旧約聖書の旅「創世記」第13回「アブラハムのゲラル寄留」(小山哲司)

 ロトよりも年長であり、神から約束の言葉を頂いていたアブラムには、当然のこととして土地を選択する権利がありましたが、アブラムは選択の権利をロトに譲ってしまいます。

 アブラムは、エジプトで妻サライを裏切った経験から、心に大きな痛みを抱えていたと思われますが、痛みと正面から向き合う中で、彼は変えられていきます。そして、それがロトとの別れの場面で、選択の権利をロトに譲ることに実を結んでいったのです。苦しみと葛藤が人を成長させるという以上に、神との交わりの中でアブラムは変わって行った。そこに信仰の恩寵があったのだと私は思います。(13章)

 その後、東方の王たちがカナンを侵略し、ソドムの王たちを撃破してロトを奪い去りますが、アブラムの追撃に破れます。アブラムは、ここでは雄々しい戦闘指揮官として描かれています。(14章)

 これらのことの後、幻の中で「恐れるな、あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」という主の言葉がアブラムに臨みます。

 しかし、アブラムは「あなたはわたしに子孫を与えて下さいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」と抗議をします。アブラムは、子孫を繁栄させ、土地を与えるとの主の言葉を受けたにも関わらず、実子が誕生しないことに不満を抱いていたに相違ありません。

 主なる神は、「あなたから生まれるものが跡を継ぐ。」と具体的な回答を与えてアブラムの迷いを断ち切り、満天の星を見つめながらアブラムは自分自身の子供が誕生して子孫が増えることを信じます。

 その後、主なる神はアブラムに牝牛と牝山羊と牡羊と山鳩とを用意してそれらを半分に引き裂き、向かい合わせに置くように命じます。猛禽がそれを襲わない様に番をするうちにアブラムは深い眠りに陥りますが、夢(幻)の中で神は、アブラムの子孫の行く末について語ります。やがて、辺りが闇に包まれた頃、煙をはいた炉と燃えた松明が引き裂かれた動物の間を通ります。これは神がアブラムと契約を結ばれたしるしでした。(15章)

 こうして繰り返し臨む神の約束の言葉にも関わらず、一向に懐妊する兆しのないサライは、女奴隷ハガルによって母となろうと企てます。

 これは、当時行われていた習慣に乗っ取ったことでしたが、神の言葉よりも人の智恵、人の業に寄り頼んだことによって、アブラムとサライ、そしてハガルの間に亀裂が走ります。

 身ごもったハガルは、サライの仕打ちに耐え兼ねて、また、子供を自分自身の子としたいと願って逃亡しますが、御使いの姿をとられた主にサライのもとに戻るように示され、やがて誕生する子供が繁栄するという約束を受けます。

 こうして、人の思いが招いた悲劇に神は介入し、約束の実現に向けて導く神の姿が改めて鮮明に示されます。(16章)

 ハガルがイシュマエルを産んでから13年後に、主は再びアブラハムに現われます。この時、アブラハムは99歳になっておりました。

 主は、アブラムの子孫を繁栄させ、土地を所有させるという契約を繰り返し、アブラハムと改名するように命じます。彼はまだ一片の土地すらも自分の所有とはしておりませんでしたが、神はカナンの土地が永久にアブラハムとその子孫の所有地であると宣言し、約束のしるしとして一族の男子はすべて割礼を受けるように命じます。ここには割礼の習慣のないバビロンで創世記をまとめた編者の、民族と祖国の復興を信じる信仰が色濃く表われていると思われます。

 割礼の求めに続いて、神はイサクの誕生をアブラハムに予告します。

 アブラハムは、サラが子供を生むという神の言葉を笑いますが、神は1年後にはイサクが誕生し、それが神が契約を結ぶべきアブラハムの子孫であると宣言します。

 こうした神の言葉を受け、アブラハムはその日のうちに一族の男子すべてに割礼を施します。ここに、神の約束に苦笑を漏らす弱さを見せたかと思うと、神の求めを迅速に徹底して実行しようとするアブラハムの複雑な性格が表われているのではないでしょうか?(17章)

