旧約聖書の旅「創世記」第27回「ペヌエルでの格闘」(小山哲司)

「ペヌエルでの格闘」 旧約聖書の旅27

2000.7.2 小山 哲司

 前回のレポートでは創世記31章22節~32章1節を取り上げ、ヤコブが、追跡するラバンと対峙し、言葉による応酬を行う場面について学びました。本日は32章2節~33節を取り上げますが、その前にこれまで学んできたことを振り返っておきたいと思います。

 アブラムは、神の言葉によってカルデアのウルを、そしてハランの地を後にしました。神は、アブラムの子孫が繁栄して約束の地を受け継ぐと語りかけます。ところが、飢饉を避けて下って行ったエジプトで、妻サライは宮廷に召し入れられてしまいました。神の介入によってサライを取り戻したアブラムは、エジプトからカナンの地へと戻ります。(創世記12章)

 ベテルとアイの間の所までやってくると、アブラムとロトの牧童たちの間に遊牧地を巡る争いが持ち上がってきます。アブラムは、土地を選択する権利をロトに譲ってしまいます。(13章)

 その後、東方の王たちがカナンを侵略し、ソドムの王たちを撃破してロトを奪い去りますが、アブラムの追撃に破れます。(14章)

 その後、幻の中で「あなたの受ける報いは非常に大きい」という主の言葉がアブラムに臨み、アブラムは自分の子供が誕生して子孫が増えることを信じます。その後、主なる神は動物を半分に引き裂き、向かい合わせに置くように命じます。やがて、煙をはいた炉と燃えた松明が引き裂かれた動物の間を通りますが、これは神とアブラムとの契約のしるしでした。(15章)

 繰り返し臨む神の約束の言葉にも関わらず懐妊する兆しのないサライは、女奴隷ハガルによって母となろうと企てます。これは、当時行われていた習慣に乗っ取ったことでしたが、アブラムとサライ、そしてハガルの間に亀裂が走ります。身ごもったハガルは、サライの仕打ちに耐え兼ねて、また、子供を自分の子としたいと願って逃亡しますが、主にサライのもとに戻るように示され、誕生する子供が繁栄するという約束を受けます。(16章)

 

 イシュマエルの誕生から13年後、主なる神は再びアブラハムに現われます。主は、子孫の繁栄と土地の所有の契約を繰り返し、アブラハムと改名するように命じます。主は、約束のしるしとして一族の男子はすべて割礼を受けるようにと命じ、それに続いて、神はイサクの誕生をアブラハムに予告します。アブラハムは、サラが子供を生むという主の言葉を笑いますが、主は1年後にはイサクが誕生し、それが神が契約を結ぶべきアブラハムの子孫であると宣言します。主の言葉を受け、アブラハムはその日のうちに一族の男子すべてに割礼を施します。(17章)

 イサクの誕生を予告した神は、旅人の姿をとって天幕を訪れ、アブラハムから手厚くもてなされます。その際にも、来年の今ごろサラに男の子が誕生すると予告しますがサラはそれを笑います。

 神の一行は、見送るアブラハムにソドムを滅ぼすことを示します。アブラハムは、少しでも正しい者がいれば滅ぼさないで欲しいと懇願し、「10人の正しい者がいれば滅ぼさない」という神の約束を取り付けます。ここには、罪なき者には罪ある者を救う力があるという思想が表われており、神とアブラハムとの交渉は緊迫したドラマを展開します。(18章)

 ソドムの町に入った二人の御使いは、ロトの家に招き入れられます。夜中に町の男たちが二人の御使いを引き渡すように迫りますが、御使いの目潰しによって難を逃れます。御使いから神がソドムを滅ぼすと聞かされたロトは、御使いに手を取られて妻と二人の娘と一緒に町の外へと連れ出されます。山へ逃げよという神の命に背いてロトはツォアルに逃げ、やがて山の中の洞穴に移り住みます。山の中では結婚相手が見つからないことに悩んだ二人の娘は父親であるロトによって子を得ます。(19章)

