旧約聖書の旅「創世記」第21回「天からの階段」(小山哲司)

「天からの階段」 旧約聖書の旅21

1999.11.28 小山 哲司

 前回のレポートでは創世記27章を取り上げて、ヤコブがイサクをだまして兄エサウの受けるべき祝福を奪い取った経緯について学びました。本日は28章を取り上げますが、その前にこれまで学んできたことを振り返っておきたいと思います。

 アブラムは、神の祝福の言葉によってカルデアのウルを、そしてハランの地を後にしました。神は、アブラムの子孫が繁栄して約束の地を受け継ぐのだと語りかけます。

 ところが、飢饉を避けて下って行ったエジプトで、妻サライはファラオの宮廷に召し入れられてしまいました。神の介入によってサライを取り戻したアブラムは、エジプトからカナンの地へと戻ります。(創世記12章)

 ベテルとアイの間の所までやってくると、アブラムとロトの牧童たちの間に遊牧地を巡る争いが持ち上がってきます。アブラムは、土地を選択する権利をロトに譲ってしまいます。(13章)

 その後、東方の王たちがカナンを侵略し、ソドムの王たちを撃破してロトを奪い去りますが、アブラムの追撃に破れます。アブラムは、ここでは雄々しい戦闘指揮官として描かれています。(14章)

 これらのことの後、幻の中で「恐れるな、あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」という主の言葉がアブラムに臨みます。

 しかし、アブラムは「家の僕が跡を継ぐことになっています。」と抗議をします。主なる神は、「あなたから生まれるものが跡を継ぐ。」と具体的な回答を与え、アブラムは満天の星を見つめながら自分自身の子供が誕生して子孫が増えることを信じます。

 その後、主なる神はアブラムに牝牛と牝山羊と牡羊と山鳩とを半分に引き裂き、向かい合わせに置くように命じます。番をするうちにアブラムは深い眠りに陥りますが、夢(幻)の中で神は、アブラムの子孫の行く末について語ります。やがて、辺りが闇に包まれた頃、煙をはいた炉と燃えた松明が引き裂かれた動物の間を通ります。これは神がアブラムと契約を結ばれたしるしでした。(15章)

 こうして繰り返し臨む神の約束の言葉にも関わらず、一向に懐妊する兆しのないサライは、女奴隷ハガルによって母となろうと企てます。

 これは、当時行われていた習慣に乗っ取ったことでしたが、アブラムとサライ、そしてハガルの間に亀裂が走ります。

 身ごもったハガルは、サライの仕打ちに耐え兼ねて、また、子供を自分自身の子としたいと願って逃亡しますが、御使いの姿をとられた主にサライのもとに戻るように示され、やがて誕生する子供が繁栄するという約束を受けます。(16章)

 ハガルがイシュマエルを産んでから13年後に、主は再びアブラハムに現われます。この時、アブラハムは99歳になっておりました。

 主は、アブラムの子孫を繁栄させ、土地を所有させるという契約を繰り返し、アブラハムと改名するように命じます。彼はまだ一片の土地すらも自分の所有とはしておりませんでしたが、神はカナンの土地が永久にアブラハムとその子孫の所有地であると宣言し、約束のしるしとして一族の男子はすべて割礼を受けるように命じます。

 割礼の求めに続いて、神はイサクの誕生をアブラハムに予告します。

 アブラハムは、サラが子供を生むという神の言葉を笑いますが、神は1年後にはイサクが誕生し、それが神が契約を結ぶべきアブラハムの子孫であると宣言します。神の言葉を受け、アブラハムはその日のうちに一族の男子すべてに割礼を施します。(17章)

 イサクの誕生を予告した神は、旅人の姿をとって天幕を訪れ、アブラハムから手厚くもてなされます。その際にも、来年の今ごろサラに男の子が誕生すると予告しますがサラはそれを笑います。

 神の一行はアブラハムのもとを出立し、見送るアブラハムにソドムを滅ぼすことを示します。アブラハムは、ソドムに少しでも正しい者がいれば滅ぼさないで欲しいと懇願し、正しい者の数を50人、40人と減らしていき「10人の正しい者がいれば滅ぼさない」という神の約束を取り付けます。ここには、罪なき者には罪ある者を救う力があるという思想が表われており、神とアブラハムとの交渉は緊迫したドラマを展開します。(18章)

