旧約聖書の旅「創世記」第23回「ヤコブの子供たち」(小山哲司)

「ヤコブの子供たち」 旧約聖書の旅23

 

2000.2.27 小山 哲司

 前回のレポートでは創世記29章1節~30節を取り上げ、ハランに着いたヤコブが叔父ラバンのもとで働き、レア、ラケルの姉妹と結婚した経緯について学びました。本日は29章31節~30章24節を取り上げますが、その前にこれまで学んできたことを振り返っておきたいと思います。

 アブラムは、神の祝福の言葉によってカルデアのウルを、そしてハランの地を後にしました。神は、アブラムの子孫が繁栄して約束の地を受け継ぐのだと語りかけます。

 ところが、飢饉を避けて下って行ったエジプトで、妻サライはファラオの宮廷に召し入れられてしまいました。神の介入によってサライを取り戻したアブラムは、エジプトからカナンの地へと戻ります。(創世記12章)

 ベテルとアイの間の所までやってくると、アブラムとロトの牧童たちの間に遊牧地を巡る争いが持ち上がってきます。アブラムは、土地を選択する権利をロトに譲ってしまいます。(13章)

 その後、東方の王たちがカナンを侵略し、ソドムの王たちを撃破してロトを奪い去りますが、アブラムの追撃に破れます。アブラムは、ここでは雄々しい戦闘指揮官として描かれています。(14章)

 これらのことの後、幻の中で「あなたの受ける報いは非常に大きい」という主の言葉がアブラムに臨みます。アブラムは満天の星を見つめながら自分自身の子供が誕生して子孫が増えることを信じます。

 その後、主なる神はアブラムに牝牛などの動物を半分に引き裂き、向かい合わせに置くように命じます。やがて、辺りが闇に包まれた頃、煙をはいた炉と燃えた松明が引き裂かれた動物の間を通りますが、これは神がアブラムと契約を結ばれたしるしでした。(15章)

 こうして繰り返し臨む神の約束の言葉にも関わらず、一向に懐妊する兆しのないサライは、女奴隷ハガルによって母となろうと企てます。

 これは、当時行われていた習慣に乗っ取ったことでしたが、アブラムとサライ、そしてハガルの間に亀裂が走ります。

 身ごもったハガルは、サライの仕打ちに耐え兼ねて、また、子供を自分自身の子としたいと願って逃亡しますが、御使いの姿をとられた主にサライのもとに戻るように示され、やがて誕生する子供が繁栄するという約束を受けます。(16章)

 ハガルがイシュマエルを産んでから13年後に、主は再びアブラハムに現われます。この時、アブラハムは99歳になっておりました。

 主は、アブラムの子孫を繁栄させ、土地を所有させるという契約を繰り返し、アブラハムと改名するように命じます。彼はまだ一片の土地すらも自分の所有とはしておりませんでしたが、神はカナンの土地が永久にアブラハムとその子孫の所有地であると宣言し、約束のしるしとして一族の男子はすべて割礼を受けるように命じます。

 割礼の求めに続いて、神はイサクの誕生をアブラハムに予告します。

 アブラハムは、サラが子供を生むという神の言葉を笑いますが、神は1年後にはイサクが誕生し、それが神が契約を結ぶべきアブラハムの子孫であると宣言します。神の言葉を受け、アブラハムはその日のうちに一族の男子すべてに割礼を施します。(17章)

 イサクの誕生を予告した神は、旅人の姿をとって天幕を訪れ、アブラハムから手厚くもてなされます。その際にも、来年の今ごろサラに男の子が誕生すると予告しますがサラはそれを笑います。

 神の一行はアブラハムのもとを出立し、見送るアブラハムにソドムを滅ぼすことを示します。アブラハムは、ソドムに少しでも正しい者がいれば滅ぼさないで欲しいと懇願し、正しい者の数を50人、40人と減らしていき「10人の正しい者がいれば滅ぼさない」という神の約束を取り付けます。ここには、罪なき者には罪ある者を救う力があるという思想が表われており、神とアブラハムとの交渉は緊迫したドラマを展開します。(18章)

 ソドムの町に入った二人の御使いは、ロトの家に招き入れられます。夜中に町の男たちが二人の御使いを引き渡すように迫りますが、御使いの目潰しによって難を逃れます。御使いから神がソドムを滅ぼすと聞かされたロトは、御使いに手を取られて妻と二人の娘と一緒に町の外へと連れ出されます。山へ逃げよという神の命に背いてロトはツォアルに逃げ、やがて山の中の洞穴に移り住みます。山の中では結婚相手が見つからないことに悩んだ二人の娘は父親であるロトによって子を得ます。(19章)

