旧約聖書の旅「創世記」第9回「ハガルの逃亡」(小山哲司)

アブラムは、この世の幸いを得ることによって信仰の危機を招いてしまったのです。この危機を乗り越えることが出来たのは、パロの宮廷を重い病で撃った神の一方的な介入によってでありました。アブラムは危機を前にしてなす術もなくただ沈黙するしかなかったのです(12章17節)。

 こうして、神の介入によって妻サライを取り戻したアブラムは、エジプトからカナンの地へと戻って行きます。

 エジプトを出たアブラムは、神の約束の言葉を受けてから最初に祭壇を築いて神を礼拝したベテルとアイの間の土地を目指して旅を続けます。これは、あたかも自分の信仰の原点に立ち返ろうとしているかのように思われます。

 ベテルとアイの間の以前に天幕を張った所までやってくると、アブラムの一行に問題が持ち上がってきます。それは、アブラムとロトの牧童たちの間の争いでありました。その争いは、遊牧地の権利を巡るものであったと考えられます。

 さて、アブラムは、「貪欲さ」に取りつかれて争いを起こしている牧童たちを前にして、そのかけらすら見せようとはしません。

 ロトよりも年長であり、神から約束の言葉を頂いていたアブラムには、当然のこととして土地を選択する権利があったと考えられますが、アブラムは「あなたが左に行くなら、私は右に行こう。あなたが右に行くなら、私は左に行こう。」と言って、選択の権利をロトに譲ってしまいます。ここには、エジプトで妻サライを妹と偽った小心な策略家の姿はありません。

 ロトと別れたアブラムに、神の言葉が臨みます。

 

「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地をすべて、私は永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数え切れないように、あなたの子孫も数え切れないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」(13:14~17)

 

 ここで神がアブラムに語りかけた言葉を、12章1~3節、7節の言葉と比べてみますと、約束の内容が拡大され、強調されていることが分かります。良い地をロトに譲ったアブラムは、この世の常識からいえば「繁栄」から大きく後退したように思われますが、神の目にはそうは映らなかったのであります。

 アブラムは、エジプトで妻サライを裏切った経験から、心に大きな痛みを抱えていたと思われますが、痛みと正面から向き合う中で、彼は変えられていきます。そして、それがロトとの別れの場面で、選択の権利をロトに譲るという行為として実を結んでいったのです。苦しみと葛藤が人を成長させるという以上に、神との交わりの中でアブラムは変わって行った。そこに信仰の恩寵があったのだと私は思います。

 その後、東方の王たちがカナンを侵略し、ソドムの王たちを撃破してロトを奪い去りますが、アブラムの追撃に破れます。アブラムからはエジプトで見せたような小心さは消え去り、雄々しい戦闘指揮官の姿が描かれております。

 アブラムは、帰還の際にサレムの王であり、異教の祭司であったメルキゼデクから祝福を受け、彼に十分の一を献げますが、このメルキゼデクはイスラエルの祭司の原型となり、さらには、イエス・キリストの予型ともされる重要な存在です。

 一方、アブラムは、ソドムの王からは何一つ得ようとはせず、メルキゼデクに対する態度とは好対照をなしております。信仰者の持つ毅然とした態度がここに示されていると言えましょう。

 これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨みます。

 

「恐れるな、アブラムよ。

 わたしはあなたの盾である。

 あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」(15章1節後半)

 

 しかし、アブラムは主の言葉を素直には受け取らず、それに抗議をして言います。

 

「わが神、主よ。わたしに何を下さるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」(2節)

「ご覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えて下さいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」(3節)

 

 アブラムは、子孫を繁栄させ、土地を与えるとの主の言葉を受けたにも関わらず、実子が誕生しないことに不満を抱いていたに相違ありません。

 主なる神は、こうしたアブラムの抗議に対して具体的な回答を与えて彼の迷いを断ち切ります。

 

 見よ、主の言葉があった。

「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれるものが跡を継ぐ。」

 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることが出来るなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」(15章4~5節)

 

 神の言葉を受け、満天の星を見つめながらアブラムは自分自身の子供が誕生して子孫が増えることを信じます。

 

 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(6節)

 

 その後、主なる神はアブラムに牝牛と牝山羊と牡山羊と山鳩とを用意してそれらを半分に引き裂き、向かい合わせに置くように命じます。猛禽がそれを襲わない様に番をするうちにアブラムは深い眠りに陥りますが、夢(幻)の中で神は、アブラムの子孫の行く末について語ります。やがて、辺りが闇に包まれた頃、煙をはいた炉と燃えた松明が引き裂かれた動物の間を通りますが、これは神がアブラムと契約を結ばれた徴でありました。

