旧約聖書の旅「創世記」第20回「祝福をだまし取る者」(小山哲司)

「祝福をだまし取る者」 旧約聖書の旅20

1999.10.24 小山 哲司

 前回のレポートでは創世記26章を取り上げて、ゲラル滞在中にイサクの犯した過ちについて、そして、イサクの掘った井戸を巡る争いについて学びました。本日は27章を取り上げますが、その前にこれまで学んできたことを振り返っておきたいと思います。

 アブラムは、神の祝福の言葉によってカルデアのウルを、そしてハランの地を後にしました。神は、アブラムの子孫が繁栄して約束の地を受け継ぐのだと語りかけます。

 ところが、飢饉を避けて下って行ったエジプトで、妻サライはファラオの宮廷に召し入れられてしまいました。神の介入によってサライを取り戻したアブラムは、エジプトからカナンの地へと戻ります。(創世記12章)

 ベテルとアイの間の所までやってくると、アブラムとロトの牧童たちの間に遊牧地を巡る争いが持ち上がってきます。アブラムは、土地を選択する権利をロトに譲ってしまいます。(13章)

 その後、東方の王たちがカナンを侵略し、ソドムの王たちを撃破してロトを奪い去りますが、アブラムの追撃に破れます。アブラムは、ここでは雄々しい戦闘指揮官として描かれています。(14章)

 これらのことの後、幻の中で「恐れるな、あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」という主の言葉がアブラムに臨みます。

 しかし、アブラムは「家の僕が跡を継ぐことになっています。」と抗議をします。主なる神は、「あなたから生まれるものが跡を継ぐ。」と具体的な回答を与え、アブラムは満天の星を見つめながら自分自身の子供が誕生して子孫が増えることを信じます。

 その後、主なる神はアブラムに牝牛と牝山羊と牡羊と山鳩とを半分に引き裂き、向かい合わせに置くように命じます。番をするうちにアブラムは深い眠りに陥りますが、夢(幻)の中で神は、アブラムの子孫の行く末について語ります。やがて、辺りが闇に包まれた頃、煙をはいた炉と燃えた松明が引き裂かれた動物の間を通ります。これは神がアブラムと契約を結ばれたしるしでした。(15章)

 こうして繰り返し臨む神の約束の言葉にも関わらず、一向に懐妊する兆しのないサライは、女奴隷ハガルによって母となろうと企てます。

 これは、当時行われていた習慣に乗っ取ったことでしたが、アブラムとサライ、そしてハガルの間に亀裂が走ります。

 身ごもったハガルは、サライの仕打ちに耐え兼ねて、また、子供を自分自身の子としたいと願って逃亡しますが、御使いの姿をとられた主にサライのもとに戻るように示され、やがて誕生する子供が繁栄するという約束を受けます。(16章)

 ハガルがイシュマエルを産んでから13年後に、主は再びアブラハムに現われます。この時、アブラハムは99歳になっておりました。

 主は、アブラムの子孫を繁栄させ、土地を所有させるという契約を繰り返し、アブラハムと改名するように命じます。彼はまだ一片の土地すらも自分の所有とはしておりませんでしたが、神はカナンの土地が永久にアブラハムとその子孫の所有地であると宣言し、約束のしるしとして一族の男子はすべて割礼を受けるように命じます。

 割礼の求めに続いて、神はイサクの誕生をアブラハムに予告します。

 アブラハムは、サラが子供を生むという神の言葉を笑いますが、神は1年後にはイサクが誕生し、それが神が契約を結ぶべきアブラハムの子孫であると宣言します。神の言葉を受け、アブラハムはその日のうちに一族の男子すべてに割礼を施します。(17章)

 イサクの誕生を予告した神は、旅人の姿をとって天幕を訪れ、アブラハムから手厚くもてなされます。その際にも、来年の今ごろサラに男の子が誕生すると予告しますがサラはそれを笑います。

 神の一行はアブラハムのもとを出立し、見送るアブラハムにソドムを滅ぼすことを示します。アブラハムは、ソドムに少しでも正しい者がいれば滅ぼさないで欲しいと懇願し、正しい者の数を50人、40人と減らしていき「10人の正しい者がいれば滅ぼさない」という神の約束を取り付けます。ここには、罪なき者には罪ある者を救う力があるという思想が表われており、神とアブラハムとの交渉は緊迫したドラマを展開します。(18章)

 ソドムの町に入った二人の御使いは、ロトの家に招き入れられます。夜中に町の男たちが二人の御使いを引き渡すように迫りますが、御使いの目潰しによって難を逃れます。御使いから神がソドムを滅ぼすと聞かされたロトは、御使いに手を取られて妻と二人の娘と一緒に町の外へと連れ出されます。山へ逃げよという神の命に背いてロトはツォアルに逃げ、やがて山の中の洞穴に移り住みます。山の中では結婚相手が見つからないことに悩んだ二人の娘は父親であるロトによって子を得ます。(19章)

