旧約聖書の旅「創世記」第22回「ヤコブの結婚」(小山哲司)

「ヤコブの結婚」 旧約聖書の旅22

2000.1.23 小山 哲司

 前回のレポートでは創世記28章を取り上げ、ベエル・シェバを出発したヤコブが天から下る階段を天使が昇り降りする夢を見たことについて学びました。本日は29章を取り上げますが、その前にこれまで学んできたことを振り返っておきたいと思います。

 アブラムは、神の祝福の言葉によってカルデアのウルを、そしてハランの地を後にしました。神は、アブラムの子孫が繁栄して約束の地を受け継ぐのだと語りかけます。

 ところが、飢饉を避けて下って行ったエジプトで、妻サライはファラオの宮廷に召し入れられてしまいました。神の介入によってサライを取り戻したアブラムは、エジプトからカナンの地へと戻ります。(創世記12章)

 ベテルとアイの間の所までやってくると、アブラムとロトの牧童たちの間に遊牧地を巡る争いが持ち上がってきます。アブラムは、土地を選択する権利をロトに譲ってしまいます。(13章)

 その後、東方の王たちがカナンを侵略し、ソドムの王たちを撃破してロトを奪い去りますが、アブラムの追撃に破れます。アブラムは、ここでは雄々しい戦闘指揮官として描かれています。(14章)

 これらのことの後、幻の中で「恐れるな、あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」という主の言葉がアブラムに臨みます。

 しかし、アブラムは「家の僕が跡を継ぐことになっています。」と抗議をします。主なる神は、「あなたから生まれるものが跡を継ぐ。」と具体的な回答を与え、アブラムは満天の星を見つめながら自分自身の子供が誕生して子孫が増えることを信じます。

 その後、主なる神はアブラムに牝牛と牝山羊と牡羊と山鳩とを半分に引き裂き、向かい合わせに置くように命じます。番をするうちにアブラムは深い眠りに陥りますが、夢(幻)の中で神は、アブラムの子孫の行く末について語ります。やがて、辺りが闇に包まれた頃、煙をはいた炉と燃えた松明が引き裂かれた動物の間を通ります。これは神がアブラムと契約を結ばれたしるしでした。(15章)

 こうして繰り返し臨む神の約束の言葉にも関わらず、一向に懐妊する兆しのないサライは、女奴隷ハガルによって母となろうと企てます。

 これは、当時行われていた習慣に乗っ取ったことでしたが、アブラムとサライ、そしてハガルの間に亀裂が走ります。

 身ごもったハガルは、サライの仕打ちに耐え兼ねて、また、子供を自分自身の子としたいと願って逃亡しますが、御使いの姿をとられた主にサライのもとに戻るように示され、やがて誕生する子供が繁栄するという約束を受けます。(16章)

 ハガルがイシュマエルを産んでから13年後に、主は再びアブラハムに現われます。この時、アブラハムは99歳になっておりました。

 主は、アブラムの子孫を繁栄させ、土地を所有させるという契約を繰り返し、アブラハムと改名するように命じます。彼はまだ一片の土地すらも自分の所有とはしておりませんでしたが、神はカナンの土地が永久にアブラハムとその子孫の所有地であると宣言し、約束のしるしとして一族の男子はすべて割礼を受けるように命じます。

 割礼の求めに続いて、神はイサクの誕生をアブラハムに予告します。

 アブラハムは、サラが子供を生むという神の言葉を笑いますが、神は1年後にはイサクが誕生し、それが神が契約を結ぶべきアブラハムの子孫であると宣言します。神の言葉を受け、アブラハムはその日のうちに一族の男子すべてに割礼を施します。(17章)

 イサクの誕生を予告した神は、旅人の姿をとって天幕を訪れ、アブラハムから手厚くもてなされます。その際にも、来年の今ごろサラに男の子が誕生すると予告しますがサラはそれを笑います。