 イサクの誕生を予告した神は、旅人の姿をとって天幕を訪れ、アブラハムから手厚くもてなされます。その際にも、来年の今ごろサラに男の子が誕生すると予告しますがサラはそれを笑います。

 神の一行はアブラハムのもとを出立し、見送るアブラハムにソドムを滅ぼすつもりであることを示します。アブラハムは、ソドムに少しでも正しい者がいれば滅ぼさないで欲しいと懇願し、正しい者の数を50人、40人と減らしていき「10人の正しい者がいれば滅ぼさない」という神の約束を取り付けます。ここには、罪なき者には罪ある者を救う力があるという思想が表われており、神とアブラハムとの交渉は緊迫したドラマを展開します。(18章)

 ソドムの町に入った二人の御使いは、ロトの家に招き入れられます。夜中に町の男たちがロトの家に押しかけ、二人の御使いを引き渡すように迫りますが、御使いの目潰しによって難を逃れます。御使いから神がソドムを滅ぼすと聞かされたロトは、逃げることをためらいますが御使いに手を取られて妻と二人の娘と一緒に町の外へと連れ出されます。山へ逃げよという神の命に背いてロトはツォアルに逃げることを求めますが、やがて山の中の洞穴に移り住みます。山の中では結婚相手が見つからないことに悩んだ二人の娘は父親であるロトによって子を得ますが、こうした凄惨な結末はロトの自己中心性に原因があったと思われます。(19章)

 

 それでは本日の箇所に入って行きたいと思います。

 

 アブラハムは、そこからネゲブ地方へ移り、カデシュとシュルの間に住んだ。ゲラルに滞在していたとき、アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。(20章1~2節)

 

 アブラハムは、主の一行が訪れたときにはヘブロン付近のマムレの樫の木の所に天幕を張っておりました(18章1節)が、ソドムの滅亡を見届けた後、そこから天幕を移動してゲラルに移りました。

 ここで、聖書本文は「ネゲブ地方に移り、カデシュとシュルの間に住んだ」と述べておりますが、カデシュとシュルは当時の隊商路であり、カデシュとシュルの間に住んだとは、隊商路を移動しながら天幕生活を送ったという意味に理解されます。しかし、ゲラルは、カデシュとシュルを結ぶ隊商路からかなり離れた所にありましたので、ちょっと疑問を感じさせる書き方です。

 このゲラルは後にペリシテ人の居住地となる場所であり、アブラハムのその地への滞在はイサクの誕生を間にはさんで数年に及びます(21章34節)。ここに登場する王アビメレクは、21章、26章にも名前が挙げられており、ピコルという名の部下がどちらにも登場することから同一人物であると考えられ、「ゲラルにいるペリシテ人の王」(26章1節)とされております。

 この章には不可思議な箇所が多いのですが、その1つは、アビメレクがサラを宮廷に召しいれた経緯です。

 アブラハムは、エジプトでもサラのことを妹だと偽り、ファラオにサラを召し出されてしまいますが、ここでもサラを妹だと偽って同じ過ちを繰り返します。18章では信仰の父祖にふさわしい姿を見せたアブラハムでしたのに、ここではエジプトでの教訓を生かすことがありません。彼の心はエジプトでの経験で相当痛みを覚えた筈ですが、その痛みは彼の心を成長させることが出来なかったかのようです。この落差の大きさが、私たちのアブラハム像を戸惑いの多いものにしてしまいます。

 更に不可思議なのは、90歳を超えていた筈のサラが、アビメレクの目に留まり、彼のもとに召し入れられた点です。この時、サラは身重であったと考えられますが、90歳の身重の老婦人に王の目を引く魅力があったのでしょうか?さすがに、12章のように「あなたが美しいのを、わたしはよく知っている」といった記述はありませんが、召し入れられたことから逆に考えれば「90歳の身重の老婦人」が王の目に魅力的であったことは否定できません。

 アビメレクには既に妻がおりました(20章17節)ので、サラは側室として召し入れられたことになりますが、アブラハムが何の抵抗もせずに黙ってサラを差し出したことも謎です。14章で見せた、東方の王たちを追撃し、ロトを奪い返した雄々しい戦闘指揮官としての姿は一体何だったのでしょうか?約束の子イサクの誕生を前にして、サラがアビメレクの側室にされてしまっては、神の約束の成就が妨げられます。また、18章の後半で見せた神への執り成しの姿、そして、そこに示された信仰は何処に消えたのでしょうか?