 アブラハムはゲラルに移動し、そこでサラを妹と偽りますが、そのお陰でゲラルの王アビメレクによってサラが召し入れられます。アビメレクは夢に現われた神に「召し入れた女の故にお前は死ぬ。・・・直ちにあの人の妻を返しなさい。彼は予言者だから、あなたのために祈って命を救ってくれるだろう。・・・もし返さなかったら、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬ」と命じられ、翌朝、アブラハムを呼びつけます。アブラハムはアビメレクに弁明し、「サラは実際に妹でもあるのです」と苦しい言い訳をしますが、異教の王によって倫理的な過ちを糾弾されたのは屈辱的な経験だった筈です。一方、過ちを犯さなかった者(アビメレク)が、過ちの原因を与えた者(アブラハム)の祈りによって救われ、そのために祈りの報酬として多額の贈り物までしなければならなかったとは、真に不可思議で興味深いこと。アブラハムは欠点が多く、倫理的、信仰的に疑問を抱かざるを得ない人物です。彼自身に価値はなくとも、神の一方的な恩恵によって諸国民に生命を与える器として選ばれたといえるでしょう。(20章)

 主なる神が約束された時期にサラに男子が誕生し、イサクと名付けられました。イサクとは「笑い」という意味。イサク誕生の喜びの笑いであると同時に、神の約束に対するサラとアブラハムの不信の笑いをも意味するものでした。やがて、サラはハガルとイシュマエルを追放することを求めます。アブラハムは少しばかりの水と食料を持たせて二人を送り出しますが、間もなく水が尽き、ハガルはイシュマエルが死ぬことを覚悟します。しかし、神の御使いが現われて「わたしはかならずあの子を大きな国民とする」と言い、ハガルは水のある井戸を発見します。このように旧約の神はイサクを約束の子として選んだ「選び」の神でありますが、たとえ選びの外側にいる者に対しても恵み豊かな神であることを忘れてはなりません。(21章)

 神はアブラハムを試みようとして「イサクを燔祭の犠牲として献げよ」と命じます。アブラハムは、従者とイサクを連れてモリヤの地へと向かいますが、薪を背負ってモリヤの地へと歩むイサクの姿は、十字架を背負ってゴルゴダの丘に向かうイエスの姿を彷彿とさせます。心に激しい痛みを抱えながらも愛子を献げようとしたアブラハムの信仰は、イエスを地上に送った父なる神の痛みになぞらえることができるかもしれません。

 正にイサクを屠ろうとした時、神はアブラハムを制止して、イサクの代わりとなる雄羊を示されます。この後、アブラハムは主役の座をイサクに譲り、旧約の舞台から静かに退場していくのです。(22章)

 サラは127年の生涯を全うしてヘブロンの地でなくなり、アブラハムは埋葬のために墓地を求めてヘト人たちと交渉します。そして、ヘト人エフロンからマクペラの洞窟と畑を購入しますが、その代価は驚くほど高額なものでした。アブラハムは一切値切ろうともしないで、エフロンの言い値のとおりに代金を支払います。武力で占拠しようと思えばいくらでもできたであろうアブラハムが、このように平和的な手段で土地を購入したという点に、アブラハムの成熟した信仰と人柄を見ることが出来ます。(23章)

 アブラハムは、イサクに妻を迎えようと僕をナホルの町に遣わします。僕は、ナホルの町外れの井戸で親切な娘リベカと出会い、彼女がイサクの妻となるべき女性であると確信します。リベカは、僕の申し出を受け入れてイサクの妻となる決心を固め、カナンへと旅立ちますが、ここには、自立した女性としてのリベカの姿が表われています。(24章)

 アブラハムにはケトラを通しても多くの子孫が誕生しましたが、その子孫の名前は周辺種族の名前と一致し、また、ハガルから誕生したイシュマエルの子孫の名前も周辺種族の名前と一致します。これは、イスラエルと周辺の種族との関係の深さを示すものです。一方、イサクを通して誕生したエサウとヤコブの兄弟には性格の違いがあり、ヤコブは、エサウの長子権を一杯のレンズ豆の煮物と引き換えに奪ってしまいます。(25章)

 飢饉を避けるためエジプトに下ろうとしたイサクに神の言葉が臨み、イサクはゲラルに滞在します。この時、主がアブラハムと結ばれた契約がイサクと更新されました。イサクはリベカを自分の妹だと偽りますが、王アビメレクに二人が夫婦であることを気付かれてしまいます。富み栄えたイサクはアビメレクによって追い出され、ゲラルの谷に移動しますが、そこでは井戸を巡る争いが生じます。争うことなく次々に井戸を掘り当てるイサクのもとをアビメレクが訪れ、二人は契約を結びます。(26章)

