旧約聖書の旅「創世記」第25回「ヤコブの脱走」(小山哲司)

「ヤコブの脱走」 旧約聖書の旅25

2000.5.7 小山 哲司

 前回のレポートでは創世記30章25節~30章43節を取り上げ、ヤコブが自分の家畜を増やして富を築いた経緯について学びました。本日は31章1節~31章21節を取り上げますが、その前にこれまで学んできたことを振り返っておきたいと思います。

 アブラムは、神の言葉によってカルデアのウルを、そしてハランの地を後にしました。神は、アブラムの子孫が繁栄して約束の地を受け継ぐと語りかけます。ところが、飢饉を避けて下って行ったエジプトで、妻サライは宮廷に召し入れられてしまいました。神の介入によってサライを取り戻したアブラムは、エジプトからカナンの地へと戻ります。(創世記12章)

 ベテルとアイの間の所までやってくると、アブラムとロトの牧童たちの間に遊牧地を巡る争いが持ち上がってきます。アブラムは、土地を選択する権利をロトに譲ってしまいます。(13章)

 その後、東方の王たちがカナンを侵略し、ソドムの王たちを撃破してロトを奪い去りますが、アブラムの追撃に破れます。(14章)

 その後、幻の中で「あなたの受ける報いは非常に大きい」という主の言葉がアブラムに臨み、アブラムは自分の子供が誕生して子孫が増えることを信じます。その後、主なる神は動物を半分に引き裂き、向かい合わせに置くように命じます。やがて、煙をはいた炉と燃えた松明が引き裂かれた動物の間を通りますが、これは神とアブラムとの契約のしるしでした。(15章)

 繰り返し臨む神の約束の言葉にも関わらず懐妊する兆しのないサライは、女奴隷ハガルによって母となろうと企てます。これは、当時行われていた習慣に乗っ取ったことでしたが、アブラムとサライ、そしてハガルの間に亀裂が走ります。身ごもったハガルは、サライの仕打ちに耐え兼ねて、また、子供を自分の子としたいと願って逃亡しますが、主にサライのもとに戻るように示され、誕生する子供が繁栄するという約束を受けます。(16章)

 イシュマエルの誕生から13年後、主なる神は再びアブラハムに現われます。主は、子孫の繁栄と土地の所有の契約を繰り返し、アブラハムと改名するように命じます。主は、約束のしるしとして一族の男子はすべて割礼を受けるようにと命じ、それに続いて、神はイサクの誕生をアブラハムに予告します。アブラハムは、サラが子供を生むという主の言葉を笑いますが、主は1年後にはイサクが誕生し、それが神が契約を結ぶべきアブラハムの子孫であると宣言します。主の言葉を受け、アブラハムはその日のうちに一族の男子すべてに割礼を施します。(17章)

 イサクの誕生を予告した神は、旅人の姿をとって天幕を訪れ、アブラハムから手厚くもてなされます。その際にも、来年の今ごろサラに男の子が誕生すると予告しますがサラはそれを笑います。

 神の一行は、見送るアブラハムにソドムを滅ぼすことを示します。アブラハムは、少しでも正しい者がいれば滅ぼさないで欲しいと懇願し、「10人の正しい者がいれば滅ぼさない」という神の約束を取り付けます。ここには、罪なき者には罪ある者を救う力があるという思想が表われており、神とアブラハムとの交渉は緊迫したドラマを展開します。(18章)

 ソドムの町に入った二人の御使いは、ロトの家に招き入れられます。夜中に町の男たちが二人の御使いを引き渡すように迫りますが、御使いの目潰しによって難を逃れます。御使いから神がソドムを滅ぼすと聞かされたロトは、御使いに手を取られて妻と二人の娘と一緒に町の外へと連れ出されます。山へ逃げよという神の命に背いてロトはツォアルに逃げ、やがて山の中の洞穴に移り住みます。山の中では結婚相手が見つからないことに悩んだ二人の娘は父親であるロトによって子を得ます。(19章)

