旧約聖書の旅「創世記」第17回「イサクの結婚」(小山哲司)

 

 アブラムは、エジプトで妻サライを裏切った経験から、心に大きな痛みを抱えていたと思われますが、痛みと正面から向き合う中で、彼は変えられていきます。そして、それがロトとの別れの場面で、選択の権利をロトに譲ることに実を結んでいったのです。そこには信仰の恩寵があったのだと思います。(13章)

 その後、東方の王たちがカナンを侵略し、ソドムの王たちを撃破してロトを奪い去りますが、アブラムの追撃に破れます。アブラムは、ここでは雄々しい戦闘指揮官として描かれています。(14章)

 これらのことの後、幻の中で「恐れるな、あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」という主の言葉がアブラムに臨みます。

 しかし、アブラムは「家の僕が跡を継ぐことになっています。」と抗議をします。アブラムは、主の言葉にも関わらず、実子が誕生しないことに不満を抱いていたに相違ありません。

 主なる神は、「あなたから生まれるものが跡を継ぐ。」と具体的な回答を与え、アブラムは満天の星を見つめながら自分自身の子供が誕生して子孫が増えることを信じます。

 その後、主なる神はアブラムに牝牛と牝山羊と牡羊と山鳩とを用意してそれらを半分に引き裂き、向かい合わせに置くように命じます。番をするうちにアブラムは深い眠りに陥りますが、夢(幻)の中で神は、アブラムの子孫の行く末について語ります。やがて、辺りが闇に包まれた頃、煙をはいた炉と燃えた松明が引き裂かれた動物の間を通ります。これは神がアブラムと契約を結ばれたしるしでした。(15章)

 こうして繰り返し臨む神の約束の言葉にも関わらず、一向に懐妊する兆しのないサライは、女奴隷ハガルによって母となろうと企てます。

 これは、当時行われていた習慣に乗っ取ったことでしたが、神の言葉よりも人の智恵、人の業に寄り頼んだことによって、アブラムとサライ、そしてハガルの間に亀裂が走ります。

 身ごもったハガルは、サライの仕打ちに耐え兼ねて、また、子供を自分自身の子としたいと願って逃亡しますが、御使いの姿をとられた主にサライのもとに戻るように示され、やがて誕生する子供が繁栄するという約束を受けます。

 こうして、人の思いが招いた悲劇に神は介入し、約束の実現に向けて導く神の姿が改めて鮮明に示されます。(16章)

 ハガルがイシュマエルを産んでから13年後に、主は再びアブラハムに現われます。この時、アブラハムは99歳になっておりました。

 主は、アブラムの子孫を繁栄させ、土地を所有させるという契約を繰り返し、アブラハムと改名するように命じます。彼はまだ一片の土地すらも自分の所有とはしておりませんでしたが、神はカナンの土地が永久にアブラハムとその子孫の所有地であると宣言し、約束のしるしとして一族の男子はすべて割礼を受けるように命じます。ここには割礼の習慣のないバビロンで創世記をまとめた編者の、民族と祖国の復興を信じる信仰が色濃く表われていると思われます。

 割礼の求めに続いて、神はイサクの誕生をアブラハムに予告します。

 アブラハムは、サラが子供を生むという神の言葉を笑いますが、神は1年後にはイサクが誕生し、それが神が契約を結ぶべきアブラハムの子孫であると宣言します。神の言葉を受け、アブラハムはその日のうちに一族の男子すべてに割礼を施します。(17章)

 イサクの誕生を予告した神は、旅人の姿をとって天幕を訪れ、アブラハムから手厚くもてなされます。その際にも、来年の今ごろサラに男の子が誕生すると予告しますがサラはそれを笑います。

 神の一行はアブラハムのもとを出立し、見送るアブラハムにソドムを滅ぼすことを示します。アブラハムは、ソドムに少しでも正しい者がいれば滅ぼさないで欲しいと懇願し、正しい者の数を50人、40人と減らしていき「10人の正しい者がいれば滅ぼさない」という神の約束を取り付けます。ここには、罪なき者には罪ある者を救う力があるという思想が表われており、神とアブラハムとの交渉は緊迫したドラマを展開します。(18章)

 ソドムの町に入った二人の御使いは、ロトの家に招き入れられます。夜中に町の男たちがロトの家に押しかけ、二人の御使いを引き渡すように迫りますが、御使いの目潰しによって難を逃れます。御使いから神がソドムを滅ぼすと聞かされたロトは、逃げることをためらいますが御使いに手を取られて妻と二人の娘と一緒に町の外へと連れ出されます。山へ逃げよという神の命に背いてロトはツォアルに逃げることを求めますが、やがて山の中の洞穴に移り住みます。山の中では結婚相手が見つからないことに悩んだ二人の娘は父親であるロトによって子を得ますが、こうした凄惨な結末はロトの自己中心性に原因があったと思われます。(19章)

