旧約聖書の旅「創世記」第12回「ソドムの滅亡」(小山哲司)

 ロトよりも年長であり、神から約束の言葉を頂いていたアブラムには、当然のこととして土地を選択する権利がありましたが、アブラムは選択の権利をロトに譲ってしまいます。

 アブラムは、エジプトで妻サライを裏切った経験から、心に大きな痛みを抱えていたと思われますが、痛みと正面から向き合う中で、彼は変えられていきます。そして、それがロトとの別れの場面で、選択の権利をロトに譲ることに実を結んでいったのです。苦しみと葛藤が人を成長させるという以上に、神との交わりの中でアブラムは変わって行った。そこに信仰の恩寵があったのだと私は思います。(13章)

 その後、東方の王たちがカナンを侵略し、ソドムの王たちを撃破してロトを奪い去りますが、アブラムの追撃に破れます。アブラムは、ここでは雄々しい戦闘指揮官として描かれています。(14章)

 これらのことの後、幻の中で「恐れるな、あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」という主の言葉がアブラムに臨みます。

 しかし、アブラムは「あなたはわたしに子孫を与えて下さいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」と抗議をします。アブラムは、子孫を繁栄させ、土地を与えるとの主の言葉を受けたにも関わらず、実子が誕生しないことに不満を抱いていたに相違ありません。

 主なる神は、「あなたから生まれるものが跡を継ぐ。」と具体的な回答を与えてアブラムの迷いを断ち切り、満天の星を見つめながらアブラムは自分自身の子供が誕生して子孫が増えることを信じます。

 その後、主なる神はアブラムに牝牛と牝山羊と牡山羊と山鳩とを用意してそれらを半分に引き裂き、向かい合わせに置くように命じます。猛禽がそれを襲わない様に番をするうちにアブラムは深い眠りに陥りますが、夢(幻)の中で神は、アブラムの子孫の行く末について語ります。やがて、辺りが闇に包まれた頃、煙をはいた炉と燃えた松明が引き裂かれた動物の間を通ります。これは神がアブラムと契約を結ばれたしるしでした。(15章)

 こうして繰り返し臨む神の約束の言葉にも関わらず、一向に懐妊する兆しのないサライは、女奴隷ハガルによって母となろうと企てます。

 これは、当時行われていた習慣に乗っ取ったことでしたが、神の言葉よりも人の智恵、人の業に寄り頼んだことによって、アブラムとサライ、そしてハガルの間に亀裂が走ります。

 身ごもったハガルは、サライの仕打ちに耐え兼ねて、また、子供を自分自身の子としたいと願って逃亡しますが、御使いの姿をとられた主にサライのもとに戻るように示され、やがて誕生する子供が繁栄するという約束を受けます。

 こうして、人の思いが招いた悲劇に神は介入し、約束の実現に向けて導く神の姿が改めて鮮明に示されます。(16章)

 ハガルがイシュマエルを産んでから13年後に、主は再びアブラハムに現われます。この時、アブラハムは99歳になっておりました。

 主は、アブラムの子孫を繁栄させ、土地を所有させるという契約を繰り返し、アブラハムと改名するように命じます。彼はまだ一片の土地すらも自分の所有とはしておりませんでしたが、神はカナンの土地が永久にアブラハムとその子孫の所有地であると宣言し、約束のしるしとして一族の男子はすべて割礼を受けるように命じます。ここには割礼の習慣のないバビロンで創世記をまとめた編者の、民族と祖国の復興を信じる信仰が色濃く表われていると思われます。

 割礼の求めに続いて、神はイサクの誕生をアブラハムに予告します。

 アブラハムは、サラが子供を生むという神の言葉を笑いますが、神は1年後にはイサクが誕生し、それが神が契約を結ぶべきアブラハムの子孫であると宣言します。

 こうした神の言葉を受け、アブラハムはその日のうちに一族の男子すべてに割礼を施します。ここに、神の約束に苦笑を漏らす弱さを見せたかと思うと、神の求めを迅速に徹底して実行しようとするアブラハムの複雑な性格が表われているのではないでしょうか?(17章)

 イサクの誕生を予告した神は、旅人の姿をとって天幕を訪れ、アブラハムから手厚くもてなされます。その際にも、来年の今ごろサラに男の子が誕生すると予告しますがサラはそれを笑います。

 神の一行はアブラハムのもとを出立し、見送るアブラハムにソドムを滅ぼすつもりであることを示します。アブラハムは、ソドムに少しでも正しい者がいれば滅ぼさないで欲しいと懇願し、正しい者の数を50人、40人と減らしていき「10人の正しい者がいれば滅ぼさない」という神の約束を取り付けます。ここには、罪なき者には罪ある者を救う力があるという思想が表われており、神とアブラハムとの交渉は緊迫したドラマを展開します。(18章)