 神の一行はアブラハムのもとを出立し、見送るアブラハムにソドムを滅ぼすことを示します。アブラハムは、ソドムに少しでも正しい者がいれば滅ぼさないで欲しいと懇願し、正しい者の数を50人、40人と減らしていき「10人の正しい者がいれば滅ぼさない」という神の約束を取り付けます。ここには、罪なき者には罪ある者を救う力があるという思想が表われており、神とアブラハムとの交渉は緊迫したドラマを展開します。(18章)

 ソドムの町に入った二人の御使いは、ロトの家に招き入れられます。夜中に町の男たちが二人の御使いを引き渡すように迫りますが、御使いの目潰しによって難を逃れます。御使いから神がソドムを滅ぼすと聞かされたロトは、御使いに手を取られて妻と二人の娘と一緒に町の外へと連れ出されます。山へ逃げよという神の命に背いてロトはツォアルに逃げ、やがて山の中の洞穴に移り住みます。山の中では結婚相手が見つからないことに悩んだ二人の娘は父親であるロトによって子を得ます。(19章)

 アブラハムはゲラルに移動し、そこでサラを妹と偽りますが、そのお陰でゲラルの王アビメレクによってサラが召し入れられます。アビメレクは夢に現われた神に「召し入れた女の故にお前は死ぬ。・・・直ちにあの人の妻を返しなさい。彼は予言者だから、あなたのために祈って命を救ってくれるだろう。・・・もし返さなかったら、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬ」と命じられ、翌朝、アブラハムを呼びつけます。アブラハムはアビメレクに弁明し、「サラは実際に妹でもあるのです」と苦しい言い訳をしますが、異教の王によって倫理的な過ちを糾弾されたのは屈辱的な経験だった筈です。一方、過ちを犯さなかった者(アビメレク)が、過ちの原因を与えた者(アブラハム)の祈りによって救われ、そのために祈りの報酬として多額の贈り物までしなければならなかったとは、真に不可思議で興味深いこと。アブラハムは欠点が多く、倫理的、信仰的に疑問を抱かざるを得ない人物です。彼自身に価値はなくとも、神の一方的な恩恵によって諸国民に生命を与える器として選ばれたといえるでしょう。(20章)

 主なる神が約束された時期にサラに男子が誕生し、イサクと名付けられました。イサクとは「笑い」という意味。イサク誕生の喜びの笑いであると同時に、神の約束に対するサラとアブラハムの不信の笑いをも意味するものでした。やがて、サラはハガルとイシュマエルを追放することを求めます。アブラハムは少しばかりの水と食料を持たせて二人を送り出しますが、間もなく水が尽き、ハガルはイシュマエルが死ぬことを覚悟します。しかし、神の御使いが現われて「わたしはかならずあの子を大きな国民とする」と言い、ハガルは水のある井戸を発見します。このように旧約の神はイサクを約束の子として選んだ「選び」の神でありますが、たとえ選びの外側にいる者に対しても恵み豊かな神であることを忘れてはなりません。(21章)

 神はアブラハムを試みようとして「イサクを燔祭の犠牲として献げよ」と命じます。アブラハムは、従者とイサクを連れてモリヤの地へと向かいますが、薪を背負ってモリヤの地へと歩むイサクの姿は、十字架を背負ってゴルゴダの丘に向かうイエスの姿を彷彿とさせます。心に激しい痛みを抱えながらも愛子を献げようとしたアブラハムの信仰は、イエスを地上に送った父なる神の痛みになぞらえることができるかもしれません。

 正にイサクを屠ろうとした時、神はアブラハムを制止して、イサクの代わりとなる雄羊を示されます。この後、アブラハムは主役の座をイサクに譲り、旧約の舞台から静かに退場していくのです。(22章)

 サラは127年の生涯を全うしてヘブロンの地でなくなり、アブラハムは埋葬のために墓地を求めてヘト人たちと交渉します。そして、ヘト人エフロンからマクペラの洞窟と畑を購入しますが、その代価は驚くほど高額なものでした。アブラハムは一切値切ろうともしないで、エフロンの言い値のとおりに代金を支払います。武力で占拠しようと思えばいくらでもできたであろうアブラハムが、このように平和的な手段で土地を購入したという点に、アブラハムの成熟した信仰と人柄を見ることが出来ます。(23章)