 アブラハムはゲラルに移動し、そこでサラを妹と偽りますが、そのお陰でゲラルの王アビメレクによってサラが召し入れられます。アビメレクは夢に現われた神に「召し入れた女の故にお前は死ぬ。・・・直ちにあの人の妻を返しなさい。彼は予言者だから、あなたのために祈って命を救ってくれるだろう。・・・もし返さなかったら、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬ」と命じられ、翌朝、アブラハムを呼びつけます。アブラハムはアビメレクに弁明し、「サラは実際に妹でもあるのです」と苦しい言い訳をしますが、異教の王によって倫理的な過ちを糾弾されたのは屈辱的な経験だった筈です。一方、過ちを犯さなかった者(アビメレク)が、過ちの原因を与えた者(アブラハム)の祈りによって救われ、そのために祈りの報酬として多額の贈り物までしなければならなかったとは、真に不可思議で興味深いこと。アブラハムは欠点が多く、倫理的、信仰的に疑問を抱かざるを得ない人物です。彼自身に価値はなくとも、神の一方的な恩恵によって諸国民に生命を与える器として選ばれたといえるでしょう。(20章)

 主なる神が約束された時期にサラに男子が誕生し、イサクと名付けられました。イサクとは「笑い」という意味。イサク誕生の喜びの笑いであると同時に、神の約束に対するサラとアブラハムの不信の笑いをも意味するものでした。やがて、サラはハガルとイシュマエルを追放することを求めます。アブラハムは少しばかりの水と食料を持たせて二人を送り出しますが、間もなく水が尽き、ハガルはイシュマエルが死ぬことを覚悟します。しかし、神の御使いが現われて「わたしはかならずあの子を大きな国民とする」と言い、ハガルは水のある井戸を発見します。このように旧約の神はイサクを約束の子として選んだ「選び」の神でありますが、たとえ選びの外側にいる者に対しても恵み豊かな神であることを忘れてはなりません。(21章)

 神はアブラハムを試みようとして「イサクを燔祭の犠牲として献げよ」と命じます。アブラハムは、従者とイサクを連れてモリヤの地へと向かいますが、途中で「小羊はどこにいるのですか?」と尋ねるイサクに対して「神が備えて下さる。」と答えます。自分が焼き尽くされる薪を背負ってモリヤの地へと歩むイサクの姿は、十字架を背負ってゴルゴダの丘に向かうイエスの姿を彷彿とさせます。また、心に激しい痛みを抱えながらも愛子を献げようとしたアブラハムの信仰は、イエスを地上に送った時の父なる神の痛みになぞらえることができるかもしれません。

 正にイサクを屠ろうとした時、神はアブラハムを制止して、イサクの代わりとなる雄羊を示されます。これが、神がアブラハムに現われる最後の機会となり、アブラハムは主役の座をイサクに譲り、旧約の舞台からしずかに退場していくのです。(22章)

 サラは127年の生涯を全うしてヘブロンの地でなくなり、アブラハムは埋葬のために墓地を求めてヘト人たちと交渉します。そして、ヘト人エフロンのからマクペラの洞窟と畑を購入しますが、その代価は驚くほど高額なものでした。アブラハムは一切値切ろうともしないで、エフロンの言い値のとおりに代金を支払います。武力で占拠しようと思えばいくらでもできたであろうアブラハムが、このように平和的な手段で土地を購入したという点に、アブラハムの成熟した信仰と人柄を見ることが出来ます。(23章)

 アブラハムは、イサクに妻を迎えようと僕をナホルの町に遣わします。僕は、ナホルの町外れの井戸で親切な娘リベカと出会い、彼女がイサクの妻となるべき女性であると確信します。リベカは、僕の申し出を受け入れてイサクの妻となる決心を固め、カナンへと旅立ちますが、ここには、自立した女性としてのリベカの姿が表われています。(24章)

 アブラハムにはケトラを通しても多くの子孫が誕生しましたが、その子孫の名前は周辺種族の名前と一致し、また、ハガルから誕生したイシュマエルの子孫の名前も周辺種族の名前と一致します。これは、イスラエルと周辺の種族との関係の深さを示すものであると思われます。一方、イサクを通して誕生したエサウとヤコブの兄弟には行動派対思索派、大胆な人対慎重な人といった性格の違いがあり、ヤコブは、エサウの長子権を一杯のレンズ豆の煮物と引き換えに奪ってしまいます。(25章)

