旧約聖書の旅「創世記」第11回「イサク誕生の予告」(小山哲司)

 ベテルとアイの間、以前に天幕を張った所までやってくると、アブラムの一行に問題が持ち上がってきます。それは、アブラムとロトの牧童たちの間の遊牧地を巡る争いでした。

 さて、ロトよりも年長であり、神から約束の言葉を頂いていたアブラムには、当然のこととして土地を選択する権利がありましたが、アブラムは選択の権利をロトに譲ってしまいます。

 アブラムは、エジプトで妻サライを裏切った経験から、心に大きな痛みを抱えていたと思われますが、痛みと正面から向き合う中で、彼は変えられていきます。そして、それがロトとの別れの場面で、選択の権利をロトに譲るという行為として実を結んでいったのです。苦しみと葛藤が人を成長させるという以上に、神との交わりの中でアブラムは変わって行った。そこに信仰の恩寵があったのだと私は思います。(13章)

 その後、東方の王たちがカナンを侵略し、ソドムの王たちを撃破してロトを奪い去りますが、アブラムの追撃に破れます。アブラムは、ここでは雄々しい戦闘指揮官として描かれています。(14章)

 これらのことの後、幻の中で「恐れるな、あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」という主の言葉がアブラムに臨みます。

 しかし、アブラムは「あなたはわたしに子孫を与えて下さいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」と抗議をして言います。

 アブラムは、子孫を繁栄させ、土地を与えるとの主の言葉を受けたにも関わらず、実子が誕生しないことに不満を抱いていたに相違ありません。

 主なる神は、「あなたから生まれるものが跡を継ぐ。」と具体的な回答を与えてアブラムの迷いを断ち切ります。

 神の言葉を受け、満天の星を見つめながらアブラムは自分自身の子供が誕生して子孫が増えることを信じます。

 その後、主なる神はアブラムに牝牛と牝山羊と牡山羊と山鳩とを用意してそれらを半分に引き裂き、向かい合わせに置くように命じます。猛禽がそれを襲わない様に番をするうちにアブラムは深い眠りに陥りますが、夢(幻)の中で神は、アブラムの子孫の行く末について語ります。やがて、辺りが闇に包まれた頃、煙をはいた炉と燃えた松明が引き裂かれた動物の間を通ります。これは神がアブラムと契約を結ばれたしるしでした。(15章)

 こうして繰り返し臨む神の約束の言葉にも関わらず、一向に懐妊する兆しのないサライは、女奴隷ハガルによって母となろうと企てます。

 これは、当時行われていた習慣に乗っ取ったことでしたが、神の言葉よりも人の智恵、人の業に寄り頼んだことによって、アブラムとサライ、そしてハガルの間に亀裂が走ります。

 身ごもったハガルは、サライの仕打ちに耐え兼ねて、また、子供を自分自身の子としたいと願って逃亡しますが、御使いの姿をとられた主にサライのもとに戻るように示され、やがて誕生する子供が繁栄するという約束を受けます。

 こうして、人の思いが招いた悲劇に神は介入し、約束の実現に向けて導く神の姿が改めて鮮明に示されます。(16章)

 ハガルがイシュマエルを産んでから13年後に、主は再びアブラハムに現われます。この時、アブラハムは99歳になっておりました。

 主は、アブラムの子孫を繁栄させ、土地を所有させるという契約を繰り返し、アブラハムと改名するように命じます。彼はまだ一片の土地すらも自分の所有とはしておりませんでしたが、神はカナンの土地が永久にアブラハムとその子孫の所有地であると宣言し、約束のしるしとして一族の男子はすべて割礼を受けるように命じます。ここには割礼の習慣のないバビロンで創世記をまとめた編者の、民族と祖国の復興を信じる信仰が色濃く表われていると思われます。

 割礼の求めに続いて、神はイサクの誕生をアブラハムに予告します。

 アブラハムは、サラが子供を生むという神の言葉を笑いますが、神は1年後にはイサクが誕生し、それが神が契約を結ぶべきアブラハムの子孫であると宣言します。

 こうした神の言葉を受け、アブラハムはその日のうちに一族の男子すべてに割礼を施します。ここに、神の約束に苦笑を漏らす弱さを見せたかと思うと、神の求めを迅速に徹底して実行しようとするアブラハムの複雑な性格が表われているのではないでしょうか?(17章)

 