 アブラハムはゲラルに移動し、そこでサラを妹と偽りますが、そのお陰でゲラルの王アビメレクによってサラが召し入れられます。アビメレクは夢に現われた神に「召し入れた女の故にお前は死ぬ。・・・直ちにあの人の妻を返しなさい。彼は予言者だから、あなたのために祈って命を救ってくれるだろう。・・・もし返さなかったら、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬ」と命じられ、翌朝、アブラハムを呼びつけます。アブラハムはアビメレクに弁明し、「サラは実際に妹でもあるのです」と苦しい言い訳をしますが、異教の王によって倫理的な過ちを糾弾されたのは屈辱的な経験だった筈です。一方、過ちを犯さなかった者(アビメレク)が、過ちの原因を与えた者(アブラハム)の祈りによって救われ、そのために祈りの報酬として多額の贈り物までしなければならなかったとは、真に不可思議で興味深いこと。アブラハムは欠点が多く、倫理的、信仰的に疑問を抱かざるを得ない人物です。彼自身に価値はなくとも、神の一方的な恩恵によって諸国民に生命を与える器として選ばれたといえるでしょう。(20章)

 主なる神が約束された時期にサラに男子が誕生し、イサクと名付けられました。イサクとは「笑い」という意味。イサク誕生の喜びの笑いであると同時に、神の約束に対するサラとアブラハムの不信の笑いをも意味するものでした。やがて、サラはハガルとイシュマエルを追放することを求めます。アブラハムは少しばかりの水と食料を持たせて二人を送り出しますが、間もなく水が尽き、ハガルはイシュマエルが死ぬことを覚悟します。しかし、神の御使いが現われて「わたしはかならずあの子を大きな国民とする」と言い、ハガルは水のある井戸を発見します。このように旧約の神はイサクを約束の子として選んだ「選び」の神でありますが、たとえ選びの外側にいる者に対しても恵み豊かな神であることを忘れてはなりません。(21章)

 神はアブラハムを試みようとして「イサクを燔祭の犠牲として献げよ」と命じます。アブラハムは、従者とイサクを連れてモリヤの地へと向かいますが、途中で「小羊はどこにいるのですか?」と尋ねるイサクに対して「神が備えて下さる。」と答えます。自分が焼き尽くされる薪を背負ってモリヤの地へと歩むイサクの姿は、十字架を背負ってゴルゴダの丘に向かうイエスの姿を彷彿とさせます。また、心に激しい痛みを抱えながらも愛子を献げようとしたアブラハムの信仰は、イエスを地上に送った時の父なる神の痛みになぞらえることができるかもしれません。

 正にイサクを屠ろうとした時、神はアブラハムを制止して、イサクの代わりとなる雄羊を示されます。これが、神がアブラハムに現われる最後の機会となり、アブラハムは主役の座をイサクに譲り、旧約の舞台からしずかに退場していくのです。(22章)

 サラは127年の生涯を全うしてヘブロンの地でなくなり、アブラハムは埋葬のために墓地を求めてヘト人たちと交渉します。そして、ヘト人エフロンのからマクペラの洞窟と畑を購入しますが、その代価は驚くほど高額なものでした。アブラハムは一切値切ろうともしないで、エフロンの言い値のとおりに代金を支払います。武力で占拠しようと思えばいくらでもできたであろうアブラハムが、このように平和的な手段で土地を購入したという点に、アブラハムの成熟した信仰と人柄を見ることが出来ます。(23章)

 

 それでは本日の箇所に入って行きたいと思います。

 

 1アブラハムは多くの日を重ね老人になり、主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになっていた。2アブラハムは家の全財産を任せている年寄りの僕に言った。

「手をわたしの腿の間に入れ、3天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、4わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように。」 

 5僕は尋ねた。

「もしかすると、その娘がわたしに従ってこの土地へ来たくないと言うかもしれません。その場合には、御子息をあなたの故郷にお連れしてよいでしょうか。」

 6アブラハムは答えた。「決して、息子をあちらへ行かせてはならない。

7天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる。8もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、お前は、わたしに対するこの誓いを解かれる。ただわたしの息子をあちらへ行かせることだけはしてはならない。」

 9そこで、僕は主人アブラハムの腿の間に手を入れ、このことを彼に誓った。10僕は主人のらくだの中から十頭を選び、主人から預かった高価な贈り物を多く携え、アラム・ナハライムのナホルの町に向かって出発した。

                        (24章1~10節)

 