 ソドムの町に入った二人の御使いは、ロトの家に招き入れられます。夜中に町の男たちが二人の御使いを引き渡すように迫りますが、御使いの目潰しによって難を逃れます。御使いから神がソドムを滅ぼすと聞かされたロトは、御使いに手を取られて妻と二人の娘と一緒に町の外へと連れ出されます。山へ逃げよという神の命に背いてロトはツォアルに逃げ、やがて山の中の洞穴に移り住みます。山の中では結婚相手が見つからないことに悩んだ二人の娘は父親であるロトによって子を得ます。(19章)

 アブラハムはゲラルに移動し、そこでサラを妹と偽りますが、そのお陰でゲラルの王アビメレクによってサラが召し入れられます。アビメレクは夢に現われた神に「召し入れた女の故にお前は死ぬ。・・・直ちにあの人の妻を返しなさい。彼は予言者だから、あなたのために祈って命を救ってくれるだろう。・・・もし返さなかったら、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬ」と命じられ、翌朝、アブラハムを呼びつけます。アブラハムはアビメレクに弁明し、「サラは実際に妹でもあるのです」と苦しい言い訳をしますが、異教の王によって倫理的な過ちを糾弾されたのは屈辱的な経験だった筈です。一方、過ちを犯さなかった者(アビメレク)が、過ちの原因を与えた者(アブラハム)の祈りによって救われ、そのために祈りの報酬として多額の贈り物までしなければならなかったとは、真に不可思議で興味深いこと。アブラハムは欠点が多く、倫理的、信仰的に疑問を抱かざるを得ない人物です。彼自身に価値はなくとも、神の一方的な恩恵によって諸国民に生命を与える器として選ばれたといえるでしょう。(20章)

 主なる神が約束された時期にサラに男子が誕生し、イサクと名付けられました。イサクとは「笑い」という意味。イサク誕生の喜びの笑いであると同時に、神の約束に対するサラとアブラハムの不信の笑いをも意味するものでした。やがて、サラはハガルとイシュマエルを追放することを求めます。アブラハムは少しばかりの水と食料を持たせて二人を送り出しますが、間もなく水が尽き、ハガルはイシュマエルが死ぬことを覚悟します。しかし、神の御使いが現われて「わたしはかならずあの子を大きな国民とする」と言い、ハガルは水のある井戸を発見します。このように旧約の神はイサクを約束の子として選んだ「選び」の神でありますが、たとえ選びの外側にいる者に対しても恵み豊かな神であることを忘れてはなりません。(21章)

 神はアブラハムを試みようとして「イサクを燔祭の犠牲として献げよ」と命じます。アブラハムは、従者とイサクを連れてモリヤの地へと向かいますが、薪を背負ってモリヤの地へと歩むイサクの姿は、十字架を背負ってゴルゴダの丘に向かうイエスの姿を彷彿とさせます。心に激しい痛みを抱えながらも愛子を献げようとしたアブラハムの信仰は、イエスを地上に送った父なる神の痛みになぞらえることができるかもしれません。

 正にイサクを屠ろうとした時、神はアブラハムを制止して、イサクの代わりとなる雄羊を示されます。この後、アブラハムは主役の座をイサクに譲り、旧約の舞台から静かに退場していくのです。(22章)

 サラは127年の生涯を全うしてヘブロンの地でなくなり、アブラハムは埋葬のために墓地を求めてヘト人たちと交渉します。そして、ヘト人エフロンからマクペラの洞窟と畑を購入しますが、その代価は驚くほど高額なものでした。アブラハムは一切値切ろうともしないで、エフロンの言い値のとおりに代金を支払います。武力で占拠しようと思えばいくらでもできたであろうアブラハムが、このように平和的な手段で土地を購入したという点に、アブラハムの成熟した信仰と人柄を見ることが出来ます。(23章)

 アブラハムは、イサクに妻を迎えようと僕をナホルの町に遣わします。僕は、ナホルの町外れの井戸で親切な娘リベカと出会い、彼女がイサクの妻となるべき女性であると確信します。リベカは、僕の申し出を受け入れてイサクの妻となる決心を固め、カナンへと旅立ちますが、ここには、自立した女性としてのリベカの姿が表われています。(24章)

 アブラハムにはケトラを通しても多くの子孫が誕生しましたが、その子孫の名前は周辺種族の名前と一致し、また、ハガルから誕生したイシュマエルの子孫の名前も周辺種族の名前と一致します。これは、イスラエルと周辺の種族との関係の深さを示すものです。一方、イサクを通して誕生したエサウとヤコブの兄弟には性格の違いがあり、ヤコブは、エサウの長子権を一杯のレンズ豆の煮物と引き換えに奪ってしまいます。(25章)