 こうした問題を考えれば考えるほど、アブラハムのイメージは複雑なものになって参ります。

 

 その夜、夢の中でアビメレクに神が現れて言われた。

「あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」

 アビメレクは、まだ彼女に近づいていなかったので、

「主よ、あなたは正しい者でも殺されるのですか。彼女が妹だと言ったのは彼ではありませんか。また彼女自身も、『あの人はわたしの兄です』と言いました。わたしは、全くやましい考えも不正な手段でもなくこの事をしたのです」と言った。(20章3~5節)

 

 3節において、神は夢の中でアビメレクに姿を現わしますが、これは、E資料の特徴であると言われております。ちなみに、12章10~20節の記事は、J資料であるとされており、2つの資料が成立した時期に時間的なずれがあると考えられます。

 さて、3節冒頭の「その夜」とは、サラを召し入れた日の夜と読める箇所ですが、この点については、原文の用語は「ある夜」であって、必ずしも召し入れた日の夜ではないとする説があります(関根訳、新改訳など)。そうすると、ある程度の日数が経過したになりますが、その間、アビメレクがサラと全く接触しなかった(4節)ということには無理が出てきます。

 「ある夜」という読み方をする立場では、アビメレクは病に冒されており、その故にサラに近づくことが出来なかったと説明します。その根拠は、17節に「アブラハムが神に祈ると、神はアビメレクとその妻、および侍女たちをいやされた」と書かれている点です。神が姿を現わした時点で、アビメレクは重い病に罹っており、生死の境をさまようような状態であった。そうした彼に神が現われて、死の宣告を与えたと説明するのです。

 これに対してアビメレクは真っ向から反論します。その態度は論争的であり、彼の反論には正当性が認められます。ここでの彼の主張を18章23節以下のアブラハムの主張と比べてみましょう。

 

「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が50人いるとしても、それでも滅ぼし、その50人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」(18章23~25節)

 

 自分の主張を携えて神の前に進み出て、断固とした姿勢でそれを述べる点において、アビメレクの反論は18章後半のアブラハムの姿に重なって見えます。また、神に対する呼びかけの言葉である「主よ」も、イスラエルの人々が神に呼びかける時の言葉「アドナイ(ヤハゥエ)」が用いられていることから、アビメレクはある程度の神認識を持っていたように描かれています。

 アビメレクは、「全くやましい考えも不正な手段でもなくこの事をしたのです。」と言って弁明を結んでおりますが、月本昭男先生はこの箇所を「潔白な心と清い手をもって」と訳しており、アビメレクの側には過ちがなかったことが強調されています。現代の私たちの感覚から言えば、正妻がありながら側室を娶ること自体が問題ですが、アブラハムもエジプト人ハガルを側室としておりますので、アブラハムとの比較において特にアビメレクが悪を犯したとも言えません。

 それにもかかわらず、神がアビメレクの死を警告したのは、結婚している女性が姦淫を犯した場合には当事者はどちらも死ななければならないという慣習(法)が存在していた(申命記22章22節)からだと思われます。

 

 男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない。

                       (申命記22章22節)

 

 アビメレクに過失はありませんでしたが、サラに触れれば結果的に姦淫を犯すことになりますので、その帰結がどうなるかを警告したと受け止めるべきなのでしょう。

 

 神は夢の中でアビメレクに言われた。「わたしも、あなたが全くやましい考えでなしにこの事をしたことは知っている。だからわたしも、あなたがわたしに対して罪を犯すことのないように、彼女に触れさせなかったのだ。直ちに、あの人の妻を返しなさい。彼は預言者だから、あなたのために祈り、命を救ってくれるだろう。しかし、もし返さなければ、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬことを覚悟せねばならない。」(20章6~7節)

 