 創世記24章は、イサクの結婚という、たった一つのテーマのために67節に及び長い物語を用意しています。アブラハムの約束の子孫の繁栄は、イサクの結婚とイサクの子の誕生によって、より確かなものになりますから、その意味においてイサクの結婚は創世記においても重要な出来事です。血生臭さい出来事や人間の悪を暴露するような記事の多い旧約聖書の中で、このイサクの結婚の物語は、喜びと明るさに満ちており、当時の人々が好んで語ったものであると思われます。 

 イサクが結婚したのは40歳の時でありました(25章20節)ので、子の時アブラハムは140歳、サラが亡くなってから3年後のことでした。

 今日の箇所を読み解くときに、解決しておかなければならない問題が幾つかありますが、その一つは、アブラハムが亡くなったのは何時だったのかということです。

 25章7~9節には次のように記されています。

 

 アブラハムの生涯は175年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。

 

 この記事を前提としますと、イサクの結婚の後、35年の余生を全うしたことになりますが、24章は、イサクの結婚の前後にアブラハムが亡くなったことを暗示しています。

 例えば、2節に「手をわたしの腿の間に入れ、天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。」と僕に誓いを求める箇所が出て参ります。ここで「腿」は生殖器の象徴的表現ですが、腿の間に手を入れて誓うことは、ヤコブがヨセフに遺言を残した時にも行っています。

 

 イスラエルは死ぬ日が近づいてきたとき、息子ヨセフを呼び寄せて言った。

「もし、お前がわたしの願いを聞いてくれるなら、お前の手をわたしの腿の間に入れ、わたしのために慈しみとまことをもって実行すると誓って欲しい。どうか、わたしをこのエジプトには葬らないでくれ。わたしが先祖たちと共に眠りについたなら、わたしをエジプトから運ぶ出して、先祖たちの墓に葬って欲しい。」(47章29~30節)

 

 腿の間に手を入れて誓うことが何を意味するのかは、はっきりしませんが、腿(生殖器)から出た全ての者にかけて誓うという意味だったのかもしれません。ヤコブの誓いが遺言を残す際に行われたことを考えると、遺言のような重要な誓いを行う際の方法だったとも考えられます。

 このようにアブラハムの死期が近いことを暗示する箇所が散見されますので、25章とは矛盾しますが、イサクの結婚の前後にアブラハムが亡くなったと推察されるのです。

 資料説の立場に立っても、24章はJ資料、25章7~9節はP資料で、出典が異なりますので、P資料(175歳死亡説)を前提にして24章(140歳死亡説)を解釈してよいのか疑問が生じる訳です。25章とは切り離して、24章の内容からアブラハムの死期が近いと判断して差し支えないと思います。

 さて、ここではアブラハムの死期が近いという前提に立って物語を読み進めて参ります。

 死期の迫ったことを自覚したアブラハムは、自分が亡くなった後のことを考えて身辺の整理を始め、約束の子イサクに妻を迎えることを計画します。当時の結婚は家と家との問題でもありましたので、出来ることならアブラハムが自ら嫁探しを行うべきだったのでしょうが、死期の迫る老人にはとても出来ることではなく、家の財産の一切を管理させている僕を遣いに出すことになります。この僕は、15章に名前が出されたエリエゼルの可能性があります。

 イサクの嫁となる女性には、アブラハムによって条件が付けられます。

 1)カナンの女性でなく、アブラハムの故郷から探さなければならない。

 2)イサクがアブラハムの故郷に行って結婚してはならない。 

 この二点のみを条件としますが、どんな女性であるかということについては何も語らず、ただ「その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れてくることが出来るようにして下さる。」と、神の摂理によって導かれることを述べただけでした。

 アブラハムの態度には、理解できる面と少々おかしな面がいりまじっております。

 カナンの人々とはなるべく有効的な態度で接していたことが、23章の記事からは窺われます。土地の人々との友好・融和を第一に考えれば、イサクの嫁はカナンの女性を迎え入れることが一番良い筈ですが、異郷の神々を礼拝するカナンの信仰が家に持ち込まれることを警戒して、カナンの女性を選ばなかったのです。この点は頷けます。

 しかし、では、アブラハムの故郷の人々はヤハウェを礼拝していたかといいますと、決してそういう訳ではありません。だからこそ、アブラハムは神の促しを受けるままに故郷を出発してあてのない旅に出た訳です。ヤハウェを礼拝していないという点では、カナンもメソポタミアも同じ条件ではあるものの、自分の一族の方が、まだ安心出来るという思いに駆られたのでしょうか。あるいは、22章20節にあるように、自分の兄弟ナホルの一族の消息を耳にして、故郷が懐かしくなったのでしょうか。

 カナンを約束の地として受け継ぎつつ、約束の子の嫁はカナンと同じく異郷の神々を礼拝している故郷から迎えなければならないというのは、矛盾をはらんだ願いのようにも思われます。