 さて、それでは本日の箇所に入って行きたいと思います。

 創世記18章は、1~15節「イサク誕生の予告-三人の旅人-」と、16~33節「ソドムへの執り成し」の2つの部分に分かれます。

 

 主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、 言った。

「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。 水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」(18章1~5節)

 

 日中の天幕(テント)の中はむっとするほど暑く、過ごしづらいもの。アブラハムは、天幕内の暑さを避けて入り口の辺りに座っておりました。ふと目を上げて見ると、いつの間にか三人の旅人がアブラハムを見下ろしておりました。アブラハムは彼らの元に走り出て地にひれ伏します。

 この箇所については、アブラハムには三人の旅人が主なる神の一行であることが分かり、それ故、走り出てひれ伏した、つまり、礼拝したのであると解釈しがちですが、これは誤りです。

 アブラハムが彼らをもてなしたのは、当時、遊牧民の間で美徳とされたもてなしの習慣によるものと思われます。当時のもてなしとは、文字通り全く見知らぬ者を家に入れることを意味しており、遊牧民の社会では特に高く評価される美徳とされておりました。そのような社会の目から見れば、旅人-もてなすべき客-は、ほとんど聖なる者であり、たとえ敵の部族の一員ですら客になる資格があったとされます。アブラハムが三人に仕えたのは、こうした習慣の表われに過ぎず、三人が主なる神の一行であると見抜いた訳ではありません。ロトもソドムの町で二人の御使いをもてなしておりますが、これももてなしの習慣の表われと考えられます。

 模範的なもてなしの仕方は、1)丁寧な挨拶をし 2)足を洗い 3)食事を用意して主人として側に仕え 4)出発のとき見送りにでる ということですが、アブラハムの振る舞いは、こうしたもてなしの模範を忠実に守るものでありました。

 一方、アブラハムの前に姿を表わしたのは、主なる神の一行でありました(1節)が、このような現われ方はこの章に特有のものです。これまでも神を擬人化して描く描き方は創世記2章などに見られましたが、神が見た目にも全く人と同じ姿をとって登場するのは例がありませんでした。嵐の神(士師5・1~4)でも、火の神(出エジプト19・18)でも、地震の神(列王上19・11)でもなく、また、幻の中に姿を表わす神(創世記15・1)とも違う親しみのある客として登場したことは、神の現われ方としては異様なものです。こうして神が人の姿を取られたことは、イエス・キリストが神でありながら完全な人の姿をとって登場されたこと-神の受肉-を思い起こさせます。

 この箇所でのポイントは、アブラハムは、三人の旅人が主なる神の一行であるとは全く気が付いておらず、当時のもてなしの習慣に基づいて出来る限りの接待をしようとしていることです。

 

 アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」

 アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。(第18章6~8節)

 

 アブラハムの接待は、「水を少々」と「何か召し上がるものを調える」という言葉を遥かに上回るものでした。私たち日本人が、大変なご馳走を用意しながらも「粗末なものですが・・・」「何もございませんが・・・」と謙遜して見せることに通じるように思います。

 といいますのは、上等の小麦3セアとは-セアという単位に争いはありますが-、新共同訳聖書の巻末にある度量衡の表によれば1セアが約7.7リットルですから3セアで約23リットルになり、3人をもてなすには量が多過ぎます。また、柔らかくておいしそうな子牛を殺して調理するということは、最高のもてなしを意味します。凝乳とはヨーグルトのことですが、これも上質のものを大量に用意したのでしょう。勿論、余った料理は、アブラハムの一族が食べたことでしょうが、こうしたもてなしの仕方にアブラハムの人柄をかいま見ることが出来ます。

 ところで、アブラハムのもてなしを受けながら、主なる神の一行はどんなことをアブラハムと語り合っていたのでしょうか?全く沈黙しているはずはありません。慇懃に礼を言いながら、やがて打ち解けて雑談を交したのでしょうか。聖書には何の記述もありませんが、神と人との間でどんな話題が交されたのか・・・と想像することは楽しいものです。

 

 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、彼らの一人が言った。

「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。(第18章9節~12節)

 

 9節から、三人の旅人が普通の旅人ではないことが次第に明らかになって参ります。

 アブラハムには妻がおり、名をサラという。見も知らない旅人から突然妻サラの名を告げられたアブラハムは怪訝に思ったはずです。しかも、サラという名は、元のサライという名から改名した直後のことであり、見知らぬ旅人がそれを知っていることは、考えられませんでした。