 アブラハムはゲラルに移動し、そこでサラを妹と偽ったお陰でゲラルの王アビメレクによってサラが召し入れられます。アビメレクは夢に現われた神に「召し入れた女の故にお前は死ぬ。・・・もし返さなかったら、あなたもあなたの家来も皆、必ず死ぬ」と命じられ、翌朝、アブラハムを呼びつけます。アブラハムは「サラは実際に妹でもあるのです」と苦しい弁明をしますが、異教の王によって倫理的な過ちを糾弾されたのは屈辱的な経験だった筈です。一方、過ちを犯さなかった者(アビメレク)が、過ちの原因を与えた者(アブラハム)の祈りによって救われたとは、真に不可思議で興味深いこと。アブラハムは自身に価値はなくとも、神の一方的な恩恵によって諸国民に生命を与える器として選ばれたといえるでしょう。(20章)

 主なる神が約束された時期にサラに男子が誕生し、イサクと名付けられました。イサクとは「笑い」という意味。イサク誕生の喜びの笑いと同時に、神の約束に対するサラとアブラハムの不信の笑いをも意味するものでした。やがて、サラはハガルとイシュマエルの追放を求めます。アブラハムは水と食料を持たせて二人を送り出しますが、間もなく水が尽き、ハガルはイシュマエルの死を覚悟します。しかし、神の御使いが現われて「わたしはかならずあの子を大きな国民とする」と言い、ハガルは井戸を発見します。このように旧約の神はイサクを約束の子として選んだ「選び」の神でありますが、選びの外側にいる者に対しても恵み豊かな神でした。(21章)

 神はアブラハムを試みようと「イサクを燔祭の犠牲として献げよ」と命じます。アブラハムは、イサクを連れてモリヤの地へと向かいますが、薪を背負ってモリヤの地へと歩むイサクの姿は、十字架を背負ってゴルゴダの丘に向かうイエスの姿を彷彿とさせます。正にイサクを屠ろうとした時、神はイサクの身代わりとなる雄羊を示されます。この後、アブラハムは主役の座をイサクに譲り、旧約の舞台から静かに退場していくのです。(22章)

 サラは127年の生涯を全うしてヘブロンの地で亡くなり、アブラハムは墓地を求めてヘト人エフロンからマクペラの洞窟と畑を購入します。その代価は驚くほど高額なものでしたが、アブラハムは言い値の通りに代金を支払います。武力で占拠できたであろうアブラハムが、平和的な手段で土地を購入した点に、彼の成熟した信仰と人柄を見ることが出来ます。(23章)

 アブラハムは、イサクに妻を迎えようと僕をナホルの町に遣わします。僕は、ナホルの町外れの井戸で親切な娘リベカと出会い、彼女がイサクの妻となるべき女性であると確信します。リベカは、僕の申し出を受け入れてカナンへと旅立ちますが、ここには、自立した女性としてのリベカの姿が表われています。(24章)

 アブラハムにはケトラを通しても多くの子孫が誕生しましたが、その子孫の名前は周辺種族の名前と一致し、また、ハガルから誕生したイシュマエルの子孫の名前も周辺種族の名前と一致します。これは、イスラエルと周辺の種族との関係の深さを示すものです。一方、イサクを通して誕生したエサウとヤコブの兄弟には性格の違いがあり、ヤコブは、エサウの長子権を一杯のレンズ豆の煮物と引き換えに奪ってしまいます。(25章)

 飢饉を避けるためエジプトに下ろうとしたイサクに神の言葉が臨み、イサクはゲラルに滞在します。この時、主がアブラハムと結ばれた契約がイサクと更新されました。イサクはリベカを自分の妹だと偽りますが、王アビメレクに二人が夫婦であることを気付かれてしまいます。富み栄えたイサクはアビメレクによって追い出され、ゲラルの谷に移動しますが、そこでは井戸を巡る争いが生じます。争うことなく次々に井戸を掘り当てるイサクのもとをアビメレクが訪れ、二人は契約を結びます。(26章)