 こうしたアブラハムの指図を受け、僕は「娘がこの土地に来たくない時には、イサクをアブラハムの故郷に連れて行ってよいのか」とアブラハムに問いかけます。これは、アブラハムの死期が迫っているのを察して、アブラハムに万一のことがあった場合のことを確かめておこうとしたものと思われます。

 アブラハムは、「決して、息子をあちらに連れて行ってはいけない」と僕に答えておりますが、これは、約束の子であるイサクが繁栄するのは、約束の地カナンでなければならないという信仰があったからだと思われます。アブラハムの故郷は彼の青春の地でありましたが、それは信仰のスタートラインでもありました。そこから長い道程を経てここに至っているのに、イサクを振り出しに戻す訳には行かないという思いもあったことでしょう。

 このやり取りの中で、二人が嫁となる娘の気持ちを問題にしていることに気が付きます。今日の私たちにとっては、本人の気持ちを問題にするのは当り前のことですが、当時の結婚が家と家の関係であったことを考えると、本人の気持ちを考慮するという発想は、当時としては極めて珍しいものであったといえます。イサクとリベカの結婚はアブラハムが発案し、神の導きのうちに成就したかのように受け取られますが、実は、本人の主体的な決断によるものであることがここから窺われます。

 では、嫁にふさわしい娘がカナンに来ることを拒否した場合はどうするのでしょうか?この点については、アブラハムは何も言い残しませんでした。イサクが生涯独身であれば約束の子孫は繁栄しないことになりますので、結婚自体はしなければなりません。カナンの女性の中から、ヤハウェに対する信仰を持つ娘を探すということではいけないのでしょうか。アブラハムの故郷から、最もふさわしい訳ではないけれども、カナンの地に来てもよいという娘を連れて来るということではいけないのでしょうか。さまざまな選択肢があったことと思われますが、アブラハムはそうした可能性については一切言及してはおりません。

 当時の結婚が、一族内部行われていたことを考えると、一族外の女性との結婚は考え難いものでした。カナンの女性を選ばなかったということには、信仰の問題以外にも理由があったのです。アブラハムとしては、一族内の結婚であったとしても、イサクがメソポタミアの地に戻ることだけは阻止したいという思いが強く、それだけ、カナンが神によって与えられた約束の地であるという信仰に立っていたのだと思います。

 仮に僕の旅が不首尾に終わったとして、その場合には、誓いから解放されると述べて、アブラハムは僕を送り出します。

 僕が向かったのはアラム・ナハライムの「ナホルの町」でした。

 アラム・ナハライムとは、「2つの川の間のアラム」という意味で、「ナホルの町」とは、創世記27章43節によればミタンニ王国のハランということになります。僕は、らくだ10頭に高価な贈り物を携えて、このハランの地に向けて旅立ちます。アブラハムの住むヘブロンからハランまでは、徒歩で20日余りの距離でした。

 

 女たちが水くみに来る夕方、彼は、らくだを町外れの井戸の傍らに休ませて、祈った。

「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに慈しみを示してください。わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことによってわたしは、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう。」         (24章11~14節)

 

 ヘブロンからハランまでの旅の経緯は語られぬままに、場面はナホルの町に移ります。

 多分、僕はハランに向かう旅の途中でどうしたらイサクの妻となるにふさわしい女性を見つけることができるのか考えたに違いありません。アブラハムが指示した条件は余りにも大ざっぱで、ナホルの町に住む適齢の女性であれば誰でもよいという訳にはいきません。僕なりに知恵を働かせてイサクの妻となる女性の条件を考えた訳です。

 当時の結婚が家同士の婚姻契約によって成り立っていたことを考えると、僕が先ずなすべきことは、ナホル家に出向いて、アブラハムの息子イサクの嫁を探している旨を伝えて、一族の中から娘を紹介してくれるように頼むことだった筈。その上で、イサクにふさわしい娘かどうかを確かめるというのが常識的な嫁探しの方法であったと思われます。

 しかし、僕は、ナホルの家に行こうとはしません。縁戚関係から探すのではなく、娘の人柄から探し出そうとして神に祈ります。これは、家同士の婚姻契約という当時の常識からは外れた考え方であったと思われます。

 僕の祈りに示されたイサクの妻となるべき娘の条件は、

(1)優しい性格で、他人に親切であること

(2)行き届いた配慮ができること

の2つでした。

 疲れた旅人である自分に水をくれるかどうかで(1)を判断し、らくだにまで水を飲ませてくれるかどうかで(2)を判断しようというのです。これらの条件にはアブラハムとの縁戚関係や社会的な身分、経済的な豊かさなどが含まれておりません。容貌の美しさも条件には挙げられておりません。一方、自分やらくだのために大量の水が汲めるということで、娘の体力が相当なものであることが分かりますので、「気は優しくて力持ち」の女性を想定していたようです。