 

「この方々は、いったいどうして妻の名を知っているのだろうか?確かにサラと改名したが、ごく最近のことでもあり、そんなに広まっている筈もないのだが・・」と。

 そして、

「妻と私の改名を知っているのは、私の一族の者たち、そして、改名を求められたエル・シャッダイ・・・」

 

 多分、この時点でアブラハムには三人の旅人が何者であるか気が付き始めた筈です。サラは、こうしたやり取りをアブラハムの背後の天幕の中で聞いておりました。

 やがて、三人の中の一人がアブラハムにサラに男子が産まれることを告げます。ここでは、「彼らの一人が」と訳されておりますが、13節では「主は」とされておりますので、語りかけた旅人が「主なる神」であることが分かります。

 

 ところで、12節は新共同訳よりも関根訳の方が分かりやすいので引用します。

 

 それでサラは心中ひそかに笑ってこう思った。

「わたしはこんなにお婆さんになり、主人も老いぼれているのに、いまさら男女の楽しみなどあるわけがない。」(12節 関根訳)

 

 関根訳によれば、新共同訳で「もはや楽しみがあるはずもなし」と訳されている部分は、生活の楽しみや喜びではなく、男女の楽しみの意味であるというのです。

 アブラハムは、17章において主なる神からサラによって男児が誕生することについて告げ知らされており、名をイサクとすることまで具体的な示しを受けております。イサクの誕生はサライからサラへの改名と結び付いておりますから、多分、アブラハムはサラに対してこのことを話していた筈です。

 

「サライよ。今日からお前のことをサラと呼ぶことにするよ。神からお告げがあったのだ。やがてお前は男の子を産むが、その子はイサクという名にしなければならない。」

「止めてくださいよ。二人とも老いぼれ果ててしまって、子どもを産むも何もあったものじゃありません。もう、男女の関係がなくなってから久しいじゃありませんか・・・。」

 

 こうしたサラの受け答えの中には、彼女の人柄が見え隠れしております。現実的な感覚の持ち主であり、超現実的なことに対しては極めて懐疑的であったに違いありません。神の言葉を受け止めるアンテナの感度が鈍いとでも言うのでしょうか・・・。ですから、アブラハムの言葉を聞いても、それに耳を貸さなかった、そして、子どもを授けるという約束をしておきながら老いぼれ果てるまで自分を放置した「主なる神」への不信が膨らんで行ったと考えるべきでしょう。約束を守らない神に対して、ひねくれて冷笑的になっていたとも考えられます。

 しかし、こんなサラに対しても神の目は向けられ、約束の子イサクの母となる信仰の備えがなされるのです。

 

 主はアブラハムに言われた。

「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」(18章13~15節)

 

 サラの笑いは、心の内にある密かな笑いでした。天幕の内と外とに別れて座っている旅人に聞こえるはずがありません。しかし、旅人はサラの笑いを見抜いてそれを指摘します。ここまで来ると、「彼ら」や「彼らの一人」ではなく、「主」という言葉が使われるようになります。

 「主」がここで語る言葉の中心は、14節の「主に不可能なことがあろうか。」です。これは反語的表現ですから、実際には「主に不可能なことはない」のです。たとえ、不妊のままで老齢を迎えようとも、主なる神が「あなたは子どもを産む」と言えば産む。それがどれほど信じ難いことであったとしても、神がそう言えばそうなる。これは、神が万物の創造主であり、全能の神であることからの帰結です。

 この場面のように、神が介入して不妊の女性に子どもが誕生すると告知する記事は、聖書の他の箇所にも記されています。士師サムソンの誕生もその一例です。

 

 イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行ったので、主は彼らを四十年間、ペリシテ人の手に渡された。その名をマノアという一人の男がいた。彼はダンの氏族に属し、ツォルアの出身であった。彼の妻は不妊の女で、子を産んだことがなかった。

 主の御使いが彼女に現れて言った。「あなたは不妊の女で、子を産んだことがない。だが、身ごもって男の子を産むであろう。今後、ぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物も一切食べないように気をつけよ。あなたは身ごもって男の子を産む。その子は胎内にいるときから、ナジル人として神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう。」

                      (士師記13・1~5節)

 

 また、新約聖書では、洗礼者ヨハネの誕生がこれにあたります。

 

 すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。

 天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」(ルカ1章11~17節)

 

 不妊の老齢の婦人という訳ではありませんが、主イエスの場合も御使いの告知がありましたので、その点ではサラの場合と共通項があります。

 さて、「主に不可能なことがあろうか」と言って男児の誕生を予告する主の言葉を聞き、「いや、あなたは笑った」と心の内を見透かされるような言葉を突きつけられて、サラは主なる神を間近に感じた筈です。こうした神の臨在体験を通して、現実主義的なサラにも主なる神に対する信頼-信仰-が高まって行き、そして、結局のところ、サラは「現実主義」という鎖から解き放たれて神を信じたのだろうと思います。

 

「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。」(ヘブライ11・11)

 

 ヘブライ人への手紙11章11節は、「約束をなさった方は真実な方である」という信仰がサラにあったと述べております。神の約束に対して懐疑的であり冷笑的であったサラも、最終的には神のリアリティーを突きつけられて不信仰から信仰へと転じて行ったということがこの箇所からも窺えます。

 

 18章16節から33節までは、アブラハムによるソドムへの執り成しがテーマとなります。

 18章前半の登場人物は、三人の旅人、アブラハム、そしてサラの5人。アブラハムの役割は慌ただしく動き回る狂言回しであり、物語の中心にいるのは謎めいた旅人、そして、サラは物語のクライマックスに登場するヒロインでありました。

 これに対して18章後半は5人が2人となり、アブラハムと主なる神が相対します。ここでは前半のような日常性は失われ、ソドムへの裁きを巡ってアブラハムと神との緊迫したやり取りが行われます。

 

 その人たちはそこを立って、ソドムを見下ろす所まで来た。アブラハムも、彼らを見送るために一緒に行った。

 主は言われた。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」(18章16~19節)

 

 アブラハムはもてなしの礼儀として、旅人を見送ってソドムを見下ろす丘までやって参りました。

 ここで主なる神の独白があります。この独白-「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。」-は、神のアブラハムに対する信頼の現われと理解すべきです。自分の意図を神が人に伝えていく場合、受け手の人間は預言者と呼ばれることがあります。これは預言者アモスの言葉に示されています。

 

 まことに、主なる神はその定められたことを

 僕なる預言者に示さずには

 何事もなされない。(アモス書3章7節)

 

 これは、預言者アモス自身の確信であると同時に、全預言者の確信でもありました。主なる神によって、神御自身の意図を示されて初めて預言者は預言者足りえたのです。

 後代の預言者に対して同様、神はアブラハムに対してもご自身の意図を明らかにし、その言葉を受けてアブラハムは神のみ前に立ってソドムへの執り成しを求めて参りますが、アブラハムのこうした態度は、創世記の別の箇所で神によって「預言者」と言い表されます。

 

 彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。

                       (創世記20章7節)

 

 独白に続いて、主なる神はアブラハムの子孫の繁栄と祝福を述べますが、この18~19節は後代の加筆であり、元々の伝承は17節から20節に繋がって、次のような形になると考えられております。

 

 主は言われた。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」 (18章17・20~21節)

 

 では、18・19節が加筆されたことの意味は何でしょうか?

 これは、加筆した者でなければ正確には答えられませんが、アブラハムが神に選ばれた者であることを確認し、神に選ばれた者の前にはこの世の罪の問題が示され、その者自身の問題として取り組むことが求められると言いたかったのではないでしょうか?イサクの誕生が、アブラハムとサラの個人的な幸福に留まることなく、神に選ばれた民の誕生という、もっと大きな問題と関わっていることを訴えたかったのだと思います。

 さて、ここで「ソドムとゴモラの罪」が指摘されています。

 ソドムという地名からソドミー(sodomy 男色)という言葉が派生したように、ソドムの罪は性的なものと考えられ易いのですが、これに限定されるものではありません。ソドムの罪に関する聖句を幾つか見ておきましょう。

 

 ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。

                       (創世記13章13節)

 わたしは、エルサレムの預言者たちの間に

 おぞましいことを見た。

 姦淫を行い、偽りに歩むことである。

 彼らは悪を行う者の手を強め

 だれひとり悪から離れられない。

 彼らは皆、わたしによってソドムのよう

 彼らと共にいる者はゴモラのようだ。(エレミヤ書23章14節)

 