 

 その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。

「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地を与える。」(18~21節)

 

 今日は創世記16章を取り上げます。

 15章から17章までは、神がアブラムに示された子孫と土地の約束を巡る箇所であり、17章に至ってアブラムはアブラハムに改名することを神に求められますが、今日取り上げる16章は、アブラムとサライというよりは、サライの女奴隷であったハガルに光が当てられております。

 

 アブラムには、12章から繰り返し、子孫が繁して土地を所有するとの神の言葉が臨みます。15章では、アブラムから誕生する実子が相続人となることを明示し、また、神ご自身が引き裂かれた動物の間を炉や松明の姿で通り過ぎるなど、具体的な徴を与えて神の言葉が確かに実現するとお示しになりました。

 けれども、サライには一向に妊娠の兆しがありません。

 アブラムの実子とは言いましても、それがサライの子供とは限らないかもしれない・・・。アブラムの心をこんな思いがよぎらなかったとは言えません。

 この問題に口火を切ったのは、しかし、サライの方でした。

 

 サライはアブラムに言った。

「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」(2節)

 

 ここでサライが言ったことは、決して突飛な提案ではありませんでした。ヌジから出土した文書によれば、当時のホリ人の法慣習として、妻に子供がない場合には、妻は夫に側女を与えなければならないとされていました。ヌジ文書ばかりでなく、ハムラビ法典146条にも同じ様な規定が設けられております。

 ハムラビ法典によれば、母となることが禁止されている女祭司が結婚した場合には、女祭司は側女を夫に与えなければならず、これによって子供が生まれた場合、女奴隷はあくまで自分の立場を忘れてはならないことになっています。

 ヌジ文書では、正妻が子供を産んだ場合には側女を持つことは認められませんが、正妻が子供を産まない場合には女奴隷を側女として夫に与えなければならないと規定されています。

 ハムラビ法典の規定もヌジ文書の規定も、当時の一般的な社会慣習を示しているものですので、サライがこれに従ったのは特に驚くべきことではありません。

 何人もの子供を持ち、大勢の親族に囲まれて暮らすことが当時の社会保障であり、子供がいないということが社会的に大きなダメージであった状況の下では、サライの判断は当然のことでありました。

 しかし、この世的な視点では当然のことが神との関係においては決してそうではない。むしろ否定の対象となるということが、今日の箇所のテーマの一つとなります。

 

 アブラムは、サライの申し出を聞き入れ、その言葉の通りにエジプト人の女奴隷ハガルを側女として迎え入れます。

 3節には、「アブラムがカナン地方に住んでから、十年後のことであった」と示されておりますので、エジプトに寄留し、そこから戻ってから十年以上の時が経過していたことになります。多分、ハガルは、このエジプト寄留の際に、ファラオがアブラムに与えた女奴隷であったのでしょう。そして、サライがハガルを指名したことから、サライに最も忠実な態度で仕えていたことが伺われます。また、サライほどの美貌に恵まれてはいなかったことも。

 やがて、ハガルは身ごもりますが、自分が身ごもったことを知ると、彼女は態度を変えてサライを軽んじます。

 実は、こうしたトラブルは頻繁に起きていたらしく、ハムラビ法典には規定が設けてあります。こうした場合、女主人は母となった側女を売却してはならず、また、側女も以前の奴隷の地位に戻されなければなりませんでした。一夫多妻制度に内在する問題、特に正妻と側女の感情のもつれは家庭に深刻な亀裂をもたらしたものと思われます。

 サライは、思いも寄らない状況を迎えてアブラムに訴えかけます。

 

 サライはアブラムに言った。

「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。」(5節)

 

 サライの立場を理解する為に、同じ様な状況に置かれた子のない妻の物語(サムエル記1章1~12節)を読んでみたいと思います。

 

 エフライムの山地ラマタイム・ツォフィムに一人の男がいた。名をエルカナといい、その家系をさかのぼると、エロハム、エリフ,トフ、エフライム人のツフに至る。エルカナには二人の妻があった。一人はハンナ、もう一人はペニナで、ペニナには子供があったが、ハンナには子供がなかった。

 エルカナは毎年自分の町からシロに上り、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。シロには、エリの二人の息子ホフニとピネハスがおり、祭司として主に仕えていた。いけにえをささげる日には、エルカナは妻ペニナとその息子たち、娘たちに各々の分け前を与え、ハンナには一人分を与えた。彼はハンナを愛していたが、主はハンナの胎を閉ざしておられた。彼女を敵と見るペニナは、主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた。