 こうした、いわば自分の理想の女性像を描いて、その成就を神に祈り求めていくというのは、勝手といえば勝手な祈りであるとも言えますが、アブラハムから具体的な指示を与えられないままに送り出されてしまったことを考えると、切羽詰まりながらも知恵を絞って考えた方法だったのでしょう。

 神はこの祈りに対して答えてくださいました。

 

 15僕がまだ祈り終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せてやって来た。彼女は、アブラハムの兄弟ナホルとその妻ミルカの息子ベトエルの娘で、16際立って美しく、男を知らない処女であった。彼女が泉に下りて行き、水がめに水を満たして上がって来ると、17僕は駆け寄り、彼女に向かい合って語りかけた。「水がめの水を少し飲ませてください。」18すると彼女は、「どうぞ、お飲みください」と答え、すぐに水がめを下ろして手に抱え、彼に飲ませた。19彼が飲み終わると、彼女は、「らくだにも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう」と言いながら、20すぐにかめの水を水槽に空け、また水をくみに井戸に走って行った。こうして、彼女はすべてのらくだに水をくんでやった。21その間、僕は主がこの旅の目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして、黙って彼女を見つめていた。

 

 何年祈り続けてもかなわぬ祈りもありますが、僕の祈りはたちどころにかなえられ、リベカが現われます。

 リベカは、僕の「水を飲ませてください」という願いを快く聞き届け、そればかりか彼のらくだにも水を汲んでくれました。

 水汲みは当時の女性の仕事であったそうですが、当時の井戸には今のようにポンプなどあろうはずもなく、また、つるべのような道具もありませんでしたので、井戸を広く掘って石段をつくり、下まで降りて行って汲んだのです。結構な重労働と言えるでしょう。

 苦労して運び上げた水をふるまう訳ですから、人によっては「自分で降りていって汲んだらどうかね?」と邪険な態度になる者もいた筈です。気持ち良く僕に水をふるまったリベカは、性格の優しい女性であることが分かります。

 更に、らくだにも水を汲んでやりましたが、これは優しいだけでは出来ることではありません。らくだが水を飲む時は、一度に50リットルも飲むそうですから、10頭分ですと、50×10=500リットルもの水を汲んだことになります。20リットル入る瓶で汲んだとしても、25回は往復しなければなりません。好んでこのようなことをする者はいないでしょう。

 こうした奉仕を当り前のように行うのですから、リベカは相当たくましい女性であったと思われます。リベカという名前は「雌牛」を意味するそうですので、雌牛のようにがっしりとした体格で大柄の女性だったのかもしれません。

 僕は、こうしたリベカの様子をじっと観察しておりました。

 

  22らくだが水を飲み終わると、彼は重さ一ベカの金の鼻輪一つと十シェケルの金の腕輪二つを取り出しながら、23「あなたは、どなたの娘さんですか。教えてください。お父さまの家にはわたしどもが泊めていただける場所があるでしょうか」と尋ねた。24すると彼女は、「わたしは、ナホルとその妻ミルカの子ベトエルの娘です」と答え、25更に続けて、「わたしどもの所にはわらも餌もたくさんあります。お泊まりになる場所もございます」と言った。

 26彼はひざまずいて主を伏し拝み、27「主人アブラハムの神、主はたたえられますように。主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」と祈った。

                       (24章22~27節)

 

 僕は、金の鼻輪と腕輪を出してリベカに付けてやりましたが、これは親切な奉仕へのお礼というばかりでなく、イサクの妻となる女性への贈り物という意味も込められておりました。

 ここで初めて僕は娘の素性を尋ねますが、リベカの答えから、彼女がアブラハムの縁者であることが分かり、僕の確信は更に深まっていきます。

 ここで、アブラハムの家系図から、リベカとアブラハム、イサクの関係を確かめておきましょう。

 この家系図上では、アブラハムから見てリベカは兄弟の孫娘ということになります。アブラハムから見て4親等、イサクからみて5親等の親族になりますので、縁戚関係ははっきりしています。

 アブラハムの指示は、故郷から嫁を探してこいという大ざっぱなものであり、僕の祈りも、人柄の良い、配慮の行き届いた娘であることを求めるだけの祈りでしたが、神が用意されたのは、これらの条件を満たすばかりでなく、見目麗しく気丈な娘リベカであったのです。

 余りにも出来すぎた物語ですが、約束の子孫をもたらすイサク結婚に神の導きが強く関わっていたということは、当時の人々にとってはごく自然なことであったに違いありません。

 

 28娘は走って行き、母の家の者に出来事を告げた。29リベカにはラバンという兄がいたが、ラバンはすぐに町の外れの泉の傍らにいるその人のところへ走った。30妹が着けている鼻輪と腕輪を見、妹リベカが、「その人がこう言いました」と話しているのを聞いたためである。彼が行ってみると、確かに泉のほとりのらくだのそばにその人が立っていた。31そこで、ラバンは言った。