 飢饉を避けるためエジプトに下ろうとしたイサクに神の言葉が臨み、イサクはゲラルに滞在します。この時、主がアブラハムと結ばれた契約がイサクと更新されました。イサクはリベカを自分の妹だと偽りますが、王アビメレクに二人が夫婦であることを気付かれてしまいます。富み栄えたイサクはアビメレクによって追い出され、ゲラルの谷に移動しますが、そこでは井戸を巡る争いが生じます。争うことなく次々に井戸を掘り当てるイサクのもとをアビメレクが訪れ、二人は契約を結びます。(26章)

 

 それでは本日の箇所に入って行きたいと思います。

 

 34エサウは、40歳のときヘト人ベエリの娘ユディトとヘト人エロンの娘バセマトを妻として迎えた。35彼女たちは、イサクとリベカにとって悩みの種となった。

 1イサクは年をとり、目がかすんで見えなくなってきた。そこで上の息子のエサウを呼び寄せて、「息子よ」と言った。エサウが、「はい」と答えると、2イサクは言った。「こんなに年をとったので、わたしはいつ死ぬか分からない。3今すぐに、弓と矢筒など、狩りの道具を持って野に行き、獲物を取って来て、4わたしの好きなおいしい料理を作り、ここへ持って来てほしい。死ぬ前にそれを食べて、わたし自身の祝福をお前に与えたい。」

               (26章34~35節 27章1~4節)

 

 26章の34~35節はその章全体の物語の流れとは切り離され、27章で起こる物語の舞台を設定する役目を果たしています。26章の中心はJ資料であるのに対し、34~35節のみがP資料とされていることも、こうした解釈の余地を与えてくれます。

 エサウは、父イサクが同族の女性リベカと結婚したのとは反対に、ヘト人の女性と結婚します。ここには、エサウが部族の慣習を無視したという暗示が込められていると思われます。やがて、長子権を奪ったヤコブが同族の娘であるラケル、レアと結婚することを考えれば、エサウの結婚がこの家系においては異質なものであったことが分かります。

 エサウの結婚は、この家庭で続く不幸の先駆けとなるものであり、ここからは、エサウの結婚を未然に防ぐ力のなかったイサクの弱さを読み取ることが出来ます。また、エサウを嫌い、ヤコブを偏愛していたリベカの思いがエサウの結婚で決定的なものとなり、ヤコブを跡継ぎに昇格させようと機会を窺い始めたということも想像がつきます。

 リベカとヘト人の娘との関係について更に想像を逞しくすれば、二人のヘト人の女性がリベカを困らせたこと以上に、彼女たち自身もリベカから辛い仕打ちを受けたのだろうと思われます。

 エサウの結婚に関して鈴木佳秀氏は、当時の社会状況を前提として次のように解釈しています。

「エサウは狩猟民の父祖となり、ヤコブは半定住の小家畜飼育者あるいは小家畜飼育を伴う定住農耕民の父祖となる。この対象的な二人への言及は、カインとアベルの兄弟を想起させる。

 長子の権利をおろそかにするエサウでなく、長子の特権に執着するヤコブをリベカが愛したことは、単にその穏やかな性格が理由であったというより、ヤコブには小家畜飼育者としての天幕共同体を守ろうとする姿勢があったことと関連する。

 当時の家庭内での女性の役割や生き方を、ヤハウィスト(筆者注-J資料の編者たち)はリベカに代表させて語っている。リベカがエサウよりもヤコブを愛したという事実には、遊牧民の生活形態から安定した定住生活への移行を願う女性の思いが反映しているのであろうか。エサウについての描き方は男性的であるが、狩猟の成否に依存しつつ生きる生き方である。彼には定住農耕を軽視する姿勢が認められる。エサウが長子の特権を軽視したのは、土地の相続に対する狩猟民の関心の欠如を物語るからである。」

   (「旧約聖書の女性たち」教文館 P124~125)

 鈴木氏は、エサウには土地の相続に対する関心が欠けていたため、ヘト人の女性との結婚について家父長同士の契約を結ぶ必要を感じず、それが聖書の文言にも表われてこないとしています。エサウは主なる神への信仰や両親の意向には関心を払わず、たまたま自分が好きになった娘と結婚したのです。父イサクが、主なる神に対する信仰に立って自分の同族の娘と結婚したことを思うと、エサウには、アブラハム、イサクと受け継がれてきた主の約束を受け継ぐ立場にはないことが窺われます。それにも関わらず、イサクがエサウに長子としての祝福を与えようとする場面から本日の物語は始まります。

 イサクがエサウを呼び、「お前に祝福を与える」と語ったのは臨終の床においてであったと思われます。目がかすんできた点に年老いたイサクの衰えが端的に表われており、死ぬ前に自分の祝福をエサウに与えておきたいと思ったのです。

