旧約聖書の旅「創世記」第24回「ラバンとの駆け引き」(小山哲司)

「ラバンとの駆け引き」 旧約聖書の旅24

2000.4.2 小山 哲司

 前回のレポートでは創世記29章31節~30章24節を取り上げ、レア、ラケルの姉妹からヤコブの子どもたちが誕生した経緯について学びました。本日は30章25節~30章43節を取り上げますが、その前にこれまで学んできたことを振り返っておきたいと思います。

 アブラムは、神の祝福の言葉によってカルデアのウルを、そしてハランの地を後にしました。神は、アブラムの子孫が繁栄して約束の地を受け継ぐのだと語りかけます。

 ところが、飢饉を避けて下って行ったエジプトで、妻サライはファラオの宮廷に召し入れられてしまいました。神の介入によってサライを取り戻したアブラムは、エジプトからカナンの地へと戻ります。(創世記12章)

 ベテルとアイの間の所までやってくると、アブラムとロトの牧童たちの間に遊牧地を巡る争いが持ち上がってきます。アブラムは、土地を選択する権利をロトに譲ってしまいます。(13章)

 その後、東方の王たちがカナンを侵略し、ソドムの王たちを撃破してロトを奪い去りますが、アブラムの追撃に破れます。(14章)

 これらのことの後、幻の中で「あなたの受ける報いは非常に大きい」という主の言葉がアブラムに臨みます。アブラムは自分自身の子供が誕生して子孫が増えることを信じます。その後、主なる神はアブラムに動物を半分に引き裂き、向かい合わせに置くように命じます。やがて、煙をはいた炉と燃えた松明が引き裂かれた動物の間を通りますが、これは神がアブラムと契約を結ばれたしるしでした。(15章)

 こうして繰り返し臨む神の約束の言葉にも関わらず、一向に懐妊する兆しのないサライは、女奴隷ハガルによって母となろうと企てます。これは、当時行われていた習慣に乗っ取ったことでしたが、アブラムとサライ、そしてハガルの間に亀裂が走ります。

 身ごもったハガルは、サライの仕打ちに耐え兼ねて、また、子供を自分自身の子としたいと願って逃亡しますが、主にサライのもとに戻るように示され、やがて誕生する子供が繁栄するという約束を受けます。(16章)

 ハガルがイシュマエルを産んでから13年後に、主は再びアブラハムに現われます。この時、アブラハムは99歳になっておりました。

 主は、アブラムの子孫を繁栄させ、土地を所有させるという契約を繰り返し、アブラハムと改名するように命じます。神はカナンの土地が永久にアブラハムとその子孫の所有地であると宣言し、約束のしるしとして一族の男子はすべて割礼を受けるように命じ、それ続いて、神はイサクの誕生をアブラハムに予告します。

 アブラハムは、サラが子供を生むという神の言葉を笑いますが、神は1年後にはイサクが誕生し、それが神が契約を結ぶべきアブラハムの子孫であると宣言します。神の言葉を受け、アブラハムはその日のうちに一族の男子すべてに割礼を施します。(17章)

 イサクの誕生を予告した神は、旅人の姿をとって天幕を訪れ、アブラハムから手厚くもてなされます。その際にも、来年の今ごろサラに男の子が誕生すると予告しますがサラはそれを笑います。

 神の一行はアブラハムのもとを出立し、見送るアブラハムにソドムを滅ぼすことを示します。アブラハムは、ソドムに少しでも正しい者がいれば滅ぼさないで欲しいと懇願し、「10人の正しい者がいれば滅ぼさない」という神の約束を取り付けます。ここには、罪なき者には罪ある者を救う力があるという思想が表われており、神とアブラハムとの交渉は緊迫したドラマを展開します。(18章)

 ソドムの町に入った二人の御使いは、ロトの家に招き入れられます。夜中に町の男たちが二人の御使いを引き渡すように迫りますが、御使いの目潰しによって難を逃れます。御使いから神がソドムを滅ぼすと聞かされたロトは、御使いに手を取られて妻と二人の娘と一緒に町の外へと連れ出されます。山へ逃げよという神の命に背いてロトはツォアルに逃げ、やがて山の中の洞穴に移り住みます。山の中では結婚相手が見つからないことに悩んだ二人の娘は父親であるロトによって子を得ます。(19章)