 飢饉を避けるためエジプトに下ろうとしたイサクに神の言葉が臨み、イサクはゲラルに滞在します。この時、主がアブラハムと結ばれた契約がイサクと更新されました。イサクはリベカを自分の妹だと偽りますが、王アビメレクに二人が夫婦であることを気付かれてしまいます。富み栄えたイサクはアビメレクによって追い出され、ゲラルの谷に移動しますが、そこでは井戸を巡る争いが生じます。争うことなく次々に井戸を掘り当てるイサクのもとをアビメレクが訪れ、二人は契約を結びます。(26章)

 臨終の床に就いたイサクは、長子としての祝福を与えようとエサウを呼びます。イサクは、祝福を与える前に料理を食べたいと言い、エサウは獲物を獲りに出かけます。二人のやり取りを聞いていたリベカは、ヤコブをそそのかしてイサクの祝福を横取りするように仕向けます。ヤコブは、声色を真似、毛皮を腕に巻き付けてイサクを騙し、エサウの受けるべき祝福を受けます。その直後にやってきたエサウは、自分のために祝福は残っていないのかと悲痛な声をあげて求めますが、イサクが彼に与えた「祝福」は、およそ祝福という言葉からはほど遠いものでした。(27章1~40節)

 

 それでは本日の箇所に入って行きたいと思います。

 

 41エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる。」42ところが、上の息子エサウのこの言葉が母リベカの耳に入った。彼女は人をやって、下の息子のヤコブを呼び寄せて言った。「大変です。エサウ兄さんがお前を殺して恨みを晴らそうとしています。43わたしの子よ。今、わたしの言うことをよく聞き、急いでハランに、わたしの兄ラバンの所へ逃げて行きなさい。44そして、お兄さんの怒りが治まるまで、しばらく伯父さんの所に置いてもらいなさい。45そのうちに、お兄さんの憤りも治まり、お前のしたことを忘れてくれるだろうから、そのときには人をやってお前を呼び戻します。一日のうちにお前たち二人を失うことなど、どうしてできましょう。」(27章41~45節)

 

 ヤコブが祝福を奪ったあとの経緯について、聖書は2つの物語を用意しています。

 1つは、27章41~45節の物語。

 ここでは、エサウが祝福を奪ったヤコブを恨み、父イサクが亡くなるのを待ってヤコブを殺そうと計画します。根が単純なエサウですから、「親父が死んだら、ヤコブのことを殺してやる」とあたり構わず言って回った筈。それを耳にした誰かがリベカに知らせたのでしょう。リベカ=ヤコブに好意を持つグループとイサク=エサウに好意を持つグループが存在しており、四人の紛争は他の家族、奴隷をも巻き込んだものと思われます。

 リベカは、母親として激昂型のエサウの性格を熟知しておりましたので、「殺してやる」ところまで高まったエサウの怒りも、しばらく経てば収まることが分かっておりました。ヤコブに「しばらく」叔父ラバンの元に身を寄せるように勧めたのは、エサウの怒りが収まることを計算に入れてのこと。ここで「しばらく」というのは、直訳すれば「数日」の意味で、エサウの怒りはその程度のものにしか過ぎないことを見抜いていたのです。

 こうしてヤコブを逃がしたのは賢明な選択だったのかもしれませんが、リベカは、ラバンの性格を見落としていました。ラバンの狡猾さの故に、「しばらく(数日)」の筈の逃亡が20年の長きに渡り、リベカは再びヤコブの姿を見ることはなかったのです。

 この物語の後に、もう一つ別の物語が置かれています。

 

 46リベカはイサクに言った。「わたしは、ヘト人の娘たちのことで、生きているのが嫌になりました。もしヤコブまでも、この土地の娘の中からあんなヘト人の娘をめとったら、わたしは生きているかいがありません。」

 1イサクはヤコブを呼び寄せて祝福して、命じた。

「お前はカナンの娘の中から妻を迎えてはいけない。2ここをたって、パダン・アラムのベトエルおじいさんの家に行き、そこでラバン伯父さんの娘の中から結婚相手を見つけなさい。3どうか、全能の神がお前を祝福して繁栄させ、お前を増やして多くの民の群れとしてくださるように。4どうか、アブラハムの祝福がお前とその子孫に及び、神がアブラハムに与えられた土地、お前が寄留しているこの土地を受け継ぐことができるように。」

