信仰者の在りようを示しております。そして、興味深いことには、聖書はこうしたアブラムの姿を率直に示すばかりで、そこに倫理的な判断・評価を加えておりません。

 これは、信仰という道がどのようなものであるかを描いているとも言えます。アブラムと同様に、私たちの中にも、この世的な抜け目のなさと神への信頼とが奇妙に入り交じっており、そうした相反する要素が一体となって私たち人間が存在しています。私たちの中には、光と影が複雑に絡み合いながら同居しているのであります。

 

 今日は創世記14章を取り上げます。

 14章はこれまでのアブラムの物語と比べると色彩が異なっております。

 12~13章では、アブラム自身の歩みにスポットライトが当てられており、最初からアブラムが主人公でありましたが、14章では物語の舞台に世界史的な広がりが加わり、当時の国際関係が色濃く反映しております。しかも、前後の章との結び付きを欠いておりますので、仮に、14章を取り除いて13章から15章に飛んでしまったとしても、アブラムの物語の理解に大きな支障が生じるとは思われません。そうした意味で14章は孤立した章であり、何らかの意図を持って挿入されたエピソードであるとも言えます。

 この14章は、次の3つの部分に分けることが出来ます(小見出しは、新共同訳聖書より引用)。

  1 王たちの戦い(1~12節)

  2 ロトの救出(13~16節)

  3 メルキゼデクの祝福(17~24節)

 この中で特に注目すべき部分は、「メルキゼデクの祝福」であります。

 こうした点を念頭に置きながら14章を俯瞰していきたいと思います。

 

<1 王たちの戦い(1~12節)>

 

 14章は、年代記のような書き出しで始まります。新共同訳聖書よりも、岩波書店の月本昭男訳の方が年代記的な訳をしておりますので、ここで引用します。

 

「シンアルの王アムラフェル、エラサルの王アリヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティドアルの時代のことであった。」(1節)

 

 シンアルとは南メソポタミアのことであってバビロンを指し、また、エラムはイラン南西部を指すと考えられています。しかし、エラサルとゴイムがどの地方を指すかは、現時点では不明とされています。更に、以前は、シンアルの王アムラフェルをバビロンのハンムラビ王と同一視する見方が有力であり、この物語の時代はハンムラビ王の時代であると固く信じられておりましたが、今日では、言語的に両者を同一視することには無理があるため、ハンムラビ王であるかどうかは不明であるとされております。また、バビロニアなどの資料に、14章の「王たちの戦い」に関する記録が残っていればそれを手がかりとすることが出来る訳ですが、残念ながらそうした記録も発見されてはおりません。

 従って、年代記的な手法で書き出された章ではあるものの、当時の世界史との接点は「有るようでいて無い」のであります。創世記14章は、こうした点から大変ユニークな記録であると言えます。

 14章の記録としてのユニークさは、実はこれに留まりません。J資料、E資料、P資料といった創世記を編集する基礎となった諸資料との関係を検討すると、14章はこれらの諸資料のどれにも属さない独特のものであって、その起源が相当古いものであることが分かります。後で検討しますが、記述の細かな点から、この物語が創世記編者の創作によるものではなく、古い伝承をそのまま取り込んだものであることが窺われるのです。

 

「彼らはソドムの王ベラア、ゴモラの王ビルシャア、アドマの王シンアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラアすなわちツォアルの王と戦争を行った。」(2節)

 

 2節に登場する地名(ソドム、ゴモラ、アドマ、ツェボイム、ベラア-ツォアル-)は、いずれもヨルダン渓谷の低地にあったと伝えられるカナン人の町の名前であります。特に、ソドム、ゴモラ、ツォアルはソドムの滅亡物語(19章)に名前が登場するので、そうした点からも確認出来ます。「ベラアすなわちツォアル」という書き方はこの章に何度か出て来ますが、時代と共に地名が変わった場合には、古い名を先に挙げ、新しい名を補足的に後に付けていると思われます。即ち、ツォアルは、以前はベラと呼ばれていた訳です。

 ここで注意して頂きたいのは、ベラ-ツォアル-の王だけが名前が書かれていないことです。1~2節に登場する9人の王たちの中で、ベラの王だけが名前がないのは奇妙なことです。どうして、1人だけ名前が書かれていないのでしょうか?

