旧約聖書の旅「創世記」第8回「約束」(小山哲司)

アブラムは、この世の幸いを得ることによって信仰の危機を招いてしまったのです。この危機を乗り越えることが出来たのは、パロの宮廷を重い病で撃った神の一方的な介入によってでありました。アブラムは危機を前にしてなす術もなくただ沈黙するしかなかったのです(12章17節)。

 こうして、神の介入によって妻サライを取り戻したアブラムは、エジプトからカナンの地へと戻って行きます。

 エジプトを出たアブラムは、神の約束の言葉を受けてから最初に祭壇を築いて神を礼拝したベテルとアイの間の土地を目指して旅を続けます。これは、あたかも自分の信仰の原点に立ち返ろうとしているかのように思われます。

 ベテルとアイの間の以前に天幕を張った所までやってくると、アブラムの一行に問題が持ち上がってきます。それは、アブラムとロトの牧童たちの間の争いでありました。その争いは、遊牧地の権利を巡るものであったと考えられます。

 さて、アブラムは、「貪欲さ」に取りつかれて争いを起こしている牧童たちを前にして、そのかけらすら見せようとはしません。

 ロトよりも年長であり、神から約束の言葉を頂いていたアブラムには、当然のこととして土地を選択する権利があったと考えられますが、アブラムは「あなたが左に行くなら、私は右に行こう。あなたが右に行くなら、私は左に行こう。」と言って、選択の権利をロトに譲ってしまいます。ここには、エジプトで妻サライを妹と偽った小心な策略家の姿はありません。

 ロトと別れたアブラムに、神の言葉が臨みます。

 

「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地をすべて、私は永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数え切れないように、あなたの子孫も数え切れないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」(13:14~17)

 

 ここで神がアブラムに語りかけた言葉を、12章1~3節、7節の言葉と比べてみますと、約束の内容が拡大され、強調されていることが分かります。良い地をロトに譲ったアブラムは、この世の常識からいえば「繁栄」から大きく後退したように思われますが、神の目にはそうは映らなかったのであります。

 アブラムは、エジプトで妻サライを裏切った経験から、心に大きな痛みを抱えていたと思われますが、痛みと正面から向き合う中で、彼は変えられていきます。そして、それがロトとの別れの場面で、選択の権利をロトに譲るという行為として実を結んでいったのです。苦しみと葛藤が人を成長させるという以上に、神との交わりの中でアブラムは変わって行った。そこに信仰の恩寵があったのだと私は思います。

 前回取り上げた創世記14章は、族長物語の中に世界史的な広がりを与える独特の章でありました。

 東方の王たちがカナンを侵略し、ソドムの王たちを撃破してロトを奪い去りますが、アブラムの追撃に破れます。アブラムからはエジプトで見せたような小心さは消え去り、雄々しい戦闘指揮官の姿が描かれております。

 アブラムは、帰還の際にサレムの王であり、異教の祭司であったメルキゼデクから祝福を受け、彼に十分の一を献げますが、このメルキゼデクはイスラエルの祭司の原型となり、さらには、イエス・キリストの予型ともされる重要な存在です。

 一方、アブラムは、ソドムの王からは何一つ得ようとはせず、メルキゼデクに対する態度とは好対照をなしております。信仰者の持つ毅然とした態度がここに示されていると言えましょう。

 

 今日は創世記15章を取り上げます。

 15章から17章までは、神がアブラムに示された子孫と土地の約束を巡る箇所であり、17章に至ってアブラムはアブラハムに改名することを神に求められます。今日取り上げる15章は、新約聖書に大きな影響を与えた6節(「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」)を含んでおり、そうした意味からも創世記のなかでも特に重要な章であります。

 では1節から見て参りましょう。

 

「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。」(1節)

 

 ここで、「これらのことの後で」とありますのは、14章の内容を受けて「その後で」という意味に受け取れます。しかし、前回のレポートで申し上げたように、14章の元となる資料がJ(ヤハウェスト資料)・E(エロヒスト資料)・P(祭司資料)といった諸資料に属さない古い独特の資料に基づいておりますので、J資料・E資料が複雑に絡みあっている15章(関根正雄による)は、14章を跳び超えて13章と結び付いているとも考えられます。