 5ヤコブはイサクに送り出されて、パダン・アラムのラバンの所へ旅立った。ラバンはアラム人ベトエルの息子で、ヤコブとエサウの母リベカの兄であった。

 6エサウは、イサクがヤコブを祝福し、パダン・アラムへ送り出し、そこから妻を迎えさせようとしたこと、しかも彼を祝福したとき、「カナンの娘の中から妻を迎えてはいけない」と命じたこと、7そして、ヤコブが父と母の命令に従ってパダン・アラムへ旅立ったことなどを知った。8エサウは、カナンの娘たちが父イサクの気に入らないことを知って、9イシュマエルのところへ行き、既にいる妻のほかにもう一人、アブラハムの息子イシュマエルの娘で、ネバヨトの妹に当たるマハラトを妻とした。

                  (27章46節 28章1~9節)

 

 27章41~45節は、エサウの怒りから逃れるために叔父ラバンの元に逃走する物語でしたが、次の物語は、ヤコブが結婚相手を探すためにラバンの元に送り出される物語です。この2つの物語はヤコブがベエル・シェバを離れる原因に食い違いがあり、スムーズには繋がりません。

 資料説の立場からは、27章41~45節は最も古いJ資料、27章46~28章9節は最も新しいP資料とされ、時代の異なる2つの資料をつなぎ合わせたものだとされています。前者はヤコブがエサウを騙して長子の祝福を奪った物語を受けているのに対し、後者は26章34~35節「エサウは、四十歳のときヘト人ベエリの娘ユディトとヘト人エロンの娘バセマトを妻として迎えた。彼女たちは、イサクとリベカにとって悩みの種となった。」とという箇所と繋がっているように思われます。

 つまり、ヤコブがベエル・シェバを離れるに至った経緯については、2つの並行した物語があったことになります。

 

 1 エサウの結婚 → イサク・リベカの悩み → ヤコブの嫁探し

 

 2 ヤコブが祝福を奪う → エサウの怒り → ヤコブの逃走 

 

 2つの物語の構成としては、1の物語の枠組みの中に2の物語が挿入されていることになります。

 この2つの物語を1つの流れとして理解するためには、解釈の工夫が必要となります。ヤコブを救おうとするリベカの策略によったと解釈すれば、2つは1つの物語となります。例えば、「エサウがヤコブを殺そうとしていることを察知したリベカは、ヤコブを「公然と」逃がすためにイサクにエサウの妻たちへの不満を漏らし、それとなく自分の故郷、ラバンの住む町からヤコブの妻を迎えるべきことをほのめかした。イサクは、自分がリベカと結婚した当時の幸福な日々のことを思い出し、余命幾許もなかったアブラハムが存命中にイサクの結婚の段取りをつけた様に、自分もヤコブの結婚の段取りをつけることを決心して、ヤコブを送り出すことにしたのだ」、と。

 さて、こうしてヤコブを送り出すことになったイサクは、早速ヤコブを呼び寄せて祝福を与えます。祝福の言葉に出てくる「全能の神(エル・シャッダイ)」は、17章1節でアブラハムと契約を交す神の呼び名です。ここで「全能の神(エル・シャッダイ)」がヤコブを祝福して下さるようにと語ることによって、17章で神とアブラハムが結んだ契約がヤコブに継承されることをイサクは示しています。

 イサクは、エサウを愛し、エサウこそが長子として自分の後継者になると信じていた筈です。ヤコブがエサウの受けるべき祝福を奪ってしまったときに、激しく体を震わせるほどのショックを受けたのもそのためでした。しかし、こうして繰り返し祝福の言葉を述べるイサクからは、一時のショックから立ち直った後は、ヤコブを自分の後継者として認めたことが分かります。ヤコブがエサウを差し置いて、イサクの後継者として正式に認知されたということは、28章5節の「ヤコブとエサウの母リベカの兄であった」という箇所の二人の順番にも表われています。「エサウとヤコブ」ではなく「ヤコブとエサウ」となっていることに注目してください。

 ヤコブが妻を探すためにラバンの町へ旅立ったことを知ったエサウは、それによって自分の結婚が両親に喜ばれていないことを知りました。自分の結婚がどう評価されているのか、ここに至るまで気付かなかったエサウの感覚の鈍さが読み取れます。母親と妻たちの折り合いが悪いことはそれとなく感じてはいても、母とエサウの折り合い自体が悪いのですから、それほど大事だとは思わなかった。リベカの気持ちなど考慮するつもりはなかったのです。しかし、父イサクまでもがカナン人との結婚を否定的に受け止めていると知って、エサウは自分の立場を知ったのだと思われます。