 アブラハムはゲラルに移動し、そこでサラを妹と偽ったお陰でゲラルの王アビメレクによってサラが召し入れられます。アビメレクは夢に現われた神に「召し入れた女の故にお前は死ぬ。・・・もし返さなかったら、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬ」と命じられ、翌朝、アブラハムを呼びつけます。アブラハムは「サラは実際に妹でもあるのです」と苦しい弁明をしますが、異教の王によって倫理的な過ちを糾弾されたのは屈辱的な経験だった筈です。一方、過ちを犯さなかった者(アビメレク)が、過ちの原因を与えた者(アブラハム)の祈りによって救われたとは、真に不可思議で興味深いこと。アブラハムは自身に価値はなくとも、神の一方的な恩恵によって諸国民に生命を与える器として選ばれたといえるでしょう。(20章)

 主なる神が約束された時期にサラに男子が誕生し、イサクと名付けられました。イサクとは「笑い」という意味。イサク誕生の喜びの笑いと同時に、神の約束に対するサラとアブラハムの不信の笑いをも意味するものでした。やがて、サラはハガルとイシュマエルの追放を求めます。アブラハムは水と食料を持たせて二人を送り出しますが、間もなく水が尽き、ハガルはイシュマエルの死を覚悟します。しかし、神の御使いが現われて「わたしはかならずあの子を大きな国民とする」と言い、ハガルは井戸を発見します。このように旧約の神はイサクを約束の子として選んだ「選び」の神でありますが、選びの外側にいる者に対しても恵み豊かな神でした。(21章)

 神はアブラハムを試みようと「イサクを燔祭の犠牲として献げよ」と命じます。アブラハムは、イサクを連れてモリヤの地へと向かいますが、薪を背負ってモリヤの地へと歩むイサクの姿は、十字架を背負ってゴルゴダの丘に向かうイエスの姿を彷彿とさせます。正にイサクを屠ろうとした時、神はイサクの身代わりとなる雄羊を示されます。この後、アブラハムは主役の座をイサクに譲り、旧約の舞台から静かに退場していくのです。(22章)

 サラは127年の生涯を全うしてヘブロンの地で亡くなり、アブラハムは墓地を求めてヘト人エフロンからマクペラの洞窟と畑を購入します。その代価は驚くほど高額なものでしたが、アブラハムは言い値の通りに代金を支払います。武力で占拠できたであろうアブラハムが、平和的な手段で土地を購入した点に、彼の成熟した信仰と人柄を見ることが出来ます。(23章)

 アブラハムは、イサクに妻を迎えようと僕をナホルの町に遣わします。僕は、ナホルの町外れの井戸で親切な娘リベカと出会い、彼女がイサクの妻となるべき女性であると確信します。リベカは、僕の申し出を受け入れてカナンへと旅立ちますが、ここには、自立した女性としてのリベカの姿が表われています。(24章)

 アブラハムにはケトラを通しても多くの子孫が誕生しましたが、その子孫の名前は周辺種族の名前と一致し、また、ハガルから誕生したイシュマエルの子孫の名前も周辺種族の名前と一致します。これは、イスラエルと周辺の種族との関係の深さを示すものです。一方、イサクを通して誕生したエサウとヤコブの兄弟には性格の違いがあり、ヤコブは、エサウの長子権を一杯のレンズ豆の煮物と引き換えに奪ってしまいます。(25章)

 飢饉を避けるためエジプトに下ろうとしたイサクに神の言葉が臨み、イサクはゲラルに滞在します。この時、主がアブラハムと結ばれた契約がイサクと更新されました。イサクはリベカを自分の妹だと偽りますが、王アビメレクに二人が夫婦であることを気付かれてしまいます。富み栄えたイサクはアビメレクによって追い出され、ゲラルの谷に移動しますが、そこでは井戸を巡る争いが生じます。争うことなく次々に井戸を掘り当てるイサクのもとをアビメレクが訪れ、二人は契約を結びます。(26章)

