旧約聖書の旅「創世記」第26回「ラバンの追跡」(小山哲司)

「ラバンの追跡」 旧約聖書の旅26

2000.6.4 小山 哲司

 前回のレポートでは創世記31章1節~31章21節を取り上げ、ヤコブがラバンの家から脱走する場面について学びました。本日は31章22節~32章1節を取り上げますが、その前にこれまで学んできたことを振り返っておきたいと思います。

 アブラムは、神の言葉によってカルデアのウルを、そしてハランの地を後にしました。神は、アブラムの子孫が繁栄して約束の地を受け継ぐと語りかけます。ところが、飢饉を避けて下って行ったエジプトで、妻サライは宮廷に召し入れられてしまいました。神の介入によってサライを取り戻したアブラムは、エジプトからカナンの地へと戻ります。(創世記12章)

 ベテルとアイの間の所までやってくると、アブラムとロトの牧童たちの間に遊牧地を巡る争いが持ち上がってきます。アブラムは、土地を選択する権利をロトに譲ってしまいます。(13章)

 その後、東方の王たちがカナンを侵略し、ソドムの王たちを撃破してロトを奪い去りますが、アブラムの追撃に破れます。(14章)

 その後、幻の中で「あなたの受ける報いは非常に大きい」という主の言葉がアブラムに臨み、アブラムは自分の子供が誕生して子孫が増えることを信じます。その後、主なる神は動物を半分に引き裂き、向かい合わせに置くように命じます。やがて、煙をはいた炉と燃えた松明が引き裂かれた動物の間を通りますが、これは神とアブラムとの契約のしるしでした。(15章)

 繰り返し臨む神の約束の言葉にも関わらず懐妊する兆しのないサライは、女奴隷ハガルによって母となろうと企てます。これは、当時行われていた習慣に乗っ取ったことでしたが、アブラムとサライ、そしてハガルの間に亀裂が走ります。身ごもったハガルは、サライの仕打ちに耐え兼ねて、また、子供を自分の子としたいと願って逃亡しますが、主にサライのもとに戻るように示され、誕生する子供が繁栄するという約束を受けます。(16章)

 イシュマエルの誕生から13年後、主なる神は再びアブラハムに現われます。主は、子孫の繁栄と土地の所有の契約を繰り返し、アブラハムと改名するように命じます。主は、約束のしるしとして一族の男子はすべて割礼を受けるようにと命じ、それに続いて、神はイサクの誕生をアブラハムに予告します。アブラハムは、サラが子供を生むという主の言葉を笑いますが、主は1年後にはイサクが誕生し、それが神が契約を結ぶべきアブラハムの子孫であると宣言します。主の言葉を受け、アブラハムはその日のうちに一族の男子すべてに割礼を施します。(17章)

 イサクの誕生を予告した神は、旅人の姿をとって天幕を訪れ、アブラハムから手厚くもてなされます。その際にも、来年の今ごろサラに男の子が誕生すると予告しますがサラはそれを笑います。

 神の一行は、見送るアブラハムにソドムを滅ぼすことを示します。アブラハムは、少しでも正しい者がいれば滅ぼさないで欲しいと懇願し、「10人の正しい者がいれば滅ぼさない」という神の約束を取り付けます。ここには、罪なき者には罪ある者を救う力があるという思想が表われており、神とアブラハムとの交渉は緊迫したドラマを展開します。(18章)

 ソドムの町に入った二人の御使いは、ロトの家に招き入れられます。夜中に町の男たちが二人の御使いを引き渡すように迫りますが、御使いの目潰しによって難を逃れます。御使いから神がソドムを滅ぼすと聞かされたロトは、御使いに手を取られて妻と二人の娘と一緒に町の外へと連れ出されます。山へ逃げよという神の命に背いてロトはツォアルに逃げ、やがて山の中の洞穴に移り住みます。山の中では結婚相手が見つからないことに悩んだ二人の娘は父親であるロトによって子を得ます。(19章)

 アブラハムはゲラルに移動し、そこでサラを妹と偽ったお陰でゲラルの王アビメレクによってサラが召し入れられます。アビメレクは夢に現われた神に「召し入れた女の故にお前は死ぬ。・・・もし返さなかったら、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬ」と命じられ、翌朝、アブラハムを呼びつけます。アブラハムは「サラは実際に妹でもあるのです」と苦しい弁明をしますが、異教の王によって倫理的な過ちを糾弾されたのは屈辱的な経験だった筈です。一方、過ちを犯さなかった者(アビメレク)が、過ちの原因を与えた者(アブラハム)の祈りによって救われたとは、真に不可思議で興味深いこと。アブラハムは自身に価値はなくとも、神の一方的な恩恵によって諸国民に生命を与える器として選ばれたといえるでしょう。(20章)