 アブラハムはゲラルに移動し、そこでサラを妹と偽りますが、そのお陰でゲラルの王アビメレクによってサラが召し入れられます。アビメレクは夢に現われた神に「召し入れた女の故にお前は死ぬ。・・・もし返さなかったら、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬ」と命じられ、翌朝、アブラハムを呼びつけます。アブラハムはアビメレクに弁明し、「サラは実際に妹でもあるのです」と苦しい言い訳をしますが、異教の王によって倫理的な過ちを糾弾されたのは屈辱的な経験だった筈です。一方、過ちを犯さなかった者(アビメレク)が、過ちの原因を与えた者(アブラハム)の祈りによって救われ、そのために祈りの報酬として多額の贈り物までしなければならなかったとは、真に不可思議で興味深いこと。アブラハムは自身に価値はなくとも、神の一方的な恩恵によって諸国民に生命を与える器として選ばれたといえるでしょう。(20章)

 主なる神が約束された時期にサラに男子が誕生し、イサクと名付けられました。イサクとは「笑い」という意味。イサク誕生の喜びの笑いであると同時に、神の約束に対するサラとアブラハムの不信の笑いをも意味するものでした。やがて、サラはハガルとイシュマエルを追放することを求めます。アブラハムは少しばかりの水と食料を持たせて二人を送り出しますが、間もなく水が尽き、ハガルはイシュマエルが死ぬことを覚悟します。しかし、神の御使いが現われて「わたしはかならずあの子を大きな国民とする」と言い、ハガルは水のある井戸を発見します。このように旧約の神はイサクを約束の子として選んだ「選び」の神でありますが、たとえ選びの外側にいる者に対しても恵み豊かな神であることを忘れてはなりません。(21章)

 神はアブラハムを試みようとして「イサクを燔祭の犠牲として献げよ」と命じます。アブラハムは、従者とイサクを連れてモリヤの地へと向かいますが、薪を背負ってモリヤの地へと歩むイサクの姿は、十字架を背負ってゴルゴダの丘に向かうイエスの姿を彷彿とさせます。

 正にイサクを屠ろうとした時、神はアブラハムを制止して、イサクの代わりとなる雄羊を示されます。この後、アブラハムは主役の座をイサクに譲り、旧約の舞台から静かに退場していくのです。(22章)

 サラは127年の生涯を全うしてヘブロンの地でなくなり、アブラハムは埋葬のために墓地を求めてヘト人たちと交渉し、ヘト人エフロンからマクペラの洞窟と畑を購入しますが、その代価は驚くほど高額なものでした。アブラハムは一切値切ろうともしないで、言い値の通りに代金を支払います。武力で占拠できたであろうアブラハムが、平和的な手段で土地を購入したという点に、彼の成熟した信仰と人柄を見ることが出来ます。(23章)

 アブラハムは、イサクに妻を迎えようと僕をナホルの町に遣わします。僕は、ナホルの町外れの井戸で親切な娘リベカと出会い、彼女がイサクの妻となるべき女性であると確信します。リベカは、僕の申し出を受け入れてカナンへと旅立ちますが、ここには、自立した女性としてのリベカの姿が表われています。(24章)

 アブラハムにはケトラを通しても多くの子孫が誕生しましたが、その子孫の名前は周辺種族の名前と一致し、また、ハガルから誕生したイシュマエルの子孫の名前も周辺種族の名前と一致します。これは、イスラエルと周辺の種族との関係の深さを示すものです。一方、イサクを通して誕生したエサウとヤコブの兄弟には性格の違いがあり、ヤコブは、エサウの長子権を一杯のレンズ豆の煮物と引き換えに奪ってしまいます。(25章)

 飢饉を避けるためエジプトに下ろうとしたイサクに神の言葉が臨み、イサクはゲラルに滞在します。この時、主がアブラハムと結ばれた契約がイサクと更新されました。イサクはリベカを自分の妹だと偽りますが、王アビメレクに二人が夫婦であることを気付かれてしまいます。富み栄えたイサクはアビメレクによって追い出され、ゲラルの谷に移動しますが、そこでは井戸を巡る争いが生じます。争うことなく次々に井戸を掘り当てるイサクのもとをアビメレクが訪れ、二人は契約を結びます。(26章)