 臨終の床に就いたイサクは、長子としての祝福を与えようとエサウを呼びます。イサクは、祝福を与える前に料理を食べたいと言い、エサウは獲物を獲りに出かけます。リベカは、ヤコブをそそのかして祝福を横取りするように仕向けます。ヤコブは、声色を真似、毛皮を腕に巻き付けてイサクを騙し、エサウの受けるべき祝福を受けます。その直後にやってきたエサウは、悲痛な声をあげて祝福を求めますが、イサクが彼に与えたのは、およそ祝福という言葉からはほど遠いものでした。(27章1~40節)

 エサウの怒りから逃れるため、そして、叔父ラバンの娘の中から結婚相手を選ぶために、ヤコブはハランに向けて旅立ちます。旅の途中で、彼は天から下る階段を天使が昇り降りする夢を見ます。夢に現れた主は、アブラハム、イサクと結んだ約束をヤコブと更新し、何処に行こうともヤコブと共にいると語りかけます。夢から覚めたヤコブは、枕石を記念碑として立て、その地をベテル(神の家)と名付けます。(27章41~28章22節)

 ヤコブは、ハラン近くの井戸でラケルと出会います。1ヵ月後、ラバンに労働の報酬を尋ねられたヤコブは、ラケルを妻とするために7年間働くと申し出ますが、ラバンによってレアとの結婚を余儀なくされ、ラケルを妻とするためには14年間も働かなければならなくなります。無理やり結婚させられてしまったレアから、イスラエルの祭司職につながるレビ、そして、ダビデ王からキリストにつながるユダが生まれます。(29章1~30節)

 レアから男子が誕生するのを見て、ラケルは召使ビルハによって母になろうと企てます。レアも召使ジルパによって子を得ます。やがて、二人は恋なすびを巡って取り引きをし、レアがヤコブと寝る権利を得て男子を生みます。不妊であったラケルも、最後には神の顧みによってヨセフを生みます。ヤコブの息子たちは、母たちの争いの中に生を受けましたが、人間の憎しみ、妬み、怒りが交錯する中にも神の業は行われ、新たな生を引き起こすのは主なる神であることが示されています。(29章31節~30章24節)

 ラケルとの結婚に必要な7年の労働が終わった頃、ヤコブは、「妻子と共に故郷に帰らせて欲しい」とラバンに求めます。ラバンは、ヤコブに報酬を示すように言いますが、ヤコブが求めたのはぶちやまだらの山羊、黒みがかった羊であり、とるに足りないものでした。ラバンの警戒をよそに、ヤコブは黒い山羊、白い羊から呪術的な方法でぶちやまだらの山羊、そして黒みがかった羊を増やしていきますが、こうした繁栄は主なる神によってもたらされたものでした。(30章25~43節)

 

 創世記第29章から31章にかけての物語は、1つの大きなまとまりを形造っています。

 長子権と祝福を奪い取ったヤコブは、父イサクの家督相続人となりましたが、兄エサウの怒りを避けるためにベエル・シェバを去らなければなりませんでした。家督権を得ながらも無一文となったヤコブが、神の導きのうちに家族を増やし、財力を蓄えていく繁栄のプロセスがここには描かれております。しかし、ここに登場するのは、策略を巡らす油断ならない義父、2人の相争う姉妹、そして、その間に挟まれた夫ヤコブであり、およそ信仰の物語には似つかわしくない人々。兄を騙し、父を欺いたヤコブは、今度は義父ラバンに騙されて14年もただ働きをすることになりますが、最後はラバンを出し抜き、家族と財産を携えてカナンの地へ還ります。

 こうしたことを踏まえながら、本日の具体的な聖書の内容に入っていきたいと思います。

 

 1ヤコブは、ラバンの息子たちが、「ヤコブは我々の父のものを全部奪ってしまった。父のものをごまかして、あの富を築き上げたのだ」と言っているのを耳にした。2また、ラバンの態度を見ると、確かに以前とは変わっていた。3主はヤコブに言われた。「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる。」(31章1~3節)

 