 しかし、14章が「これらのこと」という指示語の対象から全く外れているというのは、創世記編者の意図を曲解することになります。私は、「これらのことの後で」とは、東方の王たちと戦い、メルキゼデクの祝福を受けソドムの王の申出を拒否した後に、と素直に読みたいと思います。

 ここで主の言葉は幻の中に登場します。

 幻の中に主の言葉を登場させるのは、E資料の特徴であります。J資料が2章4節以下に示されるように神を擬人化して表現する(例えば、19節「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形作り、人のところへ持って来て、人が各々をどう呼ぶか見ておられた。」)のに対して、E資料は,神が自分自身を表わす際には夢や幻を用いたり、天使や天からの声として自分自身を示すのです。

 幻とは、ある種の恍惚とした状態を指しますが、これは眠っている時、起きている時の別なく経験せられるものでありまして、先見者・預言者に特有の経験であるとも言われております。

 例えば、民数記には次のような箇所があります。

 

 主はこういわれた。

「聞け、わたしの言葉を。

 あなたたちの間に預言者がいれば

 主なるわたしは幻によって自らを示し

 夢によって彼に語る。」(民数記12章6節)

 

 民数記では、こうした幻や夢によって語りかける一般の預言者とモーセの違いを指摘し、神はモーセに対しては口から口へ語り合うのだと記しておりますが、ここから幻や夢が神が人に語りかける手段であり、夢・幻の中で神の言葉を聞くことが先見者・預言者に特有の経験であると分かります。

 E資料が神が夢や幻の中に登場して族長たちに語りかけるというスタイルを取るのは、E資料が成立した時代(BC750年頃)が、エリヤ、アモス、ホセアといった預言者たちの活躍した時代であり、かれらの活動の影響を強く受けていたということもあるのだと思われます。創世記20章はE資料だと言われておりますが、20章7節ではアブラハムが預言者であると明示されております。

 

「直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから。あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。」(創世記20章7節)

 

 夢・幻の中で神の言葉を聞くアブラムは、後の時代の預言者的要素を持つ人物としてイメージされていたのかもしれません。

 この幻の中で、神はアブラムに語りかけます。

 

「恐れるな、アブラムよ。

 わたしはあなたの盾である。

 あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」(15章1節後半)

 

 「恐れるな」という神の言葉から、アブラムが恐れていたことが分かります。アブラムの心が恐れに支配され、揺れ動き、思い乱れていたことは確かですが、では、彼は一体何を恐れていたのでしょうか?

 アブラムの恐れとしてまず考えられるのは、東方の王たちの報復攻撃、そして、神との約束が成就しないままに時が過ぎていくことへの焦り、子がないままに老い衰えて行くことへの不安など。こうした恐れに襲われていたからこそ、彼の神への態度が論争的になったとも考えられます。

 こうした恐れに囚われているアブラムへ、神は「恐れるな」と言いますが、その理由は「わたし(神)はあなたの盾で」あり、神の守りの内にあるアブラムの「受ける報いは非常に大きい」からです。

 なお、この「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」という箇所には別訳があります。別訳によれば「(神は)あなたの大いなる報いである」となり、神ご自身が恐れを解消するものであると解釈されますが、2節の「わたしに何をくださるというのですか?」という箇所から、「受ける報いは非常に大きい」と訳したほうが意味が取りやすいと思います。

 この「報い」という語は、さらりと読み過ごすこともできますが、突き詰めて考えて行けば難しい問題をはらんでいます。アブラムの行い、或いは、信仰に対する報酬としての「報い」なのか、それとも、そうした報酬としての性格を持たない、神からの一方的な「プレゼント」なのか、という問題です。また、仮に代償を求めないプレゼントであったとすると、神はどのような点からプレゼントを送る相手を選ばれたのかということも問題になってきますが、ここでは、こうした解釈上の問題があるということを指摘するに留めておきたいと思います。

 さて、「恐れるな」と呼びかけられたアブラムは、神の言葉に素直に応答しようとはしません。

 

 アブラムは尋ねた。

「わが神、主よ。わたしに何を下さるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」(2節)

 