 お前の妹、ソドムの罪はこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き、安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった。彼女たちは傲慢にも、わたしの目の前で忌まわしいことを行った。そのために、わたしが彼女たちを滅ぼしたのは、お前の見たとおりである。

                 (エゼキエル書16章49~50節)

 

 これらの箇所から、性的な罪はソドムの犯した罪の一つに過ぎないことが分かります。社会的な腐敗(邪悪、偽りに歩むこと)や、他人の苦しみに対する無感覚(貧しい者、乏しい者を助けようとしなかったこと)などが示されています。また、性的な罪も同性愛には限られなかったようです。

 こうした悪に苦しむ犠牲者たちの「叫び」が実に大きいと、主なる神は言いますが、この「叫び」はゼアーカーといい、当時の法律用語でありました。非常な不公正に苦しむ人々が神に訴えを起こし、それを受けて神は実地検分を行おうとしているのです。或いは、悪に染まったソドムの人々に最後のチャンスを与えようとされた、とも考えられます。

 

 その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。(18章22節)

 

 3人の旅人のうち、2人がソドムに向かいましたが、主なる神はアブラムの所に残られました。

 この箇所については、古い写本に訂正の跡があります。訂正前の本文は次のようになっています。

 

 その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、主はなお、アブラハムの前に立っておられた。

 

 2つの本文は、主なる神がアブラハムの前に立っていた(訂正前)のか、アブラハムが主なる神の前に立っていた(訂正後)のか、という点が違っています。この違いは非常に興味深いことを示しています。

 ここで「立っていた」というオメッドというヘブライ語には、「仕えていた」という意味があります。これでは「主はなお、アブラハムの前に仕えていた」と訳されてしまいますので、それを嫌って訂正して「主」と「アブラハム」の関係を逆転させたものと考えられます。

 しかし、訂正前の本文が言わんとしていることは良く分かります。22節以降のやり取りは、終始、アブラハムが神をリードして、次々と執り成しの求めを述べているからです。この場面のリーダーシップを取っているのは、主なる神ではなくアブラハムであり、その意味において「主はなお、アブラハムの前に立っておられた」のです。

 

 アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」

                       (18章23~25節)

 

 神の御前に進み出るアブラハムの姿は、預言者のそれを彷彿とさせます。イスラエルの為に執り成しをするエゼキエルと比べてみましょう。

 

 彼らが打っているとき、私はひとり残され、顔を伏せ、助けを求めて言った。「ああ、主なる神よ、エルサレムの上に憤りを注いで、イスラエルの残りの者をすべて滅ぼし尽くされるのですか。」(エゼキエル書9章8節)

 

 ここでアブラハムとエゼキエルの姿が二重写しになって見えるのは、どちらも、個人的な関係者-家族・親戚・友人-の救いではなく、人々全体の救いを求めて御前に進み出ているからです。勿論、アブラハムがソドムの為に執り成しをする背後には、甥のロトとその家族のことがあったに違いありませんが、ロトとその家族の救済ではなく、ソドムの町全体の救いを求めて神との交渉を始めるのです。

 執り成しの中で、アブラハムは神の御前に2つの問いを提出します。

 一つは、悪い者を滅ぼすために、正しい者を犠牲にすることは認められるのかということ。もう一つは、神の裁きを定めるのは、大多数の悪い者であるのか、それともごく少数の正しい者であるのかということ。

 そして、こうした問いかけをする前提として、主なる神はアブラハムの部族を超えて全世界を治める普遍的な神であり、そうであるならば、どの人間にも納得の行く「正義」を実現すべきであるという思いがありました。

 アブラハムの提出した問いに関連して、エゼキエルの言葉を引用します。

 

 主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、もし、ある国がわたしに対して不信を重ね、罪を犯すなら、わたしは手をその上に伸ばし、パンをつるして蓄える棒を折り、その地に飢饉を送って、そこから人も家畜も絶ち滅ぼす。たとえ、その中に、かの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても、彼らはその正しさによって自分自身の命を救いうるだけだ、と主なる神は言われる。           (エゼキエル書14章12~14節)

 

 エゼキエルの立場では、罪ある人々が罪なき人々によって救われることはありません。無罪である正しい人々の正しさは、その人個人に留まるのであり、他者の救いに影響を与えることは否定されます。

 しかし、アブラハムの問い、そして、主張はエゼキエルの立場とは違います。アブラハムは、罪のない人々が罪のある人々を救う力を持っているのではないかと神に訴えかけ、答えを求めます。

 

 主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」(18章26節)

 

 主なる神の回答は、アブラハムの問いかけを全面的に肯定するものでした。即ち、罪なき人々には、罪ある人々を救う力があるということを認めたのです。

 では、その為にはいったい何人の正しい人々が必要になるのでしょうか?