 エサウは、叔父イシュマエルの娘を新しく妻に迎えて父イサクの機嫌を取ろうとしますが、ヘト人の妻たちとの関係は残ったままです。エサウの立場ではこれが最良の策だったのでしょうが、糊塗策のそしりは免れません。

 ここで、ヤコブとエサウの結婚の問題、そして、それらがP資料に含まれていることから、P資料が編纂されたバビロン捕囚期のイスラエル人たちの状況が窺われます。捕囚期のイスラエルにとって重大な問題は、彼らが民族としての、そして、信仰共同体としてのアイデンティティーを如何に維持するかということ。彼らにとっての脅威は、バビロニアの宗教の持つ力と魅力、そして、同地の人々との結婚による民族の消滅でした。こうした状況に対して、神の約束の継承を同族との結婚と関連づける物語が語られたのは理由のあることでした。信仰共同体にとって迫害は大きな脅威ですが、異なる宗教・文化を持つ人々との交際、結婚も、それに勝る脅威をもたらすことを彼らは指摘したかったのだと思われます。

 

 10ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。11とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。12すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。13見よ、主が傍らに立って言われた。

「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。14あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。15見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」     (28章10~16節)

 

 エサウの怒りを逃れるために、そして、叔父ラバンの元から自分の妻を娶るためにヤコブは旅に出ます。それは、自分が種を撒いた追放の旅でした。

 ベエル・シェバを出てしばらくしたある晩、とある所で日が沈んだので、ヤコブはそこで夜を過ごすことになりました。多分、近辺の町はすでに門が閉まっていて入れなかったのです。ヤコブは、その辺りに転がっていた石を枕にして横になりました。旅に出た際、石を枕にすることは当時の習慣であったようです。

 その時、ヤコブが夢で見たのは、先端が天に至る階段。そして、それを昇り降りする神の御使いの姿。この夢は、ヤコブ個人の生涯のみならず、旧約聖書全体の中で最も大きな出来事の一つに数えられます。

 この「階段」を「はしご」としている訳もありますが、これは、高速道路の出入口のような傾斜した道や階段の様なものを指します。天に直立したはしごをイメージするよりは、階段状のものをイメージした方が、原語の意図がつかみやすいと思われます。

 この階段状のものがヤコブの夢に登場したことについては、2つの解釈があります。

 1つは、聖書地理学者が唱えることで、ベテル付近の風景の中に、石の階段状の地形があり、それを見ながら旅していたヤコブがそのイメージを夢の中に見たのであろうとする解釈です。

 もう1つは、階段状のものが天に至るということから、メソポタミアのジックラトゥ(聖塔)が連想されるとする解釈です。ヤコブは、メソポタミアに旅した経験はありませんでしたが、先祖からの言い伝えの中で天に至るほど高い塔の存在は知っていた筈。そのイメージが夢の中に登場したと解釈するのです。

 ジックラトゥは、当時の人々の神に対する敬虔を表現するために建てられた聖塔であり、天と地、神々と人間を結ぶ絆を表わすものでした。ジックラトゥの下から頂きへは、傾斜路或いは階段が設けられており、人々は神への礼拝を献げるためにその周りに集まりました。ジックラトゥの頂きには小さな神殿があり、そこで神々が民の代表者と会ったとされます。

 このジックラトゥは、創世記の中ではバベルの塔として登場します。このバベルの塔については第2回のレポートの際にお話しましたが、モデルとなったバビロンのジックラトゥは、今世紀初頭のドイツ調査隊によるバビロンの遺跡調査で発掘されました。地上の部分は残っておりませんでしたが、ジックラトゥを素描した当時の文書などから判断すると、一辺が92メートルもの正方形の基礎を持つ階段状のピラミッドで7段からなり、高さが90メートルほどもあったと考えられております。現代の我々の基準からしても大きな建造物ですから、古代の人々の目にはどれほど巨大に映ったことでしょうか。

 捕囚の地で巨大なジックラトゥに象徴されるバビロンの権力と文明を見せつけられたイスラエル人たちは、自分たちの置かれた状況のみじめさを思いながら、こうした文明に潜む問題点に目を向けて行ったのではないかと思います。そして、唯一なる神に背を向けた文明は人間の奢りを助長し、敬虔の表現であるはずのジックラトゥは、人々を一つにまとめるどころか、逆に人の群れを内部から崩壊させてしまうと、バベルの塔の物語を通して指摘したのです。