 ここで、イサクの年齢に関して問題が生じます。創世記35章にはイサクの死について述べた箇所がありますが、そこではイサクは180歳で死んだことになっています。

 

 ヤコブは、キルヤト・アルバ、すなわちヘブロンのマムレにいる父イサクの所へ行った。そこには、イサクだけでなく、アブラハムも滞在していた所である。イサクの生涯は180歳であった。イサクは息を引き取り、高齢のうちに満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。息子のエサウとヤコブが彼を葬った。(35章27~29節)

 

 35章の記述を前提としますと、27章でイサクが臨終の床に就いていたとは理解できません。体が衰えて目がかすみ、死を意識していた老人が、一度は臨終を迎えながらも数十年も生き存えるのでしょうか?24章でアブラハムの年齢を取り上げた際と同じ問題がここにあります。

 多分、イサクは180歳まで生きたという伝承が先にあり、それをそのまま35章に盛り込んだために、臨終を迎えた老人が数十年も生き続けるという矛盾が生じたのだと思われます。現代に生きる我々はこうした計算上の矛盾に敏感ですが、当時の人々の数に対する感覚は今日の我々ほどは厳密でなかったものと思われます。35章の27~29節はP資料とされますが、年代を表記することに熱心なP資料の編者たちは、表記することには熱心であっても、表記した年代・年齢と物語との関係については鈍感であったようです。35章の記述に関わらず、イサクは祝福を与えて間もなく亡くなったと理解するべきでしょう。

 こうして臨終の床に就いたイサクは、エサウに長子としての祝福を与えようと決心しますが、ここにエサウに対するイサクの偏愛が表われています。

最初に書きましたように、エサウは主なる神への信仰や、両親の意向を考慮することなくヘト人の娘と結婚してしまったのです。約束を受け継ぐ長子としての資格が問われても当然の筈。それを問うことなくエサウを祝福すべき相手としたところにイサクの信仰の弱さがあります。

 イサクの弱さといえば、何故その場でエサウに祝福を与えなかったのでしょうか?その場で、直ちに祝福を与えてしまえばヤコブによって祝福を奪い取られることもありませんでした。食事にこだわったがためにヤコブの付け入る隙を与えてしまったのです。一杯のレンズ豆の煮物で長子権を譲ってしまったエサウといい、食事にこだわったためにヤコブを祝福する羽目になったイサクといい、この父子は食べ物に対する執着という点で良く似ています。イサク-エサウとリベカ-ヤコブは、それぞれに似たタイプの人間の組み合わせであるともいえます。

 イサクの弱さは、信仰や欲望(食欲)の面ばかりではありませんでした。25章では、主からリベカに「兄が弟に仕えるようになる」という預言が臨みました。また、エサウは一杯のレンズ豆の煮物と引き換えに長子の権利をヤコブに譲ってしまいましたが、こうしたことをイサクが知っていたと暗示する部分はありません。多分、知らなかったのです。そうだとすれば、家族内の重要な出来事を察知するだけの器量に欠けた人物であったと言わざるを得ません。彼が欠けていたところを補って家庭を切り盛りしていたのがリベカであったと考えると、この夫婦の関係、親子の関係が見えて参ります。

 さて、イサクは、エサウを呼びますが、ヤコブを同席させないのはどうしてでしょうか?死ぬ前に祝福を与える相手は、長子のみとは限りません。

 ヤコブ自身は、死ぬ前に子どもたちを一同に集めて次のように語ります。

 

 ヤコブは息子たちを呼び寄せて言った。

「集まりなさい。わたしは後の日にお前たちに起こることを語っておきたい。ヤコブの息子たちよ、集まって耳を傾けよ。お前たちの父イスラエルに耳を傾けよ。(以下略)」

 

 これらはすべて、イスラエルの部族で、その数は十二である。これらは彼らの父が語り、祝福した言葉である。父は彼らを、おのおのにふさわしい祝福をもって祝福したのである。(49章1~2節  28節)

 

 ヤコブはヨセフを愛していましたが、ヨセフのみを祝福した訳ではありません。ヤコブの祝福は長子のルベンから始まり、シメオン、レビ、ユダと続き、ヨセフ、ベニヤミンに至ります。ヨセフへの祝福は他の兄たちに勝る内容でしたが、ヨセフのみを祝福の対象としなかった点に注意しなければなりません。それぞれの息子に対して「ふさわしい祝福をもって祝福した」のです。

 ヤコブが息子全員を祝福したことと比べることで、エサウのみに祝福を与えようとした点に、イサクのエサウに対する偏愛を見ることが出来ます。

 イサクのエサウに対する偏愛と、リベカのヤコブに対する偏愛の衝突が、この家族の抱える問題を大きく膨らませていきます。

 