 黒い山羊、白い羊から、無から有を生み出すようにしてぶちやまだらの山羊、黒みがかった羊を産み出させたヤコブは、やがて多くの家畜や男女の奴隷を持つようになり、岳父ラバンよりも豊かになっていきました。

 これを見て面白くなく思ったのは、ラバンの息子たちでした。彼らは、まだ二十歳そこそこの若い息子たちであったと思われます。

 息子たちは、「ヤコブは我々の父のものを全部奪ってしまった。」と誇張してヤコブのことを非難しています。確かにヤコブは策略家ですが、ラバン自身の山羊や羊を奪うような真似はしていません。ぶちやまだらの山羊、黒みがかった羊を増やして財産を作ったのですから、息子たちの非難は言い過ぎです。

 しかし、ラバンは、自分の息子たちと同じ意見らしく、ヤコブに向ける顔つきが以前とは違ってきました。或いは、息子たちの言葉は、父ラバンの思いを代弁していたのでしょう。新共同訳では「態度」と訳されていますが、ヘブライ語原文では「顔」を意味するペネーが用いられています。新共同訳は、単に顔つきばかりではなく、ヤコブに対する姿勢がすっかり変わってしまったという意味で「態度」と訳したのだと思います。

 ラバンの態度が変わった理由は簡単です。ヤコブを利用して自分の財産を増やそうと思っていたのに、自分の財産は増えず、ヤコブの財産ばかりが増えてしまったからです。レアと結婚させる対価として、詐術を使って7年間も余計にただ働きをさせたことは、ラバンの頭からすっかり消えてしまったようです。

 こうして、ラバンとヤコブの関係は次第に緊張を帯びていきます。

 その時、ヤコブに主の言葉が臨みます。「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる。」とは、28章15節の約束の言葉を繰り返すものといって良いでしょう。

 

 「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(28章15節)

 

 28章15節は、ベテルで天から下る階段を御使いが上り下りしている夢を見た時、夢に現れた主が語った言葉です。この時、アブラハム、イサクと結ばれた神の契約がヤコブとも更新されました。

 主の言葉が再びヤコブに臨んだことは、ヤコブの物語にとって大きな転換点を迎えたことを意味しています。30章25節でも「生まれ故郷に帰らせてください」とラバンに求めていますが、その時点では帰郷の理由がはっきりとはしていませんでした。主の言葉が臨んだことによって、ヤコブの帰郷の意思は不動のものとなります。

 

 4ヤコブは人をやって、ラケルとレアを家畜の群れがいる野原に呼び寄せて、5言った。「最近、気づいたのだが、あなたたちのお父さんは、わたしに対して以前とは態度が変わった。しかし、わたしの父の神は、ずっとわたしと共にいてくださった。6あなたたちも知っているように、わたしは全力を尽くしてあなたたちのお父さんのもとで働いてきたのに、7わたしをだまして、わたしの報酬を十回も変えた。しかし、神はわたしに害を加えることをお許しにならなかった。8お父さんが、『ぶちのものがお前の報酬だ』と言えば、群れはみなぶちのものを産むし、『縞のものがお前の報酬だ』と言えば、群れはみな縞のものを産んだ。9神はあなたたちのお父さんの家畜を取り上げて、わたしにお与えになったのだ。

 10群れの発情期のころのことだが、夢の中でわたしが目を上げて見ると、雌山羊の群れとつがっている雄山羊は縞とぶちとまだらのものばかりだった。11そのとき、夢の中で神の御使いが、『ヤコブよ』と言われたので、『はい』と答えると、12こう言われた。『目を上げて見なさい。雌山羊の群れとつがっている雄山羊はみな、縞とぶちとまだらのものだけだ。ラバンのあなたに対する仕打ちは、すべてわたしには分かっている。13わたしはベテルの神である。かつてあなたは、そこに記念碑を立てて油を注ぎ、わたしに誓願を立てたではないか。さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい。』」(31章4~13節)

 