 これついては、ベラ王だけが名前がないのは、元々の伝承に名前が欠落していたので、それをそのまま取り込んだ証拠だと解釈されています。もし、14章の物語が誰かの創作によるものであるならば、ベラの王の名前だけを欠落させるというのは不自然ですし、ソドム王ベラアが「悪において」、ゴモラ王ビルシャアが「よこしまにおいて」という、本来の名前をもじったようなあだ名で呼ばれていることを考えると、ベラ王の名前を考え出すことぐらいは造作のないことであったと思われるからです。1人だけ名前が書いていないという些細なことが、この章の記述の信憑性を高めているというのは、まことに興味深いことです。

 彼ら、ヨルダン渓谷の低地の王たちは「12年間、ケドルラオメルに仕えていたが、13年目に背いた」訳ですが、チグリス、ユーフラテス河よりも東に位置するエラム(イラン南西部)のケドルラオメル王が、ヨルダン渓谷にまで支配権を及ぼしていたことには驚かされます。ケドルラオメルの心を引くような魅力がヨルダン渓谷の低地にはあったということでしょうか。そうだとすれば、ヨルダン渓谷の低地にロトが心引かれたのは、当然のことであったと言わざるを得ません。或いは、10節に「天然アスファルトの穴があった」と書かれておりますので、アスファルトの採掘を巡って利害が対立していたとも考えられます。

 低地の王たちがケドルラオメルに背いてから1年後、ケドルラオメルと味方の王たちは、カナン地方に遠征してきます。彼らの遠征の道筋は、聖書に寄れば次の通り。

 アシュテロト・カルナイム(レファイム人)→ハム(ズジム人)→シャベ・キルヤタイム(エミム人)→セイルの山地(フリ人)→エル・パラン

 これは、ヨルダン川東岸の丘陵地帯を北から南のアカバ湾付近まで進撃して、その地域の住民を撃破したということです。このヨルダン川東岸を北から南に走る道は、いわゆる「王の道」であり古代の隊商路でありました。聖書には「大路(広い道)」と呼ばれている道が登場します(民数記20章19節など)が、それがこの「王の道」であるとされております。モーセに率いられたイスラエルの子らが、エドムを通って約束の地へ入ろうとしたのはこの道であったとされます。現在でも、航空写真で見ると、古代の跡が黒い縞になって、はっきりと地の上を走っているそうです。ケドルラオメル連合軍の遠征の目的は、低地の王たちとの戦いを唯一の目的とする訳ではなく、こうした隊商路を確保する為に遠征をなし、そのついでにカナンの王たちを叩いておこうとしたのかもしれません。

 実は、紀元前21世紀から紀元前19世紀にかけての「王の道」沿いには、高度な文明を持つ人々の集落がありました。それが、その時代の終わりに徹底的に破壊され、数百年間の文明の空白が生じたとされております。徹底的な破壊をもたらすような何らかの出来事-侵略など-があったと思われますが、それがこの14章の物語の背景かもしれません。

 さて、アカバ湾を臨むエル・パランまで南進したケドルラオメル連合軍は、そこから北西方向に転進してネゲブを横切り、カデシュでアマレク人を、ハツェツォン・タマルでアモリ人を撃破します。カデシュからは北東に進路を変えて死海南端に向けて行軍を続けて行き、低地の王たちとの決戦に臨む訳です。

 低地の王たちは、シディムの谷でケドルラオメル連合軍を迎え撃とうと兵を繰り出しますが、自分たちの居住地に近い所での決戦を選択したことから、あまりこの戦いには乗り気でなかったと思われます。ぎりぎりまでケドルラオメル連合軍が進軍の方向を変えてくれることを期待しており、それが叶わぬ情勢となったのでやむなく決戦に臨んだように思われるのです。

 双方の軍勢がどうであったのか、どのような戦闘が行われたのかについては創世記は何も記してはおりませんが、10節に「シディムの谷には至るところに天然アスファルトの穴があった。ソドムとゴモラの王は逃げるとき、その穴に落ちた。残りの王は山へ逃れた。」とありますので、たちまちのうちにケドルラオメル連合軍の前に破れ去り、山に逃げる余裕もないほど打ちのめされたものと思われます。ソドムとゴモラの王が逃げるときに、天然アスファルトの穴に落ちたとありますが、これは、「たまたま」落ちてしまったとも読めますが、文法的には「意図的に」落ちたとも解釈できるようです。ここでは、山に逃れる時間的な余裕がなかったので、アスファルトを採掘した跡の穴に自ら飛び込んで難を逃れたと解釈しておきたいと思います。