 臨終の床に就いたイサクは、長子としての祝福を与えようとエサウを呼びます。イサクは、祝福を与える前に料理を食べたいと言い、エサウは獲物を獲りに出かけます。リベカは、ヤコブをそそのかして祝福を横取りするように仕向けます。ヤコブは、声色を真似、毛皮を腕に巻き付けてイサクを騙し、エサウの受けるべき祝福を受けます。その直後にやってきたエサウは、悲痛な声をあげて祝福を求めますが、イサクが彼に与えたのは、およそ祝福という言葉からはほど遠いものでした。(27章1~40節)

 エサウの怒りから逃れるため、そして、叔父ラバンの娘の中から結婚相手を選ぶために、ヤコブはハランに向けて旅立ちます。旅の途中で、彼は天から下る階段を天使が昇り降りする夢を見ます。夢に現れた主は、アブラハム、イサクと結んだ約束をヤコブと更新し、何処に行こうともヤコブと共にいると語りかけます。夢から覚めたヤコブは、枕石を記念碑として立て、その地をベテル(神の家)と名付けます。(27章41~28章22節)

 ヤコブは、ハラン近くの井戸でラケルと出会います。1ヵ月後、ラバンに労働の報酬を尋ねられたヤコブは、ラケルを妻とするために7年間働くと申し出ますが、ラバンによってレアとの結婚を余儀なくされ、ラケルを妻とするためには14年間も働かなければならなくなります。無理やり結婚させられてしまったレアから、イスラエルの祭司職につながるレビ、そして、ダビデ王からキリストにつながるユダが生まれます。(29章1~30節)

 レアから男子が誕生するのを見て、ラケルは召使ビルハによって母になろうと企てます。レアも召使ジルパによって子を得ます。やがて、二人は恋なすびを巡って取り引きをし、レアがヤコブと寝る権利を得て男子を生みます。不妊であったラケルも、最後には神の顧みによってヨセフを生みます。ヤコブの息子たちは、母たちの争いの中に生を受けましたが、人間の憎しみ、妬み、怒りが交錯する中にも神の業は行われ、新たな生を引き起こすのは主なる神であることが示されています。(29章31節~30章24節)

 ラケルとの結婚に必要な7年の労働が終わった頃、ヤコブは、「妻子と共に故郷に帰らせて欲しい」とラバンに求めます。ラバンは、ヤコブに報酬を示すように言いますが、ヤコブが求めたのはぶちやまだらの山羊、黒みがかった羊であり、とるに足りないものでした。ラバンの警戒をよそに、ヤコブは黒い山羊、白い羊から呪術的な方法でぶちやまだらの山羊、そして黒みがかった羊を増やしていきますが、こうした繁栄は主なる神によってもたらされたものでした。(30章25~43節)

 ヤコブの繁栄を目のあたりにしたラバンとその息子たちは、彼を中傷するようになり、彼に対する態度も変わっていきました。その時、故郷に帰れという主の言葉がヤコブに臨み、彼はラケルとレアに帰郷の計画を打ち明けます。ラケルとレアが彼の計画に賛成したことを受けて、ヤコブは、ラバンたちが羊の毛を刈ることに忙しい時期を見計らい、全財産を携え、家族を引き連れてカナン地方へと出発します。(31章1~22節)

 ハランから旅立ったヤコブは、ギレアドの山中でラバンに追い付かれます。武力による衝突は、神の介入によって回避され、ラバンとヤコブの言葉による応酬が行われます。「非難するな」との神の命令にも関わらず、ラバンはヤコブを非難してテラフィムを探し出そうとしますが、ラケルの狡智によって見つけ出すことが出来ません。ヤコブはその機に乗じて一気に優位に立ち、逆にラバンを非難します。過酷な主人であったラバンの許で家族、財産を増やし、それらを引き連れて故郷に帰ることが出来たのは、アブラハム、イサクの神であった主が共にいたからだとヤコブは訴えます。ラバンは、応酬の後にヤコブと契約を結ぶことを提案し、記念の石を立て、また、石塚を築かせてから、ハランの地へと戻って行きます。