 主なる神が約束された時期にサラに男子が誕生し、イサクと名付けられました。イサクとは「笑い」という意味。イサク誕生の喜びの笑いと同時に、神の約束に対するサラとアブラハムの不信の笑いをも意味するものでした。やがて、サラはハガルとイシュマエルの追放を求めます。アブラハムは水と食料を持たせて二人を送り出しますが、間もなく水が尽き、ハガルはイシュマエルの死を覚悟します。しかし、神の御使いが現われて「わたしはかならずあの子を大きな国民とする」と言い、ハガルは井戸を発見します。このように旧約の神はイサクを約束の子として選んだ「選び」の神でありますが、選びの外側にいる者に対しても恵み豊かな神でした。(21章)

 神はアブラハムを試みようと「イサクを燔祭の犠牲として献げよ」と命じます。アブラハムは、イサクを連れてモリヤの地へと向かいますが、薪を背負ってモリヤの地へと歩むイサクの姿は、十字架を背負ってゴルゴダの丘に向かうイエスの姿を彷彿とさせます。正にイサクを屠ろうとした時、神はイサクの身代わりとなる雄羊を示されます。この後、アブラハムは主役の座をイサクに譲り、旧約の舞台から静かに退場していくのです。(22章)

 サラは127年の生涯を全うしてヘブロンの地で亡くなり、アブラハムは墓地を求めてヘト人エフロンからマクペラの洞窟と畑を購入します。その代価は驚くほど高額なものでしたが、アブラハムは言い値の通りに代金を支払います。武力で占拠できたであろうアブラハムが、平和的な手段で土地を購入した点に、彼の成熟した信仰と人柄を見ることが出来ます。(23章)

 アブラハムは、イサクに妻を迎えようと僕をナホルの町に遣わします。僕は、ナホルの町外れの井戸で親切な娘リベカと出会い、彼女がイサクの妻となるべき女性であると確信します。リベカは、僕の申し出を受け入れてカナンへと旅立ちますが、ここには、自立した女性としてのリベカの姿が表われています。(24章)

 アブラハムにはケトラを通しても多くの子孫が誕生しましたが、その子孫の名前は周辺種族の名前と一致し、また、ハガルから誕生したイシュマエルの子孫の名前も周辺種族の名前と一致します。これは、イスラエルと周辺の種族との関係の深さを示すものです。一方、イサクを通して誕生したエサウとヤコブの兄弟には性格の違いがあり、ヤコブは、エサウの長子権を一杯のレンズ豆の煮物と引き換えに奪ってしまいます。(25章)

 飢饉を避けるためエジプトに下ろうとしたイサクに神の言葉が臨み、イサクはゲラルに滞在します。この時、主がアブラハムと結ばれた契約がイサクと更新されました。イサクはリベカを自分の妹だと偽りますが、王アビメレクに二人が夫婦であることを気付かれてしまいます。富み栄えたイサクはアビメレクによって追い出され、ゲラルの谷に移動しますが、そこでは井戸を巡る争いが生じます。争うことなく次々に井戸を掘り当てるイサクのもとをアビメレクが訪れ、二人は契約を結びます。(26章)

 臨終の床に就いたイサクは、長子としての祝福を与えようとエサウを呼びます。イサクは、祝福を与える前に料理を食べたいと言い、エサウは獲物を獲りに出かけます。リベカは、ヤコブをそそのかして祝福を横取りするように仕向けます。ヤコブは、声色を真似、毛皮を腕に巻き付けてイサクを騙し、エサウの受けるべき祝福を受けます。その直後にやってきたエサウは、悲痛な声をあげて祝福を求めますが、イサクが彼に与えたのは、およそ祝福という言葉からはほど遠いものでした。(27章1~40節)

 エサウの怒りから逃れるため、そして、叔父ラバンの娘の中から結婚相手を選ぶために、ヤコブはハランに向けて旅立ちます。旅の途中で、彼は天から下る階段を天使が昇り降りする夢を見ます。夢に現れた主は、アブラハム、イサクと結んだ約束をヤコブと更新し、何処に行こうともヤコブと共にいると語りかけます。夢から覚めたヤコブは、枕石を記念碑として立て、その地をベテル(神の家)と名付けます。(27章41~28章22節)