 臨終の床に就いたイサクは、長子としての祝福を与えようとエサウを呼びます。イサクは、祝福を与える前に料理を食べたいと言い、エサウは獲物を獲りに出かけます。二人のやり取りを聞いていたリベカは、ヤコブをそそのかしてイサクの祝福を横取りするように仕向けます。ヤコブは、声色を真似、毛皮を腕に巻き付けてイサクを騙し、エサウの受けるべき祝福を受けます。その直後にやってきたエサウは、自分のために祝福は残っていないのかと悲痛な声をあげて求めますが、イサクが彼に与えた「祝福」は、およそ祝福という言葉からはほど遠いものでした。(27章1~40節)

 長子の祝福を奪われたエサウの怒りから逃れるため、そして、叔父ラバンの娘の中から結婚相手を選ぶために、ヤコブはベエル・シェバからハランに向けて旅立ちます。旅の途中で、彼は天から下る階段を天使が昇り降りする夢を見ます。夢に登場した主は、アブラハム、イサクと結んだ約束をヤコブと更新し、何処に行こうともヤコブと共にいると語りかけます。夢から覚めたヤコブは、枕石を記念碑として立て、その地をベテル(神の家)と名付けます。(27章41~28章22節)

 ベテルを出発したヤコブは、ハラン近くの野原の井戸でラケルと出会います。1ヵ月後、ラバンに労働の報酬を尋ねられたヤコブは、ラケルを妻として迎える代わりに7年間働くと申し出ますが、ラバンの策略によってレアとの結婚を余儀なくされ、ラケルを妻とするために14年間も働かなければならなくなります。ラバンの打算によって無理やり結婚させられてしまったレアから、やがてイスラエルの祭司職につながるレビ、そして、ダビデ王からキリストにつながるユダが生まれます。(29章1~30節)

 姉のレアから次々と男子が誕生するのを見て、ラケルは自分の召使ビルハによって母になろうと企てます。レアもそれに対抗して自分の召使ジルパをヤコブに与えて子を得ます。やがて、二人はレアの息子ルベンが見つけてきた恋なすびを巡って取り引きをし、レアがヤコブと寝る権利を得て男子を生みます。長く不妊であったラケルも、最後には神の顧みによってヨセフを生みます。こうして、ヤコブの息子たち-イスラエル12部族の父祖たち-は、母たちの凄惨な争いの中に生を受けましたが、人間の憎しみ、妬み、怒りが交錯するような状況の中にも神の業は行われ、新たな生を引き起こすのは主なる神であることが示されています。(29章31節~30章24節)

 

 創世記第29章から31章にかけての物語は、1つの大きなまとまりを形造っています。

 長子権と祝福を奪い取ったヤコブは、父イサクの家督相続人となりましたが、兄エサウの怒りを避けるためにベエル・シェバを去らなければなりませんでした。家督権を得ながらも無一文となったヤコブが、神の導きのうちに家族を増やし、財力を蓄えていく繁栄のプロセスがここには描かれております。しかし、ここに登場するのは、策略を巡らす油断ならない義父、2人の相争う姉妹、そして、その間に挟まれた夫ヤコブであり、およそ信仰の物語には似つかわしくない人々。兄を騙し、父を欺いたヤコブは、今度は義父ラバンに騙されて14年もただ働きをすることになりますが、最後はラバンを出し抜き、家族と財産を携えてカナンの地へ還ります。

 こうしたことを前提としながら、本日の具体的な聖書の内容に入っていきたいと思います。

 

 25ラケルがヨセフを産んだころ、ヤコブはラバンに言った。「わたしを独り立ちさせて、生まれ故郷へ帰らせてください。26わたしは今まで、妻を得るためにあなたのところで働いてきたのですから、妻子と共に帰らせてください。あなたのために、わたしがどんなに尽くしてきたか、よくご存じのはずです。」                  (30章25~26節)

 

 ヤコブは、ヨセフが生まれた頃、自分の故郷であるカナンの地へ帰りたいとラバンに訴えます。ヨセフが生まれたのがいつであるのかははっきり分かりませんが、「私は今まで、妻を得るためにあなたのところで働いてきた」という箇所から、結婚して7年が経った頃だと思われます。

 ラバンと約束した期間が満了した訳ですから、ラバンがなぜヤコブを去らせなかったのか、そして、ヤコブにはラバンのもとを去る自由がどうしてなかったのかという疑問が生じます。約束を果たしたのですから、故郷に帰りたければさっさと帰れば良いのではないでしょうか?