 アブラハムは、ソドムの町の現状を知っておりましたので、そこに50人もの正しい人々がいる筈もないことを考えて、次々に人数を減らしていきます。

 

 アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。

 もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」

 アブラハムは重ねて言った。「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その四十人のためにわたしはそれをしない。」

 アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」

 アブラハムは言った。「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」

 アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」

                       (18章27~32節)

 

 私は現地に行った経験がありませんが、中近東の市場では、価格交渉をして値切ることが当り前だそうです。交渉なしに相手の言い値で買うことはあり得ないそうですので、アブラハムの人数交渉は、そうした習慣の現われと考えることも出来ます。それにしても、神を相手に値切るとは、アブラハムは何としたたかな人物でしょうか。

 しかし、罪のない人々には罪ある者を救う力があるという考えを押し進めて行けば、最終的には、全ての罪ある者の救いのためには、10人どころかたった一人の罪なき人の存在で充分だということになります。イエス・キリストの贖罪は、アブラハムの主張の延長線上にあります。

 この点についてパウロは、次のように述べています。

 

 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。

                (ローマ人への手紙5章15~17節)

 

 では、罪なき人の故に罪ある者が許されるとするならば、罪を裁く神はこれをどのような思いで受け止めているのでしょうか?

 罪ある者を許す神の思いは、ホセア書に示されています。

 

ああ、エフライムよ

お前を見捨てることができようか。

イスラエルよ

お前を引き渡すことができようか。

アドマのようにお前を見捨て

ツェボイムのようにすることができようか。

わたしは激しく心を動かされ

憐れみに胸を焼かれる。

わたしは、もはや怒りに燃えることなく

エフライムを再び滅ぼすことはしない。

わたしは神であり、人間ではない。

お前たちのうちにあって聖なる者。

怒りをもって臨みはしない。(ホセア書11章8~9節)

 

 ホセアは、北イスラエル王国末期に活躍した預言者です。彼はゴメルという名の娘と結婚しましたが、ゴメルはホセアに背いて姦淫を犯し、不義の子を産みます。やがてゴメルは奴隷または娼婦の境遇まで転落して行きますが、ホセアはこの不貞の妻を捨て去ることが出来ず、代価を支払って彼女を買い戻し、再び妻とします。こうした自分自身の体験を通して、ホセアは背信のイスラエルに対する主なる神の愛を深く理解する預言者と言われます。 ホセア書のこの箇所からは、怒りと憐れみの思いが神の中で交錯していることが窺われます。主なる神は背信のイスラエルに対して「激しく心を動かされ」「憐れみに胸を焼かれ」ますが、これは罪に対する怒りを上回る憐れみが神の心に沸き上がったということであり、神の本質が愛であることを表わしています。

 また、罪なき正しい者による救いは、ノアの洪水物語においても示されています。

 

 主はノアに言われた。

「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている。」(7章1節)

                         

 こうして義人ノアの故に彼の家族と地の動物たちは救われます。

 旧約聖書に登場する神は、怒りの神、審きの神であり、新約の神こそが愛の神であるということは、全くの誤解です。一人の罪なき正しい者によって世が救われるというモチーフは、旧約聖書の根底を流れる通奏低音であり、イエス・キリストによる罪の贖いを信じる信仰へと繋がって行くのです。

 

 主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。(18章33節)

 

 主なる神は「10人の正しい者のためにもソドムを滅ぼさない」と約束しましたが、やがてソドムは破滅します。そこには10人はおろか、たった一人の正しい者もおらず、ロトとその家族でさえアブラハムの祈りの故に救われたのでありました。

 

 

<今回の参考書>「創世記」(関根正雄訳 岩波文庫)/「創世記」(月本昭男訳 岩波書店)/「現代聖書注解 創世記」(ブルッグマン著 日本基督教団出版局)/「ケンブリッジ旧約聖書注解 創世記」(デヴィッドソン著 新教出版社)/「新聖書注解 旧約Ⅰ」(いのちのことば社)