 

 それでは本日の箇所に入って行きたいと思います。

 

 二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき、ロトはソドムの門の所に座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏して、言った。「皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。そして、明日の朝早く起きて出立なさってください。」彼らは言った。「いや、結構です。わたしたちはこの広場で夜を過ごします。」

 しかし、ロトがぜひにと勧めたので、彼らはロトの所に立ち寄ることにし、彼の家を訪ねた。ロトは、酵母を入れないパンを焼いて食事を供し、彼らをもてなした。(第19章1~3節)

 

 アブラハムの天幕のあったヘブロンのマムレの樫の木の所からソドムまでは、60キロ程の距離がありました。昼にアブラハムの接待を受け、午後にそこを発ったとすると、夕方にソドムに着くのは至難の業。その日の夕方に着いたとすることで、主の御使いであることが強調されています。

 ロトは、町の門の所に座っておりました。創世記13章12節によれば「アブラハムはカナン地方に住み、ロトは低地の町々に住んだが、彼はソドムまで天幕を移し」ました。次第にソドムの魅力に心を奪われたロトは、やがて天幕を捨てて町の中に生活の拠点を移し、ソドムの住人となったのです。ロトは、天幕を捨てると同時にアブラハムとともに天幕で礼拝していた神とも疎遠になったと思われます。

 ロトは見知らぬ旅人を見かけると「立ち上がって迎え、地にひれ伏し」ますが、これは、アブラハムが旅人を迎えた時と同じ態度であり、遊牧民時代に培われた習慣が残っていたことを示しています。

 一方、旅人たちは「この広場で夜を過ごします」とロトの申し出を辞退しますが、ロトは聞きません。或いは、二人の旅人に対する町の人々の暴力的行為の可能性も考慮に入れて強く勧めたのかもしれません。旅人の姿をとった御使いは、ロトの再三の申し出を受けてロトの家に泊まることにします。ロトが提供した食事(酵母を入れないパン)は、アブラハムの出した食事と比べれば粗末な感じがしますが、時間的な余裕がなかったので止むを得なかったのでしょう。

 

 彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた。「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」(19章4~5節)

 

 ここで「なぶりものにしてやる」とは、原文上は「知りたいのだ」であり、「さて、アダムは妻エバを知った」(創世記4章1節)、「カインは妻を知った」(創世記4章17節)という場合の「知る」と同じ用法です。つまり、ソドムの男たちはロトの家にいる二人の旅人と性的な関係を結んで「知りたい」と求めているのです。

 「男色」を英語でソドミー(sodomy)と呼ぶのは、ソドムの男性がこうした男色に染まっていたことに由来します。しかし、こうした同性愛がソドムの罪の全てではなく、ソドムの犯した多くの罪の一つに過ぎないことを心に留めて置かなければなりません。

 

 わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前の妹であるソドムも、その娘たちも、お前とお前の娘たちが行ったようなことはしなかった。お前の妹ソドムの罪はこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった。彼女たちは傲慢にも、わたしの目の前で忌まわしいことを行った。そのために、わたしが彼女たちを滅ぼしたのは、お前の見たとおりである。

                 (エゼキエル書16章48~50節)

 

 エゼキエル書に記されているように、高慢・傲慢であって愛に欠け、貧しい者、苦しんでいる者を見捨てるなど、神の忌み嫌うことを行ったことがソドムの罪の中心でありました。そうした罪の一つとして、性的な罪が含まれていたと理解すべきです。

 ところで、ソドムの男たちがロトの家を取り囲んだ理由を「男色」以外に求める立場もあります。

 出エジプト記22章20節には「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである」と記されておりますが、このように寄留者を保護するのが古代イスラエルの慣習(法)でありました。こうした慣習があればこそ、他所者であったロトもソドムの町に入れてもらえた訳です。しかし、こうした寄留者であったロトが、別の寄留者(御使い)を迎え入れる行為が是認されていたかどうかは定かではありません。ロトは、遊牧民としての習慣から客人を手厚くもてなそうとしましたが、自分自身が寄留者であることを考えて、ソドムの首長、長老の了解を得ておくべきであったのかもしれません。それを怠ったために、ソドムの住民に因縁を付けられた・・・と理解することもできるのです。

 この立場では、ソドムの町でのロトの立場はかなり弱いものであったということになります。ソドムの人々の好意によって寄留者として町においてもらってはいるが、所詮は他所者であって町の住人としてはなかなか認知されず、町の人々の視線を気にしながら暮らしている小心なロトの姿が目に浮かぶようです。

 では、そんなにしてまで何故ソドムに住みたかったのでしょうか?