 この点については、2つの説明の仕方があります。

 1つは、娘の夫とはいえども、ラバンのヤコブに対する取り扱いが、実質的には奴隷に対する取り扱いと変わらないものであったという説明です。その場合には、奴隷の妻子は主人の財産となるので、奴隷がそこを去りたければ妻子を置いて一人で去らなければなりませんでした。出エジプト記21章には次のような規定が記されております。

 

 あなたがヘブライ人である奴隷を買うならば、彼は六年間奴隷として働かねばならないが、七年目には無償で自由の身となることが出来る。もし、彼が独身で来た場合は、独身で去らねばならない。もし、彼が妻帯者であった場合は、その妻も共に去ることが出来る。もし、主人が彼に妻を与えて、その妻が彼とのあいだに息子あるいは娘を生んだ場合は、その妻と子供は主人に属し、彼は独身で去らねばならない。(出エジプト記21章2~4節)

 

 ヤコブが奴隷と実質的に変わらない取り扱いを受けていたとすると、彼が妻子を連れて故郷に帰るためには、主人であるラバンの許可を得ることがどうしても必要となるのです。

 これに対し、もう一つの説明は、ハラン周辺の状況をを表わすヌジ文書によるものです。それによれば、ヤコブの労働契約は、養子縁組による親子関係に条件づけられていることになります。ヌジ文書の一つには、若者が花嫁の父親の老後を世話するならば娘と結婚させるという約束と、父が娘の他に子を持たずに死んだならば、結婚相手の若者が相続人となるという約束とが、同時に記載されていました。しかし、この契約の後に父が息子をもうけるならば、娘の夫は、その息子と相続財産を分けなければなりません。

 この立場では、ラバンに他の息子が誕生し、かつ、ラバンが健在であるため、ヤコブがラバンの財産をもらい受けることは出来ないことになります。故郷に帰れば妻の父の世話をすることは出来なくなりますし、父が健在である以上、遺産を相続することも叶わない訳です。

 こうした状況を踏まえて、ヤコブは、自分自身の財産を持って故郷へ帰れるようにして欲しいと強く求めたのです。ラケルと結婚するための7年の労働は、自分自身が言い出したことですから仕方がないとしても、自分が望まなかったレアとの結婚を押し付けられ、更に7年の労働を余儀なくされたことへの不満も蓄積されていたことと思います。

 

 27「もし、お前さえ良ければ、もっといてほしいのだが。実は占いで、わたしはお前のお陰で、主から祝福をいただいていることが分かったのだ」とラバンは言い、28更に続けて、「お前の望む報酬をはっきり言いなさい。必ず支払うから」と言った。29ヤコブは言った。「わたしがどんなにあなたのために尽くし、家畜の世話をしてきたかよくご存じのはずです。30わたしが来るまではわずかだった家畜が、今ではこんなに多くなっています。わたしが来てからは、主があなたを祝福しておられます。しかし今のままでは、いつになったらわたしは自分の家を持つことができるでしょうか。」31「何をお前に支払えばよいのか」とラバンが尋ねると、ヤコブは答えた。「何もくださるには及びません。ただこういう条件なら、もう一度あなたの群れを飼い、世話をいたしましょう。32今日、わたしはあなたの群れを全部見回って、その中から、ぶちとまだらの羊をすべてと羊の中で黒みがかったものをすべて、それからまだらとぶちの山羊を取り出しておきますから、それをわたしの報酬にしてください。33明日、あなたが来てわたしの報酬をよく調べれば、わたしの正しいことは証明されるでしょう。山羊の中にぶちとまだらでないものや、羊の中に黒みがかっていないものがあったら、わたしが盗んだものと見なして結構です。」34ラバンは言った。「よろしい。お前の言うとおりにしよう。」