 ヤコブは、ハラン近くの井戸でラケルと出会います。1ヵ月後、ラバンに労働の報酬を尋ねられたヤコブは、ラケルを妻とするために7年間働くと申し出ますが、ラバンによってレアとの結婚を余儀なくされ、ラケルを妻とするためには14年間も働かなければならなくなります。無理やり結婚させられてしまったレアから、イスラエルの祭司職につながるレビ、そして、ダビデ王からキリストにつながるユダが生まれます。(29章1~30節)

 レアから男子が誕生するのを見て、ラケルは召使ビルハによって母になろうと企てます。レアも召使ジルパによって子を得ます。やがて、二人は恋なすびを巡って取り引きをし、レアがヤコブと寝る権利を得て男子を生みます。不妊であったラケルも、最後には神の顧みによってヨセフを生みます。ヤコブの息子たちは、母たちの争いの中に生を受けましたが、人間の憎しみ、妬み、怒りが交錯する中にも神の業は行われ、新たな生を引き起こすのは主なる神であることが示されています。(29章31節~30章24節)

 ラケルとの結婚に必要な7年の労働が終わった頃、ヤコブは、「妻子と共に故郷に帰らせて欲しい」とラバンに求めます。ラバンは、ヤコブに報酬を示すように言いますが、ヤコブが求めたのはぶちやまだらの山羊、黒みがかった羊であり、とるに足りないものでした。ラバンの警戒をよそに、ヤコブは黒い山羊、白い羊から呪術的な方法でぶちやまだらの山羊、そして黒みがかった羊を増やしていきますが、こうした繁栄は主なる神によってもたらされたものでした。(30章25~43節)

 ヤコブの繁栄を目のあたりにしたラバンとその息子たちは、彼を中傷するようになり、彼に対する態度も変わっていきました。その時、故郷に帰れという主の言葉がヤコブに臨み、彼はラケルとレアに帰郷の計画を打ち明けます。ラケルとレアが彼の計画に賛成したことを受けて、ヤコブは、ラバンたちが羊の毛を刈ることに忙しい時期を見計らい、全財産を携え、家族を引き連れてカナン地方へと出発します。(31章1~22節)

 

 創世記第29章から31章にかけての物語は、1つの大きなまとまりを形造っています。

 

 長子権と祝福を奪い取ったヤコブは、父イサクの家督相続人となりましたが、兄エサウの怒りを避けるためにベエル・シェバを去らなければなりませんでした。家督権を得ながらも無一文となったヤコブが、神の導きのうちに家族を増やし、財力を蓄えていく繁栄のプロセスがここには描かれております。しかし、ここに登場するのは、策略を巡らす油断ならない義父、2人の相争う姉妹、そして、その間に挟まれた夫ヤコブであり、およそ信仰の物語には似つかわしくない人々。兄を騙し、父を欺いたヤコブは、今度は義父ラバンに騙されて14年もただ働きをすることになりますが、最後はラバンを出し抜き、家族と財産を携えてカナンの地へ還ります。

 こうしたことを踏まえながら、本日の具体的な聖書の内容に入っていきたいと思います。

 

 22ヤコブが逃げたことがラバンに知れたのは、三日目であった。23ラバンは一族を率いて、七日の道のりを追いかけて行き、ギレアドの山地でヤコブに追いついたが、24その夜夢の中で神は、アラム人ラバンのもとに来て言われた。「ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい。」25ラバンがヤコブに追いついたとき、ヤコブは山の上に天幕を張っていたので、ラバンも一族と共にギレアドの山に天幕を張った。26ラバンはヤコブに言った。「一体何ということをしたのか。わたしを欺き、しかも娘たちを戦争の捕虜のように駆り立てて行くとは。27なぜ、こっそり逃げ出したりして、わたしをだましたのか。ひとこと言ってくれさえすれば、わたしは太鼓や竪琴で喜び歌って、送り出してやったものを。28孫や娘たちに別れの口づけもさせないとは愚かなことをしたものだ。29わたしはお前たちをひどい目に遭わせることもできるが、夕べ、お前たちの父の神が、『ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい』とわたしにお告げになった。30父の家が恋しくて去るのなら、去ってもよい。しかし、なぜわたしの守り神を盗んだのか。」(31章22~30節)

 

 ヤコブが滞在していたハランからギレアドまでは約550キロありました。徒歩ならば7~8日ほどでしたが、家畜の群を連れての旅では、10日でも難しい距離でした。ラバンは、ヤコブが家族や家畜もろともいなくなったことに気付いて追跡を始め、ギレアドの山中で追い付きました。追い付かれたとはいうもののギレアドにまで至ったということから、ヤコブのスピードも相当なものだったと思われます。