 ケドルラオメル連合軍は、低地の王たちの軍を撃破した後、ソドムとゴモラの町に入って財産と食料とを略奪していきます。これは、遠征中の食料の補給を考えれば当然のことと思われます。それに加えて、町の住人の中には財産もろとも連れ去られた者がいたらしく、アブラムの甥のロトも連合軍によって連れ去られてしまいました。ロトは、ヨルダン渓谷の低地に入り込んでから、都市の魅力に取りつかれたらしく、何時の間にかソドムの町の住人となっていたのです。

 こうして、ケドルラオメル連合軍と低地の王たちの戦いは、略奪された中にロトが混じっていたことによって聖書世界との接点を見い出し、創世記の中に記録を残すことになったのであります。

 

<2 ロトの救出(13~16節)>

 

 ケドルラオメル連合軍から逃げ延びることの出来た者-多分、ロトの一族の者-がアブラムのもとにやって来て、戦いの状況とロトが略奪されたことを伝えます。

 この13節には「逃げ延びた一人の男がヘブライ人アブラムのもとにきて」とありますが、この「ヘブライ人アブラム」という書き方は14章のこの箇所に特有のものであり、「ヘブライ人アブラム」乃至「ヘブライ人アブラハム」という用例は他にありません。

 ここで、「ヘブライ人」という紹介の仕方をしたのは何故でしょうか?

 13節の「ヘブライ人」という文言は、ヘブライ語では「ハイブリー」となっておりまして、これは「(ユーフラテス川の)向こうから来た人」という意味だそうです。川を渡って来た者であり、「渡り者」「流れ者」、即ち、さすらいの遊牧民であるとも理解できます。また、一方、当時は、メソポタミアからエジプトにかけて、奴隷や傭兵となり、場合によってはアウトサイダーとして定住民を脅かす社会の下層階級の人々を「ハビル」と呼んでいたそうでありますが、この「ハビル」がヘブライ人と関係があったという説もあります。「ヘブライ人」の語源には、まだ解決されていない謎が含まれています。

 この「ヘブライ人」という言い方は、聖書では、外国人がイスラエル人を呼ぶ場合に用いられるか、イスラエル人が外国人に自己紹介をする時に用いられるかのどちらかであり、それ以外の用法はありません。これを踏まえた上で、「ヘブライ人アブラム」という表現を用いていることから判断すると、どうやら、14章の素材となる伝承は、初期の段階では外国人によって語り伝えられていたと思われます。14章の物語が世界史的な広がりを持つことから想像はつきますが、アブラムの存在は当時のカナンの人々にとっても無視できないものとなり、彼の戦闘指揮官としての鮮やかな活躍が人々の記憶に刻み込まれたのではないかと思われるのです。そうした点から、この箇所は、外国人世界に保存されたアブラムに関する証言を創世記の中に取り込んだものであると言うことも出来るのであります。

 ロトが略奪されたという知らせをアブラムが受けたのは、アモリ人マムレの樫の木の傍らでした。このマムレはエシュコルとアネルの兄弟であり、彼らはアブラムと同盟を結んでいたと説明されています。

 ここに登場するマムレは、創世記の他の箇所ではすべて地名として扱われております。創世記13章18節にあるように「ヘブロンにあるマムレの樫の木」や、23章19節の「カナン地方のヘブロンにあるマムレの前のマクペラの畑の洞穴」などに見られるように。エシュコルとアネルも同様であり、人名としての用法は14章独特のものであります。この地名としての用法と、人名としての用法にどのような関係があったかは分かりません。