 バベルの塔は、人間が自らの手で神に至ろうとする思いの愚かしさを物語りますが、ヤコブが夢に見た天に至る階段は、人の手によらず、神ご自身が用意されたもの。「階段が地に向かって伸びており」という表現から、階段が天から地に下っていることが分かります。これは、神の側が人間に近づいたことのしるしであり、神の憐れみの表れです。

 さて、主ヤハウェは傍らに立ってヤコブに語りかけます。このことは、主が階段の上(天)から、階段のした(地)に下り、臨在の主となられたことを表わしており、また、ヤコブに直接語りかけることによって、ヤコブがアブラハム、イサクと同様に、契約の継承者であることが示されます。

 ここで主がヤコブに語りかけた言葉は、12章2~3節でアブラハムに語りかけた言葉を思い起こさせます。

 

 わたしはあなたを大いなる国民にし

 あなたを祝福し、あなたの名を高める

 祝福の源となるように。

 あなたを祝福する人をわたしは祝福し

 あなたを呪うものをわたしは呪う。

 地上の氏族はすべて

 あなたによって祝福にはいる。(12章2~3節)

 

 しかし、28章で主が語られた言葉は、単に12章の言葉を繰り返すだけではありません。28章の言葉には、これまでにない新しい内容が盛り込まれています。それは、「主の臨在」です。ここでは、これまで同様に土地と子孫の約束に加えて、どの地に移ろうとも彼と共にある神、約束を成し遂げるまで見捨てない神の姿が示されており、エゴの強い登場人物たち、特に、兄の受けるべき祝福を奪い取ったが故に追放の旅に出ざるを得なかったヤコブの姿と鋭い対照を示しています。

 こうした天から降りたもう臨在の主のイメージは、新約聖書のキリストのイメージとも響き合いますが、この点について柳生望氏は次のように述べています。

 

「私たちは、みな天と地、神とその偉大な宇宙との間には、無限の深淵が横たわっていて、私たちの思いも願いも祈りも天には届かないと考える。特に不当な手段で父をだまして長子の権を兄から奪ったヤコブの心は重く、心なしか今夜は星は一つもまばたかず、彼は不気味な闇に包まれていた。だが彼の夢は、人間をとりまくこの深淵と闇を人がつき破れることを示す。天と地との間には実は上下両方からの交流がありうることがヤコブに分かった。ベテルで彼に現れた神は、天に閉じこもって地上と関係を持とうとしない神ではなく、天と地とのあいだに梯子をかける神だったのである。

 こうしたかけ橋がなくては、ヤコブはどうして神と交わることが出来ようか。天使がその上を上下する夢の中の梯子は、天と地とのコミュニケーションまた神とヤコブとの霊的交わりとの一致をシンボライズする。天使がその仲介をして、神とヤコブが一つになるのである。人間世界との交わりを開いて、地上の悲惨を顧みる神が、ここにおられる。天上の梯子が地面に立っている、ヤコブが今眠っているこの所では、やがてクリスマスの夜に地上に降誕されるキリストが、赤子としてベツレヘムの馬小屋で寝ている光景が二重写しになっている。この幼子はキリストとして、地上で仕事着をきて一労働者の生涯を送ることになるのである。その顔には死のマスクをつけ、人の様になり、呪いの木にかけられ、重罪人として死ぬのである。

 キリストが人の像をとって降誕するところは、人間性を象徴する泥だらけの土の上であるが、ヤコブの夢が示すように、キリストは天から降って来て、このかけ橋の下に来られるのである。こうして時がめぐりやがてキリストは貧しい大工の子として生まれることとなるのである。ヤコブがみた天上にかけられた梯子の夢は、やがて起こるこの出来事、天上からのキリストの降誕を予示する聖なる神の啓示であったろう。」

   (「物語解釈で聖書を読む」柳生望著 ヨルダン社 P38~39)

 

 臨在の主のイメージは、柳生氏が指摘するように新約のキリストと密接に結び付いていきますが、ヤコブが夢に見た天からの階段はヨハネによる福音書に登場します。

 

 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなた方は見ることになる。」

                  (ヨハネによる福音書1章51節)

 

 ここでは、かつてヤコブが夢に見た天から下る階段とはイエス自身のことであることが示され、イエスが天と地との間のかけ橋となって私たちの祈りを、賛美を、そして、涙もため息をも神の御許に執りなして下さるのです。

 

 16ヤコブは眠りから覚めて言った。

「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」

 17そして、恐れおののいて言った。

「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」

 18ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、19その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。