 それは、文明の恩恵に与った者の陥る落し穴と思われます。現在の我々は、百年前の日本人には考えられないような快適な生活を享受しております。電気と上下水道の普及だけを取り上げても格段の進歩に違いありません。多分、それがない生活は考えられないことでしょうが、それと同じように、ロトはソドムの提供する恩恵抜きには生活出来なくなってしまった。文明のもたらす恩恵に引かれる余り、そのマイナス面に目をつぶってしまったことにロトの弱さがありました。

 

 ロトは、戸口の前にたむろしている男たちのところへ出て行き、後ろの戸を閉めて、言った。「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」

 男たちは口々に言った。「そこをどけ。」「こいつは、よそ者のくせに、指図などして。」「さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる。」そして、ロトに詰め寄って体を押しつけ、戸を破ろうとした。

                      (創世記19章6~9節)

 

 ロトは、家の回りを取り囲んでいるソドムの男たちから旅人を守ろうと、単身外に出て行きます。確かに、ロトには善良な側面もあったに違いありませんが、その行動には当時の習慣が色濃く反映しています。古代メソポタミアからシリア、パレスチナの遊牧民たちが彼らを訪れた旅人を歓迎したことは既に述べましたが、彼ら遊牧民たちの間では、ひとたび自分の天幕に客として招き入れた場合は誰であれ、主人は自分の命をかけてその客を守らなければならない慣習があったのです。ロトは、こうした遊牧民の慣習に従って二人の旅人を守ろうとしたと考えられます。ソドムという町の生活に浸りながらも、ロトの行動には遊牧民時代に培われた習慣がにじみ出ております。

 ロトの行動で見過ごしに出来ないのは、二人の旅人を救うために、未婚の娘を暴徒に差し出そうとしたことです。旅人を救おうと単身飛び出した所までは義人の面影を感じさせますが、未婚の娘を犠牲にさしだそうという判断には倫理的な疑問が残ります。

 この点に付いては、ソドムの人々は同性愛に興味があったのであり、女性である未婚の娘を差し出しても危険がなかったのだとロトを弁護する立場もあります。果たして危険がなかったかどうかは、士師記にここと良く似た記事がありますので、そこを参照してみましょう。

 

 彼らは旅を続け、ベニヤミン領のギブアの近くで日は没した。彼らはギブアに入って泊まろうとして進み、町の広場に来て腰を下ろした。彼らを家に迎えて泊めてくれる者はいなかった。夕暮れに、一人の老人が畑仕事を終えて帰って来た。この人はエフライム山地の出身であったが、ギブアに滞在していた。土地の人々はベニヤミン族であった。老人は目を上げて、町の広場にいる旅人を見、「どちらにおいでになりますか。どちらからおいでになりましたか」と声をかけた。彼は老人に答えた。「わたしたちは、ユダのベツレヘムからエフライム山地の奥にあるわたしの郷里まで、旅をしているところです。ユダのベツレヘムに行って、今、主の神殿に帰る途中ですが、わたしたちを家に迎えてくれる人がいません。ろばのためのわらも飼い葉もありますし、わたしとこの女、あなたの僕の連れている若者のためのパンもぶどう酒もあります。必要なものはすべてそろっています。」老人は、「安心しなさい。あなたが必要とするものはわたしにまかせなさい。広場で夜を過ごしてはいけません」と言って、彼らを自分の家に入れ、ろばに餌を与えた。彼らは足を洗い、食べて飲んだ。

 彼らがくつろいでいると、町のならず者が家を囲み、戸をたたいて、家の主人である老人にこう言った。「お前の家に来た男を出せ。我々はその男を知りたい。」家の主人は彼らのところに出て行って言った。「兄弟たちよ、それはいけない。悪いことをしないでください。この人がわたしの家に入った後で、そのような非道なふるまいは許されない。ここに処女であるわたしの娘と、あの人の側女がいる。この二人を連れ出すから、辱め、思いどおりにするがよい。だがあの人には非道なふるまいをしてはならない。」しかし、人々は彼に耳を貸そうとしなかった。男が側女をつかんで、外にいる人々のところへ押し出すと、彼らは彼女を知り、一晩中朝になるまでもてあそび、朝の光が射すころようやく彼女を放した。朝になるころ、女は主人のいる家の入り口までたどりつき、明るくなるまでそこに倒れていた。

 彼女の主人が朝起きて、旅を続けようと戸を開け、外に出て見ると、自分の側女が家の入り口で手を敷居にかけて倒れていたので、「起きなさい。出かけよう」と言った。しかし、答えはなかった。彼は彼女をろばに乗せ、自分の郷里に向かって旅立った。家に着くと、彼は刃物をとって側女をつかみ、その体を十二の部分に切り離し、イスラエルの全土に送りつけた。