 アブラハムは、イサクに妻を迎えようと僕をナホルの町に遣わします。僕は、ナホルの町外れの井戸で親切な娘リベカと出会い、彼女がイサクの妻となるべき女性であると確信します。リベカは、僕の申し出を受け入れてイサクの妻となる決心を固め、カナンへと旅立ちますが、ここには、自立した女性としてのリベカの姿が表われています。(24章)

 アブラハムにはケトラを通しても多くの子孫が誕生しましたが、その子孫の名前は周辺種族の名前と一致し、また、ハガルから誕生したイシュマエルの子孫の名前も周辺種族の名前と一致します。これは、イスラエルと周辺の種族との関係の深さを示すものです。一方、イサクを通して誕生したエサウとヤコブの兄弟には性格の違いがあり、ヤコブは、エサウの長子権を一杯のレンズ豆の煮物と引き換えに奪ってしまいます。(25章)

 飢饉を避けるためエジプトに下ろうとしたイサクに神の言葉が臨み、イサクはゲラルに滞在します。この時、主がアブラハムと結ばれた契約がイサクと更新されました。イサクはリベカを自分の妹だと偽りますが、王アビメレクに二人が夫婦であることを気付かれてしまいます。富み栄えたイサクはアビメレクによって追い出され、ゲラルの谷に移動しますが、そこでは井戸を巡る争いが生じます。争うことなく次々に井戸を掘り当てるイサクのもとをアビメレクが訪れ、二人は契約を結びます。(26章)

 臨終の床に就いたイサクは、長子としての祝福を与えようとエサウを呼びます。イサクは、祝福を与える前に料理を食べたいと言い、エサウは獲物を獲りに出かけます。二人のやり取りを聞いていたリベカは、ヤコブをそそのかしてイサクの祝福を横取りするように仕向けます。ヤコブは、声色を真似、毛皮を腕に巻き付けてイサクを騙し、エサウの受けるべき祝福を受けます。その直後にやってきたエサウは、自分のために祝福は残っていないのかと悲痛な声をあげて求めますが、イサクが彼に与えた「祝福」は、およそ祝福という言葉からはほど遠いものでした。(27章1~40節)

 長子の祝福を奪われたエサウの怒りから逃れるため、そして、叔父ラバンの娘の中から結婚相手を選ぶために、ヤコブはベエル・シェバからハランに向けて旅立ちます。旅の途中で、彼は天から下る階段を天使が昇り降りする夢を見ます。夢に登場した主は、アブラハム、イサクと結んだ約束をヤコブと更新し、何処に行こうともヤコブと共にいると語りかけます。夢から覚めたヤコブは、枕石を記念碑として立て、その地をベテル(神の家)と名付けます。(27章41~28章22節)

 

 それでは本日の箇所に入って行きたいと思います。

 創世記第29章から31章にかけての物語は、1つの大きなまとまりを形造っています。

 エサウの長子権と長子の祝福を奪い取ったヤコブは、父イサクの家督相続人となりましたが、エサウの怒りを避けるために単身でベエル・シェバを出発しなければなりませんでした。家督権という大きな財産を得ながらも無一文となったヤコブが、神の導きのうちに妻を得、子供を増やし、財力を蓄えていく繁栄のプロセスがここには描かれております。しかし、ここに登場するのは、策略を巡らす油断ならない義父、2人の相争う姉妹、そして、その間に挟まれた夫ヤコブであり、およそ信仰の物語には似つかわしくない人々です。兄を騙し、父を欺いたヤコブは、義父ラバンに騙されて14年もただ働きをすることになりますが、最後はラバンを出し抜き、家族と財産を携えてカナンの地へ還ります。

 罪深き人間の営みをもご自身の目的のために用いられる神の存在が、改めて感じられる箇所でもあります。

 