 アブラムの神への応答は、純粋に疑問を尋ねたということではありません。これは、子孫と土地の約束が成就しないことに対してクレームを付けたものと思われます。「報いは非常に大きい」と言うけれども、神は自分に子供を一人も与えてくれないじゃないか、自分も妻も子供をつくれるほど若くないのだし、このままでは後継ぎなしに死んで行かねばならなくなる。神が自分に約束してくれたことは、一体何だったのか・・・・という積もる思いが噴き出したものと考えられます。

 アブラムの神への抗議は、2節だけでは収まらず、3節においても繰り返し述べられています。

 

 アブラムは言葉を継いだ。

「ご覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えて下さいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」(3節)

 

 アブラムのクレームの中で、2節の後半は原文の意味が取れない箇所であります。古来、様々な訳がなされておりますので、その幾つかをご紹介します。

 

「わが執事メセクの息子はダマスコ人エリエゼルです」

「わが家の支配人の息子、これがダマスコ人エリエゼルです」

「ダマスコの人、エリエゼル、わが家の息子がわが跡継ぎになりましょう」 

 この箇所について、関根正雄先生は「私の家の執事、エリエゼルの子がわたしの跡を継ぐでしょう」と訳され、月本昭男先生は「わが家の相続者はダマスコのエリエゼルです。」と新共同訳に近い形に訳されています。

 

 さて、このようにアブラムの抗議は、率直であって、神に執拗に訴えかけるものでしたが、これをアブラムの不信仰の現われであると解釈するべきではなく、神と神の約束に対する期待が大きかったことの現われと読むべきです。

 アブラムがエリエゼルを自分の跡継ぎにしようと考えたのは、当時のフルリ人の習慣に習ったものと考えられています。アブラムは、神の約束が成就して子孫が繁栄し、土地が与えられることを待ち望んでおりましたが、自分自身の子供が誕生しそうにない状況を考え、家で生まれて家族同様の存在であった奴隷を養子にしようと考えたと思われます。

 上メソポタミアのヌジ(ミタンニ王国)で発掘されたフルリ人(聖書ではフリ人)の文書(ヌジ文書)によれば、相続人には直接相続人と間接相続人の2種類があり、直接相続人がいない場合には、傍系の親族や場合によっては奴隷の中からさえ間接相続人が選ばれ、子として認定されて法的な地位を得ることが出来ました。間接相続人は養父母に対して孝養を尽くし、財産を管理し、彼等が死に臨んでは葬儀を執り行う責任がありましたが、こうした責任の裏返しとして、間接相続人は養父母の財産を継承したのです。

 アブラムは、エリエゼルを間接相続人(跡継ぎ)とすることに決めながらも、跡継ぎが実子ではないことに不満を抱いていたに相違ありません。神の約束に対する信頼があったからこそ、実子ではないエリエゼルを通して子孫の繁栄と土地の所有が実現することに、どうしても納得できないものを感じていたと考えられます。

 人がこのように押さえようのない気持ちを持って迫って行く場合、神は、時として回答にならない言葉を突きつけることがあります。例えば、ヨブ記38章ですが、ここで神は次のようにヨブに答えます。

 

 主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。

 

「これは何者か。

 知識もないのに、言葉を重ねて

 神の経綸を暗くするとは。

 男らしく、腰に帯をせよ。

 わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。(ヨブ記38章1~3節)

 

 これにたいして、ヨブは次のように答えます。

 

 ヨブは主に答えて言った。

 

 あなたは全能であり

 御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。

「これは何者か。知識もないのに

 神の経綸を隠そうとするとは。」

 そのとおりです。

 わたしには理解できず、わたしの知識を超えた

 驚くべき御業をあげつらっておりました。(ヨブ記42章1~3節)

 

 回答にならない回答ながらも、ヨブは、全能なる神のリアリティーを前にして神の前にぬかずきました。

 ヨブに対して全能者のリアリティーを突きつけた神は、しかし、アブラムの抗議に対しては、具体的な回答を与えて彼の迷いを断ち切ります。

 

 見よ、主の言葉があった。

「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれるものが跡を継ぐ。」

 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることが出来るなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」(15章4~5節)

 