 神はアビメレクの主張を受け入れて、アビメレクにはやましい点がないことを認め、アビメレクが罹った重い病も、彼を死から救うための神の摂理であったと語ります。

 確かに、こうした状況をもたらした原因が誰にあるのかを考えてみれば、サラを妹だと偽ったアブラハムの責任こそが問われるべきであり、アビメレクが責められるのはおかしなことです。

 ところが、ここで実に奇妙なことに気が付きます。

 アブラハムは、神によって「預言者」と呼ばれます。これは、旧約聖書全体を通して「預言者」という言葉が初めて使われている箇所です。預言者の意味は、申命記18章18節以下に示されているのでそこを参照します。

 

 わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追求する。ただし、その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない。

(申命記18章18~20節)

 

 申命記に示されているように、旧約の預言者には、その時代の社会に対して神の言葉を取り次ぐ務めがありました。

 神はアブラハムにはその務めがあるというのですが、どう考えても20章のアブラハムには過ちがあり、アビメレクの側に正しさが感じられます。それにも関わらず、落度のないアビメレクに死の警告が与えられる一方、原因を与えたアブラハムは預言者とされ、アビメレクが死から救われるためには彼の祈りが必要とされたのです。これは、まことに奇妙なことと言わなければなりません。落度のない者が救われるために、落度のある者の執り成しの祈りが必要とされるとは、どうしてなのでしょうか?

 これまでも、何度かアブラハムの存在の複雑さ、不可思議さを指摘して参りましたが、いよいよ約束の子イサクが誕生する間際になって、その信仰の高まりとは裏腹に存在の複雑さ、不可思議さも際立ちます。

 

 次の朝早く、アビメレクは家来たちを残らず呼び集め、一切の出来事を語り聞かせたので、一同は非常に恐れた。

 アビメレクはそれから、アブラハムを呼んで言った。

「あなたは我々に何ということをしたのか。わたしがあなたにどんな罪を犯したというので、あなたはわたしとわたしの王国に大それた罪を犯させようとしたのか。あなたは、してはならぬことをわたしにしたのだ。」

 アビメレクは更に、アブラハムに言った。

「どういうつもりで、こんなことをしたのか。」(20章8~10節)

 

 夢の中に神が姿を現わした翌朝、アビメレクは家来を残らず集めますが、この点にアビメレクの怖れの深さ、甚だしさが表われています。多分、死の恐怖にさいなまれ、夢から覚めた後はまんじりともせずに一夜を明かした筈です。

 アビメレクはアブラハムを呼んで詰問しますが、「我々」や「わたしの王国」という言葉から、アブラムを家来一同の前で詰問したことが窺われます。神によって預言者と称せられ、やがてはイスラエルの信仰の父祖と呼ばれるアブラハムが、倫理・道徳の初歩的な過ちに付いて異教の国の王から指弾され、糾問されねばならなかったとは、彼にとってまことに大きな屈辱だったに違いありません。

 アビメレクの糾問を前に、アブラハムは沈黙します。頭を垂れたまま、しばらくは答えようもなかったのでしょう。

 そこで、アビメレクは更に言葉を重ねて言います。「どういうつもりで、こんなことをしたのか?」と。まるで教師が生徒を叱る時のような語調を感じます。

 アブラハムは、アビメレクの語気に押され、重い口を開いて次のように語り始めます。こうした弁明は、12章10~20節ではなされておりません。

 

 アブラハムは答えた。「この土地には、神を畏れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです。事実、彼女は、わたしの妹でもあるのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではないのです。それで、わたしの妻となったのです。かつて、神がわたしを父の家から離して、さすらいの旅に出されたとき、わたしは妻に、『わたしに尽くすと思って、どこへ行っても、わたしのことを、この人は兄ですと言ってくれないか』と頼んだのです。」(20章11~13節)

 