 1ヤコブは旅を続けて、東方の人々の土地へ行った。2ふと見ると、野原に井戸があり、そのそばに羊が三つの群れになって伏していた。その井戸から羊の群れに、水を飲ませることになっていたからである。ところが、井戸の口の上には大きな石が載せてあった。3まず羊の群れを全部そこに集め、石を井戸の口から転がして羊の群れに水を飲ませ、また石を元の所に戻しておくことになっていた。4ヤコブはそこにいた人たちに尋ねた。「皆さんはどちらの方ですか。」「わたしたちはハランの者です」と答えたので、5ヤコブは尋ねた。「では、ナホルの息子のラバンを知っていますか。」「ええ、知っています」と彼らが答えたので、6ヤコブは更に尋ねた。「元気でしょうか。」「元気です。もうすぐ、娘のラケルも羊の群れを連れてやって来ます」と彼らは答えた。7ヤコブは言った。「まだこんなに日は高いし、家畜を集める時でもない。羊に水を飲ませて、もう一度草を食べさせに行ったらどうですか。」8すると、彼らは答えた。「そうはできないのです。羊の群れを全部ここに集め、あの石を井戸の口から転がして羊に水を飲ませるのですから。」

                         (29章1~8節)

 

 ベテルでの経験の後、ヤコブは「東方の人々の土地」へたどり着きます。ハランは、ヤコブの故郷であるベエル・シェバの北方に当たりますので、東方ではありません。或いは、ベテルから海岸沿いに北上してから東にルートを変えたのかもしれませんが、その点ははっきりしません。

 ハランが近づくと野原に井戸があり、周囲には羊の群れがおりました。羊に水を飲ませるために羊飼いたちが羊の群れを集めていたのです。井戸には大きな石が蓋としてのせてありましたが、これは、石を外すとその縁から直接、羊の群れが水を飲めるような構造になっていたようです。当時は、水が貴重品であり、26章でも触れましたように、水を巡る争いが頻繁に起きていたことを考えると、蓋を被せることによって、水を勝手に利用されることがないようにしたものと思われます。こうした造りから、そして、野原にあったことを考えると、この井戸は24章でアブラハムの僕がリベカと出会った井戸とは違います。

 ヤコブは、井戸の周囲にいた羊飼いたちに「皆さんはどちらの方ですか。」と尋ねますが、これは、自分のいる場所が何処であるのか知りたくて尋ねたものと思われます。羊飼いたちの答えによって、ヤコブは自分が目的地にたどり着いたことを知り、また、叔父ラバンが健在であり、その娘リベカが間もなくこの井戸にやってくることを知ります。

 ヤコブは、羊飼いたちにすぐに水を飲ませて、もう一度草を食べに連れて行くことを勧めます。これは、ヤコブ自身が羊飼いであり、その経験に照らしたアドバイスであるとも取れますが、間もなくやってくるラケルと二人きりで会ってみたいという思いから出たものであって、不用意な言葉です。ヤコブの思いは、たちどころに羊飼いたちに見抜かれたことでしょう。

 ヤコブの勧めに対して羊飼いたちは「そうはできない」と断わりますが、それは、群れが全部集まってから水を飲ませることが、貴重な共有財産としての水を公平、平和に利用するための方法であって、この地方の慣習であったからです。人手が多く集まらなければ転がせないほど大きな石で蓋がしてあったという理由もあったことでしょう。

 

 9ヤコブが彼らと話しているうちに、ラケルが父の羊の群れを連れてやって来た。彼女も羊を飼っていたからである。10ヤコブは、伯父ラバンの娘ラケルと伯父ラバンの羊の群れを見るとすぐに、井戸の口へ近寄り石を転がして、伯父ラバンの羊に水を飲ませた。11ヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。12ヤコブはやがて、ラケルに、自分が彼女の父の甥に当たり、リベカの息子であることを打ち明けた。ラケルは走って行って、父に知らせた。13ラバンは、妹の息子ヤコブの事を聞くと、走って迎えに行き、ヤコブを抱き締め口づけした。それから、ヤコブを自分の家に案内した。ヤコブがラバンに事の次第をすべて話すと、14ラバンは彼に言った。「お前は、本当にわたしの骨肉の者だ。」          (29章9~14節前半)

 