 ラバンがヤコブの一行に追い付いた夜、彼は夢の中で神の言葉を聞きます。夢の中に神が現われるという特徴から、この部分はE資料に由来すると考えられています。

 神はラバンに対して「ヤコブを一切非難するな」(24節)と命じます。ラバンとヤコブの緊迫した状況の中に介入し、平和をもたらそうとする神の意図が表われている箇所です。ヤコブは、たとえどんな状況の中にいようとも、28章で約束された神の言葉によって守られているのです。

 

 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、科ならずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。(28章15節)

 

 ラバンは、神の言葉にもかかわらず幾つかの点でヤコブを非難しますが、武力による攻撃は行いません。ラバンとヤコブが言葉による応酬に終始し、平和な解決への道を選んだことの背後には神の働きかけがあったことを、24節は示しています。

 ラバンは、ヤコブとは別の山の上に陣を構えます。ヤコブの目には、ラバンが攻撃の準備を行っているかのように見えた筈です。しかし、ラバンの攻撃は、言葉によって始まります。

 ラバンの言葉は、神の命令にも関わらず、2つの非難を含んでおりました。

 一つ目は、ラバンの娘や孫たちと別れを惜しむ機会を与えることなく、捕虜を駆り立てるようにして立ち去ってしまったこと。

 二つ目は、ラバンの家の守り神の像を盗んだということ。

 多分、ラバンの心の内には、ヤコブが連れて逃げた多くの家畜の群を取り戻したいという思いがあったことでしょうが、形の上では、ヤコブ自身の所有となっておりますので、さすがにそこまでは言えなかったのです。

 こうして、ラバンは、自分がヤコブによる酷い仕打ちの被害者であるという立場でヤコブを非難します。

 しかし、ヤコブが帰郷したいと相談してもそれに賛同する筈はありません。「ひとこと言えば太鼓や竪琴で喜び歌って送り出す」など、ラバンの性格を知るものには考えられないことです。また、捕虜を駆り立てるようにして立ち去ったという点についても、娘たちは自発的に父親との絶縁を口にしている訳ですから、的外れです。守り神の像(テラフィム)を盗んだという点は当たっていますが、これは自分自身の娘ラケルがしたことですから、ヤコブを非難するのはやはり的外れです。

 ラバンがヤコブを非難する言葉は、26節から30節まで続きますが、この中で29節だけが異質な響きをもたらしています。ヤコブを非難しているにも関わらず、「ヤコブを一切非難するな」という、夢に現われた神の言葉を引用しているからです。これについては、29節を省略して読んだほうが流れがスムーズなことから、後代の加筆、混入だと指摘する学者もおります。この説に従えば、聖書本文は次のようになります。

 

 26ラバンはヤコブに言った。「一体何ということをしたのか。わたしを欺き、しかも娘たちを戦争の捕虜のように駆り立てて行くとは。27なぜ、こっそり逃げ出したりして、わたしをだましたのか。ひとこと言ってくれさえすれば、わたしは太鼓や竪琴で喜び歌って、送り出してやったものを。28孫や娘たちに別れの口づけもさせないとは愚かなことをしたものだ。30父の家が恋しくて去るのなら、去ってもよい。しかし、なぜわたしの守り神を盗んだのか。」

 

 確かに、上記のテキストでは29節によって流れが妨げられることはなくなります。

 もし、29節を残すとすれば、「非難すること」に対するラバンの解釈がそこに述べられている点に、積極的な意味を見い出すことになります。つまり、「非難すること」とは、ラバンにとっては武力によって攻撃することを意味していたのだと。ヘブライ語の聖書本文を直訳すると「非難する」とは、「善から悪まで話す」ことですので、「言葉によって相手の欠点や問題点を責める」ことになりますが、ラバンは、神の言葉を自分に都合の良いようにねじ曲げ、武力攻撃をするなと解釈したのです。言葉による非難など、非難のうちに入らないということでしょうか。ここにラバンの性質が示されています。

 

 31ヤコブはラバンに答えた。「わたしは、あなたが娘たちをわたしから奪い取るのではないかと思って恐れただけです。32もし、あなたの守り神がだれかのところで見つかれば、その者を生かしてはおきません。我々一同の前で、わたしのところにあなたのものがあるかどうか調べて、取り戻してください。」ヤコブは、ラケルがそれを盗んでいたことを知らなかったのである。