 アブラムは、ロトが略奪されたという知らせを聞くと直ぐさま、彼の家で生まれた奴隷で、訓練を受けたものを召集して追撃を開始します。

 ここで、「彼の家で生まれた奴隷」とありますのは、「外から買い取られた奴隷」に対する言葉であり、幼い時からアブラム一族の中で育ち、彼に仕えてきた信頼の置ける奴隷を意味しています。ですから、単なる奴隷というよりも家族に近い存在であり、重要な仕事を任せることが出来たのです。そうした奴隷であって、戦闘の訓練を受けた者が全部で318人いたということから、当時のアブラム一族の状況を知ることが出来ます。

 アブラムは、ケドルラオメル連合軍をダンまで追跡し、そこで二手に分かれて夜襲をかけて連合軍を撃破し、敗走する相手をダマスコの北のホバまで追撃しています。低地の王たちがあっさりと打ち破られたことを思うと、アブラムの戦闘指揮官としての能力は卓越したものがあったと言わなければなりません。しかし、アブラムの目的はロトを奪い返すことだけでしたので、連合軍に対しては深追いすることもなくロトを連れてホバから引き返してきます。

 ここに描かれるアブラムの姿は、半遊牧民として都市の周辺で山羊や羊を飼う者というよりは、高度の戦闘能力を秘めた武装集団の首領としての姿であります。戦闘力を養い、常に一族の者たちに戦闘の訓練を受けさせておかなければ生き抜いて行けないのが当時のパレスチナであったということが、この箇所からは窺われます。アブラム自身が自ら戦闘を仕掛けている箇所はありませんが、他民族からの攻撃に備えて自衛力を養っていたことは確かだと思われます。

 

<3 メルキゼデクの祝福(17~24節)>

 

 ケドルラオメル連合軍を撃破したアブラムがダマスコの北のホバから戻ると、アスファルトの穴に飛び込んで難を逃れたソドムの王がアブラムを出迎えるために「王の谷」に出てきます。サムエル記下18章18節によれば、この「王の谷」はエルサレムの近郊にあったと思われますが、それがどこであったのかははっきり致しません。

 この時、ソドムの王と一緒にサレムの王メルキゼデクもパンとぶどう酒を持ってアブラムを迎えます。ソドムの王ベラとサレムの王メルキゼデクは、アブラムの前で対照的な存在として描かれていきます。

 このメルキゼデクは謎に包まれた王であります。

 彼は、「いと高き神(エル・エリヨン)の祭司」であると紹介されております。この「いと高き神(エル・エリヨン)」は、イスラエル以前のエルサレムで崇拝されていた神の名前であったと思われます。元来エルという名前はカナンの至高神を指しますが、普通名詞として「神」を指すものとしても使われます。この場合には、エルが普通名詞として用いられ、それに「いと高き」という意味の「エリヨン」が修飾していると考えられます。

 このカナンの異教の祭司であり王であるメルキゼデクの祝福の言葉を、なぜアブラムは素直に受け取り、彼に全てのものの中から10分の1を献げたのでしょうか?これが異教の神を礼拝することになるとすれば、アブラムは主なる神に背を向けたことになってしまいます。

 しかし、この点についてアブラムの主なる神は介入なさらず、 更に、詩篇110篇や新約聖書のヘブライ人への手紙においては、メルキゼデクがメシアの予型として積極的に評価されていることに注意しなければなりません。何箇所か、メルキゼデクに関する聖書の箇所を引用します。

 

 主は誓い、思い返されることはない。

「わたしの言葉に従って

 あなたはとこしえの祭司

 メルキゼデク(わたしの正しい王)」(詩篇104篇 4節)

 

 このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。アブラハムは、メルキゼデクに全てのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠の祭司です。                  (ヘブライ人への手紙7章1~3節)

 

 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、ご自分に従順である全ての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。        (ヘブライ人への手紙5章8節)

 

 わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入っていくものなのです。イエスは、わたしたちの為に先駆者としてそこへ入っていき、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。

               (ヘブライ人への手紙6章19~20節)

 

 ここに取り上げた聖書の箇所のうち、詩篇110篇の新共同訳の訳文は分かりづらいので、関根正雄先生の訳も引用したいと思います。関根先生の訳によれば、次のようになります。

 

 ヤハウェは誓いを立てて取り消し給うことはない。

「君はマルキ・ツェデクの様にひとしく

 とこしえに祭司である」(詩篇110篇4節)

 