 帰郷する決心を固めたヤコブは、ラケルとレアを野原に呼び寄せて、その件を切り出します。ここで、姉→妹ではなく妹→姉の順で「ラケルとレア」と書かれているのは、ヤコブにとっての重要性を物語るものです。七人もの子どもを産んだレアよりも、この時点ではたった一人しか子どもを産んでいないラケルの方が重んじられていたのです。年長者よりも年少者の方が優位に立つという点では、ヤコブとエサウの関係に似ています。一方、ビルハとジルパはその場に呼ばれませんでした。彼女たちは、子を得るために差し出された召使であったため、独立した人格としては扱われなかったのだろうと思われます。

 ラケルとレアが呼び出されたのは、家畜の群れがいる野原でしたが、これは、他人に聞かれてはまずい話をするため。第三者に聞かれて自分の立場が危うくなることを恐れて、ヤコブは周囲を見晴らせる野原を選んだのです。

 主はヤコブに「あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい」とは言ったものの、ラバンに黙ってこっそり帰れとは言いませんでした。夜逃げのような形でハランを立ち去ることにしようとしたのは、ヤコブ自身の判断です。なぜラバンに黙ってハランを立ち去らなければならないのかを、ヤコブは二人の妻たちに訴えかけます。

 ヤコブの訴えの中心は、ラバンから受けた不当な仕打ちについてでした。「報酬を十回も変えた」とあるのは、正確に十回という訳ではなく、おおよその概数として使われていますので、「次から次に」といった意味です。ラバンは、最初にヤコブの申し出を聞いた時は、ぶちやまだらの山羊、黒みがかった羊はほんの少ししかおりませんでしたから、自分にとって損のない取り引きだと思って受け入れたのです。しかし、全く予想に反して、ヤコブの取り分となるような山羊や羊が誕生するのを見て、次々に約束を変えたのです。初めは「ぶち」も「縞」もヤコブの取り分であったのに、後には「ぶち」だけを取り分としたり、「縞」だけを取り分としたのです。ラバンは何とかして自分の財産を増やし、ヤコブの所有になるものを減らそうとしたのですが、策を弄すればするほどにヤコブの財産が増えるので、ヤコブに対する顔つきが変わっていったのだろうと思います。

 ここでは、30章で述べられた報酬に関する事柄を不当な仕打ちとして訴えていますが、ラバンから受けた最も不当な仕打ちは、レアを妻として押し付けられたことでした。このことについてヤコブは沈黙しています。ハランを立ち去ることについてレアの承諾も得ておかなければなりませんでしたので、彼女を刺激する様なことは口にできなかったのでしょう。

 ここで承諾といいましたが、ラケルとレアの二人は結婚によってヤコブの妻となりましたが、だからといってラバンの家から切り離された訳ではありません。ヤコブ自身がラバンの家の一員となって生活しており、彼らは「父の家(14節)」と呼ばれる大家族の中に生活の場を得ていたのです。夫であるヤコブが故郷に戻りたいと言ったからといって、妻たちにはそれに従う必要はありませんでした。だからこそ、ヤコブは妻たちを説得する必要に迫られたのです。

 妻たちを説得するために、事細かにラバンの仕打ちを非難し、それに加えて神の言葉をも引き合いに出したヤコブは、しかし、自分の弄した策略については一言も語ってはいません。この点が30章と大きく異なるところです。30章ではヤコブの口から主のことが語られることは殆どなく、彼は、自分の策略の通りに事を進めて行きますが、一方、31章では随所に主の名が登場し、主なる神が語った言葉が引用されます。物語の場面が大きく変わろうとする時にその原動力となるのは、つまり、歴史を導くのは、主なる神であることが示されていると言えます。

 ここで、テキストの問題点について触れておきます。10節から13節までをひと続きの内容として理解することには難があるのです。10節で突然に夢の中で山羊が交尾している場面が登場し、それが12節に繋がりますが、山羊がはらむことと帰郷を命じることにどういう関係があるのか分かりません。無関係のものが脈絡なしに並べてあるといっても良いでしょう。夢だから、脈絡など関係ないと言ってしまえばそれまでですが、学者の中には、他の資料からの混入があったと考えて10節と12節を省いて読んだ方が良いとする者もおります。その立場に従えば、9節以下は次のような流れになります。