 臨終の床に就いたイサクは、長子としての祝福を与えようとエサウを呼びます。イサクは、祝福を与える前に料理を食べたいと言い、エサウは獲物を獲りに出かけます。二人のやり取りを聞いていたリベカは、ヤコブをそそのかしてイサクの祝福を横取りするように仕向けます。ヤコブは、声色を真似、毛皮を腕に巻き付けてイサクを騙し、エサウの受けるべき祝福を受けます。その直後にやってきたエサウは、自分のために祝福は残っていないのかと悲痛な声をあげて求めますが、イサクが彼に与えた「祝福」は、およそ祝福という言葉からはほど遠いものでした。(27章1~40節)

 長子の祝福を奪われたエサウの怒りから逃れるため、そして、叔父ラバンの娘の中から結婚相手を選ぶために、ヤコブはベエル・シェバからハランに向けて旅立ちます。旅の途中で、彼は天から下る階段を天使が昇り降りする夢を見ます。夢に登場した主は、アブラハム、イサクと結んだ約束をヤコブと更新し、何処に行こうともヤコブと共にいると語りかけます。夢から覚めたヤコブは、枕石を記念碑として立て、その地をベテル(神の家)と名付けます。(27章41~28章22節)

 ベテルを出発したヤコブは、ハラン近くの野原の井戸でラケルと出会います。1ヵ月後、ラバンに労働の報酬を尋ねられたヤコブは、ラケルを妻として迎える代わりに7年間働くと申し出ますが、ラバンの策略によってレアとの結婚を余儀なくされ、ラケルを妻とするために14年間も働かなければならなくなります。ラバンの打算によって無理やり結婚させられてしまったレアから、やがてイスラエルの祭司職につながるレビ、そして、ダビデ王からキリストにつながるユダが生まれます。(29章1~30節)

 

 創世記第29章から31章にかけての物語は、1つの大きなまとまりを形造っています。

 長子権と祝福を奪い取ったヤコブは、父イサクの家督相続人となりましたが、兄エサウの怒りを避けるためにベエル・シェバを去らなければなりませんでした。家督権を得ながらも無一文となったヤコブが、神の導きのうちに家族を増やし、財力を蓄えていく繁栄のプロセスがここには描かれております。しかし、ここに登場するのは、策略を巡らす油断ならない義父、2人の相争う姉妹、そして、その間に挟まれた夫ヤコブであり、およそ信仰の物語には似つかわしくない人々。兄を騙し、父を欺いたヤコブは、今度は義父ラバンに騙されて14年もただ働きをすることになりますが、最後はラバンを出し抜き、家族と財産を携えてカナンの地へ還ります。

 本日取り上げる29章31節~30章24節には、ヤコブの子どもたちの誕生の経緯が記されています。

 この場面で誕生する子どもは、男子が11名、女子が1名です。後に、もう一人の男子(ベニヤミン)が誕生し、ヤコブの子どもは、男子12名、女子1名ということになります。彼らのうち、男子12名は、やがてイスラエルの12部族各々の始祖とされます。しかし、ここから、逆に、イスラエルの12部族がヤコブの子孫であり、強い血縁で結ばれた親族であると関係づけるために始祖たちの誕生譚が創世記に盛り込まれたのではないかと考えられています。

 ヤコブに息子がいたこと自体は確かにせよ、その数がイスラエルの部族とぴったり一致する12名であり、彼らの一人一人がイスラエル国家の12部族連合を構成する氏族を創始したという点が、後代の創作であると思われる理由です。実際に12名の息子がいて、彼らがイスラエル国家を形成していったと考えるよりは、イスラエルの12部族が実在の個人(ヤコブの息子)に由来する物語を創作したと考えた方が、国家の成り立ちの説明としては自然です。また、ヤコブの12人の息子たちのうち、具体的な個人として物語に登場するのはほんの数人-とりわけヨセフ、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、ベニヤミン-しかおりません。こうした息子たちが実在したことは否定出来ないにせよ、12人全てが実在したとは言えず、核となる事実はあったにせよ、虚構に彩られた誕生譚と言って差し支えありません。

 私たちは、むしろ、創世記の編者たちがまとめた物語の中に、イスラエル国家の形成が、アブラハム-イサク-ヤコブに関わられた神の選びと導きによるのだという神学的な思唯を見い出すことができると思われます。

 こうしたことを前提としながら、具体的な聖書の内容に入っていきたいと思います。

 