「おいでください。主に祝福されたお方。なぜ、町の外に立っておられるのですか。わたしが、お泊まりになる部屋もらくだの休む場所も整えました。」32その人は家に来て、らくだの鞍をはずした。らくだにはわらと餌が与えられ、その人と従者たちには足を洗う水が運ばれた。

                       (24章28~32節)

 

 リベカが走って行ったのが父の家ではなく、母の家となっていることに注意してください。

 24章には、リベカの父ベトエルの名前は何度か登場しますけれども、ベトエルその人が登場する場面はありません。ベトエルの存在は極めて希薄であり、既に亡くなっていたのではないかとも想像されています。

 さて、リベカの報告を聞いた兄のラバンは、すぐさま町外れの泉に走って行き、僕に挨拶して自分の家に泊まるように勧めます。

 ラバンは、レアとラケルの父親としてヤコブの物語にも登場しますが、欲の深い、抜け目のない人物です。単純な好意から僕に宿泊を勧めたという以上の意味があったものと思われます。

 ここで、ラバンの挨拶の冒頭に「おいでください。主に祝福されたお方。」とありますが、「主に祝福されたお方」という呼びかけは、ラバンがヤハウェに対する信仰を持っていたことをそれとなく示しています。実はこれは奇妙なことです。そもそもアブラハムは、親族たちの行っている異教の神礼拝に違和感を覚え、ヤハウェの促しを受けて故郷から旅立った訳ですから。物語の書き手が、神がイサクの結婚の背後にいたことを強調したい余り、ラバンをも同信の者として描いてしまったのかもしれません。

 どちらかといえば欲深く、信仰深いとは言えないラバンでありましたが、旅人を迎える習慣はきちんと守り、僕を接待します。

 

 33やがて食事が前に並べられたが、その人は言った。「用件をお話しするまでは、食事をいただくわけにはまいりません。」「お話しください」とラバンが答えると、34その人は語り始めた。

 「わたしはアブラハムの僕でございます。35主がわたしの主人を大層祝福され、羊や牛の群れ、金銀、男女の奴隷、らくだやろばなどをお与えになったので、主人は裕福になりました。36奥様のサラは、年をとっていましたのに、わたしの主人との間に男の子を産みました。その子にわたしの主人は全財産をお譲りになったのです。

 37主人はわたしに誓いを立てさせ、『あなたはわたしの息子の嫁を、わたしが今住んでいるカナンの土地の娘から選び取るな。38わたしの父の家、わたしの親族のところへ行って、息子の嫁を連れて来るように』と命じました。39わたしが主人に、『もしかすると、相手の女がわたしに従って来たくないと言うかもしれません』と申しますと、40主人は、『わたしは今まで主の導きに従って歩んできた。主は御使いを遣わしてお前に伴わせ、旅の目的をかなえてくださる。お前は、わたしの親族、父の家から息子のために嫁を連れて来ることができよう。41そのとき初めて、お前はわたしに対する誓いを解かれる。またもし、わたしの親族のところに行っても、娘をもらえない場合には、お前はこの誓いを解かれる』と言いました。

 42こういうわけで、わたしは、今日、泉の傍らにやって来て、祈っておりました。

 『主人アブラハムの神、主よ。わたしがたどってきたこの旅の目的を、もしあなたが本当にかなえてくださるおつもりなら、43わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っていますから、どうか、おとめが水をくみにやって来るようになさってください。彼女に、あなたの水がめの水を少し飲ませてください、と頼んでみます。44どうぞお飲みください、らくだにも水をくんであげましょう、と彼女が答えましたなら、その娘こそ、主が主人の息子のためにお決めになった方であるといたします。』

 45わたしがまだ心に言い終わらないうちに、リベカさまが水がめを肩に載せて来られたではありませんか。そして、泉に下りて行き、水をおくみになりました。わたしが、『どうか、水を飲ませてください』と頼みますと、46リベカさまはすぐに水がめを肩から下ろして、『どうぞお飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えてくださいました。わたしも飲み、らくだも飲ませていただいたのです。47『あなたは、どなたの娘さんですか』とお尋ねしたところ、『ナホルとミルカの子ベトエルの娘です』と答えられましたので、わたしは鼻輪を鼻に、腕輪を腕に着けて差し上げたのです。48わたしはひざまずいて主を伏し拝み、主人アブラハムの神、主をほめたたえました。主は、主人の子息のために、ほかならぬ主人の一族のお嬢さまを迎えることができるように、わたしの旅路をまことをもって導いてくださいました。49あなたがたが、今、わたしの主人に慈しみとまことを示してくださるおつもりならば、そうおっしゃってください。そうでなければ、そうとおっしゃってください。それによって、わたしは進退を決めたいと存じます。」