 

 9神はあなたたちのお父さんの家畜を取り上げて、わたしにお与えになったのだ。

 11そのとき、夢の中で神の御使いが、『ヤコブよ』と言われたので、『はい』と答えると、12こう言われた。『13わたしはベテルの神である。かつてあなたは、そこに記念碑を立てて油を注ぎ、わたしに誓願を立てたではないか。さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい。』

 

 実際に混入があったかどうかはともかくとして、山羊の交尾のことを省いた方が流れがスムーズになり、読み易くなるのは確かです。

 さて、ヤコブの言葉によれば、「わたしの父の神は、ずっとわたしと共にいてくださった」のであり、ラバンの度重なる報酬の変更にも関わらず「神はあなたたちのお父さんの家畜を取り上げて、わたしにお与えになった」のです。そればかりか、夢に現れてベテルでの約束を思い起こさせ、「さあ、今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい。」とヤコブに強く帰郷を命じたのも神でした。ヤコブは、自分の繁栄をもたらしたのは臨在する神であり、そして、ヤコブに繁栄をもたらしてくれた神が、今、自分に帰郷を命じているのだと妻たちに訴えかけます。

 

 14ラケルとレアはヤコブに答えた。「父の家に、わたしたちへの嗣業の割り当て分がまだあるでしょうか。15わたしたちはもう、父にとって他人と同じではありませんか。父はわたしたちを売って、しかもそのお金を使い果たしてしまったのです。16神様が父から取り上げられた財産は、確かに全部わたしたちと子供たちのものです。ですから、どうか今すぐ、神様があなたに告げられたとおりになさってください。」

                       (31章14~16節)

 

 ヤコブの説得の言葉を聞いたラケルとレアの反応は、全くあっさりとしたものでした。父ラバンに対する愛情などかけらも示さず、冷淡に突き放しています。

 彼女たちの開口第一声は、「父の家には自分たちの相続すべき財産の割り当てがまだあるか」ということ。ここから彼女たちが、結婚する際に相続財産に相当するものを持参金として得ていたことが推察されます。自分たちが相続すべき財産がないならば、ラバンの家に残る必要もこだわりもないということでしょうか?

 それに続けて、父ラバンを「他人と同じ」であるとし、その理由を「父はわたしたちを売って、しかもそのお金を使い果たしてしまった」と説明します。彼女たちの言葉から、ヤコブと彼女たちの結婚が一種の「購買婚」であったことが窺われます。ここで「購買婚」と言いましても、父親が娘を商品のように売り飛ばす訳ではなく、「花嫁の価」と呼ばれる結納金を受け取って娘を嫁がせる結婚の形を指します。この「花嫁の価」は、ヤコブのように労働で支払われる場合もありましたし、ダビデがサウル王の婿になった時のように軍事的手柄という場合もありました。

 

 ダビデは言った。「王の婿になることが、あなたたちの目には容易なことと見えるのですか。わたしは貧しく、身分も低い者です。」

 サウルの家臣は、ダビデの言ったことをサウルに報告した。サウルは言った。「では、ダビデにこう言ってくれ。『王は結納金など望んではおられない。王の望みは王の敵への報復のしるし、ペリシテ人の陽皮百枚なのだ』と。」サウルはペリシテ人の手でダビデを倒そうと考えていた。

                  (サムエル上18章23~25節)

 

 ヤコブやダビデのように、労働や軍事的な手柄を「花嫁の価」とした場合には、具体的な物品や金銀は花嫁の父に支払われないことになりますが、通常の場合は、「花嫁の価」に加えて婚約の贈り物が渡されたようです。ヤコブも何らかの贈り物をラバンに渡したのではないでしょうか。そうしたものの一部は花嫁のために取っておかれることが通常でしたが、ラバンはそれらをも自分のものとするばかりか、すっかり使ってしまったというのです。ラケルとレアが父ラバンを「他人と同じではありませんか」と冷たく突き放した理由は、このように説明できます。