 毎年このようにして、ハンナが主の家に上るたびに、彼女はペニナのことで苦しんだ。今度もハンナは泣いて、何も食べようとしなかった。夫エルカナはハンナに言った。「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。なぜふさぎ込んでいるのか。このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか。」

 さて、シロでのいけにえの食事が終わりハンナは立ち上がった。祭司エリは主の神殿の柱に近い席に着いていた。ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。そして、近いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」(1~12節) 

 

 エルカナの愛したハンナには子供がなく、ペニナには子供が何人もおりますので、ハンナとペニナの関係を、サライとハガルの関係に置き換えることも出来ます。子供がないことによる心の痛みに加えて、子を産んだライバルとの間に生じる嫉妬や軋轢も耐え難いものがありました。

 さて、サライが怒りを覚え、ハガルを憎んだ裏には、ハガルから生まれる子供が神の約束の子供であるという思いがあったとも考えられます。子を産む前ですらサライを軽んじるハガルの態度が、子を設け、約束の民の母となった後にどうなるか・・・。ペニナがハンナに対して行ったような敵意に満ちた態度でサライを悩ませるに相違ありません。

 サライがアブラムに対して訴えかけた言葉「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。」とは、そのまま読めばサライの身勝手な発言とも考えられます。ハガルを側女にしたのは、アブラムが求めたことではなく、サライからの申し出によるものだからです。しかし、これは法的な保護を求める場合の定式化された表現であると言われており、それだけサライの悩みが深刻なものであったことを窺わせます。

 ここで、法的な保護を求める場合と申し上げましたが、それは、ハガルを与えたのはわたしだと明言した上でアブラムの責任を追及していることから窺われます。

 ヌジ文書によれば、側女(女奴隷)の子供は女主人の子供として認知されましたので、ハガルの産む子供はサライの子として認知されるはずですが、ハガルの態度が変わったことによって、サライは子供の母が誰になるのかについてアブラムがハガルに理解させていないと疑ったのです。そして、ハガルにこうした点を理解させなかったからこそ、子の母となるべきサライを見下すような態度を取ったのだ、その責任を取りなさいとアブラムに詰め寄ったのです。

 

 アブラムは、サライに答えて言います。

「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」(6節)

 

 アブラムの答えは、サライがハガルにどのような仕打ちをするかを見越した上でそれを容認したもの。サライの立場を尊重したといえばそれまでですが、サライとハガルの子に対する権利関係を明示しようとはせず、積極的に両者の間を調整しようともしなかったと言えます。信仰の父祖アブラムは、サライとの関係においては毅然としたところのない夫であり、エジプト寄留の際のように醜態ばかりを晒してしまうようであります。アブラムこそが、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒の信仰の父祖であり、旧約聖書を代表する人物であると聞いたら、サライは何と言うでしょうか。

 さて、サライが「好きなように」した結果、ハガルはサライのもとから逃げ出しました。以前そうであったような主人と奴隷の関係に戻ったのだとすれば、逃げる必要はなかった筈。それに、アブラム一族のもとから荒野に飛び出したとして、身重の彼女がそこで生きて行ける訳もありません。これは、サライが、ハガルに絶望的な思いを抱かせるような仕打ちをしたから。或いは、法的な問題を突きつけられ、子供をサライの手に渡すよりも自分の子として育てたいと思ったからかもしれません。そうした女主人の仕打ちに耐え切れなくなった時、彼女は荒野に飛び出したと考えるべきでしょう。

 

 主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、言った。

「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」

「女主人サライのもとから逃げているところです。」

と答えると、主の御使いは言った。

「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」(8~9節)

 

 ここに登場するシュル街道とは、エジプト北東端の国境付近にある道。ハガルが自分の故郷への道を辿っていたことが分かります。

 街道の泉のほとりで休んでいると、ハガルのもとに主の御使いがやってきて問いを投げかけます。「どこから来て、どこへ行こうとしているのか。」と。

 ハガルには、10年に渡るアブラム一族との共同生活の中で、唯一絶対なる神に対する信仰が養われていたと思われます。サライとアブラムの思惑によって翻弄され、子をはらみ、その子の母たる権利さえ自分の意のままにならぬ状況を神に訴えていたと考えるべきでしょう。その回答を携えて、御使いが姿を現わしたのです。