(31章22~32章1節)

 

 それでは、本日の箇所に入っていきたいと思います。

 

 2ヤコブが旅を続けていると、突然、神の御使いたちが現れた。3ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ」と言い、その場所をマハナイム(二組の陣営)と名付けた。(32章2~3節)

 

 29章から31章にかけてのヤコブの逃亡物語は、兄エサウの怒りのために故郷を去らなければならなかったヤコブが、神の導きのうちに無一物から家族を増やし、財産を蓄えていく繁栄と成長の物語と読むことが出来ます。その物語が終わりを告げ、ヤコブが再び故郷を目指す時、逃亡の原因となった兄エサウの怒りに直面することになります。約束の地に戻るためには、そこから離れなければならなかった根本的な問題に立ち向かわなければなりません。

 ヤコブは、ベテルで神の御使いが天からの階段を昇り降りするのを見、主なる神が、アブラハム、イサクと結ばれた契約の更新を受けました。逃亡の出発点で味わったこの神体験が、ヤコブの根底にはありました。彼は主に導かれて財を築き、そして、約束の故郷へと戻りますが、故郷を目の前にした時、かつてベテルで見たと同じ御使いが彼の前に再び姿を現したのです。

 ここでは、ベテルでのように夢の中での出来事とは書いてありませんが、違った形で御使いと出会ったと理解する必要もありません。ベテルでの出来事と対応するものであるからには、体験の状況も似ていたと理解すべきでしょう。夢の中での出会いであったと推察されます。

 ヤコブがそこで見たものは、おびただしい神の御使い、そして、彼らが宿る陣営でした。この時、ヤコブには、かつてベテルで神と結んだ約束の言葉が去来していたはず。それは、「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」という言葉でした。兄エサウのいるカナンの地に足を踏み入れる前に、神の守りがヤコブにあることを思い起こさせるために、御使いがヤコブのもとに遣わされたと解釈することが出来ます。ベテルの体験でスタートした逃亡物語は、マハナイムでの体験で締めくくりを迎える訳です。

 マハナイムとは、新共同訳聖書の注にもあるように「二組の陣営」を意味しますが、これは、ヤコブの安全を守るために、彼の両側に見えた御使いの軍勢を「二組の陣営」と表現したものと思われます。

 エサウは野の人であり、巧みな狩人でしたから、彼の一族の力は大きく、彼らが武力でヤコブを攻撃すれば、女子供の多いヤコブの一族はひとたまりもありません。天の御使いの陣営は、そうしたことへの不安に苛まれたヤコブを励まし、地上の事柄から目を離して、彼が天的な守りの内にあることを示したものと理解できます。

 しかし、こうした経験も、ヤコブの恐怖心を取り去ることは出来ず、彼は人間的な方策に走ります。 

 

 4ヤコブは、あらかじめ、セイル地方、すなわちエドムの野にいる兄エサウのもとに使いの者を遣わすことにし、5お前たちはわたしの主人エサウにこう言いなさいと命じた。「あなたの僕ヤコブはこう申しております。わたしはラバンのもとに滞在し今日に至りましたが、6牛、ろば、羊、男女の奴隷を所有するようになりました。そこで、使いの者を御主人様のもとに送って御報告し、御機嫌をお伺いいたします。」

 7使いの者はヤコブのところに帰って来て、「兄上のエサウさまのところへ行って参りました。兄上様の方でも、あなたを迎えるため、四百人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます」と報告した。

(32章4~7節)

 

 ヤコブがカナンに戻ってきた頃、エサウはイサクの住むベエル・シェバではなく、セイル地方、すなわちエドムの野に暮らしていました。セイル地方とは、死海の南にある山岳地帯で、エドム人が定住していたところと言われており、エドム人の祖先をたどるとエサウに至ります(36章参照)。