 33そこで、ラバンはヤコブの天幕に入り、更にレアの天幕や二人の召し使いの天幕にも入って捜してみたが、見つからなかった。ラバンがレアの天幕を出てラケルの天幕に入ると、34ラケルは既に守り神の像を取って、らくだの鞍の下に入れ、その上に座っていたので、ラバンは天幕の中をくまなく調べたが見つけることはできなかった。35ラケルは父に言った。「お父さん、どうか悪く思わないでください。わたしは今、月のものがあるので立てません。」ラバンはなおも捜したが、守り神の像を見つけることはできなかった。(31章31~35節)

 

 

 ヤコブは、ラバンの非難を受けて、「ラケルやレアが奪い取られるのではないかと恐れただけだ」と弁解しますが、31章43節で「この娘たちはわたしの娘だ。この孫たちもわたしの孫だ。この家畜の群れもわたしの群れ、いや、お前の目の前にあるものはみなわたしのものだ。」と述べたラバンの言葉を思うと、ヤコブの危惧は当然のことです。ラバンの所有欲には限りがありません。

 一方、テラフィムに関しては身に覚えがありませんから、ヤコブは、「あなたの守り神が誰かのところで見つかれば、その者を生かしてはおきません。」と述べて、ラバンの疑いの不当性を訴えます。ここからは、ヤコブがラバンにとってのテラフィムの重要性を充分に知っていたこと、そして、テラフィムが盗まれたことに関しては全く何も知らなかったことが分かります。ラケルは、テラフィムを盗んだことを誰にも話さないでいた訳です。

 ラバンは「調べて、取り戻して欲しい」というヤコブの言葉を受け、ヤコブの天幕、レアの天幕、二人の召使の天幕と、次々にしらみ潰しに調べていきますが見つかりません。ラケルの天幕では、ラケルはテラフィムをらくだの鞍の下にいれ、その上に座ってごまかしてしまいます。当時は、年長者の前では立ち上がっていることが礼儀とされましたが、ラケルは「月のものがあるので立てません」と言って座り続けます。結局、ラバンは全ての天幕を調べ尽くしましたが、テラフィムを見つけることは出来ませんでした。

 ラケルがテラフィムを盗んだ理由は、前回も説明したように、単に父親を困らせるため、或いは、故郷の思い出の品を持って行こうとしてちょっと手を出したということだろうと思います。ラバンの財産を相続するためにテラフィムが必要とされたからではありません。更に言えば、テラフィムが盗まれたことが創世記に記されたのは、ラバンとラバンの宗教をあざ笑うためであったと考えられます。

 ヤコブの神は、追跡するラバンの夢に現われてヤコブを守る神、ヤコブと共にいる神ですが、ラバンのテラフィムは、ラバンのもとから姿を消し、必死に探して取り戻さなければならない神です。また、ヤコブの神は天地を造った神であり、目に見ることの出来ない神ですが、ラバンのテラフィムは大変小さく、らくだの鞍の下に簡単に隠すことの出来る神です。痛烈なのは、ラケルが生理期間中であることを理由に、鞍から立ち上がらなかったこと。レビ記15章では、女性は生理期間中は宗教的に汚れているとして次のような規定を置いています。

 

 女性の生理が始まったならば、七日間は月経期間であり、この期間に彼女に触れた人はすべて夕方まで汚れている。生理期間中の女性が使った寝床や腰掛けはすべて汚れる。彼女の寝床に触れた人はすべて、衣服を水洗いし、身を洗う。その人は夕方まで汚れている。(レビ記15章19~21節)

 

 レビ記の考え方を当てはめれば、生理期間中のラケルが触ったことでテラフィムは汚れたことになりますが、触るどころかラケルは尻の下に敷いたのです。テラフィムの汚れ方は相当なものであったと言わなければなりません。それにも関わらず、テラフィムの怒りがラケルに示されることもなく、結局はラバンもテラフィムが見つからないままで諦めてしまうのです。ここには、ラバンの信じている宗教と、そこで重要視されたテラフィムの価値とはその程度のものだという皮肉が込められています。後に、このテラフィムは、ヤコブによって取り去られ、土に埋められてしまいます。

 

 ヤコブは、家族の者や一緒にいるすべての人々に言った。「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい。さあ、これからベテルに上ろう。わたしはその地に、苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神のために祭壇を造る。」人々は、持っていた外国のすべての神々と、着けていた耳飾りをヤコブに渡したので、ヤコブはそれらをシケムの近くにある樫の木の下に埋めた。こうして一同は出発したが、神が周囲の町々を恐れさせたので、ヤコブの息子たちを追跡する者はなかった。(35章2~5節)