                       (24章33~49節)

 

 当時の習慣として、旅人を接待する際には、旅人が飲食を済ませるまでは何処の誰であるかといった素性を尋ねることも話すこともなかったそうです。これは、敵対する部族の者であろうとも、旅人であれば接待することになっておりましたので、素性を聞いてからでは気持ちよく飲食することが難しくなったためであろうと思われます。

 しかし、ここで僕は、こうした常識を拒否して、先ずは用件を話させて欲しい、それが済むまでは飲食はしないと主張します。アブラハムの命に忠実であろうとする僕の実直な性格がここに表われています。

 そして、僕はことの経緯を話し始めますが、僕の話す長い物語はこれまでの事実の繰り返しであり、このように事実を積み重ねる中に神の導きを語っていくという手法は、当時のギルガメシュ叙事詩やホメロスの叙事詩にも見られ、初代教会の使徒たちの宣教も同じ様な手法で行われました。

 僕は、物語を語ることによって、リベカがイサクの妻となるべき娘であることを確信を持ってラバンたちに伝えますが、最後は礼儀にかなった言い回しで、判断をラバンたちに委ねて物語を締めくくります。

 

 50ラバンとベトエルは答えた。

「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。51リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください。」52アブラハムの僕はこの言葉を聞くと、地に伏して主を拝した。53そして、金銀の装身具や衣装を取り出してリベカに贈り、その兄と母にも高価な品物を贈った。54僕と従者たちは酒食のもてなしを受け、そこに泊まった。

 次の朝、皆が起きたとき、僕が、「主人のところへ帰らせてください」と言うと、55リベカの兄と母は、「娘をもうしばらく、十日ほど、わたしたちの手もとに置いて、それから行かせるようにしたいのです」と頼んだ。56しかし僕は言った。

 「わたしを、お引き止めにならないでください。この旅の目的をかなえさせてくださったのは主なのですから。わたしを帰らせてください。主人のところへ参ります。」

57「娘を呼んで、その口から聞いてみましょう」と彼らは言い、58リベカを呼んで、「お前はこの人と一緒に行きますか」と尋ねた。「はい、参ります」と彼女は答えた。

59彼らは妹であるリベカとその乳母、アブラハムの僕とその従者たちを一緒に出立させることにし、60リベカを祝福して言った。「わたしたちの妹よ/あなたが幾千万の民となるように。あなたの子孫が敵の門を勝ち取るように。」61リベカは、侍女たちと共に立ち上がり、らくだに乗り、その人の後ろに従った。僕はリベカを連れて行った。

 

 50節にベトエルが登場しますが、息子であるラバンの後に名前があって不自然です。順番としては、父→兄の順に名前が来るべきであり、「ベトエルとラバンは答えた」でなければなりません。また、53節で僕が「兄と母にも高価な品物を贈った。」とありますが、父であるベトエルは登場しません。これも不自然なことです。先ほども触れましたが、こうした点からも、ベトエルは既に亡くなっていたと想像されています。

 こうして既にベトエルが亡くなっていたためか、兄ラバンは、リベカの結婚について一族を代表して僕と交渉します。一夫多妻が一般的であった当時は、軽視されやすい娘の立場を直接の兄が代表することがあったそうで、ヌジで発掘された文書には、直接の兄には兄権とも言うべき強い権威が弟・妹に対して認められたと記されています。ラバンの立場の強さには、こうした背景があったものと思われます。

 ラバンは、一旦はリベカの結婚を承諾しますが、後で出発の延期を願い出ているところから見て、迷いがなかった訳ではなさそうです。それでも承諾したのは、僕の物語の持つ説得力におされ、また、裕福な親族のもとに嫁ぐのは、自分たちにとっても決して悪い話ではないといった思惑もあったからだと思われます。

 ラバンの承諾の返事を聞いて、僕は「地に伏して主を拝した。」とありますが、24章通じて僕の神礼拝の態度は次のように変ります。

 

 12節 → 祈った

 26節 → 彼はひざまずいて主を伏し拝み

 52節 → 地に伏して主を拝した。

 

 物語の進展に応じて僕の礼拝の仕方が次第に丁寧なものとなり、主なる神によって導かれていることが僕の態度の変化に表われています。

 一旦は了承が得られた筈のリベカの結婚でしたが、次の日、僕が「主人のところに帰らせてください。」と申し出たことから状況が変ります。

 ラバンとリベカの母(父は登場しない!)は、10日程度の猶予を願いますが、僕はそれを聞こうとはしません。ラバンたちの願いは当然のことですが、僕の心には、多分、老い衰えて死期の迫ったアブラハムの姿が浮かんでいたのだと思われます。リベカがイサクの妻となることが決まった以上は、一刻も早くアブラハムに報告しなければならないと思ったのでしょう。