 これは、新たに即位する王に対して主なる神ヤハウェが与えた言葉であり、この言葉によって新しい王はメルキゼデクの様に等しい祭司として任命される訳であります。ヤハウェに仕える王(祭司)の典型的な姿としてメルキゼデクを取り上げているという点に詩篇110篇の特徴があります。

 このメルキゼデクというサレムの王の名前は、何通りかに解釈されます。

「ゼデク(神の名)は王である」「メレク(神の名)は正しい」或いは「王は正しい」など。ヘブライ人への手紙の著者は、7章で他の訳を退けて「義の王」と解釈する道を選んでおり、更に、彼がサレムの王であったことからサレム=エルサレムと理解した上で、「平和の王」と理解しております。サレムという名は、詩篇76篇の3節に出て参りますので、ここで引用します。

 

 神の幕屋はサレムにあり

 神の宮はシオンにある。(詩篇76篇3節)

 

 ここでは、サレム=シオン(エルサレム)とされており、神の幕屋の所在地として取り上げられております。メルキゼデクは、やがてヤハウェを礼拝する宮(幕屋)が設けられる(エル)サレムの王であり、祭司でありましたので、アブラムを祝福したという創世記の記事を元に、神の宮に仕える祭司の典型として扱われるようになったのかもしれません。

 しかし、メルキゼデクの名前の他の解釈によれば、彼は「ゼデク」或いは「メルク」といった名の神々に仕える祭司であったとも考えられるのであり、彼が19~20節の頌栄の中で使った「エル・エリヨン(いと高き神)」は、先ほど述べました通りにカナンで礼拝された異教の神であった訳です。詩篇が、そしてヘブライ人への手紙が、メルキゼデクを祭司の典型として、或いは、キリストの予型として描いたことには何か理由がありそうです。

 聖書学者の議論には、サレム王メルキゼデクがアブラムを祝福したという記事自体が、アブラムとダビデの王座であったエルサレムを結び付けようとした物語であり、後代の作であるとするものもあります(フォン・ラート)。つい先日まで異教の町であったエルサレムの王座(ダビデ王朝)に服従することを良しとせず、古くからの族長組織を神による制度であると主張する人々を説得するために、アブラハムですらサレム王の祝福を受け、十分の一を献げたのだから、アブラハムの子孫であるイスラエルの人々がエルサレムの王座に服従するのは当然であるという主張の根拠としたという説であります。

 アブラムの活動の拠点を見ておりますと、彼が拠点としたのはヘブロンの近辺であり、エルサレムとの接点はほとんどありません。創世記に(エル)サレムが登場するのは、14章のこの箇所だけですし、次に(エル)サレムが登場するのは、ヨシュア記10章1節を待たなければなりません。エルサレムが神の宮(幕屋)の正統的な所在地であり、その地の王がイスラエルの正統的な支配者であるという根拠を旧約聖書の中に求めようとするならば、創世記のこの箇所を取り上げざるを得ない訳です。

 しかし、14章の起源が相当に古く、かつ、古い伝承素材を忠実に取り込んでいるという点を考慮すると、後代の作であると断定することには慎重でなければなりません。

 むしろ、アブラムの帰還をメルキゼデクがパンとぶどう酒を持参して出迎えていることから見て、両者にはかねてから交流があり、アブラムはメルキゼデクの信仰、神礼拝が如何なるものであったかを知っていた。そして、メルキゼデクが仕えている神「エル・エリヨン(いと高き神)」が、実は、アブラムの神の似姿であるという自覚を持っていた、だから、メルキゼデクの祝福を素直に受けることが出来たのだと理解すべきではないかと思います。

 これは、22節でアブラムが次のように述べていることからも裏付けられると思います。

 

 アブラムはソドムの王に言った。

「わたしは、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います。

                          (14章22節)

 

 ここでアブラムが述べている言葉と19節でメルキゼデクが述べている言葉を比べると、一箇所だけ違いがあります。それは、メルキゼデクの言葉は「天地の造り主、いと高き神」までですが、アブラムはそれに「主(ヤハウェ)」を加えていることです。つまり、メルキゼデクが言う「天地の造り主、いと高き神」とは、即ち「主(ヤハウェ)」のことであると、アブラムが示唆しているということ。ここに注目したいと思います。