 ヤコブは、自分が父の家に帰るためには、兄エサウとの和解がどうしても不可欠であることを良く知っておりました。長子権を、更には、長子の受けるべき祝福を奪われることによって、どれほどエサウが怒っているかを冷静に判断できるだけ年月が経過し、また、人生の経験を積んでいたのです。ヤコブの帰還を知ったエサウが復讐を誓って攻撃してくる可能性を、ヤコブは十二分に感じていたのだろうと思います。

 では、なぜ、そうした危険を冒してまで故郷に帰ってきたのでしょうか?そのことについて、創世記は「あなたは、あなたの故郷である先祖の地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる。」(31章3節)と記し、神の導きのうちにヤコブの帰還は行われたとしています。危険の中へと導くのも神ならば、導いた者を守るのも神なのです。

 こうした神の守りの内にあることは、マハナイムで見た御使いの二つの陣営によっても示された筈でした。ベテルでの約束を思い起こさせる神体験をしたにもかわらず、ヤコブはこの世の知恵を駆使して、エサウの怒りをほぐそうと策を練ります。ヤコブの怖れはそれほど甚だしいものであり、自分が死と直面していると確信していたのです。

 エサウの影に怖れおののくヤコブがまず行ったのは、使者をエサウのもとに派遣することでした。ヤコブは使者たちに細かな指示を行い、ヤコブを僕、エサウを主人と呼ぶように命じます。使者がエサウに述べる口上は当時の典型的なもので、ヤコブからエサウへの簡潔な使信が使者に託されたのです。口上の中に「牛、ロバ、羊、男女の奴隷」が言及されているのは、やがてそれらをエサウへの送り物とすることへの伏線であると考えられます。

 ここで、ヤコブが送った「使いの者」を表すヘブル語は、2節で用いられた「御使い」と同じヘブル語でした。2節の「御使い」は、ヤコブが守りの内にあることを思い起こさせるために派遣されたものでしたが、4節の「使いの者」は、神の守りの内にあると確信出来ないヤコブが、エサウの様子を探り、エサウの機嫌を取るために派遣したもの。同じ「使わされた者」が用いられながらも、両者の違いが鮮やかに描かれています。

 やがて、使いの者たちはヤコブのもとに帰ってきましたが、エサウの言葉は持ち帰らず、ただ、エサウが400人の供を連れてこちらに向かっているとだけ報告します。なぜ、エサウの言葉が持ち帰られなかったかについては、創世記は沈黙しています。使いの者がエサウに会った時点でのエサウの様子も分かりませんが、いずれにせよ、エサウがヤコブに対して極めて警戒心を持っていたことは、歓迎する旨のメッセージが託されなかったことからうかがい知ることが出来ます。かつて自分の長子権を奪い、長子の受けるべき祝福までも奪ってしまったヤコブが、自分に使いの者を遣わしたのを見て、エサウ自身、気持ちがはっきりしないままにともかく会おうとしたのではないでしょうか?

 

 8ヤコブは非常に恐れ、思い悩んだ末、連れている人々を、羊、牛、らくだなどと共に二組に分けた。9エサウがやって来て、一方の組に攻撃を仕掛けても、残りの組は助かると思ったのである。10ヤコブは祈った。「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。11わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。12どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。13あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と。」

(32章8~13節)

 

 ヤコブは、エサウが400人の供を引き連れて自分の方に向かっているという使いの者の言葉を聞き、更に、エサウから何のメッセージも託されなかったことを知ってうろたえます。エサウだけでも恐ろしいのに、400人の供を引き連れたエサウの一団の存在は、ヤコブに死を予感させたに違いありません。