 ハガルは、主の御使いの言葉によって自分の置かれた状況を見つめ直し、それを率直に表現します。「女主人サライのもとから逃げているところです。」と。ここで、ハガルが「女主人」という言葉を使っていることに注意しなければなりません。サライから遠くはなれた今でさえ、奴隷と主人という関係性は気持ちの上で続いており、それをハガル自身が告白したのです。逃亡という形で否定したはずの主人と奴隷という関係が、否定し切れないままハガルの心を捉えていたことが分かります。

 主の御使いは、ハガルに勧めて言います。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」と。

 この「従順に仕えなさい」という箇所は、原文を直訳すれば「苦しめられなさい」という意味であり、THE NEW ENGLISH BIBLEでは、「submit to her ill-treatment(彼女の酷い仕打ちに従いなさい)」と訳されております。

 これはどうしてでしょうか?サライとハガルは、一緒にいればトラブルが生じるのは当然のこと。ハガルがサライのもとを離れた方が、二人にとっても良い結果をもたらすのではないでしょうか?

 私は、帰還を求める主の御使いの言葉が意味するものは、ハガルの子孫がサライの子孫に仕えることの予型をハガルとサライとの関係に求めたのではないかと考えます。ハガルがサライに仕えたように、ハガルの子孫もサライの子孫に仕えるという神学的な思惟がここに表われていると思うのです。その意味では、サライはどんなに非難されようとも主人であり、そこから逃れようとしてもハガルはサライに仕えるべき奴隷でなければなりません。

 こうして、サライに「従順に仕えなさい。」という一方で、御使いは言葉を重ねて言います。

 

 主の御使いは更に言った。

「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」(10節)

 

 御使いであるにもかかわらず、主なる神のような物言いになっておりますが、13節で、実は主であったと示されています。

 神の顕現は、15章のように夢、幻の中に神ご自身が登場する場合もありますが、この箇所のように、御使いを通して神が姿を表わすことも多いのです。例えば、18章にはイサクの誕生を告知するために3人の人(御使い)が登場しますが、その中の一人は主なる神であったようです。このように、神が人のような姿を取って人間の前に姿を現わすという信仰は、やがてキリスト・イエスの受肉につながっていく重要な信仰であると言えます。

 さて、御使いの姿をとられた神は、ハガルの子孫を数え切れないほど多く増やすと約束しました。これは、ハガルが身重であることを考えると、サライの出産、その子孫の繁栄よりも遥かに信憑性のある言葉であります。この時点においては、ハガルの子どもこそが神の約束した子孫であり、ハガルの子孫の繁栄が、アブラムの子孫の繁栄であると受け止められて当然であった訳です。

 しかし、ハガルに語りかけられた言葉には、欠けた部分があります。12章の2~3節と比べて見ましょう。

 

わたしはあなたを大いなる国民にし

あなたを祝福し、あなたの名を高める

祝福の源となるように。

あなたを祝福する人を私は祝福し

あなたを呪うものをわたしは呪う。

地上の氏族はすべて

あなたによって祝福に入る。(12章2~3節)

 

 12章に示された主なる神の言葉の中心は「祝福」でありました。アブラムが祝福され、そして、その子孫が祝福され、地上の氏族はすべてアブラムの子孫によって祝福を受けるのです。こうした祝福の証として、アブラムの子孫の数は増していくのだと思われます。

 一方、ハガルに与えられた言葉には、こうした「祝福」が含まれておりませんでした。これは、ハガルの子孫は祝福の源となる約束の民ではなく、アブラムの子孫を通して祝福に与る民であることを示しているのではないでしょうか。

 

 主の御使いはまた言った。

「今、あなたは身ごもっている。

やがてあなたは男の子を産む。

その子をイシュマエルと名付けなさい

主があなたの悩みをお聞きになられたから。

彼は野性のろばのような人になる。

彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので

人々は皆、彼にこぶしを振るう。

彼は兄弟すべてに敵対して暮らす。」(11~12節)

 

 御使い(主)は、ハガルの子供を名付けて言います。「イシュマエルと名付けなさい」と。この「イシュマエル」とは「神は聞かれる」という意味であり、ハガルが主に対して打ち明けていた悩みに対する回答を、やがて誕生する子供を通して与えられたのです。