 5リベカは、イサクが息子のエサウに話しているのを聞いていた。エサウが獲物を取りに野に行くと、6リベカは息子のヤコブに言った。

「今、お父さんが兄さんのエサウにこう言っているのを耳にしました。7『獲物を取って来て、あのおいしい料理を作ってほしい。わたしは死ぬ前にそれを食べて、主の御前でお前を祝福したい』と。8わたしの子よ。今、わたしが言うことをよく聞いてそのとおりにしなさい。9家畜の群れのところへ行って、よく肥えた子山羊を二匹取って来なさい。わたしが、それでお父さんの好きなおいしい料理を作りますから、10それをお父さんのところへ持って行きなさい。お父さんは召し上がって、亡くなる前にお前を祝福してくださるでしょう。」

 11しかし、ヤコブは母リベカに言った。「でも、エサウ兄さんはとても毛深いのに、わたしの肌は滑らかです。12お父さんがわたしに触れば、だましているのが分かります。そうしたら、わたしは祝福どころか、反対に呪いを受けてしまいます。」

 13母は言った。「わたしの子よ。そのときにはお母さんがその呪いを引き受けます。ただ、わたしの言うとおりに、行って取って来なさい。」

 14ヤコブは取りに行き、母のところに持って来たので、母は父の好きなおいしい料理を作った。15リベカは、家にしまっておいた上の息子エサウの晴れ着を取り出して、下の息子ヤコブに着せ、16子山羊の毛皮を彼の腕や滑らかな首に巻きつけて、17自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブに渡した。

 

 私は、第17回のレポートの最後に「大人しく思索的なイサクと、たくましく積極的なリベカの性格の違いは、やがてヤコブとエサウの物語においても重要な要素として現われて行くのです。」と述べました。結婚する前は「たくましく積極的な娘」であったリベカは、数十年の結婚生活の後に、小賢しい策略を弄するかなりのワルに変わっていったものと思われます。ヤコブの狡猾さが何処に由来するかといえば、リベカを置いて他にはありません。

 リベカは、イサクがエサウに祝福を与えると約束する言葉を耳にしましたが、これは、臨終の床にいる夫の介護をしていたからだと思われます。目がかすむとはいえ、イサクはリベカが自分の傍にいることを承知していた筈です。それにも関わらず、エサウを呼んで祝福すると語ったイサクには、リベカに対する警戒心はありません。ここからも、リベカが「兄が弟に仕える」という主の預言をイサクには語らなかったこと、ヤコブがエサウから長子権を譲り受けたことをイサクが知らないでいたことが窺われます。

 何も事情を知らないイサクは、エサウに対する愛情を公然と示しました。それに対して、リベカがヤコブに対する偏愛を公にすれば様々な疑念がイサクとエサウの心に湧き上がります。得ることがない一方、疑念と警戒心だけが膨らんでいくこと、それは、決して自分とヤコブにとって益とならないと承知して、リベカはじっと黙り続けていたのです。また、ヤコブに対しても、レンズ豆の煮物と引き換えに彼が手にした長子権について、うっかり漏らさないようにと念を押していたに違いありません。長い年月に渡って自分の思いを胸に秘め、夫や長男にすら気取られなかったリベカは、相当手強い女性であったと思われます。

 この手強い女性は、狡猾なヤコブをもリードしてイサクの祝福を奪うために策を企てます。

 彼女はヤコブの飼育している子山羊を取ってくるように命じますが、子山羊をもとにしてエサウが野の獲物で作る料理を真似して作ろうというのです。妻として、夫の好みを知り尽くしていることを利用して騙そうというのですから、これは悪質です。

 むしろ、母の提案を聞いたヤコブのほうが事態を慎重に受け止めています。ヤコブは、兄のエサウと自分の肌の感触が違うことを挙げて、父イサクが嘘を見破り、自分は反対に呪を受けるだろうと警戒しますが、リベカは「そのときにはお母さんが呪を引き受けます」とまで言って、ヤコブに策略の実行を迫ります。

 ヤコブの言い出した肌の感触の違いについては、子山羊の毛皮を腕や首に巻き、エサウの晴れ着を着せることによって手当をしました。イサクに残された味覚、触角、臭覚の何れの点でも嘘がばれないように注意しながら準備を進め、丹念に味を調えた料理を渡してヤコブを送り出したのです。

 