 31主は、レアが疎んじられているのを見て彼女の胎を開かれたが、ラケルには子供ができなかった。32レアは身ごもって男の子を産み、ルベンと名付けた。それは、彼女が、「主はわたしの苦しみを顧みて(ラア)くださった。これからは夫もわたしを愛してくれるにちがいない」と言ったからである。33レアはまた身ごもって男の子を産み、「主はわたしが疎んじられていることを耳にされ(シャマ)、またこの子をも授けてくださった」と言って、シメオンと名付けた。34レアはまた身ごもって男の子を産み、「これからはきっと、夫はわたしに結び付いて(ラベ)くれるだろう。夫のために三人も男の子を産んだのだから」と言った。そこで、その子をレビと名付けた。35レアはまた身ごもって男の子を産み、「今度こそ主をほめたたえ(ヤダ)よう」と言った。そこで、その子をユダと名付けた。しばらく、彼女は子を産まなくなった。(29章31~35節)

 

 ヤコブの息子たちについて書かれている箇所は、資料説の立場では、J資料を根幹としつつ、所どころにE資料が混じり、両者が混在していると説明されます。これは、息子たちの名前の由来について、E資料を基にしたものがあると考えられるからです。名前の由来が2つ挙げられている場合は、J資料とE資料が混在しているからだと説明できます。

 ここには、ヤコブとレア・ラケルの姉妹が登場しますが、ヤコブの影は薄く、終始、レアとラケルの姉妹が場面をリードします。ヤコブの息子たちの誕生をリードしたのは、夫であるヤコブではなく、妻であるレア・ラケルであったことは注目されます。子どもたちの名前を付けるのも、ヤコブではなく妻たちでした。こうした点から、ヤコブの家における妻たちの存在の大きさがうかがわれます。

 「主は、レアが疎んじられているのを見て、彼女の胎を開かれた」とありますが、二人の登場人物の片方が神によって選ばれるというパターンは、創世記には随所に見られます。4章のカインとアベルの物語では、弟アベルの献げ物に神は目を留め、兄カインの献げ物には目を留めませんでした。その結果、怒ったカインは、弟アベルを殺してしまいます。アブラハムの息子イサクとイシュマエルも、兄として誕生したイシュマエルは約束の子とはならずに追い出され、弟のイサクが約束の子としてアブラハムの家督を相続します。また、エサウとヤコブの兄弟も、弟ヤコブが兄の長子権と祝福を奪って父イサクの家督を相続しますが、神はこうしたヤコブに対し、アブラハム・イサクと結んだ契約を更新します。

 創世記に現れる神はこのように選びの神であり、歴史に介入しては様々な選びを行いますが、その特徴は、人間の思いを超えた選びが行われるということと、拒まれた者、望まれない者に対する思いやりある関与が示されるということです。レアの胎が開かれたということも、ヤコブがラケルを好み、レアを疎んじたことによります。こうした弱い立場の者に対する神の関わり方には、旧約聖書においても神の本質が愛であることが表われています。

 一方、夫の愛を受けたラケルの胎は閉ざされ、長く不妊のままで過ごさなければなりませんでした。愛されない者が子を与えられ、愛された者が不妊である点で、サラ、リベカの場合と同様でした。愛された者が不妊の苦しみを味わうというパターンも、聖書の随所に登場します。サムエルの母ハンナも、もう一人の妻ペニナには子どもがあったのに長く不妊で過ごさなければなりませんでしたし(サムエル記上1章)、バプテスマのヨハネの母エリサベトも長く不妊の苦しみを味わいました(ルカ福音書1章)。

 さて、胎を開かれたレアは身ごもって男の子を産みます。彼女は、その男の子をルベンと名付けます。「ルベン」という名前自体の持つ意味は「見よ、子ども!」ですが、レアは「ルベン」と名付けた理由を「主はわたしの苦しみを顧みて(ラア)くださった。これからは夫もわたしを愛してくれるに違いない」と説明しています。しかし、これは、語源の説明にはなっておりません。多分、男子が誕生した時に発した言葉「見よ、子ども!(ルベン)」がそのまま名前となり、その時の思いを命名の理由として説明しているのだと思われます。この説明には、夫に顧みられることのない妻の悲しみが込められています。しかも、夫の心をひいている女性が自分の実の妹であったのです。ヤコブが寄留したハランでは姉妹を同時に妻とすることが認められておりましたが、レビ記(18章18節)はこれを禁じております。こうした禁止規定の背後には、レアとラケルの争いの記憶があったものと思われます。

 

 あなたは妻の存命中に、その姉妹をめとってこれを犯し、妻を苦しめてはならない。                  (レビ記18章18節)

 

 レアはルベンに次いでシメオンを産みます。「シメオン」の意味は、「神がお聞きになった」ですが、これは、レアが説明の中で述べていることと一致します。ルベンの誕生にも関わらず、レアはヤコブに顧みられることがなく、相変わらず疎んじられていたのです。