                   (士師記19章14節~29節)

 

 士師記19章のこの箇所は、創世記19章と状況が良く似ています。旅人が町に入って来ると「寄留者」である老人が一夜の宿を申し出る。そして、家に入ると町の者たちが「男を出せ。男を知りたい。」と家を取り囲む。「自分の娘を提供するから」と老人が交渉しても埒があかない・・・。ここまではそっくりです。この後、士師記では旅人の連れの女性が町の者に差し出されますが、女性は一晩中弄ばれた挙句に殺されてしまいます。多分、ロトが自分の娘を差し出したとして、同じ結果になったのではないでしょうか?同性愛を理由としてロトの判断を弁護する訳にはいきません。ただ、それだけ、客人を保護する慣習(法)の要請が強いものであったということは士師記の記事からも窺われます。

 さて、ロトの「娘を差し出します」という申し出を聞いたソドムの男たちの反応は手厳しいものでした。好意で寄留を認められているよそ者のくせに、自分たちに指図をする鼻持ちならない奴だというのがロトに対する評価であり、ソドムの住人たちの本音が表われたものと言えましょう。多分、ソドムの町に心を奪われつつも、遊牧民時代の生活習慣も残っており、時には町の生活に対する批判めいた言動が表われたのではないでしょうか。やり取りの端々からそれが分かります。

 

 二人の客はそのとき、手を伸ばして、ロトを家の中に引き入れて戸を閉め、戸口の前にいる男たちに、老若を問わず、目つぶしを食わせ、戸口を分からなくした。二人の客はロトに言った。

「ほかに、あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです。」

                    (創世記19章10~13節)

 

 ロトと町の男たちとのやり取りの一部始終を聞いていた二人の旅人は、加勢をせず、ロトを家の中に引っぱり込みます。これは、もはやソドムの人々に対する説得工作が無意味であり、滅ぼす以外に道はないと判断したためだと思われます。どうせ滅ぼすのなら、ここで争っても意味がないので、ロトを家の中に引っぱり込んだのでしょう。男たちの目を見えなくした「目つぶし」とは視覚を狂わせる強い閃光を指します。

 アブラハムは、甥ロトの住むソドムを何とか救おうと、神との交渉において「義人五十人」から「義人十人」にまで値切りに値切りますが、結局の所、ソドムには十人の義人すらいなかったのです。

 

 ロトは嫁いだ娘たちの婿のところへ行き、「さあ早く、ここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされるからだ」と促したが、婿たちは冗談だと思った。

 夜が明けるころ、御使いたちはロトをせきたてて言った。

「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう。」

 ロトはためらっていた。主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた。

                    (創世記19章14~16節)

 

 14節の「嫁いだ娘たちの婿」には、語句の解釈について争いがあります。原文上は「嫁いだ娘たちの婿」とも訳せますが、「これから嫁ぐ娘の婚約者」とも訳すことが出来るのです。前者の訳では、ロトには未婚の娘の他に既婚の娘たちがいたことになりますが、後者の訳では娘はロトと同居している未婚の二人だけだということになり、家族構成に影響が出て来ます。

 いずれにしても、ロトは、婿(となる者)達の所に出向き、自分たちと一緒に逃げるように勧めますが、婿(となる者)達は冗談だと思って相手にしません。唐突なロトの申し出を聞けば、気が狂ったと思われても不思議ではないのです。

 この辺りからロトの性格が次第に表われて来ます。神の言葉が示されると一応はそれを尊重して行動しますが、人々の嘲笑を受けたり、疑問を示されたりすると直ぐに気持ちがぐらついて態度を変えてしまうのです。行動の基準が曖昧で、状況に流され易い人間であると言えます。このように何らかの行動の基準を持っていそうに見えて実は曖昧であり、状況に流され易いというのは日本人に多いタイプであり、その意味でロトは私たちの似姿と考えることが出来ます。

 折角の勧めを戯言として聞き流されたロトは最初の勢いを失い、今度は逆に懐疑的になります。御使いが、「婿を諦めて、せめて妻と娘を連れて逃げるように」と急き立ててもためらいを示し、腰を上げようとはしません。

 ロトの気持ちを代弁すれば、「ヨルダン川流域の低地一帯は(中略)主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎり良く潤っていた」(創世記13章10節)ので、豊かな生活基盤を失ってまでこの土地を離れ、身内とも別れることは「重要な問題であり、簡単には決められない!」のかもしれません。

 「失うものも多いから、良く検討してから結論を出すことにしよう。」或いは、「危機が近づいていることは分かっているが、はっきりした兆候が現われてから対処すればよい。」・・・こうした論法は「問題の先送り」と称され、私たちの周囲に溢れておりますが、信仰上の決断はこれを肯定しないのです。