 18ヤコブは、父のもとへ行き、「わたしのお父さん」と呼びかけた。父が、「ここにいる。わたしの子よ。誰だ、お前は」と尋ねると、19ヤコブは言った。「長男のエサウです。お父さんの言われたとおりにしてきました。さあ、どうぞ起きて、座ってわたしの獲物を召し上がり、お父さん自身の祝福をわたしに与えてください。」20「わたしの子よ、どうしてまた、こんなに早くしとめられたのか」と、イサクが息子に尋ねると、ヤコブは答えた。「あなたの神、主がわたしのために計らってくださったからです。」21イサクはヤコブに言った。「近寄りなさい。わたしの子に触って、本当にお前が息子のエサウかどうか、確かめたい。」

 22ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼に触りながら言った。「声はヤコブの声だが、腕はエサウの腕だ。」23イサクは、ヤコブの腕が兄エサウの腕のように毛深くなっていたので、見破ることができなかった。そこで、彼は祝福しようとして、24言った。「お前は本当にわたしの子エサウなのだな。」ヤコブは、「もちろんです」と答えた。25イサクは言った。「では、お前の獲物をここへ持って来なさい。それを食べて、わたし自身の祝福をお前に与えよう。」ヤコブが料理を差し出すと、イサクは食べ、ぶどう酒をつぐと、それを飲んだ。26それから、父イサクは彼に言った。「わたしの子よ、近寄ってわたしに口づけをしなさい。」27ヤコブが近寄って口づけをすると、イサクは、ヤコブの着物の匂いをかいで、祝福して言った。

「ああ、わたしの子の香りは

 主が祝福された野の香りのようだ。

 28どうか、神が

 天の露と地の産み出す豊かなもの

 穀物とぶどう酒を

 お前に与えてくださるように。

 29多くの民がお前に仕え

 多くの国民がお前にひれ伏す。

 お前は兄弟たちの主人となり

 母の子らもお前にひれ伏す。

 お前を呪う者は呪われ

 お前を祝福する者は

 祝福されるように。」

                        

 最初の一歩を踏み出すまではリベカにリードされていたヤコブですが、一旦イサクの天幕に入ったあとは、彼の詐欺師としての本性が現われます。

 「誰だ、お前は」と言った時点で、イサクはエサウの声ではないと気付いていた筈。エサウの声色を真似たヤコブの声が、ヤコブともエサウともつかない不自然な響きだったためです。母親にけしかけられただけであれば、「次男のヤコブです。」と名乗るか、緊張の余り料理の器を落としてしまうでしょう。

 しかし、ヤコブは「長男のエサウです。お父さんの言われたとおりにしてきました。」「お父さん自身の祝福を私に与えてください。」と言い、自ら質の悪い策略に足を踏み入れていきます。ここから先のヤコブは、リベカの操り人形ではありません。

 イサクは、ヤコブの説明を聞いても納得せず、「何故早くしとめられたのか」と畳み掛けます。いくら腕利きの猟師だとしても、出かけてから料理を持ってくるまで余りにも早すぎると疑問を抱いたのです。ヤコブは「あなたの神、主がわたしのために計らって下さったからです。」と主の名を持ち出して嘘を重ねます。このやくざな詐欺師は、盲目の父親を騙すことも何とも思わず、自分の利益のためには主の名ですらも利用するのです。

 主なる神を出しての説明にも納得せず、イサクは触って確かめることを求めます。しかし、ヤコブが毛皮を巻き付けているので見破ることができず、再度、「お前は本当にわたしの子エサウだな」と念を押します。

 もし、幾らかでも良心のかけらが残っていれば、度重なる疑問と確認の前に本当のことを話さざるを得ないでしょうが、ヤコブは最後まで嘘を通してイサクの祝福を受けます。ヤコブのやり口を考えるならば、祝福を受けるというよりは、祝福を奪い取ると表現した方が適切です。「もちろんです」と答えたヤコブの心には、長子としての祝福を受けてイサクの持つ財産を受け継ぎ、将来の繁栄をも確保したいという思いしか読み取れません。兄エサウがどれだけ怒り悲しむか、そして、真実を知った後に父親がどれだけ苦しむかといったことはどうでも良いこと。自分の利益だけをなりふり構わぬやり方で確保できれば、他のことはどうでも良かったのです。

 イサクは、口づけの際に嗅いだ晴れ着の匂いで口づけの相手がエサウだと確信し、エサウに与えるべき祝福をヤコブに与えますが、その祝福は、これまでに登場した祝福とは若干異なるものでした。

 ヤコブに与えられた祝福は大きく3つの部分に分かれます。

 第一の部分は、「どうか、神が/天の露と地の産み出す豊かなもの/穀物とぶどう酒を/お前に与えてくださるように。」です。カナン地方は木が少なく、土地と空気が直接接しているので、土地は昼間非常に暖かくなり、夜は急激に冷えます。それで空中の水分が多量に凝結するので、雨が降らないで枯死しそうになった植物などは、この露によって生気を取り戻すのだそうです。これは豊かな実りをもたらす条件といえるでしょう。そこでとれた穀物とぶどう酒は、食べ物と飲み物を代表しています。これらは、土地の授与を前提として物質的繁栄を願うものだといえます。