 エジプトでは沈黙していたアブラハムが、アビメレクの前ではサラを妹と偽った経緯についてしきりに弁明しています。しかし、その弁明には説得力が認められません。

 アブラハムは、「この土地には、神を畏れることが全くない」と言いますが、現にアビメレクは主なる神の命令に忠実であろうとしてアブラハムを呼んだのです。神を畏れていない筈がありません。ソドムやゴモラのように滅亡に値する都市があったことは事実ですが、14章のメルキゼデクに見られるように、アブラハムたちが敬意を払うべき指導者もいたのです。むしろ、ここでは、アブラハム自身が、神よりも神以外のものを畏れて道を踏み外してしまったと言うべきでしょう。カナン地方の人々の異教神への信仰をもって自分の過ちの弁明の根拠とするのは、余りにも自分に都合のよい解釈であり、アブラハムには弁明の余地はありません。

  アブラハムの弁明によれば、サラは異母妹になりますが、イスラエルの律法では異母妹との結婚は認められておりませんでしたので、サラが異母妹だと弁明すること自体が慣習(法)に反している可能性があります。

 

 姉妹は、異父姉妹、異母姉妹、同じ家で育ったか他の家で育ったかを問わず、彼女たちを犯して辱めてはならない。(レビ記18章9節)

 

 父のもとに生まれた父の妻の娘を犯してはならない。彼女はあなたの姉妹である。彼女を辱めてはならない。(レビ記18章11節)

 

 自分の姉妹、すなわち父また母の娘をめとり、その姉妹の裸を見、女はその兄弟の裸を見るならば、これは恥ずべき行為であり、彼らは民の目の前で断たれる。彼は、自分の姉妹を犯した罪を負わねばならない。

(レビ記20章17節)

 

 レビ記の規定によれば、姉妹を犯し、あるいは姉妹と結婚した者は「民の前で断たれる」のであり、極刑が科せられた重罪であったことが分かります。ですから、アブラハムが「サラは妹だが、自分の妻でもある」と口にしたということには、相当な覚悟が必要であったと思われます。

 この点については、12章10~20節を取り上げたときに、フルリ人(ミタンニ王国の住民-アブラハムの父テラが滞在し、そこで亡くなったハランは、ミタンニ王国にあった-)の生活習慣として説明致しましたが、彼らの社会では、妹とは必ずしも血縁を必要とせず、単に法的な地位として存在し得る立場でありました。ヌジのある文書は、ある人が、ある婦人をある人に、妹としてと同時に妻としても与えたことを示しております。その婦人は妻であるのと同時に、血縁はないのに妹としての地位も得たことになりますが、この場合には普通の妻よりも有利な特権と保護を受けることが出来たそうです。

 こうしてサラが実際に、或いは法的に妹であった可能性に加えて、アブラハムにはアブラハムなりの計算もあったと思われます。それは、女性と婚姻するにはその親兄弟の同意が必要であり、父親テラが既に死亡しているアブラハムとサラの場合には、アブラハムの同意がなければサラの婚姻は結ばれないはずだとの計算があっただろうと推察されるからです。「サラが妹だと言っておけば、サラとの婚姻を求めている者は、兄である自分を丁重に扱うだろう。だが、どんなに丁重に扱われても『サラとの婚姻は認めない』と断わればいいのだ。これが、最も賢明な方法だろう。」と考えたのは、身を守る計算としては理解できる面がないわけではありません。

 しかし、エジプトではこのような打算に反してサラはファラオの宮廷に召し入れられました。一度犯した何度も繰り返すのは余程愚かであるか、余程小心であるかの何れかです。雄々しく大胆な振る舞いをする場面が随所に出て参りますので、アブラハムが小心であると断言することはできません。雄々しい姿もアブラハムの真実の姿であれば、こうした小心さもまたアブラハムの真実の姿です。アブラハムの心の中には幾つかの人格が同居し、その状況によって現われる人格が変わって行ったと考えるのが自然です。

 

 アビメレクは羊、牛、男女の奴隷などを取ってアブラハムに与え、また、妻サラを返して、言った。「この辺りはすべてわたしの領土です。好きな所にお住まいください。」

 また、サラに言った。「わたしは、銀一千シェケルをあなたの兄上に贈りました。それは、あなたとの間のすべての出来事の疑惑を晴らす証拠です。これであなたの名誉は取り戻されるでしょう。」(20章14~16節)