 ぐずぐずするロトの決断を待っている訳にはいかなくなり、「主は憐れんで」二人の御使いにロトと妻、二人の娘の手を取らせて町の外へと避難させます。

 

 彼らがロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。

 「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」

 ロトは言った。

 「主よ、できません。あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます。しかし、わたしは山まで逃げ延びることはできません。恐らく、災害に巻き込まれて、死んでしまうでしょう。御覧ください、あの町を。あそこなら近いので、逃げて行けると思います。あれは小さな町です。あそこへ逃げさせてください。あれはほんの小さな町です。どうか、そこでわたしの命を救ってください。」

 主は言われた。

 「よろしい。そのこともあなたの願いを聞き届け、あなたの言うその町は滅ぼさないことにしよう。急いで逃げなさい。あなたがあの町に着くまでは、わたしは何も行わないから。」

 そこで、その町はツォアル(小さい)と名付けられた。

                    (創世記19章17~22節)

 

 ロトたちは、神の憐れみによってソドムから連れ出されます。

 しかし、「無理やり」「強引に」救い出されたロトたちは、神の命に次々と抵抗していきます。

 

「命がけで逃れよ・・・・。

 後ろを振り返ってはいけない・・・・。

 低地のどこにもとどまるな・・・。

 山へ逃げなさい・・・・・・。」

 

「主よ、できません!」

 

 救いを与えようという神の戒めに否を唱えることは、神を信じないこと、神よりも自分の意志を優先させることであって不信仰の表われです。逃げることにはためらっていたロトは、即座に「主よ、できません」と言い切り、自分の都合で神の計画を変えさせようとします。

 ここから、ロトのソドムへの未練がいかに強いものであったかが分かります。多分、神の裁きとやらが終わったらすぐにソドムに戻れるように、近隣の町に一時避難するに留めておきたかったのでしょう。神の裁きに対する怖れは伝わってきません。

 神の言葉を軽視している故に、「山へ逃れれば、災害に巻き込まれて死んでしまう」という発言が飛び出します。これは、「神の言う通りにしていては助からない。助けるなんて嘘であり、本当は神には自分を助けるつもりも力もないのだ」と同じことであり、自己中心的な態度の表われです。助かりたいのは当然であるものの、自分に都合の良い助かり方でなければ神を評価しないということ。多少は善人そうな素振りを見せていたロトが、突然、ここで本性をさらけ出したと言えます。

 「山は嫌だ」の次には、「近くの町で命を救え」と畳み掛けるようにして要求が出されますが、自分の側の都合を優先させるあまり、神に無理難題を吹きかけた形になっております。徹底して破壊し尽くされるされるソドムの近くにありながら、その小さな町(ツォアル)は無傷でなければならないのですから。ソドムの影響を受けた低地の町に留まろうとするロトには、命懸けで逃げようとする切迫感はありません。

 

 太陽が地上に昇ったとき、ロトはツォアルに着いた。主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。                                   (創世記19章24~25節)

 

 ソドムの滅亡に関しては、実際に何らかの天変地異があってソドムが滅んだのではないかと言われております。聖書の記述を科学的に説明しようとする試みと言えばよろしいでしょうか。

 ヨルダン渓谷は、北はシリヤから南はアカバ湾、紅海を経てナイル上流、東アフリカに及ぶ巨大な裂溝の一部であるそうです。科学的に説明しようという立場からは、ソドムを襲った突然の破滅は、このヨルダン渓谷南部に起こった大地震によるものとされます。地震によって噴き出した天然ガスに雷によって火がつき、硫黄や石油にまで引火し、巨大な火の海となった。これが「硫黄の火を降らせ」「町の全住民、草木もろとも滅ぼした」ことだと説明します。この時、ソドムの他、ゴモラ、アドマ、ツェボイムも滅亡した(申命記29:22)と聖書は記録しておりますが、これは、ヨルダン渓谷の低地一帯がかなりの範囲に及んで焼けただれたことを物語っております。ソドムから大して離れていないツォアルが被害を免れたのは、正に奇蹟的なことだと言わなければなりません。

 この立場からは、ソドムとその周辺の低地一帯の人々は、いわば、いつ爆発するかも分からない火薬庫の様な場所で、それとは気付かずに飽食して安泰に暮らしていたことになります。主の園とみまごう程の豊かな土地であり、安泰な生活を約束してくれるはずのヨルダン渓谷は、実は破滅と背中合わせの場所であったのです。