 シメオンに続いてレビを産みますが、「レビ」の意味ははっきり分かりません。レアは「夫はわたしに結び付いて(ラベ)くれるだろう」と説明していますが、「結び付く」「同伴する」を意味する「ラベ」と「レビ」の関係ははっきりしないのです。

 ルベン、シメオン、レビの3人を産んだ時のレアの思いは、名前の由来の説明の中に率直に述べられています。レアはヤコブを愛していましたが、ヤコブの思いは妹のラケルに向けられ、子どもを産んだからとってそれが変わる訳ではありませんでした。変わらないことを薄々は知りながらも、夫の心を自分に向けさせようとして次々に子どもを産んでいったレアの思いは悲痛なものだったと思われます。

 レアが次に産んだ男の子は、「ユダ」と名付けられます。「ユダ」の意味もはっきりしません。命名の由来は、「今度こそ主をほめたたえ(ヤダ)よう」と説明されていますが、新共同訳聖書で(ヤダ)とされている部分は、ヘブライ語原典では「オデー」となっており、「ユダ」と「オデー」にははっきとした関連が見い出されないのです。

 ここで注目すべきことは、純粋に主を賛美する言葉を述べていることです。子を得るに従ってヤコブがレアに対する態度を変えてきたのか、子を得たことでレア自身に精神的な落ち着きが出て来たのか、いずれにしても、純粋に主を賛美する言葉を述べていることに注意したいと思います。

 レアの出産はこの4人で一時中断しますが、4人の中で最後に生まれたとされるユダは、イスラエルの12部族のうちでも南方の有力部族となっていきます。ヤコブは、臨終の床で12名の息子たち全員を祝福しますが、ユダに対する祝福の言葉は次のようなものでした。

 

 ユダよ、あなたは兄弟たちにたたえられる。

 あなたの手は敵の首を押さえ

 父の子たちはあなたを伏し拝む。

 ユダは獅子の子。

 わたしの子よ、あなたは獲物を取って上って来る。

 彼は雄獅子のようにうずくまり

 雌獅子のように身を伏せる。

 誰がこれを起こすことができようか。

 王笏はユダから離れず

 統治の杖は足の間から離れない。

 ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。

 彼はろばをぶどうの木に

 雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ。

 彼は自分の衣をぶどう酒で

 着物をぶどうの汁で洗う。

 彼の目はぶどう酒によって輝き

 歯は乳によって白くなる。        (創世記49章8~12節)

 

 ここで述べられていることは、勝利、リーダーシップ、そして繁栄であり、ユダの将来が輝かしい祝福に包まれたものとなることを暗示しています。ダビデ王が出て来るのはユダ族からであり、更にはイエス・キリストもユダ族の末裔であるとされます。

 夫に疎んじられ、悲しみにくれていた妻レアから、イスラエルの要となり、救い主に繋がる家系が始まったことに、改めて神の選びの不可思議さが感じられます。

 

 1ラケルは、ヤコブとの間に子供ができないことが分かると、姉をねたむようになり、ヤコブに向かって、「わたしにもぜひ子供を与えてください。与えてくださらなければ、わたしは死にます」と言った。2ヤコブは激しく怒って、言った。「わたしが神に代われると言うのか。お前の胎に子供を宿らせないのは神御自身なのだ。」3ラケルは、「わたしの召し使いのビルハがいます。彼女のところに入ってください。彼女が子供を産み、わたしがその子を膝の上に迎えれば、彼女によってわたしも子供を持つことができます」と言った。4ラケルはヤコブに召し使いビルハを側女として与えたので、ヤコブは彼女のところに入った。5やがて、ビルハは身ごもってヤコブとの間に男の子を産んだ。6そのときラケルは、「わたしの訴えを神は正しくお裁き(ディン)になり、わたしの願いを聞き入れ男の子を与えてくださった」と言った。そこで、彼女はその子をダンと名付けた。7ラケルの召し使いビルハはまた身ごもって、ヤコブとの間に二人目の男の子を産んだ。8そのときラケルは、「姉と死に物狂いの争いをして(ニフタル)、ついに勝った」と言って、その名をナフタリと名付けた。(30章1~8節)

 

 姉レアには4人男子が誕生しましたが、ラケルには子どもが誕生する気配はありません。ラケルは、姉をねたむようになります。

 遊牧民の社会においては、大家族の父は特に祝福された者とみなされましたが、母も同様でした。多くの子どもを産んだ母親は、町の門でほめたたえられたといいます。一方、不妊の女性は祝福を欠くだけでなく、女性に臨み得る最大ののろいを受けたという見方もありました。これは、母となる望みが満たされないという個人的な苦しみばかりではなく、社会的にも苦痛を味わわされたことを意味しています。ラケルのねたみの背後には、こうした出産に対する考え方がありました。ラケルが「与えてくださらなければ、わたしは死にます」といったことは、次々に子どもを産むレアと過ごす一日一日が心に突き刺さり、ついに忍耐の限度を超えたことを示しています。