 第二の部分は、「多くの民がお前に仕え/多くの国民がお前にひれ伏す。

/お前は兄弟たちの主人となり/母の子らもお前にひれ伏す。」です。ここで使われている「ひれ伏す」には、人と人との関係のみが含まれ、礼拝の意味はありません。政治的な祝福であると考えられます。25章23節後半の「一つの民が他の民より強くなり/兄が弟に仕えるようになる」というリベカに臨んだ主の預言の内容を、イサクが自分の祝福の言葉の中で追認したものと言えるでしょう。

 第三の部分は、「お前を呪う者は呪われ/お前を祝福する者は/祝福されるように。」です。これは12章3節の神がアブラハムに与えた祝福の言葉を繰り返すものですが、この箇所には「地上のすべての民族は、あなたによって祝福に入る」という言葉が欠けており、第二の部分とも併せて考えると、天的な祝福というよりは、地上的な繁栄を願う祝福としての色彩が強くなっています。

 

 30イサクがヤコブを祝福し終えて、ヤコブが父イサクの前から立ち去るとすぐ、兄エサウが狩りから帰って来た。31彼もおいしい料理を作り、父のところへ持って来て言った。「わたしのお父さん。起きて、息子の獲物を食べてください。そして、あなた自身の祝福をわたしに与えてください。」32父イサクが、「お前は誰なのか」と聞くと、「わたしです。あなたの息子、長男のエサウです」と答えが返ってきた。33イサクは激しく体を震わせて言った。「では、あれは、一体誰だったのだ。さっき獲物を取ってわたしのところに持って来たのは。実は、お前が来る前にわたしはみんな食べて、彼を祝福してしまった。だから、彼が祝福されたものになっている。」

 34エサウはこの父の言葉を聞くと、悲痛な叫びをあげて激しく泣き、父に向かって言った。「わたしのお父さん。わたしも、このわたしも祝福してください。」35イサクは言った。「お前の弟が来て策略を使い、お前の祝福を奪ってしまった。」36エサウは叫んだ。「彼をヤコブとは、よくも名付けたものだ。これで二度も、わたしの足を引っ張り(アーカブ)欺いた。あのときはわたしの長子の権利を奪い、今度はわたしの祝福を奪ってしまった。」エサウは続けて言った。「お父さんは、わたしのために祝福を残しておいてくれなかったのですか。」

 37イサクはエサウに答えた。「既にわたしは、彼をお前の主人とし、親族をすべて彼の僕とし、穀物もぶどう酒も彼のものにしてしまった。わたしの子よ。今となっては、お前のために何をしてやれようか。」

 38エサウは父に叫んだ。「わたしのお父さん。祝福はたった一つしかないのですか。わたしも、このわたしも祝福してください、わたしのお父さん。」エサウは声をあげて泣いた。39父イサクは言った。

「ああ

 地の産み出す豊かなものから遠く離れた所

 この後お前はそこに住む

 天の露からも遠く隔てられて。

 40お前は剣に頼って生きていく。

 しかしお前は弟に仕える。

 いつの日にかお前は反抗を企て

 自分の首から軛を振り落とす。」       (27章30~40節)

 

 ヤコブが祝福を受けるとすぐにエサウが戻ってきます。ヤコブとリベカの策略の成功は、正に危機一髪のことでした。人間的な執着と策略のみが成功の原因ではなかったこと、表立って登場はしないものの、神の摂理がやくざな弟に味方し、粗野だけれども人の良い兄を遠ざけるものであったことが読み取れます。

 イサクは、エサウが現われたことで、祝福を与えた相手が弟のヤコブであったことに気が付きます。この時イサクが受けた衝撃の大きさは、「激しく体を震わせて言った。」という表現に表われていますが、臨終の床に就いた老人にとっては、死期を早めるほどのショックであったと思われます。 

 我々の感覚でこの出来事を捉えれば、祝福の前提となる重要な事実が違っていた訳ですから、ヤコブに与えた祝福を取り消して、改めてエサウを祝福すれば良いことのように思われます。また、仮にイサクから直接に祝福の言葉を聞いたのはヤコブであったとしても、祝福はエサウを念頭に置いて、エサウに向けてなされたものであって、ヤコブに奪い取られたとは言えないのではないかとの疑問も生じます。

 しかし、イサクは、先ほどの祝福を取り消そうとも、エサウを祝福し直そうともしません。祝福の言葉自体に力があり、それは人間の意志によって左右できるものではないと考えられていたからです。