 「故郷に帰れ」という神の言葉、ベテルで受けた神の約束、そして、マハナイムで見た御使いの陣営は、ヤコブが神の導きを受けていることを明らかに示していますが、目の前に迫り来るエサウの一団による恐怖は、ヤコブの心に深刻な葛藤を引き起こし、この世の知恵に走らせます。

 ヤコブは、自分と共にいる人々や動物たちを二つの組に分けますが、これは、万一、エサウに片方が襲撃されたとしても、もう片方が逃れることが出来るようにするためでした。或いは、マハナイムで見た御使いの二つの陣営からの連想が働いたのかもしれません。これは、被害を最小限に抑えるための方策であり、人間の知恵として的確なものであったと思われます。

 ここに示されたヤコブの姿は、神が自分の導き手であり、味方であるという固い信仰に立つ人間の姿ではなく、疑いと不安に悩まされた弱き人間の姿、すなわち、私たち自身の姿といっても差し支えありません。ヤコブは、知恵を巡らしつつ神に祈りますが、この世の知恵が先行し、祈りが後回しにされていることにも注意しなければなりません。ここに、ヤコブの信仰者としての限界が示されています。

 ヤコブは、自分の一団を二つに分けた後、神に祈りますが、彼の祈りは三つの部分に分けることが出来ます。

 第一は、神への呼びかけ(10節)です。ここで、ヤコブは、神に「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ」と呼びかけています。これは、ベテルでヤコブの前に立ち現われた主なる神の言葉を思い起こさせます。ヤコブは、自分の故郷への帰還が神の言葉によって命じられたものであることを訴えますが、ここでは、31章3節の「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる。」の後半部分が、「わたしはあなたに幸いを与える。」に置き換えられています。

 第二は、神への感謝(11節)です。無一物の逃亡者であったヤコブは、神の導きのうちに繁栄し、今では二組の陣営を持つに至ったと感謝の言葉を述べていますが、ここでは、エサウに対する恐怖から分割した二組の陣営が、祝福のしるしとして見られています。また、この感謝の冒頭には、「すべての慈しみとまことを受けるに足りない者です」と、これまでにない謙遜な告白が述べられていることも注目されます。危機を前にしたヤコブの切迫した状況が伝わって来ます。

 第三は、神への嘆願(12~13節)です。ここでは、率直に兄エサウに対する怖れがさらけ出され、死の恐怖に苦しむヤコブの心情が読み取れます。そして、祈りの最後は、神の約束の言葉によって締めくくられていますが、この言葉は、ベテルで神が語られた言葉(28章13~14節)であると同時に、モリヤの地でアブラハムに語られた言葉(22章17節)でもあります。ヤコブや子どもたちが殺されてしまえば、こうした神の約束の言葉も全て無になってしまうという訴えが込められています。

 さて、これまで読んできたヤコブの物語の中で、これほど真剣な祈りがなされたのは初めてのことです。神の名をかたって父イサクを騙し、エサウの受けるべき祝福を奪ってしまったヤコブは、逃亡の旅の途中、ベテルで味わった神体験によって大きな転機を迎えますが、ハランでは、神よりも自分の知恵に依り頼む生活を送りました。繁栄へのプロセスをたどるとき、人間は神から一歩遠ざかるのかもしれません。神へ呼ばわり、神との関わりが心のうちに呼び起こされるのは、人が人生の危機を迎える時なのでしょうか?

 

 14その夜、ヤコブはそこに野宿して、自分の持ち物の中から兄エサウへの贈り物を選んだ。15それは、雌山羊二百匹、雄山羊二十匹、雌羊二百匹、雄羊二十匹、16乳らくだ三十頭とその子供、雌牛四十頭、雄牛十頭、雌ろば二十頭、雄ろば十頭であった。17それを群れごとに分け、召し使いたちの手に渡して言った。「群れと群れとの間に距離を置き、わたしの先に立って行きなさい。」18また、先頭を行く者には次のように命じた。「兄のエサウがお前に出会って、『お前の主人は誰だ。どこへ行くのか。ここにいる家畜は誰のものだ』と尋ねたら、19こう言いなさい。『これは、あなたさまの僕ヤコブのもので、御主人のエサウさまに差し上げる贈り物でございます。ヤコブも後から参ります』と。」20ヤコブは、二番目の者にも、三番目の者にも、群れの後について行くすべての者に命じて言った。「エサウに出会ったら、これと同じことを述べ、21『あなたさまの僕ヤコブも後から参ります』と言いなさい。」ヤコブは、贈り物を先に行かせて兄をなだめ、その後で顔を合わせれば、恐らく快く迎えてくれるだろうと思ったのである。22こうして、贈り物を先に行かせ、ヤコブ自身は、その夜、野営地にとどまった。 