 子どものできない女性の置かれた状況、そしてその苦しみは、サムエルの母ハンナの物語に端的に示されています。

 

 エルカナには二人の妻があった。一人はハンナ、もう一人はペニナで、ペニナには子供があったが、ハンナには子供がなかった。

 エルカナは毎年自分の町からシロに上り、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげていた。シロには、エリの二人の息子ホフニとピネハスがおり、祭司として主に仕えていた。いけにえをささげる日には、エルカナは、妻ペニナとその息子たち、娘たちにそれぞれの分け前を与え、ハンナには一人分を与えた。彼はハンナを愛していたが、主はハンナの胎を閉ざしておられた。彼女を敵と見るペニナは、主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた。毎年このようにして、ハンナが主の家に上るたびに、彼女はペニナのことで苦しんだ。今度もハンナは泣いて、何も食べようとしなかった。夫エルカナはハンナに言った。「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ何も食べないのか。なぜふさぎ込んでいるのか。このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか。」  (サムエル記上1章2~8節)

 

 ハンナは、夫の優しい慰めの言葉にも関わらず、悩み嘆いて主に祈りながら泣き続けます。こうした祈りが主に聞き届けられ、間もなくハンナはサムエルを産むのです。

 ラケルはハンナのように神には祈らず、夫ヤコブに「わたしにもぜひ子供を与えてください。」と迫っていきますが、ヤコブは「お前の胎に子供を宿らせないのは神御自身なのだ」と怒って答えます。ヤコブが怒ったのは、ラケルによる祝福(子供の誕生)を考えていたのに、事実は全く別の方向を辿っていることへの焦り、苛立ちがあったためだと思われます。しかし、ヤコブが答えた言葉自体は、まことに信仰者にふさわしい言葉でした。狡猾な詐欺師としての顔と信仰者としての顔が交錯する点に、ヤコブの複雑な人間性が表われています。

 神の名を挙げて怒る夫を尻目に、ラケルは、何としても子供を得たいと人間的な方策にこだわり、召使のビルハによって母となろうと企てます。夫ヤコブの祖母サラが行ったと同じことをしようというのです。ここで、「わたしがその子を膝の上に迎えれば」という箇所がありますが、この表現は、ビルハが子供をラケルの子として産むという意味であり、ラケルが産んだのと同じことになります。サラの場合もそうでしたが、心静かに神の計画が実現するのを待つことができず、人間的な方策に頼ってしまう姿には、どうしても自分の子を持ちたいという強い願いが感じられます。

 ヤコブは、ラケルの申し出を受けて早速ビルハのところに入りますが、こうした態度はアブラハムにも見られました。妻に子供が生まれない場合には、その召使である女奴隷によって子を得ることが当時の習慣ではありましたが、神の御心を口にした直後にもかかわらず、ラケルの求めに応じた点に、ヤコブの優柔不断さが表われています。

 こうして、ビルハによって得られた子供を、ラケルはダンと名付けます。命名の理由を「わたしの訴えを神は正しくお裁き(ディン)になり」と説明していますが、ここでの「裁き」は、ラケルの立場を弁護して下さるという意味で使われています。

 ビルハは、ダンに続いてナフタリを産みます。ナフタリの意味ははっきりしません。ラケルは、「姉と死に物狂いの争いをして(ニフタル)、ついに勝った」と説明していますが、「死に物狂いの争い」とは、原語を直訳すれば「神の争いを争った」となり、「人間を超えた力だけが解決できるような争いをした」「運命を左右するような争いをした」という意味です。いずれにせよ、レアの子供の誕生によって、ヤコブの心がレアに向かうのを何とかして防ぐことが戦いの内容でした。

 

 9レアも自分に子供ができなくなったのを知ると、自分の召し使いジルパをヤコブに側女として与えたので、10レアの召し使いジルパはヤコブとの間に男の子を産んだ。11そのときレアは、「なんと幸運な(ガド)」と言って、その子をガドと名付けた。12レアの召し使いジルパはヤコブとの間に二人目の男の子を産んだ。13そのときレアは、「なんと幸せなこと(アシェル)か。娘たちはわたしを幸せ者と言うにちがいない」と言って、その子をアシェルと名付けた。                (30章9~13節)

 

 ラケルがビルハによって子供を得ると、レアもそれに習って召使のジルパをヤコブに差し出します。4対0のリードを4対2に詰め寄られたため、ここで一気に突き放してしまおうというわけです。ヤコブは、レアの言いなりにジルパによって男児をもうけます。