 イシュマエルの性格は、野性のろばのように飼い慣らすことが困難であり、荒々しく独立心の旺盛なものであると預言されておりますが、これは、イシュマエルの子孫たちの性格をも表わすものであり、彼らは周囲の部族と抗争を繰り返して「兄弟すべてに敵対して暮らす」ようになります。21章9節でイシュマエルがイサクをからかう場面が出てきます。これがきっかけとなってハガルとイシュマエルは追放されてしまうのですが、ここに荒々しいイシュマエルの性格が良く表われています。

 

 ハガルは自分に語りかけた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(私を顧みられる神)です」と言った。それは、彼女が「神が私を顧みられた後もなお、私はここで見続けていたではない」と言ったからである。そこで、その井戸は、ペエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになった。それはカデシュとベレドの間にある。(13~14節)

 

 御使いが主であることに気が付いたハガルの告白の言葉は、「あなたこそエル・ロイです」でありました。エル・ロイとは、新共同訳聖書では(私を顧みられる神)と訳されていますが、直訳すれば「見ることの神」であり、2通りの理解が可能です。1つは、「私を見る神」であり、もう一つは「見られることを許す神」であります。後者の訳は、神を見たものは命を失うという当時の信仰を前提としなければ意味が取れません。

 エル・ロイという告白の後に続く言葉も難解です。直訳すれば「私を見ている方の後ろを私は見た」となり、これを新共同訳は「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」と訳しておりますが、これは何を意味しているのでしょうか? 

 関根正雄先生はこの箇所を「私は実際に神を見、見た後でなお生きている!」と訳しておられます。神をかいま見たことの驚きと、神を見た後でも生きていられることの不思議さとが込められているということです。

 こうした驚き、不可思議な思いから、その地の井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれるようになります。これは「私を見られる、生きておられる方の井戸」との意味。

 不思議といえば、エジプト女のハガルは、16章の他にも21章でも神の姿に接しています。

 

 アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。皮袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の灌木の下に寝かせ、「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた。神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。

「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、おまえの腕でしっかり抱きしめてやりなさい。私は、かならずあの子を大きな国民とする。」

 神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って皮袋に水を満たし、子供に飲ませた。(21章14~19節)

 

 異郷の地から出た奴隷の女でありながら、神の姿に二度も接するとは、ハガルには格別な主の恵みがあったのかもしれません。ハガルの子であるイシュマエルから生まれた民は、やがてイスラム教の世界を築き、自分たちもアブラハムの子孫であると名乗り、イエス・キリストを預言者として認めるのです。

 

 ハガルはアブラムとの間に男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだ男の子をイシュマエルと名付けた。ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは86歳であった。(15~16節)

 

 ハガルは、神の言葉通りにサライの下に戻り、出産の日を迎えます。生まれた子供の母親としてどちらが認知されたのかは、聖書の本文からははっきりとは致しません。しかし、この時点では、イシュマエルこそが約束の子であり、イシュマエルの子孫が神の祝福のうちに子孫を増やし、土地を所有していくものと受け止められたのは確かなこと。

 こうした人間の智恵による業を、神はいとも簡単に覆えしてしまわれます。90歳のサライの出産という奇蹟を通して。 

 

<結 語>

 繰り返し臨む神の約束の言葉にも関わらず、一向に懐妊する兆しのない現実を前にして、サライは自分の女奴隷ハガルによって母となろうと企てます。これは、当時行われていた習慣に乗っ取ったことではありましたが、神の約束に全幅の信頼を抱くことが出来なかったことの裏返しでありました。神の言葉よりも人の智恵、人の業に寄り頼んだことによって、アブラムとサライ、そしてハガルの間に亀裂が走ります。ハガルは、サライの仕打ちに耐え兼ねて、また、誕生する子供を自分自身の子としたいという願いを持って逃亡しますが、御使いの姿をとられた主によってサライのもとに戻ることを示され、やがて誕生する子供が繁栄するという約束を受けます。

 人の思いが招いた悲劇に神は介入し、約束の実現に向けて導く神の姿が改めて鮮明に示されます。

 以上

 

<今回の参考書> 

 

「創世記」(関根正雄訳 岩波文庫)/「創世記」(月本昭男訳 岩波書店)/「現代聖書注解 創世記」(ブルッグマン著 日本基督教団出版局)/「ケンブリッジ旧約聖書注解 創世記」(デヴィッドソン著 新教出版社)/「新聖書注解 旧約Ⅰ」(いのちのことば社)/「デイリー・スタディー・バイブル 創世記Ⅱ」(ギブソン著 新教出版社)/「ヘブライ語聖書対訳シリーズ1 創世記Ⅰ」(ミルトス・ヘブライ文化研究所編 ミルトス)/