 35ところが、その日、ラバンは縞やまだらの雄山羊とぶちやまだらの雌山羊全部、つまり白いところが混じっているもの全部とそれに黒みがかった羊をみな取り出して自分の息子たちの手に渡し、36ヤコブがラバンの残りの群れを飼っている間に、自分とヤコブとの間に歩いて三日かかるほどの距離をおいた。(30章27~36節)

 

 ヤコブの申し出を聞いたラバンは、あっさりヤコブの帰郷を認めるつもりはありませんでした。

 新共同訳聖書で「もし、お前さえよければ、もっといてほしいのだが。」と訳されている箇所のヘブライ語原文は、「もし~なら」という条件節はあるものの、それに対応する「もっといてほしい」という部分を欠いています。新共同訳が「もっといてほしい」としているのは、省略されている部分を補って訳しているのですが、省略されている点に、ラバンの狼狽を読み取ることが出来ます。ラバンの繁栄は、ヤコブの働きに多くを依存していたからです。

 ラバンは、占いで、ヤコブを通してヤハウェの祝福を受けていることが分かったと言い、「お前の望む報酬をはっきり言いなさい。必ず支払うから」と直ちに交渉に入ります。しかし、この時点で、ヤコブの望む報酬を必ず支払うつもりがあったとは思えません。簡単にヤコブを去らせる訳にはいきませんから、取り敢えず説得工作をする必要を感じたに過ぎないと思われます。31章7節でヤコブが「わたしをだまして、わたしの報酬を十回も買えた。」と不満を漏らしているように、ラバンは老獪な策士であったのです。

 「報酬をはっきり言いなさい。」というラバンの申し出に対し、ヤコブは、自分がこれまでにした貢献を強調します。言い替えれば、現実的に金銭的な報酬でヤコブの不満を解決しようとするラバンに対し、人間関係の信義を唱えて切り返したのです。「自分がどれだけ忠実にラバンの家に仕えてきたか、それに対してあなたがどの様に報いるべきかは、別に聞くまでもないでしょう」と。ヤコブの気持ちを代弁すれば、身一つでハランに来た時点では仕方がないにせよ、14年間も働き続けて自分自身の家を持つことすら出来ないのは余りにも酷い扱いだということ。確かに、これまでのヤコブの働きは、親戚として、協力者としての処遇を受けるにふさわしいものでした。

 こうしたかれらのやりとりの言葉の中に、彼らが自覚するとしないとにかかわらず、一つの神学的な主張が折り込まれていることに注意したいと思います。それは、ラバンとヤコブの双方ともに認めていることであり、財産を与えてくれるのは主なる神であって、それは、ヤコブという主が祝福した者を通して来るということです。ラバンとヤコブとの駆け引きは、それこそ狸と狐の馬鹿し合いかもしれませんが、こうしたどろどろとした人間的な思惑の中にも、主なる神の存在が祝福と繁栄の源とされていることは、注目すべきことだと思われます。

 ヤコブの切り返しを受けてラバンが更に「何をお前に支払えばよいのか」と問いかけると、ヤコブは「何もくださるには及びません。」と答えますが、ここには、大層な約束をしてもどうなるか分からないという、ラバンに対する警戒心が表れています。一方、「何もくださるには及びません」といいながらもヤコブは報酬の条件を申し出ております。「何もいらない」という言葉とは矛盾しますが、ラバンの目には、ヤコブの条件はまことに取るに足りないささやかなものであると映ったにちがいありません。なきに等しい報酬だと強調するために「何も下さるにはおよびません」と言ったのでしょう。しかし、その実、ヤコブにはラバンの裏をかく計略が立てられていたのです。

 当時のハラン地方では、羊は白、山羊は黒が通常であって、黒い羊、白い山羊、或いは、色が混じったものは例外で、ごく少数でした。ヤコブは、そうした例外的な色をした羊や山羊を自分の報酬として欲しいと申し出たのです。ラバンにとっては、ヤコブに与える群れが小さくて済む上、働き手としてのヤコブを失うこともなく、何とも都合の良い条件でした。