 ここで、現代の私たちの状況を振り返ってみましょう。

 第二次世界大戦以前とそれ以降では、人類の歴史において画期的な変化が生じたと言われております。その変化は、広島・長崎にも投下された核兵器によってもたらされました。

 現在、核兵器保有を公表しているのはアメリカ合衆国、ロシア、イギリス、フランス、中国の5か国。それに加えて旧ソ連の崩壊で核兵器配備を引き継いだベラルーシ、ウクライナ、カザフスタンの3か国で、計8か国に上ります。それらの国々の保有する核弾頭数は、93年に締結された第二次戦略兵器削減条約(START2)で2003年までに現有の約3分の1ないし、3500発に削減することになっておりますが、現時点では、条約は締結されたものの批准が完了しておりませんので、その実効性は危ぶまれております。多分、これからも地球全体を火の海で包むに余りある核弾頭の脅威と背中合わせで生活しなければならないでしょう。

 こうした核兵器保有国には日本は含まれておりません。非核三原則のもとで、少なくとも建て前としては核兵器は存在しないこととなっております。しかし、1986年4月26日に起きたチェルノブイリ原子力発電所の事故でも明らかなように、原子力発電所が事故を起こせば放射能汚染の被害は大惨事に直結します。

 第2時世界大戦までは、どれほど惨たらしい戦争が起こったとしても、地球全体を破滅に導く威力はありませんでしたが、現在は、地球が具体的に破滅する可能性のある時代に入ったと言えます。それにも関わらず、飽食して安泰に暮らしているとすれば、我々とソドムの住人の間にどれほどの違いがあると言えるでしょうか?

 

 ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。

                       (創世記19章26節)

 

 ロトの妻は、迫り来る火の海から逃れつつ、神の戒めに反して後ろを振り向いてしまいます。

 多分、ロトの妻は、ソドムから逃げ出すことについてはロト以上に受動的であり、ソドムに残してきた財産、家族に対する思いが強かったのでしょう。神の言葉に背くことで、彼女は救いから漏れてしまいます。

 ロトの妻が塩の柱になったことについて、新約聖書は次のように記しています。

 

 ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。

               (ルカによる福音書17章28~33節)

 

 イエスは、人の子が現われるとき、つまり、神の国が到来するときの状況を、ノアの洪水、ソドムの滅亡に重ね合せて説明し、ロトの妻の過ちを再び犯してはならないと警告を与えています。「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである」とイエス特有の逆説的な表現で、ロトの妻が陥った状態が指摘されます。豊かに生きることに対する執着から、ロトの妻は命それ自体を失ったのです。

 

 アブラハムは、その朝早く起きて、さきに主と対面した場所へ行き、ソドムとゴモラ、および低地一帯を見下ろすと、炉の煙のように地面から煙が立ち上っていた。

 こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。

                    (創世記19章27~29節)

 

 アブラハムは、前日の執り成しの結果を一刻も早く知ろうと、早朝に天幕を出ると、主なる神と交渉した場所へと急ぎます。多分、ソドムの町には義人などいないことを薄々知っていたのでしょう。低地を見下ろせば、溶鉱炉から立ち上るような煙があがり、前日の交渉が役に立たなかったことが分かりました。

 こうして、アブラハムの執り成しにも関わらずソドムは滅びましたが、ロトと娘は救われました。しかし、それは、ロト自身の信仰や正しさによるのではなく、アブラハムの信仰の故に救いに与ることが出来たに過ぎません。

 

 ロトはツォアルを出て、二人の娘と山の中に住んだ。ツォアルに住むのを恐れたからである。彼は洞穴に二人の娘と住んだ。

                       (創世記19章30節)

 

 ロトは、あれほど望んでいたツォアルでの救いを認められながら、今度はそのツォアルから山の中へと移り住みます。

 高をくくっていた裁きが、自分の想像を超えた規模で現実のものとなると、今度はツォアルは滅ぼさないという神の言葉に疑いを感じたのかもしれません。「近くのソドムが壊滅して火の手が上がっているのに、どうしてツォアルだけが無事でいられようか」と恐怖に苛まれたのでしょうか。或いは、神の裁きを受けたソドムから来た者としてツォアルの人々に嫌われ、迫害されたのかもしれません。

 こうした経緯について聖書は多くを語ってはおりませんが、作家の三浦綾子さんは次のように解釈しています。

 

 ロトはいったん、ツォアルの町にのがれた。にもかかわらず、結局は二人の娘を連れて山の中に入ってしまう。ここに、わたしはロトの不信仰を如実に見たように思うのだ。天使が、「山にのがれよ」と命じたにもかかわらず、町にのがれた。天使は、「その町は滅ぼしません」と約束してくれたにもかかわらず、ロトはその町を出て、山に入った。何と不従順な不信仰なロトであろう。彼は、なぜ町に、住みつくことができなかったのであろう。それは、ロトの傲慢が災いしたのではないだろうか。