 ジルパによって誕生した男児は、ガドとアシェルでしたが、どちらも「幸運」を意味する名前でした。再びラケルとの差を広げたので、それを「幸運」と表現したのでしょうか。

 しかし、こうした争いは凄惨なものであり、それが実の姉妹によって争われているという点で更に惨い印象があります。それを思うとき、「幸運」を口にするレアの言葉には、虚ろな響しか感じられません。

 この姉妹の陰湿な争いは、次の恋なすびの事件で表面的な争いへと浮かび上がって行きます。

 

 14小麦の刈り入れのころ、ルベンは野原で恋なすびを見つけ、母レアのところへ持って来た。ラケルがレアに、「あなたの子供が取って来た恋なすびをわたしに分けてください」と言うと、15レアは言った。「あなたは、わたしの夫を取っただけでは気が済まず、わたしの息子の恋なすびまで取ろうとするのですか。」「それでは、あなたの子供の恋なすびの代わりに、今夜あの人があなたと床を共にするようにしましょう」とラケルは答えた。16夕方になり、ヤコブが野原から帰って来ると、レアは出迎えて言った。「あなたはわたしのところに来なければなりません。わたしは、息子の恋なすびであなたを雇ったのですから。」その夜、ヤコブはレアと寝た。17神がレアの願いを聞き入れられたので、レアは身ごもってヤコブとの間に五人目の男の子を産んだ。18そのときレアは、「わたしが召し使いを夫に与えたので、神はその報酬(サカル)をくださった」と言って、その子をイサカルと名付けた。19レアはまた身ごもって、ヤコブとの間に六人目の男の子を産んだ。20そのときレアは、「神がすばらしい贈り物をわたしにくださった。今度こそ、夫はわたしを尊敬してくれる(ザバル)でしょう。夫のために六人も男の子を産んだのだから」と言って、その子をゼブルンと名付けた。21その後、レアは女の子を産み、その子をディナと名付けた。(30章14~21節)

 

 小麦の取り入れの頃ですから、4月下旬から6月上旬になります。

 レアの長男のルベンは、野原で恋なすびを見つけて、母レアのところへ持ってきます。

 この恋なすびとは、プラムほどの大きさの黄色の実をつける香りの良い植物で、古代社会では、広い範囲で愛の妙薬、一種の媚薬として知られていました。恋なすびは、雅歌に登場します。

 

 わたしは恋しい人のもの

 あの人はわたしを求めている。

 恋しい人よ、来てください。

 野に出ましょう。

 コフェルの花房のもとで夜を過ごしましょう。

 朝になったらぶどう畑に急ぎ

 見ましょう、ぶどうの花は咲いたか、花盛りか

 ざくろのつぼみも開いたか。

 それから、あなたにわたしの愛をささげます。

 恋なすは香り

 そのみごとな実が戸口に並んでいます。

 新しい実も、古い実も

 恋しい人よ、あなたのために取っておきました。(雅歌7章11~14節)

 

 恋なすびの用い方ははっきり分かりません。根を煎じて飲んだと説明する本もありましたが、雅歌によれば実を食べたようです。「あなたのために取っておきました。」とありますので、媚薬として用いるときは、多分、男女ともこれを食べたのでしょう。

 さて、ルベンがレアのためにそれを取ってきたのは、レアに頼まれたのか、或いは、「ヤコブの気持ちを引くためにも、もっと子供が欲しい」とこぼすレアの言葉を日頃から聞いていたためだと思います。子供ながらに、ラケルとレアの争いを自分のこととして感じていたのでしょう。

 ラケルは、ルベンが恋なすびを取ってきたことを知ると、公然とそれを求めます。あとでこっそりと自分で探しに行くのでもなければ、自分の子供に探させるのでもなく、公然と恋なすびを求めるラケルには挑戦的な姿勢が表れています。「夫ばかりか、息子の恋なすびまで取ろうとするのか」と怒って言い返すレアとラケルは、ヤコブとどちらが寝るかという取り引きをし、恋なすびをラケルに与えるのと引き換えにレアが寝ることになります。

 ヤコブは、こうした妻たちの争いに対して自分の意志表示をすることなく、言われるままにレアと寝てイサカルをもうけます。恋なすびを奪い取ったラケルには子供が生まれず、恋なすびを譲ったレアに久しぶりの男児が誕生したことには、人間的な方策への皮肉が込められています。

 イサカルの命名の由来として、レアは「わたしが召使を夫に与えたので、神はその報酬(サカル)を下さった」と説明していますが、16節の「雇った」と訳される動詞は「シャーカル」ですので、それに掛けたとも説明できます。ここでいう報酬とは、召使を夫に与えるという、夫への愛に逆行する行為を行ったことに対する報酬、自己犠牲への報酬を意味しています。