 そのうちにラケルがやってきました。ラケルも羊を飼い、家のために働いていました。このことは、この時点でラバンに働き手としての息子が他にいなかったことを窺わせます。ラバンの息子が登場するのは20年後(31章1節)で、ヤコブがハランに到着してから生まれたとも考えられるのです。

 ここでヤコブは、思いがけない行動を取ります。この地方の慣習を破り、たった一人で大きな石を転がして井戸の口を開いて、一番遅れてやってきたラケルの羊に最初に水を飲ませたのです。美しい少女ラケルの前で思わず張り切ってしまったという微笑ましい面もあるでしょうが、叔父ラバンに良い報告をしてもらいたいという思いもあって、一人で石を転がすというパフォーマンスを行ったと推察されます。

 ヤコブの突飛な振る舞いは、これだけではありません。自己紹介もしないうちに、ラケルに口づけをし、声をあげて泣いたのです。ラケルの驚きは想像するに余りあります。

 自分に口づけをした相手が、叔母リベカの息子であると知った彼女は、ことの次第を走って父に知らせます。ラバンは、ヤコブを走って迎えにいくと、彼を自分の家に迎え入れ、事情を飲み込むと「お前は、本当に私の骨肉の者だ。」と言います。この「骨肉の者」という表現は、親類であることを意味していますが、その一方で、古代の養子縁組の書式に出てくる表現でもあります。やがて、ヤコブがラバンの養子になることを暗示しているのかもしれません。

 さて、1~14節は、ヤコブとラケルの出会いの場面ですが、この箇所は24章のアブラハムの僕とリベカとの出会いの場面と並行関係にあります。構成が似ている一方で鋭いコントラストをなす箇所もあり、両者を比べて読むことによってイサクとヤコブの結婚の相違点がはっきりするのです。

 イサクの結婚の場合には、父アブラハムが僕をハランに派遣しましたから、自分では何もしませんでした。ヤコブの場合には、追われるようにして故郷を飛び出し、単身ハランに旅しております。

 イサクの結婚場合には、僕が高価な贈り物を多数携え、正式の婚姻契約を結ぶ準備を整えてから出発しておりますが、ヤコブの場合には、何の贈り物の準備もしておりませんでした。ヤコブの両親は、表向きは結婚を理由としてヤコブを送り出した訳ですから、ラバンに対する贈り物が必要であることは十分承知していた筈です。ただ、キャラバンを率いて旅に出れば、兄エサウの追撃を受ける可能性があると考えたのかもしれません。

 イサクの結婚の場合には、僕が町外れの井戸でリベカと出会っています。どの娘がイサクにふさわしいか、僕は神に、自分の描く理想の女性に会わせて欲しいと祈ります。一方、ヤコブの場合には、一目見た瞬間にラケルを好きになってしまったようです。

 イサクの結婚の場合には、婚姻の段取りがつくと、僕はすぐさまリベカを連れて帰ります。しかし、ヤコブの場合には、ラケルと結婚するために長期間の労働に服さなければなりませんでした。

 井戸の近くで伴侶と巡り会うというモチーフは共通でも、細かく見ていけば大きな違いがあり、イサクとヤコブの立場、人物像の違いがそこに表われていると考えられます。

 こうした井戸での出会いのモチーフは、モーセの結婚の場面にも用いられています。

 

 15モーセはファラオの手を逃れてミディアン地方にたどりつき、とある井戸の傍らに腰を下ろした。

 16さて、ミディアンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちがそこへ来て水をくみ、水ぶねを満たし、父の羊の群れに飲ませようとしたところへ、17羊飼いの男たちが来て、娘たちを追い払った。モーセは立ち上がって娘たちを救い、羊の群れに水を飲ませてやった。

 18娘たちが父レウエルのところに帰ると、父は、「どうして今日はこんなに早く帰れたのか」と尋ねた。19彼女たちは言った。「一人のエジプト人が羊飼いの男たちからわたしたちを助け出し、わたしたちのために水をくんで、羊に飲ませてくださいました。」20父は娘たちに言った。「どこにおられるのだ、その方は。どうして、お前たちはその方をほうっておくのだ。呼びに行って、食事を差し上げなさい。」