 4節の言葉は、エリエゼルを自分の跡継ぎにしようとしていたアブラムの迷いを断ち切る言葉でした。アブラムは信仰の人ではありましたが、世事に疎い人ではなく、自分やサライの年齢を考えて、そろそろ相続人をどうするかを決めておく必要を感じてエリエゼルとの養子縁組を考えたのでしょう。いわば、老齢に差し掛かったので遺言をしたため、自分の万一の時に備えたのだと思われます。そうした、人間としての常識的な判断に対して神はNOと言い、老齢に差し掛かったアブラムとサライに実子が誕生すると宣言したのです。これは常識を打ち破る言葉ですから、人間の理性では受け止めることが出来ません。理性的に考えれば老齢の夫婦に子供はできないのです。現代人ではなくても、これぐらいのことは当然のこととして理解されていた筈。にもかかわらず、神の言葉はアブラムの常識に反する宣言をし、更に、満天の星のように子孫が増えると子孫の繁栄を強調します。

 神の言葉を受け、満天の星を見つめながらアブラムは自分自身の子供が誕生して子孫が増えることを信じます。

 

 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(6節)

 

 この6節は、創世記中で最も重要な箇所の一つであり、パウロのローマ人への手紙4章、ガラテヤ人への手紙2~4章に決定的な影響を与えた箇所です。パウロの行いによらず信仰によって義とされるという立場は、この創世記15章6節に立脚しているのですから。

 ここでパウロの言葉を見て参りましょう。

 

 では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たというべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれは出来ません。聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。(ローマ4章1~3節)

 

 あなたがたに「霊」を授け、また、あなた方の間で奇跡を行われる方は、あなた方が律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。(ガラテヤ3章5~7節)

 

 ところで、創世記15章6節には「主はそれを彼の義と認められた。」という新共同訳とは違う訳があることをご存じでしょうか?私は新共同訳しか念頭にありませんでしたので、別訳があることを知って驚きました。ここでそれ(月本訳)をご紹介します。

 

 彼はヤハウェを信じた。そして彼は、それが自分にとって正しいことだと考えた。(6節)(岩波書店刊行 創世記より)

 

 この訳の立場では、6節後半は「アブラムは神ヤハウェの約束を信じることが最善と考えた」ということになります。これではパウロの書簡との関連が断ち切られ、信仰によって義と認められるというパウロの論旨は根拠を失います。ですから、逆に言えば、新約聖書の前提として旧約聖書を捉えるならば月本訳は採用できず、新共同訳のように訳すしかありません。これは、旧約聖書と新約聖書の有機的な結び付きの好例ですが、旧約聖書が前提となって新約聖書が存在し、一方、新約聖書記者も旧約聖書の解釈を限定しているという相互関係を示すものです。或いは月本訳のような訳し方が元来の趣旨であったのかもしれませんが、パウロの解釈によって6節の読み方が限定されたものと思います。

 この箇所の読み方として興味深いのは、ヤコブの手紙にもこの6節が引用されており、しかもその解釈がパウロとは違うことです。

 

 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったのですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。(ヤコブ2章20~24節)

 

 初代教会の抱えた問題は、キリスト者となるためには、その前にユダヤ教徒になってモーセの律法を守る必要があるかということでしたが、パウロは、モーセ律法を守る必要はなく、キリストに対する信仰のみで充分であるとして、その立場からローマ書、ガラテヤ書を書きました。キリストに対する信仰のみで充分であるとした点でパウロは間違っていませんでしたが、この点を強調しすぎてしまったため、ヤコブによって行動を伴わない信仰は本当の信仰とは言えないという指摘が必要になったのです。ヤコブの手紙は、決して、マルティン・ルターが言うように「藁の書簡」ではありません。

 パウロとヤコブの手紙の6節の解釈が微妙にずれているのは、信仰と行為の捉え方が違うからです。ユダヤ教との関係が問題になっておりましたので、信仰と行為(律法遵守)を対比させる必要があったのは理解できますが、こうしたことが創世記15章6節の念頭に置かれた問題意識であったとは思えません。信仰対行為のコントラストから両者の関係を模索するのが第一の目的ではなく、信仰とは何かを考察して信仰対不信仰を対比させることが創世記編者の意図であったと思われます。