 エサウは、長子に対する祝福が既になされてしまったと聞くと、悲痛な叫びをあげて激しく泣き、イサクに祝福を求めます。これは、25章で一杯のレンズ豆の煮物と引き換えに長子権をヤコブに譲り渡してしまったエサウの姿とは違います。イサクは知らなくとも、エサウ自身は自分が愚かな過ちを犯してしまったことを承知していました。一度弟に売り渡してしまった長子としての特権が、長い年月の経過と共に重大な損失と見えてきたのかもしれません。

 エサウは、ヤコブが祝福を奪ったことを知ると「これで二度も、わたしの足を引っぱり(アーカブ)欺いた。」と彼の名を「足を引っぱる」という意味と結び付けてののしります。25章26節では単に「かかと(アケブ)」と説明されていたことと比べて、27章では「押し退ける」或いは「騙す」という意味が強くなっており、実際、ヤコブという名前は、イスラエルでは詐欺師と同義語となっていきます。

 イサクは、泣き叫ぶエサウの求めに応じて彼にも祝福を与えますが、それは祝福にはほど遠いものでした。39節~40節の祝福の言葉は、次の4つに内容を整理することが出来ます。

(1)エサウの住む地は祝福を受けないこと

(2)彼の子孫は剣によって世を渡ること

(3)彼(とその子孫)はヤコブの僕となり、独立を失うこと

(4)最後に時が来るなら、独立を回復すること

 この4つの中で「祝福」に値するのは、(4)の独立の回復だけです。

 ダビデ王の時代にエドムは支配されますが、ヨラム王の時代に独立を回復するのです。

 

 ダビデはアラムを討って帰る途中、塩の谷でエドム人一万八千人を討ち殺し、名声を得た。彼は、エドムに守備隊を置くことにした。守備隊はエドム全土に置かれ、全エドムはダビデに隷属した。主はダビデに、行く先々で勝利を与えられた。          (サムエル記下8章13~14節)

 

 ヨラムの治世に、エドムがユダに反旗を翻してその支配から脱し、自分たちの王を立てた。ヨラムは全戦車隊を率いてツァイルに進み、夜襲を試みて、自分を包囲するエドム兵とその戦車隊の長たちを打ち破った。しかし、その民は自分の天幕に逃げ帰った。こうしてエドムはユダに反旗を翻してその支配から脱し、今日に至っている。そのころ、同時にリブナが反旗を翻した。                  (列王記下8章20~22節)

 

 さて、こうして、このやくざな弟ヤコブの騙し騙されの人生は幕が切って落とされました。彼は、長子としての祝福を受けて兄を出し抜きますが、兄の怒りを恐れて「約束の地」から早々に逃げなければなりません。ほんの数日の予定であった逃避行が20年の長きに渡り、その間に彼を愛したリベカは世を去ります。創世記の記者は、リベカの死については全く何も書き残しませんでした。逃げた先では、ヤコブ以上のやり手である叔父のラバンから、結婚を望んだラケルの他に姉のレアを押し付けられ、働いたことへの報酬を10回も変えられてしまいます。やがてラバンの元から独り立ちしますが、友好的に送り出された訳ではありません。家族・財産を引き連れての逃走でした。その後、ヤコブは、愛する妻ラケルを亡くし、ラケルから生まれたヨセフと別れ、悲嘆にくれることの多い晩年を迎えます。ヤコブの人生が苦痛に満ちたものであったことは、エジプトのファラオに対するヤコブの言葉に端的に現われています。

 

 ヤコブはファラオに答えた。

「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」

                           (47章9節)

 

 晩年こそ信仰の父祖としての姿を見せるものの、本日の箇所に示されるヤコブの姿からは神に対する信仰など微塵も感じられません。自分の利益のためならば、神の名をみだりに唱えることすら厭わないのです。

 神への思いが欠落しているという点は、他の登場人物たちにも共通しています。自分の好き嫌いを優先して祝福の相手を定めようという点では、イサクもリベカも変わりません。長子の権利を軽んじ、ヘト人の女性と結婚したエサウも神への思いが欠落していました。

 神への思いが欠落した登場人物がエゴを膨らませ、駆け引きを繰り広げる中で、主なる神はご自身の計画を着々と進めていかれるのです。


<今回の参考書>

 

「創世記」(関根正雄訳 岩波文庫)/「創世記」(月本昭男訳 岩波書店)/「創世記講義」(政池仁著 聖書の日本社)/「現代聖書注解 創世記」(ブルッグマン著 日本基督教団出版局)/「ケンブリッジ旧約聖書注解 創世記」(デヴィッドソン著 新教出版社)/「新聖書注解 旧約Ⅰ」(いのちのことば社)/「旧約聖書の女性たち」(鈴木佳秀 教文館)