 

 アビメレクは、神から命じられたサラの他に、羊、牛、男女の奴隷などを取ってアブラハムに与えております。ここも不可解です。

 アビメレクとアブラハムとの関係では、アビメレクの方が優勢であり、神もアビメレクに非がないことを認めています。アブラハムに贈り物をしなければならない必然性はありません。

 それにもかかわらずに、アビメレクが贈り物をしたのは、17節に登場する執り成しの祈りに対する報酬として献げたと推察されます。

 過ちを犯さなかった者が、過ちの原因を与えた者の祈りによって救われ、そのためには祈りの報酬として多額の贈り物までしなければならないとは、真に不可思議で興味深いことです。

 さらに、エジプトのファラオと比べると、ファラオはアブラハムの一行を国外に追放しますが、アビメレクは、ゲラルへの滞在を認めています。事実、サラがイサクを生んだのはこのゲラルの地でした。イサクの誕生を間に挟んで滞在は数年間に及んだものと思われます。(21章23節参照)

 

 どうか、今ここで私と私の子、私の孫を欺かないと、神にかけて誓ってください。わたしがあなたに友好的な態度をとってきたように、あなたも、寄留しているこの国とわたしに友好的な態度をとってください。」

(21章23節)

 

 ここで、族長と土地の結び付きについて簡単に触れておきます。

 これまでの道程を振り返りますと、ミタンニ王国のハランで父テラと別れたアブラハムは、シナイ半島を南下し、シケム、ベテルを経てネゲブ地方に移ります。そこで飢饉に襲われたため、エジプトに下りますが、サラを妹と偽った件が原因でエジプトを追放され、ネゲブ地方を経由してヘブロンに戻り、それ以後はヘブロンを中心として活動したようです。

 一方、イサクは、誕生したのがネゲブであり、その付近のベエル・シェバを根城にしていました。アビメレクとの交際は、イサクの時代にも続いていきます。(26章)

 そうすると、アブラハムの活動の舞台は、ヘブロン近辺であり、イサクの活動の舞台はベエル・シェバであるということになり、土地と彼らの関係がはっきりします。

 これは、創世記に編纂される前の伝承が、アブラハムの伝承についてはヘブロンで、イサクの伝承についてはベエル・シェバで語り継がれていたことを示しています。学説の中には、アブラハム、イサク、ヤコブは血縁関係を持たず、カナン地方に入り込んだアラム人の中から登場した有力な族長の伝承を、後世に至って家族関係を持たせて編纂したのだという説がありますが、それは、こうした土地と族長との結び付きを重視して立てられた説です。

 

 アブラハムが神に祈ると、神はアビメレクとその妻、および侍女たちをいやされたので、再び子供を産むことができるようになった。

 主がアブラハムの妻サラのゆえに、アビメレクの宮廷のすべての女たちの胎を堅く閉ざしておられたからである。(20章17~18節)

 

 アブラハムには倫理的な問題点があるにもかかわらず、彼の祈りによってアビメレクと妻、および侍女たちは癒されます。

 これは、12章3節の神の約束の表われと捉えるべきでしょう。

 

 あなたを祝福する人をわたしは祝福し

 あなたを呪うものをわたしは呪う。

 地上の氏族はすべて 

 あなたによって祝福にはいる             (12章3節)

 

 アブラハムは欠点が多く、倫理的、信仰的に疑問を抱かざるを得ない人物です。そうした彼を通して、神の祝福が地上の氏族すべてに及ぶということは、神の恩恵以外のなにものでもありません。アブラハム自身に価値はなくとも、彼は神の一方的な恩恵によって諸国民に生命を与える器として選ばれたのであります。

 

 

<今回の参考書>「創世記」(関根正雄訳 岩波文庫)/「創世記」(月本昭男訳 岩波書店)/「現代聖書注解 創世記」(ブルッグマン著 日本基督教団出版局)/「ケンブリッジ旧約聖書注解 創世記」(デヴィッドソン著 新教出版社)/「新聖書注解 旧約Ⅰ」(いのちのことば社)/「最新・古代イスラエル史」(ミルトス)