 新共同訳の訳文を前提とするならば、そこに示されているのは、全ての証拠、全ての状況が不利な方向を示している時であっても、神の約束は成就に向かって進んで行くという確信であり、最も持ちえない時に確信を持ったが故に神はアブラムを賞賛したということ。それが信仰というものの在り方を示しているということなのです。

 

 1~6節に続いて、7節からもアブラムの見た幻、幻の中での神との交わりの経験が語られています。7節以降の幻は、1~6節の幻と一続きのように思われますが、幾つかの点で、別の機会に見た幻であると分かります。

 一つには、1~6節は子孫がテーマであるのに対して、7節以降は土地がテーマであること。もう一つは、5節では星が出てくることから夜だと分かりますが、7節から後は、12節に「日が沈みかけたころ」とありますので1~6節の翌日以降の出来事であることが読み取れます。また、7節で神が自己紹介をしていることからも、別の機会に改めてなされた啓示であると解釈出来ます。このように、内容・時間ともにずれており、神が改めて自己紹介をしていることから見ても別個の経験が並べて記されていると考えた方が自然です。

 さて、「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」という主の言葉に対してアブラムは「わが神、主よ。この土地を私が継ぐことを、何によって知ることが出来ましょうか。」と答えております。(7~8節)

 12章1~9節、13章14~18節にも主なる神の約束の言葉が示されておりますが、そこでは、こうしたアブラムの応答はありません。15章になって始めて、アブラムは神にもの申すようになっているのです。これは、アブラムの信仰が弱くなったからでしょうか?先ほど読んだ「主はそれを彼の義と認められた」(6節)という言葉からは、そうは思われません。むしろ、アブラムが神の言葉(約束)を真摯に受け止めているからこそ発せられた言葉であると考えるべきなのでしょう。神に対して真摯な態度であろうとするならば、ある種の懐疑心が生じるのは当然のことであり、問題は、それによって冷ややかに神に背を向けてしまうのか、それとも、迷い・疑いで千々に乱れた心を神の前にさらけ出して、その解決を神に委ねて行くかという違い。アブラムは、後者の途を選んだのであります。

 私は、アブラムが自分の迷い、疑いを率直に神の前にさらけ出していることを知って、更に、そうしたアブラムを神が顧みられていることを知って安堵を感じます。迷いや疑いは信仰の弱さの表われだと一刀両断のもとに断罪されては、自分で自分の迷い、疑いを無理やり押さえ込まなければなりません。しかし、これは自分で自分を洗脳するようなものです。新興宗教の中には、その信仰の在り方が「マインドコントロール」との批判を受けるものもあるようですが、キリスト教の信仰は違います。信仰の父祖とされる族長たちでさえ、迷いを感じ、疑いを覚えて神の前に罪を犯し、また、そうした心のうちを率直に神の前にさらけ出しているのですから。

 主なる神は、アブラムに答えて次のように言われます。

 

「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持ってきなさい。」

 アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。禿鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。(9~11節)

 

 ここで神が求めた「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛」は、犠牲のために求められたものではありません。これらの動物を殺して真っ二つに切り裂いたのは、神に犠牲をささげる儀式としてではなく、神と人との契約の儀式としてでありました。

 ここで神がアブラムに求めたのと同じ儀式がエレミヤ書に取り上げられているので、その箇所を見ておきましょう。

 

 わたしの契約を破り、わたしの前で自ら結んだ契約の言葉を履行しない者を、彼らが契約に際して真っ二つに切り裂き、その間を通ったあの子牛のようにする。ユダとエルサレムの貴族、役人、祭司、および国の民のすべてが二つに切り裂いた子牛の間を通った。わたしは、彼らを敵の手に渡し、命を奪おうとする者の手に渡す。彼らの死体は、空の鳥と地の獣の餌食になる。(エレミヤ34章18~20節)

 

 ここから分かる通り、動物を真っ二つに切り裂いてその間を通るのは、もしも契約を破った場合には真っ二つにされた動物と同じ目にあっても仕方がないということを意味しております。こうした契約の儀式は古代においては広く見られたものでありまして、マリ文書に登場するエモリ人はろばを用いて儀式を行い、それ故「ろばを殺すこと」が「契約を結ぶこと」と同義であるとされたそうです。へブル語で契約を結ぶことを「契約を切る」と表現するそうですが、それもこうした契約の儀式の影響を受けたものかもしれません。