 ただ、31節以下の部分には、非常に分かりにくい箇所が混在しており、創世記を編集する際に何らかの不手際があった可能性があります。

 その一つはヤコブの報酬の内容についてであり、2つの考え方が混在していると思われます。この点について、関根正雄先生は、次のように説明しています。

 

「ここは非常に複雑であるが、次のように見るのがよいと思う。二つの考え方が混じっていて、その一つによれば、ヤコブは群の中のまだらやぶちのものをその報酬として要求する(32節)、ラバンは翌日見て廻ってヤコブの得たものの中にそれ以外の動物がいないかどうか確かめる、という。他の考え方によれば、ヤコブはさし当たり何の報酬もいらないと言う(31節)。ただ将来のためにしまやまだらやぶちのものを分け、その他のものをヤコブは託せられ、それらが将来生むしまとぶちとまだらのものをヤコブは貰うことにする。ヤコブの託せられたものがしまやぶちやまだらのものと交合してしまやまだらやぶちを生まぬように両群のあいだに三日路を隔てる。しかし、ヤコブは奸策を講じ、皮をはいで白い筋を作った枝を発情した群の前において、しまとぶちとまだらのものを、しかも丈夫なものだけ獲得し、群をどんどん殖やしてしまう。」(「創世記」岩波文庫 P189)

 

 32~33節のヤコブが提示した条件は、関根先生の説明にある前者の考えに当てはまります。現在の群の中から選び出した縞、ぶち、まだら山羊と黒みがかかった羊を自分の報酬として得るということです。これをラバンは了解します(34節)が、その了解の言葉とは裏腹に、ヤコブには選ばせず、自分で該当する山羊と羊を選びだし、自分の息子たちの手に渡して、他の群とは歩いて三日かかるほど離れたところに遠ざけてしまいます。関根先生によれば、32~34節と35~36節は、前者の考えの箇所の直後に後者の考えに該当する箇所が接続されることになり、全体を通しての理解を困難にしています。

 こうした資料編集上の問題は別にして、ラバンが行ったことから読み取れるのは、ヤコブに対しては警戒心を緩めなかったということです。群を分けておけば、黒い羊や、縞、ぶち、まだらの山羊が、そうでないものと交尾をする心配はなく、ヤコブの取り分はごく限られた数に留まることになります。老獪なラバンの警戒心、慎重さが表れている箇所です。

 

 37ヤコブは、ポプラとアーモンドとプラタナスの木の若枝を取って来て、皮をはぎ、枝に白い木肌の縞を作り、38家畜の群れがやって来たときに群れの目につくように、皮をはいだ枝を家畜の水飲み場の水槽の中に入れた。そして、家畜の群れが水を飲みにやって来たとき、さかりがつくようにしたので、39家畜の群れは、その枝の前で交尾して縞やぶちやまだらのものを産んだ。40また、ヤコブは羊を二手に分けて、一方の群れをラバンの群れの中の縞のものと全体が黒みがかったものとに向かわせた。彼は、自分の群れだけにはそうしたが、ラバンの群れにはそうしなかった。41また、丈夫な羊が交尾する時期になると、ヤコブは皮をはいだ枝をいつも水ぶねの中に入れて群れの前に置き、枝のそばで交尾させたが、42弱い羊のときには枝を置かなかった。そこで、弱いのはラバンのものとなり、丈夫なのはヤコブのものとなった。43こうして、ヤコブはますます豊かになり、多くの家畜や男女の奴隷、それにらくだやろばなどを持つようになった。(30章37~43節)

 

 37節以下は、関根先生によるところの後者の考えと結び付く場面です。ここでは、黒い羊や、縞、ぶち、まだらの山羊がすっかり除かれた群をヤコブが管理し、黒い羊、縞やぶちやまだらの山羊を増やしていきます。

 ヤコブは、そうした羊や山羊を増やすために、木の枝に縞を作って、その前で山羊に交尾をさせます。そうすれば、縞やぶち、まだらの山羊が誕生するのです。この方法は、我々には奇異に映るかもしれませんが、古代社会では広く信じられていた考え方に基づくもので、出産前の母親が見たものの印象が生まれてくる子供に影響を与えるからだと考えられました。現在でも、胎教という言葉があるように、母体が受けた影響が子供に及ぶという発想自体は古今を通じて変わりませんが、交尾のときに縞模様の付いた枝を見たから縞模様の山羊が誕生するというのは、迷信と言わざるを得ません。