 

 外国の神々をすべて捨て去った後も守られたことによって、ヤコブの一行と共におられたのは主なる神であることが確証されたのです。

 

 36ヤコブは怒ってラバンを責め、言い返した。「わたしに何の背反、何の罪があって、わたしの後を追って来られたのですか。37あなたはわたしの物を一つ残らず調べられましたが、あなたの家の物が一つでも見つかりましたか。それをここに出して、わたしの一族とあなたの一族の前に置き、わたしたち二人の間を、皆に裁いてもらおうではありませんか。38この二十年間というもの、わたしはあなたのもとにいましたが、あなたの雌羊や雌山羊が子を産み損ねたことはありません。わたしは、あなたの群れの雄羊を食べたこともありません。39野獣にかみ裂かれたものがあっても、あなたのところへ持って行かないで自分で償いました。昼であろうと夜であろうと、盗まれたものはみな弁償するようにあなたは要求しました。40しかも、わたしはしばしば、昼は猛暑に夜は極寒に悩まされ、眠ることもできませんでした。41この二十年間というもの、わたしはあなたの家で過ごしましたが、そのうち十四年はあなたの二人の娘のため、六年はあなたの家畜の群れのために働きました。しかも、あなたはわたしの報酬を十回も変えました。42もし、わたしの父の神、アブラハムの神、イサクの畏れ敬う方がわたしの味方でなかったなら、あなたはきっと何も持たせずにわたしを追い出したことでしょう。神は、わたしの労苦と悩みを目に留められ、昨夜、あなたを諭されたのです。」(31章36~42節)

 

 ヤコブは、ラバンの捜索が不首尾であったため、一挙に優位に立ちます。

 先ほど、ラバンの挙げた2つの非難のうち、前者については、ラケルとレアの了解を得ておりますので、ヤコブは責められる筋合いはありませんでした。そして、今度は、後者の非難も理由のないことになったのです。或いは、ヤコブは、ラバンが言いがかりをつけてヤコブの所有物を調べようとしたと考えたのかも知れません。

 ヤコブは、「自分とラバンの一族の前で、皆に裁いてもらおう」と訴えますが、これは、ラバンとの関係に決着を付けようとする強い決意の表われです。ヤコブは、ラバンと交渉を行う度に、言を左右にしての曖昧な態度に翻弄されてきましたから、もういい加減に曖昧さとは決別したいと考えたのでしょう。

 そして、ヤコブは、自分がいかに羊飼いとして優れていたか、また、責任感に満ちていたか、さらに、ラバンの為に労を惜しまず、長期間働き続けたかを綿々と訴えていきます。ラバンに対して優位に立っている今がチャンスとばかり、胸のうちに秘めていた思いを全て吐き出しているかのようです。

 羊飼いは、群れを率いて遠方に出かけるとき、食料として必要ならば、群れの中から殺して食べる権利がありましたが、ヤコブはそれをしなかったと主張します。また、野獣に殺された家畜については、羊飼いは責任を問われることはありませんでしたが、ラバンは全ての責任をヤコブに負わせたのだと非難します。常識も法律も通用しない過酷な主人であったとラバンをなじっている訳です。報酬を自分に都合の良いように十回も変えたことも、非難の対象とされました。

 ヤコブは、ラバンに対する非難の最後に神を持ちだし、神が自分をかえりみて味方となってくれていることを強調しますが、これは唐突な印象を与えます。

 ヤコブは、ラバンを欺く計略を企てた際には、主なる神に祈ったり、相談したりはしていません。30章の25節から43節までの間に、ヤコブと主のやり取りは一箇所もありません。主なる神は、ヤコブが呪術的な方法によって群れを増やすのに懸命になっているときには忘れ去られ、自分の振る舞いを他人に弁護するときにだけ引き合いに出されているのです。確かに、ヤコブが主張する通り、主なる神は、ヤコブに味方してラバンとの間に介入しましたから、彼の主張自体は間違ってはおりません。しかし、ヤコブが、自分は、優秀で責任感に満ち、労を惜しまず主人のために一生懸命に働いた羊飼いであり、だからこそ神が味方してくれているのだと唱えるとき、そこから浮かび上がってくる、傷つけられ虐げられた、清廉潔白な人間のイメージは、ヤコブの実像とは簡単には一致しないのです。神学的な主張としては正しさを含んでいようとも、ヤコブの主張には、誇張や自己正当化の思いも多分に込められていたと思われます。