 ともあれ、こうした儀式が行われたことは、現代のわれわれには血生臭さい、一種異様な光景としてしか映りません。契約に際して動物を殺すばかりか、それを真っ二つに切り裂いてその間を通ることなど思いも寄らないことではありますが、契約(約束)というものにそれほどの重きを置いたということは伝わって参ります。いや、これほどの儀式を要したのは、いざという時には武力を使ってでも約束の履行を求めなければならない時代であったことの裏返しなのかもしれませんが。

 更に興味深いことは、こうした人と人との契約の儀式の形を神ご自身が用いられたということです。人と人とが対等の立場で結ぶ契約であるのに、主なる神はその一方の当事者となって立ち現われ、儀式の準備をアブラムに求められた。アブラムはその神の言葉に忠実に動物を殺し、真っ二つに切り裂いてそれぞれを互いに向かい合わせに置いたのです。多分、アブラムはこれが何らかの契約を結ぶための準備であると察していた筈。そして、その「何か」とはこの場合には「土地」以外には考えられません。

 

 やがて日が傾き、沈んで行きますが、そうするうちにアブラムは深い眠りに襲われます。(12節)「深い眠り」とは、創世記2章21節の「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。」という箇所に記されている「深い眠り」と同じ用語が使われております。神によってそうした眠りへと誘われたということでしょう。この眠りの中で「大いなる暗黒」すなわち恐怖が彼に臨みますが、これは絶対者である神との出会いが彼に感じさせた恐怖であり、彼自身の罪を暗示する闇であったのか、それとも、アブラムの子孫が味わう苦難を示す「闇」であったのかは分かりません。

 

 主はアブラムに言われた。

「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖の元に行く。ここに戻ってくるのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」(13~16節)

 

 アブラムに対しては12章、13章でも主なる神によって土地の約束がなされておりますが、土地を所有する兆しが感じられません。さて、一体何時になったら土地を得ることが出来るのか、また、神の約束でありながらそれがすぐに成就しないのは何故なのか、彼は悩んでいたに違いありません。

 何故、約束の成就が遅れるのかという理由を神はここで説明し、彼の子孫が土地を得るのは長期に渡る流浪と奴隷生活の後のことであり、また、そのような経緯を経なければならないのは、「アモリ人の罪が極みに達しないからである。」と説明します。

 創世記が編集されたのは、バビロン捕囚期のことですから、編集者たちはエジプトに寄留されていた期間が何年であったかは既に承知しておりました。出エジプト記12章40節に記されているエジプト滞在の期間(430年間)が、13節の「400年」とほぼ一致しているのは理由のないことではありません。また、こうしたプロセスを経て初めてカナンの土地所有が始まっていったのは、15章16節によれば「アモリ人の罪が極みに達したからである」ということになりますが、ここにいう「アモリ人」とは、イスラエル人がカナンに定着する前にカナン地方に住んでいた土着の人々を指すとされております。そうしたアモリ人の罪とは一体何でしょうか?

 カナンに従前から住んでいた人々の中には、サレムの祭司メルキゼデクのようなキリストの予型とも看做される者もおりましたが、われわれの前に示されるカナンの人々の姿は、創世記18~19章のソドムに代表されるように性的な不品行に耽り、神の目に好ましくない人々の姿であります。ソドムは、神の裁きにあって滅亡し、都市自体が死海の底に沈んでしまいました。しかし、そうしたアモリ人がイスラエル人によって完全に滅ぼされるにはまだ時間を要するということが、アブラムの子孫がすぐさま土地を得られない理由なのです。

 関根正雄先生によれば、7~11節、17節はJ資料、12~16はE資料とされますので、この場面は、元々はアブラムが動物を真っ二つに引き裂いて地面に並べた所を不思議な炎が通りすぎて行った経験だと思われます。12~16節は、その不可解な経験を反芻する中で得られた霊的な思唯の結論であったのでしょう。

 

 日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通りすぎた。(17節)

 

 アブラムに襲いかかった暗闇が辺り一帯を覆い尽くした頃、煙を吐く炉と燃える松明が現われました。煙を吐く炉とは、土製の簡易かまどであり、伏せた鉢の中央に空気穴を開けたようなものだと想像されています。これらが真っ二つに切り裂かれた動物の間を通っていくのをアブラムは、夢うつつの幻の中に見たのでしょうか。こうした「火(炎)」と神の結び付きは、聖書の他の箇所にも見い出すことが出来ます。