 レアは、イサカルに続いてゼブルンを産み、さらに初めての女児ディナを産みます。ディナについては、命名の由来は述べられておらず、34章に述べられている事件の伏線としてここに登場させたものと思われます。

 こうして、レアは男児6人、女児1人の母となりました。

 

 22しかし、神はラケルも御心に留め、彼女の願いを聞き入れその胎を開かれたので、23ラケルは身ごもって男の子を産んだ。そのときラケルは、「神がわたしの恥をすすいでくださった」と言った。24彼女は、「主がわたしにもう一人男の子を加えてくださいますように(ヨセフ)」と願っていたので、その子をヨセフと名付けた。        (30章22~24節)

 

 ヤコブとの出会いの場面や、結婚前の姿こそ美しく描かれていますが、ラケルの言葉、行為は、人間的に見ても、信仰の観点から見ても好ましいものとは言えません。やきもち焼きで競争心が強く、神に頼るよりは自分の智恵を使うことに信頼を置く女性で、ヤコブがレアのもとに行かないように仕向けたのは彼女だろうと思われます。

 こうした不信仰なラケルにも、神は心を留めてその胎を開いてくれました。不妊の女性が、長い苦悩と悲しみの後に、神の御心によって子を得るというパターンは、サラ、リベカとも共通します。

 ラケルに生まれた男児はヨセフと名付けられますが、これは、「(神がわたしの恥を)すすいでくださった」の「すすぐ」が「アサフ」であること。そして、「(主がわたしにもう一人男の子を)加えてくださいますように」の「加える」が「ヨセフ」であることの2つの理由によります。前者の場合には、神(エロヒム)が、後者の場合には、主(ヤハウェ)が用いられていることから、E資料とJ資料による伝承が複合されていると思われます。

 長い苦悩の後に誕生したヨセフは、ヤコブの最愛の息子となり、それを面白くなく思った兄たちによって、やがてエジプトに売られていきますが、臨終の床でヤコブは、ヨセフに対する祝福を次のように述べています。

 

 ヨセフは実を結ぶ若木

 泉のほとりの実を結ぶ若木。

 その枝は石垣を越えて伸びる。

 弓を射る者たちは彼に敵意を抱き

 矢を放ち、追いかけてくる。

 しかし、彼の弓はたるむことなく

 彼の腕と手は素早く動く。

 ヤコブの勇者の御手により

 それによって、イスラエルの石となり牧者となった。

 どうか、あなたの父の神があなたを助け

 全能者によってあなたは祝福を受けるように。

 上は天の祝福

 下は横たわる淵の祝福

 乳房と母の胎の祝福をもって。

 あなたの父の祝福は

 永遠の山の祝福にまさり

 永久の丘の賜物にまさる。

 これらの祝福がヨセフの頭の上にあり

 兄弟たちから選ばれた者の頭にあるように。(49章22~26節)

 

 祝福の言葉のボリュームとしては、先ほど引用したユダに対するものに匹敵します。その内容も、全能者の祝福を受けて部族が繁栄することを示し、兄弟たちの中でも特に有力な部族に成長していくことが述べられています。実際、ヨセフの子であるマナセとエフライムは、イスラエル北部を代表する部族となり、南部を代表するユダと並んでイスラエルの部族連合をリードしていくのです。

 

<結 語>

 本日は、イスラエルの部族連合を形造った12部族の始祖たちが、ヤコブの子として誕生したとする物語を取り上げました。

 12部族の始祖たちは、レアとラケルの凄惨な争いの中に生を受けましたが、人間の憎しみ、妬み、怒りが交錯するような状況の中にも神の業は行われ、新たな生を引き起こすのは主なる神であることが示されています。

 ヤコブに顧みられることの少なかったレアからは、イエス・キリストに繋がるユダが誕生して南方の有力な部族の祖となり、長く屈辱的な状況に耐えねばならなかったラケルからは、ヤコブの最愛の子ヨセフが誕生して北方の有力な部族の祖となります。

 罪深き人間の営みの中にもご自身の目的を成就させ、彼らに恵みを示す神の存在が改めて感じられる箇所と言えましょう。

 

<今回の参考書>

 

「創世記」(関根正雄訳 岩波文庫)/「創世記」(月本昭男訳 岩波書店)/「創世記講義」(政池仁著 聖書の日本社)/「現代聖書注解 創世記」(ブルッグマン著 日本基督教団出版局)/「ケンブリッジ旧約聖書注解 創世記」(デヴィッドソン著 新教出版社)/「新聖書注解 旧約Ⅰ」(いのちのことば社)