 

 43ラバンは、ヤコブに答えた。「この娘たちはわたしの娘だ。この孫たちもわたしの孫だ。この家畜の群れもわたしの群れ、いや、お前の目の前にあるものはみなわたしのものだ。しかし、娘たちや娘たちが産んだ孫たちのために、もはや、手出しをしようとは思わない。44さあ、これから、お前とわたしは契約を結ぼうではないか。そして、お前とわたしの間に何か証拠となるものを立てよう。」

 45ヤコブは一つの石を取り、それを記念碑として立て、46一族の者に、「石を集めてきてくれ」と言った。彼らは石を取ってきて石塚を築き、その石塚の傍らで食事を共にした。47ラバンはそれをエガル・サハドタと呼び、ヤコブはガルエドと呼んだ。48ラバンはまた、「この石塚(ガル)は、今日からお前とわたしの間の証拠(エド)となる」とも言った。そこで、その名はガルエドと呼ばれるようになった。49そこはまた、ミツパ(見張り所)とも呼ばれた。「我々が互いに離れているときも、主がお前とわたしの間を見張ってくださるように。50もし、お前がわたしの娘たちを苦しめたり、わたしの娘たち以外にほかの女性をめとったりするなら、たとえ、ほかにだれもいなくても、神御自身がお前とわたしの証人であることを忘れるな」とラバンが言ったからである。

 51ラバンは更に、ヤコブに言った。「ここに石塚がある。またここに、わたしがお前との間に立てた記念碑がある。52この石塚は証拠であり、記念碑は証人だ。敵意をもって、わたしがこの石塚を越えてお前の方に侵入したり、お前がこの石塚とこの記念碑を越えてわたしの方に侵入したりすることがないようにしよう。53どうか、アブラハムの神とナホルの神、彼らの先祖の神が我々の間を正しく裁いてくださいますように。」ヤコブも、父イサクの畏れ敬う方にかけて誓った。54ヤコブは山の上でいけにえをささげ、一族を招いて食事を共にした。食事の後、彼らは山で一夜を過ごした。

 1次の朝早く、ラバンは孫や娘たちに口づけして祝福を与え、そこを去って自分の家へ帰って行った。(31章43~32章1節)

 

 ラバンとヤコブとの応酬は、ヤコブが優位に立ちました。テラフィムが見つからなかったことによって、両者の力関係が決まったと思われます。

 ラバンは、ヤコブの非難の一つ一つに答えることなく、それらを全て無視した上で、ヤコブが持つ全てのものはラバン自身のものであることを主張しますが、これは、ヤコブの非難が反論の余地のない事実を含んでいたためでした。それにしても、「お前の目の前にあるものはみなわたしのものだ。」という言葉に、ラバンのすべてがさらけ出されているように思えてなりません。ラバンの所有欲に限りはなく、ヤコブが正面からラバンと交渉したならば、自分に有利にことを運ぶことは困難だったといえるでしょう。

 ラバンは、すべてが自分のものであると主張した上で、ヤコブと契約を結ぼうとします。すべては元来自分のものであるが、特別にヤコブのものとして認めてやろう。ただ、認めてやるのはヤコブの労苦の故ではなく、自分の娘であるヤコブの妻たちと孫たちの故であるとして、ヤコブの主張を半ば無視しながらも、結果的には家族、財産もろともヤコブの一行を送り出す訳です。

 ヤコブは、ラバンの契約の申し出を了解し、契約の記念となる記念碑を立て、また、多数の石を集めて石塚を築きます。ヤコブとしても、ラバンの怒りをそのままにして分かれるのではなく、平安のうちに故郷に帰ることが出来る以上は、ラバンの言い種はともかくとして契約を結ぶこと自体に反対する理由はありませんでした。また、こうしたことの成り行きの背後には、ヤコブと共にいまし給う主なる神の導きがあることを感じ取ったのかもしれません。やがて両者は、それぞれの一族の者を交え石塚の傍らで食事をしますが、これは、契約を結ぶ証印としての食事でした。

 ラバンはこの石塚をアラム語で「エガル・サハドタ」と呼び、ヤコブはヘブライ語で「ガルエド」と呼びましたが、どちらも「証拠の石塚」という意味でした。これは、この石塚が、政治的な境界を意味しているばかりではなく、言語的な境界をも意味していると思われます。イスラエルの民の先祖は初め、アラム語を話す地方からカナンに移り、そこでカナンの言葉としてヘブライ語を用いるようになりました。その両者の言語的な境界-ということは、文化的境界でもある-が、このガルエドであったと考えられる訳です。