 アブラハムの信仰によって、ロトの一家は救われた。が、ロトは、決してそうは思ってはいない。自分が、ソドムの街で、最も正しい人間だからこそ救われたと思っている。小さなゾアルの町に来て、ロトはそう高言した。それがまず、ゾアルの町の人々の反感を買った。

「何だい、自分だけ偉そうに」

「あいつは、他の奴らを見捨てて、一人逃げて来た薄情者だ」

ゾアルの人々は、そうささやきあった。が、ロトは、

「この町だって、本来は滅ぼされるはずだったんだ。俺が、天使に頼んだおかげで、無事にすんだのだぞ」

 と威張り返っていた。そんなロトから人々は、次第に離れて行った。ロトも、町の恩人であるはずの自分をないがしろにするゾアルの人々がうとましくなった。ロトは町がいやになった。こんな人間たちと住んでいるならば、いつかはまた、ソドムと同じように滅ぼされてしまう。ロトは疎外されている毎日に耐えられなくなり、かつ、再びあるかも知れない町の滅亡に恐怖を覚えた。

 ロトは、時折り、地に耳をつけて、あのソドム滅亡の日に似た地鳴りを聞いた。

「地鳴りがする!」

 ロトは町の人々に言った。誰もが嘲った。実はロトの耳鳴りだった。が、ロトはこの町が滅びるといつか信ずるようになった。

「その町は滅ぼしません」

 確かにそう約束した天使の言葉を、ロトはもはや信じていなかった。ある朝、起きるや否や、二人の娘を叩き起こし、

「この町も滅びるぞ!」

 とどなった。二人の娘はあわてて、飛び起きた。すでにソドムの滅亡を経験した彼女たちは、父の言葉を信じた。娘たちにとっても、この町は、住みやすい町ではなかった。白眼視の中にいたからだ。

 山中にのがれて、ようやく、ロトはほっとした。「その町は滅ぼしません」と言った天使の言葉を、ロトはすっかり忘れてさえいた。が、山中の三人の生活は必ずしも平和ではなかった。ロトは、朝晩、神に祈り、狩猟に出かけた。が、何となく、心もとない。何かがほしい。猟で得た獣を神に捧げる場所がほしい。やがて、彼は大きな岩の前に、供え物を捧げるようになった。そのうちに、その岩が彼の神体となった。三人の偶像生活がはじまった。

               (「旧約聖書物語」三浦綾子著 光文社)

 

 三浦さんは、神の言葉に対する不信とツォアルでの迫害という二つの要素を織り混ぜつつ一つの物語を紡ぎ出しております。

 ロトの持つ自己中心性は神から自分を遠ざけてしまい、神の言葉に対する不信は次第に彼の人間性を崩壊させて行ったように思います。彼は、神に立ち返るチャンスを何度も与えられましたが、それをことごとく退けてしまいました。神の恵みに与りながらもそこからこぼれて行く人間の悲劇を、ロトとその家族は物語っていると言えるでしょう。

 

 姉は妹に言った。「父も年老いてきました。この辺りには、世のしきたりに従って、わたしたちのところへ来てくれる男の人はいません。さあ、父にぶどう酒を飲ませ、床を共にし、父から子種を受けましょう。」娘たちはその夜、父親にぶどう酒を飲ませ、姉がまず、父親のところへ入って寝た。父親は、娘が寝に来たのも立ち去ったのも気がつかなかった。あくる日、姉は妹に言った。「わたしは夕べ父と寝ました。今晩も父にぶどう酒を飲ませて、あなたが行って父と床を共にし、父から子種をいただきましょう。」娘たちはその夜もまた、父親にぶどう酒を飲ませ、妹が父親のところへ行って寝た。父親は、娘が寝に来たのも立ち去ったのも気がつかなかった。このようにして、ロトの二人の娘は父の子を身ごもり、やがて、姉は男の子を産み、モアブ(父親より)と名付けた。彼は今日のモアブ人の先祖である。妹もまた男の子を産み、ベン・アミ(わたしの肉親の子)と名付けた。彼は今日のアンモンの人々の先祖である。

                    (創世記19章31~38節)

 

 ロトと二人の娘が逃げ込んだ山の洞窟周辺には他に住む者もおらず、彼らは孤独な生活を余儀なくされます。悪名高きソドムの生き残りとあっては娘たちと好んで結婚しようという男性もおらず、次第に老いていくロトが亡くなった後の生活を考えると不安が募るばかり。