 21モーセがこの人のもとにとどまる決意をしたので、彼は自分の娘ツィポラをモーセと結婚させた。

                  (出エジプト記2章15~21節)

 

 モーセの場合には、逃亡の旅先で妻となる女性と出会った点はヤコブと共通していますが、結婚を目的とした旅ではなかったこと、自分から結婚を申し出た訳ではなかったこと、姉妹の一人としか結婚しなかったことがヤコブとは異なります。

 このように、旧約聖書において井戸は、イサク、ヤコブ、モーセが伴侶と出会う場所となっておりますが、新約における井戸は、イエスとサマリアの女の出会いの場であり、結婚生活に挫折した罪多き女に対して「永遠の命に至る水」であるイエスご自身を指し示した場として描かれております。

 

 6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。7サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください。」と言われた。8弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。9すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水をのませてほしいと頼むのですか。」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」

                (ヨハネによる福音書4章1~10節)

 

 イエスが出会われたのは、父祖たちが出会った未婚の乙女ではなく、5人の男性と結婚を繰り返し、今は夫以外の男性と同棲している女性であったことは、同じ井戸を舞台としているだけに対照的です。

 父祖たちは、井戸での出会いをきっかけとして結婚することになり、井戸の水は、人生の喜びをもたらす命の水であるかのように見えますが、彼らの結婚生活は決して幸福なものではありませんでした。それに対し、サマリアの女は、何度も結婚生活が破綻し、人生に疲れ果てた挙句にイエスと出会いました。そして、井戸の水から真の命の水へと導かれて行くのです。

 

 14ヤコブがラバンのもとにひと月ほど滞在したある日、15ラバンはヤコブに言った。「お前は身内の者だからといって、ただで働くことはない。どんな報酬が欲しいか言ってみなさい。」(29章14~15節)

 

 13節で「ヤコブがラバンに事の次第をすべて話すと」と書かれていることから、ヤコブは、自分がベエル・シェバでしでかした不始末-エサウと折り合いがうまくいかなくなった理由-を、暖かく迎えてくれたラバンにある程度は話して聞かせたことが窺われます。しかし、これはヤコブにとっては出来ることなら隠しておきたい事柄であり、結婚相手を探しに来たことを強く印象づけたのかもしれません。

 多分、「以前、父イサクが叔父上の妹である母リベカと結婚したように、私も、このハランの地から妻を娶るようにと言われたのです。兄のエサウは、カナンの女性を妻に迎えたお陰で父母の興を損ね、弟の私が長子権を受け継ぐことになりました。エサウは、それを面白くなく思っているようで、しばらく彼から身を遠ざけておきたいのです。」とでも言ったのでしょう。

 最初のうちは、ラバンのヤコブに対する気持ちは、肉親の情にあふれた純粋なものでしたが、イサクがリベカを妻に娶った時とは違って、高価な贈り物を持っている気配のない甥のヤコブをうさん臭く思う気持ちは拭えません。次第にラバンの疑いが膨らみ、ヤコブの真意を確かめようとして切り出したのが15節の言葉でした。贈り物なしに妻を娶りたければ、それ相応の労働をするのが当然であり、また、当時の慣習でもあったのです。

 ここで、ラバンが切り出した言葉は、いわばパレスチナの駆け引き上手な商人たちが市場で交渉する時に口火を切る言葉のようなもの。ヤコブは、労働の対価としてなるべく高価な報酬を求めるべきであり、妻を娶りたければ、対価としての労働がなるべく少なくなるように交渉すべきでありました。アブラハムがロトを救おうと、神を相手に交渉する場面を思い起こして下さい(創世記18章22~33節)。ソドムの町を救うために必要とされた義人の数は、最初の50人が、最後には10人にまで値切られていきます。こうした交渉術は、当時のパレスチナでは当り前のことだったのです。

 ところが、ヤコブの応答は予想もしないものでした。

 