 また、妻たちは「神様が父から取り上げられた財産は、確かに全部わたしたちと子どもたちのものです。」と言います。この「取り上げる」という言葉は、9節の「神はあなたたちのお父さんの家畜を取り上げて、わたしにお与えになったのだ。」というヤコブの言葉を受けていると考えられます。「取り上げる」には「救い出す」という意味があり、不当にもラバンのもとに置かれていた家畜の群を、正当な持ち主(ヤコブ)のところに救い出すという意味で用いられています。妻たちは、ラバンの財産がヤコブの働きによって増えてきた経緯を知っているため、同意する意味で彼の言葉を繰り返したのかもしれませんが、そればかりではありません。花嫁が嫁ぐときには、遺産相続に相当する持参金を持って嫁いだとされますが、古代メソポタミアの慣習では、持参金は夫のものになるのではなく、子どもたちに受け継がれることになっていました。「確かに全部わたしたちと子どもたちのものです。」という言葉には、こうした持参金の問題も含まれていたと思われます。

 こうしたことから、妻たちは、何のためらいもなくヤコブと一緒にハランを去る決心を固めました。

 さて、家族から離脱するかしないかという問題を論じるときに、その基準となるのが全て経済の問題であるということは、ラバンの家がどのような家風であり、何を基準として運営されていたかを物語っています。多少の情愛はあったにせよ、「金(金銭的な利益)」が全てだったのです。そうしたドライな価値観は娘たちにも受け継がれ、最後はそれによって父ラバンは逆襲されるのですからまことに皮肉なものと言えましょう。

 

 17ヤコブは直ちに、子供たちと妻たちをらくだに乗せ、18パダン・アラムで得たすべての財産である家畜を駆り立てて、父イサクのいるカナン地方へ向かって出発した。19そのとき、ラバンは羊の毛を刈りに出かけていたので、ラケルは父の家の守り神の像を盗んだ。20ヤコブもアラム人ラバンを欺いて、自分が逃げ去ることを悟られないようにした。21ヤコブはこうして、すべての財産を持って逃げ出し、川を渡りギレアドの山地へ向かった。

 

 ラケルとレアの了解を取り付けたヤコブは、出発の準備を始めます。

 ここで「直ちに」とありますが、ヘブライ語原文では「立ち上がった」という意味の言葉が使われており、帰郷の準備に取りかかったことを示しています。妻が四人、子どもが十一人ですから、ヤコブ自身を含めて十六人、それに男女の奴隷が加わり、大きな家畜の群れがいるとなると、今日決定して今日出発という訳にはいきません。ラバンに気取られないように、こっそりと出発の準備を進めて行ったのです。30章では、ヤコブの所有となる山羊や羊はラバンの息子たちが管理していましたが、31章では、ヤコブ自身が管理しています。どのような経緯があったのかは分かりませんが、自分の家畜を自分で管理できるようになったことが、逃亡の準備をする上で有利に働いたのは言うまでもありません。

 ヤコブが狙っていたのは、羊の毛を刈る時期でした。羊の毛を刈るのは当時の春のイベントであり、厳しい労働であると同時に、祝祭的な行事でもありました。羊の数の多い家では、羊の毛を刈ったり、祝いの宴を催したりすることが数日続いたとされます。多分、ラバンや息子たちが羊の毛を刈ることに集中し、他のことに関心を向ける余裕がなくなる時期であるのを知って、この時期を選んだのだと思われます。

 ラケルは、逃げ出す直前に父の家の守り神の像(テラフィム)を盗み出しましたが、これは31章30節以下の伏線となっています。

 この守り神の像(テラフィム)は、占いや神意を尋ねるためにも用いられたもので、小さなものでした。最初は家の守り神であったものが、やがては呪術的な儀式の道具となっていったのでしょうか?ラバンは守り神の像を大切にしていましたが、それを占いの道具として使っていたとは書かれていないのです。