 困惑したラバンたちは、リベカを呼んで意思を確かめます。

 これは、結婚を前提として、すぐに出発するかどうかを確かめたとも受け取れますが、結婚そのものの意思確認をしたとも読み取れる箇所です。リベカは即座に「はい、参ります。」と答えますが、自分の意思をはっきり表示し、自らの進むべき道を自らの決断で切り開こうとする点に、リベカの自立した人格が示されています。

 リベカとイサクの結婚は、神の導きによって成就したことではありましたが、個人の主体的決断が大きな役割を演じていることに注意しなければなりません。しかも、この場合には、女性の側の決断によって二人の結婚は成就し、約束の子孫の繁栄が現実のものとなるのです。こうしたリベカの性格は、やがて息子ヤコブにイサクの祝福を受けさせる場面にも表われてくると言えるでしょう。

 

 62イサクはネゲブ地方に住んでいた。そのころ、ベエル・ラハイ・ロイから帰ったところであった。63夕方暗くなるころ、野原を散策していた。目を上げて眺めると、らくだがやって来るのが見えた。64リベカも目を上げて眺め、イサクを見た。リベカはらくだから下り、65「野原を歩いて、わたしたちを迎えに来るあの人は誰ですか」と僕に尋ねた。「あの方がわたしの主人です」と僕が答えると、リベカはベールを取り出してかぶった。66僕は、自分が成し遂げたことをすべてイサクに報告した。67イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。彼はリベカを迎えて妻とした。イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。(24章62~67節)

 

 ベエル・ラハイ・ロイはベエル・シェバの近くにあり、後にイサクが好んで住むようになる場所です。ベエル・ラハイ・ロイの名前の由来については、16章に出て参りました。

 物語りの最初に登場したアブラハムは、物語りの最後には登場しません。僕が報告する相手は、自分を送り出したアブラハムであったはずですが、報告はイサクに対してなされています。こうした点からも、アブラハムは、リベカが到着する前に亡くなっていたと推察されます。

 さて、63節に、イサクが、野原を「散策していた」とありますが、原典のヘブライ語は「ラスアハ」で、正確な意味は良く分かっておりません。「散歩する」「瞑想する」「懇願する」などの意味があるそうですが、70人訳聖書は、この箇所を「物思いにふける」と訳しております。散策にせよ、瞑想にせよ、こうした様子がイサクの性格を物語っているように思われます。

 他の族長たちと比べるとイサクの出番は少なく、父祖アブラハムと辣腕家ヤコブの間にはさまれた陰の薄い存在であると言えます。イサクの誕生から少年時代について描かれた21~22章の中心はアブラハムであり、23章には全く登場しません。この24章も最後の数節にそっと登場するだけで、物語の中心を、僕とリベカに譲っています。さらに、次の25章には早くもエサウとヤコブの兄弟が登場し、27章では既に老いを迎えて目のかすむ老人の姿をさらしています。妻の数も、複数の妻を持ったアブラハムやヤコブとは違い、リベカを唯一の妻として生涯愛し続けます。イサクの生涯は180年であり、アブラハム以上の長命を保ったことになっておりますが、エピソードには乏しい、大人しい人物であったようです。

 こうしたイサクの性格を考えると「散策」は実に似つかわしい行為であったと思われます。あれやこれやを瞑想しながら、ぼんやりと野原を歩くのがイサクにとっては最も楽しい一時であったのでしょう。

 そんなイサクの目の前に、遠きハランの地から美しくたくましいリベカが現われたのです。そして、ここでもリベカが場面をリードしていきます。自分から進んでらくだを降り、僕に尋ね、ベールをかぶります。他人から命じられることなく、自分の判断でことを進めて行くリベカの積極性がここにも現われていると言えるでしょう。

 一方、イサクについては、その意思がどうであったのかは全くと言ってよいほど書かれておりません。神の導きを素直に受け入れ、リベカを迎えて妻としたとあるのみです。章の最後に「リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た」とありますので、老齢のサラの愛情を一身に受けて育った、いわゆる「お母さん子」だったのかもしれません。

 こうした大人しく思索的なイサクと、たくましく積極的なリベカの性格の違いは、やがてヤコブとエサウの物語においても重要な要素として現われて行くのです。

 

 

<今回の参考書>「創世記」(関根正雄訳 岩波文庫)/「創世記」(月本昭男訳 岩波書店)/「創世記講義」(政池仁著 聖書の日本社)/「現代聖書注解 創世記」(ブルッグマン著 日本基督教団出版局)/「ケンブリッジ旧約聖書注解 創世記」(デヴィッドソン著 新教出版社)/「新聖書注解 旧約Ⅰ」(いのちのことば社)//「旧約時代の日常生活」(ショラキ著 山本書店)