 16ところで、ラバンには二人の娘があり、姉の方はレア、妹の方はラケルといった。17レアは優しい目をしていたが、ラケルは顔も美しく、容姿も優れていた。18ヤコブはラケルを愛していたので、「下の娘のラケルをくださるなら、わたしは七年間あなたの所で働きます」と言った。19ラバンは答えた。「あの娘をほかの人に嫁がせるより、お前に嫁がせる方が良い。わたしの所にいなさい。」20ヤコブはラケルのために七年間働いたが、彼女を愛していたので、それはほんの数日のように思われた。(29章16~20節)

 

 ラバンには2人の娘がおり、姉はレア(雌牛)、妹はラケル(雌羊)といいました。ラケルの方が容貌も美しく、ヤコブの歓心を引いたようです。

 「レアは優しい目をしていた」という部分は解釈が難しい箇所ですが、恐らくは、目の色が悪く、艶がない様子を表わしていると思われます。ラケルの方が目に輝きがあり、それが美しさと結び付いていたのでしょう。

 このラケルとの結婚を望んでいたヤコブは、ラバンが自分の要求を述べる前に「わたしは7年間あなたの所で働きます」と申し出ます。この7年間の労働は、美しいラケルとの結婚の代償としてもかなり長い期間であったようです。狡猾なラバンの打算をもってしても満足せざるを得ない対価であり、絶対に結婚を拒否されたくないというヤコブの強い決意を述べたものと考えられます。強い決意といえば聞こえは良いですが、愛する女性と結婚するためには、いかなる対価をも支払うということを暴露したに過ぎません。ここにはヤコブの策略家としての面はなく、純情な青年の面影が目に浮かぶようです。

 それを聞いたラバンの応答は、しかし、きわめて曖昧なものでした。重要な点をぼかして何とでも解釈できるような答えになっています。「ラケル」とは言わずに「あの娘」と言い、期間についても「7年で良い」とは言わずに、「わたしの所にいなさい。」と言って、契約のポイントを曖昧にした点に注意しなければなりません。ラバンから、はっきりと「7年経ったらラケルと結婚させる」という確認を得ておかなかった点に、ヤコブの若さと純粋さが見て取れます。ラバンがヤコブに様々な誤魔化しを行うことになるのは、このときのやり取りが遠因になっているのではないでしょうか。

 ところで、法的な観点から見れば、二人のやり取りは結婚の約束を意味し、この時点で婚資金(花嫁の値)を労働の報酬で支払うという婚約契約が成立したと思われます。通常は家父長同士が行うもので、この場合は異例ですが、ヤコブはイサクから家督を相続しているので家父長として一応の資格はありました。イサクの結婚の場合には、アブラハムが段取りのほとんど全てを取り仕切りましたが、ヤコブは、自分で全てをとり行い、婚資金も自分自身の労働によって支払うことになります。穏やかで争いごとを好まなかったイサクと違い、何としてでも自分の求めるものを得ようというヤコブの性格の強さは、こうした経験を経て更に際立ったものとなっていきます。

 

 21ヤコブはラバンに言った。「約束の年月が満ちましたから、わたしのいいなずけと一緒にならせてください。」22ラバンは土地の人たちを皆集め祝宴を開き、23夜になると、娘のレアをヤコブのもとに連れて行ったので、ヤコブは彼女のところに入った。24ラバンはまた、女奴隷ジルパを娘レアに召し使いとして付けてやった。25ところが、朝になってみると、それはレアであった。ヤコブがラバンに、「どうしてこんなことをなさったのですか。わたしがあなたのもとで働いたのは、ラケルのためではありませんか。なぜ、わたしをだましたのですか」と言うと、26ラバンは答えた。「我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ。27とにかく、この一週間の婚礼の祝いを済ませなさい。そうすれば、妹の方もお前に嫁がせよう。だがもう七年間、うちで働いてもらわねばならない。」28ヤコブが、言われたとおり一週間の婚礼の祝いを済ませると、ラバンは下の娘のラケルもヤコブに妻として与えた。29ラバンはまた、女奴隷ビルハを娘ラケルに召し使いとして付けてやった。30こうして、ヤコブはラケルをめとった。ヤコブはレアよりもラケルを愛した。そして、更にもう七年ラバンのもとで働いた。

 