 

 モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現われた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。(出エジプト記3章1~2節)

 

 主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することが出来た。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。(出エジプト13章21~22節)

 

 闇は恐怖であり、サタンが支配する世界を暗示しますが、その中に明々と灯る火は、サタン(闇)の支配を否定する神のシンボルとしてふさわしいもの。炎の中に顕現する御使いと接し、或いは、火の柱に導かれて荒野を旅したイスラエルの人々にとっては、アブラムの前に現われた輝く炉と松明は、神の顕現を表わすものと受け止められたことでしょう。

 この煙を吐く炉と燃える松明が二つに引き裂かれた動物の間を通り過ぎていきますが、アブラムはそれをじっと眺めるだけであり、アブラム自身のアクションはありません。神が契約の儀式の準備を求め、更に、ご自身が契約の当事者としてイニシアティブを取って行かれたということに注目したいと思います。当事者が対等の立場で結ぶのが通常の契約の姿でありますが、創造主たる神が被造物たる人間との契約関係に自ら進んで入られたということに、神の人間に対する思いの強さを見ることが出来るのです。

 

 その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。

「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地を与える。」(18~21節)

 

 この「 」の箇所は、関根正雄先生によれば後代の加筆であります。

 子孫に与えると約束された土地の範囲は、「エジプトの川から大河ユーフラテス」であるとされておりますが、このエジプトの川とは大河ナイルではなく、ガザの南方にあるワディ・エル・アリシュ(エジプトの川)を指すと考えられております。この川は伝統的にイスラエルとエジプトとの国境の役目を果たした川であり、全盛期のダビデ・ソロモン王国の南限に一致し、「エジプトの川から大河ユーフラテス」とは、ダビデ・ソロモン王国の領土を指すものと言えます。これは、後代の加筆の際に、神から賜わった土地の範囲をダビデ・ソロモン王国の土地の範囲と同一視する、すなわち、ダビデ・ソロモン王国の基を神の約束に求めんとする神学的な思唯が働いたものと思われます。

 

<結 語>

 創世記15章は子孫を巡る約束と土地を巡る約束の2つの部分に分かれております。

 アブラムは、子孫を巡る神の約束が臨んだ際に、まず抗議の言葉を述べておりますが、こうした論争的な態度は彼の神に対する真剣さの表われであり、率直に自分の心をさらけ出すアブラムを神は顧みて満天の星を彼自身の子孫が繁栄する徴として示されます。満天の星が徴?そうです、論理的には証拠たりえない満天の星を見て、アブラムは神の言葉を受け入れて自分の実子が誕生することを信じます。最も信じ難い時に神の言葉を受け入れて信じたことを神は「彼の義と」認めますが、こうした信仰の在り方は新約聖書のパウロに、ひいては宗教改革のルターに大きな影響を及ぼして参ります。

 土地の約束の際にもアブラムはすぐに信じようとはせず、神に徴を求めます。神は契約の儀式の当事者となり、真っ二つに引き裂かれた動物の間を煙を吐く炉、燃える松明の姿を取って通り過ぎます。こうしたアブラムの神秘的な経験を反芻し、思唯する中で、創世記の編者たちは、ダビデ・ソロモン王国の基が神がアブラムと結ばれた契約にあるという信仰を抱いて行ったものと思われます。

 以上

 

<今回の参考書>  

「創世記」(関根正雄訳 岩波文庫)/「創世記」(月本昭男訳 岩波書店)/「現代聖書注解 創世記」(ブルッグマン著 日本基督教団出版局)/「ケンブリッジ旧約聖書注解 創世記」(デヴィッドソン著 新教出版社)/「新聖書注解 旧約Ⅰ」(いのちのことば社)/「デイリー・スタディー・バイブル 創世記Ⅱ」(ギブソン著 新教出版社)/「ヘブライ語聖書対訳シリーズ1 創世記Ⅰ」(ミルトス・ヘブライ文化研究所編 ミルトス)/「聖書歴史地図」(新教出版社)