 20ヤコブはまた、誓願を立てて言った。

「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、21無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、22わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」

                       (28章16~22節)

 

 ヤコブは目が覚めた時、予期しない所でヤハウェの臨在を知った驚きを口にし、恐れおののきます。彼にとっては、家を離れ、今まで親しんできた礼拝の場所をも離れた所で主の言葉を聞くことは思いもよらないことでした。その当時は、神はその土地との結び付きの強い土着の神ととらえられており、宇宙に偏在するような神のイメージは確立していなかったのです。

 この時ヤコブが味わった驚き・恐れは、聖なるものと接した時の「畏れ」であり、「畏れ多い」という言葉に示されています。こうした「畏れ」については、モーセも、イザヤも、新約の時代においてはペテロも同様の経験をしています。

 

 モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」

 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。

                    (出エジプト記3章1~6節)

 

 ウジヤ王が死んだ年のことである。

 わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。

「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。

 主の栄光は、地をすべて覆う。」

 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。わたしは言った。

「災いだ。わたしは滅ぼされる。

 わたしは汚れた唇の者。

 汚れた唇の民の中に住む者。

 しかも、わたしの目は

   王なる万軍の主を仰ぎ見た。」(イザヤ書 6章1~5節)

 

 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。(ルカによる福音書5章4~8節)

 

 モーセは神を見ることを恐れて顔を覆い、イザヤは自分が滅ぼされると感じ、また、ペテロは、足下にひれ伏して自分の罪を告白しました。ヤコブが経験した「恐れおののき」には、彼らの味わった感情と共通するものがあったに相違ありません。

 ヤコブは、神の臨在を体験した場所を「神の家(ベト・エロヒム)」「天の門」と呼びますが、この「神の家(ベト・エロヒム)」という呼び名が、やがてこの地の地名-ベテル-へと転化していきます。

 ここで、天から階段が下った地-ベテル-について、その歴史を簡単に紹介しておきます。ベテルは、旧約聖書では度々引用される地名であり、ヤコブの祖父アブラハムが祭壇を築いて主を礼拝したのもベテル近辺でした(創世記12章8節 13章3節)。この町は、やがてヨシュアによって攻め取られ(ヨシュア記8章)、カナン人によって奪い返され、再びイスラエルの諸部族によって攻め取られます(士師記1章)。後に、ソロモンの死後、王国が分裂した後で、ベテルは北イスラエル王国の主要な聖所となり、金の子牛が祭られるようになります(列王記上12章28節)。

 

 ヤロブアムは心に思った。「今、王国は、再びダビデの家のものになりそうだ。この民がいけにえをささげるためにエルサレムの主の神殿に上るなら、この民の心は再び彼らの主君、ユダの王レハブアムに向かい、彼らはわたしを殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰ってしまうだろう。」

 彼はよく考えたうえで、金の子牛を二体造り、人々に言った。「あなたたちはもはやエルサレムに上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である。」彼は一体をベテルに、もう一体をダンに置いた。(列王記上12章26~29節)

 

 アブラハムが祭壇を築いて主を礼拝し、ヤコブが神の臨在を体験した地で金の子牛(偶像)が祭られるとは、まことにショッキングな出来事ですが、本日の箇所には既にその萌芽が見られます。ヤコブは、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注ぎました。カナン人には石柱を神として礼拝する習慣がありましたから、枕石を記念碑としたことにはその影響が感じられます。ヤコブ自身がこの石を拝んだという記事はありませんが、後代に至って聖所には石柱が立てられ、礼拝されるようになります。

 

 わたしが、今日命じることを守りなさい。見よ、わたしはあなたの前から、アモリ人、カナン人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い出す。よく注意して、あなたがこれから入って行く土地の住民と契約を結ばないようにしなさい。それがあなたの間で罠とならないためである。あなたたちは、彼らの祭壇を引き倒し、石柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒しなさい。               (出エジプト記34章11~13節)

 

 あなたたちは偶像を造ってはならない。彫像、石柱、あるいは石像を国内に建てて、それを拝んではならない。わたしはあなたたちの神、主だからである。                     (レビ 記26章1節)

 

 これから述べる掟と法は、あなたの先祖の神、主があなたに与えて得させられる土地で、あなたたちが地上に生きている限り忠実に守るべきものである。あなたたちの追い払おうとしている国々の民が高い山や丘の上、茂った木の下で神々に仕えてきた場所は、一つ残らず徹底的に破壊しなさい。祭壇を壊し、石柱を砕き、アシェラ像を火にくべ、神々の彫像を切り倒して、彼らの名をその場所から消し去りなさい。    (申命記12章1~3節)