 アブラハムとサラの物語においてもそうでしたが、イスラエルの民にとって子孫を残すことへの思いは強烈であり、子孫を残せないということは、絶望的な状況を意味しました。アブラハムの場合には、女奴隷ハガルによってイシュマエルをもうけましたし、サラにもやがてイサクが誕生しますが、ロトと娘たちにはそうした可能性はありません。

 こうした極限的な状況の中で、二人の娘たち-特に姉妹の姉-は、父親であるロトによって子を得ようと決意します。父亡き後の自分たちの命の安全のため、そして、生活の保証のために。

 近親相姦は、聖書の世界ではタブーとされています。

 

 肉親の女性に近づいてこれを犯してはならない。わたしは主である。

                       (レビ記18章 6節)

 これらのいとうべきことの一つでも行う者は、行う者がだれであっても、民の中から絶たれる。

                       (レビ記18章29節)

 

 ロトの娘たちが、こうしたタブーをあっさりと乗り越えてしまったのは、ソドムの影響があったからとも言えるでしょう。結婚前の多感な青春時代を、性的な倫理観に欠けたソドムの町で過ごした結果がここに凝縮されていると言って過言ではありません。

 しかし、それにしても聖書は何とクールに、何と淡々と忌まわしい物語を述べていることでしょうか。

 実のところ、この物語は、彼らの子孫と想像された人々によって、二人の娘の英雄譚として語り継がれた可能性があります。倫理的な問題は別にして、モアブ、アンモンの人々は、絶望の中に苦しむ二人の娘の主体的行為によって自分たちが誕生したということを、誇りを持って語り伝えたらしいのです。

 このことは、彼らの倫理観がどのようなものであったかを示しております。それは倫理的な原則よりも具体的な状況に重きを置こうという状況主導の倫理です。そして、状況主導型の倫理は、無原則の状況倫理に転落する可能性をはらんでおります。

 私たち日本人の倫理観も、どちらかといえば状況主導型の倫理観であり、次の様な会話を行うことにも表われています。

「例外のない原則というものはないのだから、一応原則として筋は立てるが、まぁこの際目をつむろう。だが、将来はこういうことのないように気をつけなさい。」

「理屈はそうだが、余り固いことをいわずに、適当に宜しく頼む。」

「清濁併せ呑む太っ腹なところが必要だ。重箱の隅をほじくるような奴は出世しない」云々。

 ロトと娘たちの物語を、日本人がその倫理観の下に評価したらどうなるでしょうか?「忌まわしいことだが、あの状況の下では止むを得なかった。本人たちにとっても苦渋の選択だったろうから、これ以上は触れないことにしよう」となりそうな気がします。

 一方、聖書が示す倫理は完全な原則倫理ではありませんが、原則を重視します。創世記は、ロトの娘の行為の是非を論評してはおりませんが、モアブ、アンモンが悪徳のソドムに起源を持ち、近親相姦というタブーを犯すことで誕生したと敢えて書き記した点で、彼らに対する思いは肯定的なものとは言えません。

 こうした忌まわしい結果も、それを遡ればロトの自己中心的な行動に行き着きます。13章10節の土地の選択もしかり、神に力ずくで連れ出されるまでソドムに留まったことしかり、山に逃げずにツォアルでの救いを求めたことしかり、救いを約束されたツォアルから山に移ったことしかり・・・。こうした諸々の帰結が近親相姦の物語となり、神によって約束された国からの離脱という結末を迎えるのです。

 しかし、残酷な響きを轟かせて来た楽章が終わりを告げ、次の楽章に入ると、突然に短調が長調に転調して、明るい調べを響かせてくれます。

 忌まわしきモアブから生まれた娘ルツは、夫と死別した後も姑のナオミのもとに留まり、やがてナオミの親戚のボアズと結婚します。そして、ダビデ王の曾祖母となってイエス・キリストの系図に名を連ねることになるのです。(ルツ記4章)

 ソドムの生き残りであって近親相姦を起源とし、イスラエルの目には汚れた民と思われたモアブ・アンモンも、創世記12章3節の言葉の通りアブラハムによって「祝福に入る」のであります。

 

 あなたを祝福する人をわたしは祝福し

 あなたを呪う者をわたしは呪う。

 地上の氏族はすべて

 あなたによって祝福に入る。    (創世記12章3節)

 

 

<今回の参考書>「創世記」(関根正雄訳 岩波文庫)/「創世記」(月本昭男訳 岩波書店)/「現代聖書注解 創世記」(ブルッグマン著 日本基督教団出版局)/「ケンブリッジ旧約聖書注解 創世記」(デヴィッドソン著 新教出版社)/「新聖書注解 旧約Ⅰ」(いのちのことば社)/「旧約聖書物語」(三浦綾子著 光文社)/状況の倫理(岩村信二著 ヨルダン社)/