 迷信に加えて、ここにはヘブライ語のジョークが隠されています。ヤコブは、木の枝の皮をはぎ、枝に白い木肌の縞を作りますが、「白い」はヘブライ語で「ラバン」と言います。白い木肌の縞を作るということは、いわば木の枝に「白(ラバン)の剥き出しを作る」ことになる訳ですが、これは「ラバンを裸にする」に通じる言葉遊びであり、この物語を聞いたイスラエルの人々は、多分、ここでクツクツと声を立てて笑ったに違いありません。また、さかりがつくようにするために「家畜の群れがやって来たときに群れの目につくように、皮をはいだ枝を家畜の水飲み場の水槽の中に入れた」というのは、皮を剥いだ枝から羊のペニスを連想させる呪術的発想によるものであり、「裸にされたラバン」を意味する木の枝が羊のペニスと同一視されることにもなって、やや質の悪い表現の遊びをしていることになります。 

 一方、黒い羊を増やすために、ヤコブは、羊を二手に分けて、一方の群れをラバンの群れの中の縞のものと全体が黒みがかかったものとに向かわせました(40節)が、この箇所を物語のほかの部分、特に35~36節と調和させるのは極めて困難です。ラバンは、既に自分の群れから黒毛の羊を移動させ、しかも息子たちの手に委ねて三日路も行かせてしまった訳ですから、どのようにしてヤコブの羊がラバンの群れのうちの縞のあるもの、黒いものに向かうことが出来たのでしょうか?筋道の通った説明は簡単には出来ません。

 こうして、自分の報酬となる羊の数を増やすばかりか、ヤコブは、羊の質までもコントロールしようと試みます。強い羊が交尾するときには、自分の取り分となるように皮を剥いだ枝を用いますが、弱い羊の場合には、枝を用いずにラバンの羊になるように調整したのです。次第に、ヤコブの群は強い家畜が増えて活気づき、ラバンの群は弱々しいものが増えて衰えていくことになりました。

 ヤコブの行為は、当時流布していた迷信を最大限に利用したという点で、主なる神に対する信仰の観点からは問題が多いものでしたが、罪多きヤコブのためにも、主なる神は最善の結果を用意してくれました。ヤコブは、ますます豊かになり、多くの家畜を得、更には、男女の奴隷やらくだやろばをも持つようになりましたが、その背後には、ヤコブを選び、アブラハム、イサクとの契約を彼と更新した神の御手が働いていたのです。

 

<結 語>

 本日は、ヤコブとラバンの駆け引きの場面を取り上げました。

 ラバンもヤコブも欲が深く、智恵の回る人物であり、ラバンが老獪であれば、ヤコブは狡猾であると言えます。ラバンが、口上手にヤコブを引き留めて契約以上に長く働かせれば、ヤコブは、表面的には約束を守っているように見せながら、呪術的な行為まで行って自分の財産を増やそうとします。

 信仰者として疑問の多いヤコブの行為は、ご自分の約束を成就させようとする主なる神の御手によって用いられ、彼は富んでいきます。しかし、こうした富は長く彼の元に留まることなく、やがては富の多くを兄エサウに与えなければならなくなり(33章)、さらには、後年カナン地方を襲った飢饉(42章)によって大きな打撃を受けることになります。

 本日の箇所も、前回と同様に、罪深き人間の営みの中にもご自身の目的を成就させ、恵みを示す神の存在が感じられる箇所と言えましょう。

 

<今回の参考書>

 

「創世記」(関根正雄訳 岩波文庫)/「創世記」(月本昭男訳 岩波書店)/「ヘブライ語聖書対訳シリーズ 創世記Ⅱ」(ミルトス)/「創世記講義」(政池仁著 聖書の日本社)/「現代聖書注解 創世記」(ブルッグマン著 日本基督教団出版局)/「ケンブリッジ旧約聖書注解 創世記」(デヴィッドソン著 新教出版社)/「新聖書注解 旧約Ⅰ」(いのちのことば社)