 

 バビロンの王は二つの道の分かれる地点に立ち、そこで占いを行う。彼は矢を振り、テラフィムに問い、肝臓を見る。(エゼキエル書21章26節)

 

 テラフィムは空虚なことを語り

 占師は偽りを幻に見、虚偽の夢を語る。

 その慰めは空しい。

 それゆえ、人々は羊のようにさまよい

 羊飼いがいないので苦しむ。      (ゼカリヤ書10章2節)

 

 守り神の像を盗んだ理由は幾つか考えられますが、一般に言われていることは、守り神の像を持つ者が、亡父の財産の相続人となるということ。いわば、守り神の像が相続人の証明書のような役割を持っていた訳です。しかし、ラケルがそこまで考えて守り神の像を盗んだかどうかは分かりません。ラバンはまだ生きていますし、簡単に死ぬような様子ではありません。それに、親子の縁を切って飛び出す訳ですから、財産の相続を求めることなど出来るとも思えません。単に父親を困らせるため、或いは、故郷の思い出の品を持って行こうとしてちょっと手を出したということだろうとと思います。何事も「金(金銭的な利益)」が基準で動いている家ですから、空手で逃げるのは面白くないと娘が思ったとしても不思議ではありません。盗んだのがラケルであってレアではなかったことに注意して下さい。

 盗みを働いたのは、ラケルだけではありませんでした。実はヤコブも盗みを働いていたのです。ヤコブが盗んだのは、ラバンの心でした。「ヤコブもアラム人ラバンを欺いて(20節)」と訳されている部分のヘブライ語は、「ラバンの心を盗んで」と直訳されます。この「盗む」というヘブライ語は「ラケルは父の家の守り神の像を盗んだ」の「盗む」と同じヘブライ語です。妻が妻なら夫も夫です。似たようなタイプで波長が合ったからこそ、ヤコブはラケルを愛し続けたのではないでしょうか。

 さて、ヤコブは、一切合財の財産を携えて逃げ出し、ユーフラテス川を渡ってギレアドの山地に向かいます。ギレアドとは、ガリラヤ湖南東の一帯を指します。ガリラヤ湖の南で、かつ、ヨルダン川の東の地域に当たります。ハランからギレアドまでは約550キロ。家畜の大きな群れを引き連れての旅ですから、どんなに急いでも10日以上はかかる旅です。「ラバンに気付かれる前に果たして帰郷できるだろうか、帰郷に成功したとしても、兄エサウとの関係はどうなるだろうか・・・」とヤコブは不安な思いを抱えていたでしょうが、やがて不安が的中してラバンに追い付かれてしまいます。

 

<結 語>

 本日は、ヤコブがラバンの家から脱走する場面を取り上げました。

 次々に家族を増やし、家畜を増やしていくヤコブに対して、ラバンとその息子たちは冷たい態度を示し、彼を中傷するようになりました。そんな時に「あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい」という主の言葉が臨み、彼は帰郷の決心を固めます。

 ヤコブはラケルとレアに対し、ラバンの行った不正を非難して帰郷の意思を伝えますが、彼女たちも、自分たちに対する父ラバンの不正を非難し、帰郷に賛成します。彼らが問題にしたのは主に経済的な事柄でしたが、帰郷を決定付けたのは主なる神の言葉でした。

 ヤコブを富ませた神は、歴史を導く神としての姿を現わし、物語の舞台を大きく切り換えて行くのです。

 

<今回の参考書>

 

「創世記」(関根正雄訳 岩波文庫)/「創世記」(月本昭男訳 岩波書店)/「ヘブライ語聖書対訳シリーズ 創世記Ⅱ」(ミルトス)/「創世記講義」(政池仁著 聖書の日本社)/「現代聖書注解 創世記」(ブルッグマン著 日本基督教団出版局)/「ケンブリッジ旧約聖書注解 創世記」(デヴィッドソン著 新教出版社)/「新聖書注解 旧約Ⅰ」(いのちのことば社)