 カナンの地で以前から礼拝されている神々の中に、「エル・エリヨン(いと高き神)」と呼ばれる創造神がおり、その性格がアブラムの神の似姿であった。そして、その祭司であるメルキゼデクとアブラムの間には信ずる神の共通項の故に交流があった。ただ、両者の違いは、アブラムは神の本当の名「ヤハウェ」を知らされていたが、メルキゼデクはそれを知らなかった、だから、アブラムはこの機会を利用して、メルキゼデクの仕える神の本当の名をここで示したのだと解釈するのが適当ではないかと思います。いわば、新約時代になって、パウロがアテネの「知られざる神」の祭壇を指して、アテネの人々が知らずに礼拝している神が如何なる神であるかを示そうとしたことと通じる点があるように思います(使徒17章)。

 

「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。」(使徒言行録17章22~24節)

 

 実際のところがどうであったのかは分かりませんが、神のイメージが民の交流の中で、歴史の中で変遷して行くということはありえないことではありません。メルキゼデクに対して「エル・エリヨン」はヤハウェのことであると示す一方で、アブラムの神イメージが「エル・エリヨン」によって影響を受けたという可能性は否定できません。生ける神は一つであり、永遠に変わらない存在であったとしても、我々人間の抱く神のイメージは相対的なものであり、歴史の制約のうちにあります。新約聖書の時代に「天地の造り主、いと高き神、主」を「われらの主、イエス・キリストの父なる神」と呼び変えたように、神のイメージをどう捉えて呼んでいくかという点から、その時代の人々の信仰の営みを見ることが出来ると思います。

 

 さて、メルキゼデクの祝福を素直に受け、彼に十分の一を献げたアブラムは、しかし、ソドム王の申し出に対しては対照的な態度を示します。

 「人はお返しください。しかし、財産はお取りください。」と言ったソドムの王に対してアブラムは、「あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。」と答え、申し出を拒絶します。それは、ソドムの王に「アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ」と言われたくなかったためでした。

 ソドムの王に対して徹底した拒絶の姿勢を取っているアブラムを見ると、彼の信仰が実に強烈であることが分かります。ソドムの町はロトが生活をしていた町であり、そこがどんな町であり、どんな王が支配していたかを知っていたアブラムは、遠慮会釈なくソドムの王に「NO!」を突きつけた訳であります。しかし、その一方で、こうした自分の判断を周囲の者に対しては押し付けず、「わたしは何も要りません。ただ、若い者たちが食べたものと、私と共に戦った人々、即ち、アネルとエシュコルとマムレの分は別です。彼らには分け前を取らせてください。」と頼んでいます。ここに、信仰と智恵がバランス良く練り上げられつつあるアブラムの姿を見ることが出来ます。

 

<結 語>

 創世記14章は、族長物語の中に世界史的な広がりを与える独特の章であります。

 東方の王たちがカナンを侵略し、ソドムの王たちを撃破してロトを奪い去りますが、アブラムの追撃に破れます。アブラムからはエジプトで見せたような小心さは消え去り、雄々しい戦闘指揮官の姿がクローズアップされております。

 アブラムは、帰還の際にサレムの王であり、異教の祭司であったメルキゼデクから祝福を受け、彼に十分の一を献げますが、このメルキゼデクは、イスラエルの祭司の原型となり、さらには、イエス・キリストの予型ともされる重要な存在です。

 一方、アブラムは、ソドムの王からは何一つ得ようとはせず、メルキゼデクに対する態度とは好対照をなしております。信仰者の持つ毅然とした態度がここに示されていると言えましょう。   以上

 

 

 

<今回の参考書> 

 

「現代聖書注解 創世記」(ブルッグマン著 日本基督教団出版局)/「ケンブリッジ旧約聖書注解 創世記」(デヴィッドソン著 新教出版社)/「新聖書注解 旧約Ⅰ」(いのちのことば社)/「旧約聖書略解」(日本基督教団出版局)/「ヘブライ語聖書対訳シリーズ1 創世記Ⅰ」(ミルトス・ヘブライ文化研究所編 ミルトス)/関根正雄著作集第12巻「詩篇注解(下)」(新地書房)/「歴史としての聖書」(ケラー著 山本書店)/「聖書歴史地図」(新教出版社)