 ラバンと約束した7年の歳月はあっという間に過ぎ、いよいよラケルと結婚できる日が近づきました。離れ離れになっているならばともかく、ラケルと身近に過ごせたために、長さを感じなかったのです。

 ヤコブは、約束の期間が終わった時に、ラケルとの結婚を求めました。契約を結んだことですから、ラバンもそれに応じ、ハランの習慣に従って祝宴を開きます。

 ラバンの誤魔化しは、正にこの時に行われます。ラバンがヤコブの許に連れて行ったのは、ラケルではなく、姉のレアでした。ヤコブがこの誤魔化しを見抜けなかったのは、姉妹の物腰が似ていたこと、夜の暗さが識別を困難にしていたこと、そして、祝宴の際には新婦は顔をヴェールで覆わなければならない習慣のためでした。

 私たちは、誤魔化したことの責任をラバンに求めてしまいますが、レアが一言、「私はラケルではありません。レアです。」と言えば誤魔化しは露見した筈。レア自身が積極的に誤魔化しに荷担したからこそ、ヤコブは騙されたのです。父の言うがままにヤコブを騙したレアにも、責任を問わなければなりません。

 一方、ラバンとレアが悪人であって、ヤコブは二人に騙された犠牲者であるとは単純に言えません。目の見えない老いた父を、声色や肌の感触を真似て兄エサウと誤解させて祝福を奪い取ったのは、ヤコブでした。自分が父親にしたのと同じことをされただけなのです。ヤコブの怒りは大きかったに違いありませんが、後ろめたい過去がストレートな怒りとなるのを妨げたのではないでしょうか?

 ヤコブの怒りの大きさを計算していたラバンは、「なぜ、わたしをだましたのですか?」と詰め寄られても「我々の所では、妹を姉より先に嫁がせることはしないのだ」と言い逃れます。確かに、これはハラン地方の慣習であったようです。しかし、ラバンほどの打算の持ち主であれば、高額な婚資金さえ手に入るなら、姉を差し置いて妹を嫁がせる位のことはやってのけることでしょう。やはり、言い逃れ以外の何物でもありません。

 結局、婚宴の後にラケルを妻として迎えることが出来ましたが、レアとラケルの二人と結婚する対価として、ヤコブは14年間もの長い期間をラバンのために働くことになりました。ラバンは、ヤコブを巧みに騙すことによって、娘たちを手元に留めた上、14年間もヤコブをただ働きさせることが出来たのです。全ては、ラバン自身の利益のためであり、レアとラケルは利益を得るための道具でした。こうした打算的な態度の故に、やがてラバンは、娘たちからも背かれるようになっていきます。

 

 <結 び>

 ベテルを出発したヤコブは、ハラン近くの野原の井戸でラケルと出会います。1ヵ月後、ラバンに労働の報酬を尋ねられたヤコブは、ラケルを妻として迎える代わりに7年間働くと申し出ますが、ラバンの策略によってレアとの結婚を余儀なくされ、ラケルを妻とするために14年間も働かなければならなくなりました。ヤコブは、イサクとエサウを騙して長子権と長子の祝福を奪い取りましたが、今度は、逆にラバンに騙されて手玉に取られていくのです。しかし、叔父と甥の騙し騙されるどろどろした人間の営みの中に、神は静かに働いていきます。ヤコブの望まなかったレア、ラバンの打算によって無理やり結婚させられてしまったレアから、やがてイスラエルの祭司職につながるレビ、そして、ダビデ王からキリストにつながるユダが生まれるのです。このことは、ヤコブの思いを超えた神の摂理であり、神は、罪深き人間の行為をもご自分の計画のためにお用いになるのです。

 

<今回の参考書>

 

「創世記」(関根正雄訳 岩波文庫)/「創世記」(月本昭男訳 岩波書店)/「創世記講義」(政池仁著 聖書の日本社)/「現代聖書注解 創世記」(ブルッグマン著 日本基督教団出版局)/「ケンブリッジ旧約聖書注解 創世記」(デヴィッドソン著 新教出版社)/「新聖書注解 旧約Ⅰ」(いのちのことば社)