 この契約の証印としての石塚が造られた場所はミツパ(見張り所)とも呼ばれ、士師記10~11章にその名が登場しますが、実際に何処であったのかははっきりとは分かりません。ただ、ギレアド地方にあったと創世記は告げていますので、比較的ヤコブの故郷に近い場所にあったことになります。

 両者が結んだ契約の内容は、大きく二つに分けられます。

 一つは、家族内の事柄を扱う契約。 

 自分の娘を苦しめたり、自分の娘以外の女性を妻とするなというラバンの主張が契約の内容とされています。一夫多妻制の社会では、妻の地位は多分に不安定なものでしたから、ラバンは契約の中で、娘たちをそのような酷い目に遭わせないように求めた訳ですが、このような条項は、古代近東の婚姻の記録にはしばしば記載されていたものでした。娘たちは、「父は私たちを売った」とラバンを非難しています(31章15節)が、ラバンは、自分の娘を大切にすることをヤコブに求めていますから、娘たちの方が冷淡です。こうしたラバンの求めに対し、ヤコブは誓いの言葉を述べておりません。

 もう一つは、部族間の関係を取り決める契約。

 両者が、敵意を持って石塚を超えないようにしようというラバンの主張が契約の内容とされました。敵意を持たなければ、石塚を超えても問題は起きませんので、一種の和平協定が結ばれたと理解されます。家族内の事柄に関しては誓いの言葉を述べなかったヤコブも、ここでは父イサクの畏れ敬う方(神)にかけて誓っています。

 ここで興味深いのは、51節で「わたしがお前との間に立てた記念碑がある」とラバンが述べている箇所です。31章45節によれば、記念碑を立てたのはヤコブであってラバンではありません。それにも関わらず、「わたしがお前との間に立てた記念碑がある」と言ってはばからない点に、ラバンの人柄が示されています。

 契約を結んだ後、ヤコブは山の上でいけにえをささげて皆と共に食事をします。神にささげたいけにえの一部を、儀式に参加した者たちで分け合って食べることによって、契約の当事者間の絆を強め、契約内容の遵守を確かめ合うのです。

 ヤコブとの契約を結び終えたラバンは、翌朝早く、娘や孫たちに祝福を与えてから、自分の家に帰って行きました。

 

 <結 語>

 本日は、ラバンがヤコブを追跡する場面を取り上げました。

 ハランから旅立ったヤコブは、ギレアドの山中でラバンに追い付かれてしまいます。両者の武力による衝突は、主なる神の介入によって回避され、ラバンとヤコブの言葉による応酬が行われます。「ヤコブを非難するな」との主なる神の命令にも関わらず、ラバンはヤコブを非難してテラフィムを探し出そうとしますが、ラケルの狡智によって見つけ出すことが出来ませんでした。ヤコブはその機に乗じて一気に優位に立ち、逆にラバンを非難します。

過酷な主人であったラバンの許で家族、財産を増やし、それらを引き連れて故郷に帰ることが出来たのは、アブラハム、イサクの神であった主が共にいたからであるとヤコブは訴えますが、ここに、本日の箇所のポイントが示されています。

 ベテルにおいてヤコブと約束を更新し、「あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。」と言った神は、その言葉の通りにヤコブを守り、イスラエルの十二部族の基礎を造らせ、無一物であったヤコブを富ませて故郷カナンへと連れ帰るのです。

 ヤコブは倫理的にも信仰的にも問題の多い人物であり、しかも、ベテルで契約を更新した時、ヤコブは全くの無一物でした。ここに、神の選びがこの世における価値とは関わりを持たず、神の一方的な恩恵に基づくものであることが示されています。こうしたヤコブを選んだ神は、ヤコブ同様、倫理的に罪多く、神に反逆して止まないイスラエルの民を選び、その民の中から救い主イエス・キリストを誕生させたのです。

 

<今回の参考書>

 

「創世記」(関根正雄訳 岩波文庫)/「創世記」(月本昭男訳 岩波書店)/「ヘブライ語聖書対訳シリーズ 創世記Ⅱ」(ミルトス)/「創世記講義」(政池仁著 聖書の日本社)/「現代聖書注解 創世記」(ブルッグマン著 日本基督教団出版局)/「ケンブリッジ旧約聖書注解 創世記」(デヴィッドソン著 新教出版社)/「新聖書注解 旧約Ⅰ」(いのちのことば社)