 

 ヤコブ自身は、石を神格化する意図はなかったものと思われますが、ヤコブの存在が信仰の父祖として巨大なものであっただけに、ヤコブが石を記念碑として立てたということが、石柱を神格化する隙を与えたことは否定出来ません。出エジプト記、レビ記、申命記が繰り返し石柱を拝んではならない、打ち砕かなければならないと命じているのは、この風習が人々のあいだに浸透していたことの裏返しです。ヤコブが枕とした石は、ささやかな小さな物だったのでしょうが、後代の神殿の跡からは、高さが2~3メートルもの巨大な石柱が発掘されており、ちょっとした隙から偶像崇拝へ転落する人間の弱さを物語っております。

 さて、ヤコブは、枕石を記念碑とすると、誓願を立てます。この誓願の部分は、聖書によって訳し方に違いがあります。

 

神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。                   (口語訳)

 

もし神がわたしとともにいまし、わたしの歩まんとするこの途でわたしを守り、食すべきパンと着るべき着物を与え給うなら、またわたしが無事にふたたび父の家に帰り来ることが出来るなら、(ヤハウェを神としよう)、わたしが柱として立てたこの石を神の家としよう。すべてあなたがわたしに与え給うものの十分の一を、私はあなたに捧げます。」     (関根訳)

 

神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」     (新共同訳)

 

神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、私が無事に父の家に帰ることが出来、主が私の神となって下さるので、私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わるものの十分の一を私は必ずあなたに捧げます。」

                             (新改訳)

 

 口語訳と関根訳は、誓願の条件を「家に帰らせてくださるなら」という部分までにしていますが、新共同訳と新改訳では、「主がわたしの神となって下さる」までを条件としています。また、新共同訳と新改訳では、新共同訳が「主がわたしの神となって下さるなら」と仮定条件として訳しているのに対し、新改訳では「主が私の神となって下さるので」と順接条件として訳している点が違います。

 これらの訳の違いは、ヤコブの誓願の性格を大きく左右します。

 新改訳は、ヤコブの誓願に信仰告白としての色彩を強く与える訳文です。15節で「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」と神が語りかけたことを受け、それを素直に復唱していると読めるからです。

 その他の訳は、仮定条件として「(もし)~ならば」と表現されている点で、素直な信仰告白とは読めません。特に、関根訳と口語訳では、「~してくれるならば、主を自分の神としよう」と、主を自分の神として認めることに条件をつける形になっています。主の臨在を経験しながらも、ヤコブの心には、いまだに主なる神に対する不信があったということでしょう。

 ベテルでの主の臨在の経験によってヤコブが改心を経験し、自分の犯した罪を悔いたとすれば、新改訳の訳文がそれにふさわしい訳ですが、策略家としての性格が簡単には変わらなかったとすれば、口語訳や関根訳のほうがしっくりきます。どの訳文が適切かということは、ヤコブという人物をどう理解するかにも関わってくる問題です。

 

 本日は、ヤコブがベテルでみた夢を取り上げました。

 ヤコブの夢に登場した天から下る階段には、メソポタミアのジックラトゥの影響が読み取れます。この階段は神と人間の絆・交流のシンボルであり、新約のイエス・キリストにつながっていきます。天から階段を下し給うた神は、自ら階段を下り、傍らに立ってアブラハム、イサクに与えたと同じ祝福をヤコブに与え、更には、臨在の主として彼を見捨てることがないと宣言します。祝福を奪い取ったヤコブに対する神の祝福は、神の選びが無条件であり、一方的なものであることを物語りますが、ヤコブは、主の臨在の経験に「畏れ」を感じつつも、条件を付けて取り引きをしようという姿勢で神に対するのです。

 ヤコブにとって、ベテルでの経験は信仰の世界に招き入れられるための最初のステップであったと言えるでしょう。

 

<今回の参考書>

 

「創世記」(関根正雄訳 岩波文庫)/「創世記」(月本昭男訳 岩波書店)/「創世記講義」(政池仁著 聖書の日本社)/「現代聖書注解 創世記」(ブルッグマン著 日本基督教団出版局)/「ケンブリッジ旧約聖書注解 創世記」(デヴィッドソン著 新教出版社)/「新聖書注解 旧約Ⅰ」(いのちのことば社)/「物語解釈で聖書を読む」(柳生望著 ヨルダン社)