(32章14~22節)

 

 

 切迫した祈りをしつつも、ヤコブはこの世の知恵を巡らし続けます。自分の一団を二つの組に分け、エサウの襲撃によるダメージを最小限にとどめようと手はずを整えた後、今度は、贈り物を効果的に差し出すことによってエサウの怒りを和らげようと考えたのです。

 

 ヤコブがエサウに贈ろうとした家畜の数は、全部で550頭にも及びます。ヤコブがこれだけの家畜を贈れるほど富んでいたというよりも、これほどの家畜を贈ってでもエサウの好意を得たいという切実さが現われていると考えるべきでしょう。

 この550頭もの家畜を効果的に贈るために、ヤコブは、群を幾つにも分け、何度も何度もエサウに喜びを味わわせるという方法を採ります。最初に200匹もの雌山羊を見せて驚かせ、それから今度は種付け用の雄山羊20匹を贈って繁殖の便を図るといった具合に。そして、それぞれの群を率いる者にエサウを主人、ヤコブを僕と呼ばせて、これを9度繰り返す訳ですから、エサウの怒りが和らぐことは、容易に計算できます。ヤコブの交渉術はなかなか巧みなものと言えます。

 しかし、これだけの方策を巡らせても、ヤコブの心からはエサウに対する怖れが消えませんでした。

 

 23その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。24皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、25ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。26ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。27「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」28「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、29その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」30「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。31ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。

 32ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。33こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。

(32章23~33節)

 

 家畜と使いの者たちを送り出した後も、ヤコブと家族は野営地に残りますが、夜中に起き出して、家族を連れてヤボクの渡しを渡ります。夜の闇がヤコブの不安を募らせたためでしょうか。そして、全員を渡し終えた後、ヤコブは再び野営地に戻って、独り暗闇の中で夜を明かします。ヤコブが野営地に戻って孤独な一夜を過ごしたのは、独り真剣に神と対峙し、祈るためであったと思われます。

 その時、何者かが現われます。この「何者か」については、創世記は何の描写もしておらず、謎に包まれています。ヤコブの祈りに呼応するように現われて格闘をしますが、ヤコブを打ち負かすことができません。ヤコブは、数人がかりでなければ動かせないような井戸の蓋を独りで動かすほどの怪力の持ち主でしたから、二人は壮絶な闘いを繰り広げたことと思われます。

 やがて何者かは、ヤコブの腿の関節を打って脱臼させ、それによって尋常な存在ではないことが明らかになります。

 このヤボクの渡しに現われる「何者か」は、元来は、その地に伝わる川の精であり、それがヤコブと結び付けられて上記のような物語となったと関根正雄先生は解説していますが、「何者か」が川の精であるならばともかく、それが主なる神であるということになると、それは、当時のイスラエルの人々にとっては、驚くべき展開であったと思われます。

 ベテルやマハナイムでのように、御使いが夢や幻の中に登場するのは当時の人々にとっては容易に理解できる顕現の仕方でした。これはE資料に特徴的な神顕現です。また、モーセに対するように、燃える柴の中から神がご自身を示されることも理解できることでしたが、神を人の形で登場させ、それとヤコブが格闘するということは、旧約聖書の他の箇所とは全く異なる、大変特殊な神顕現の仕方です。

 多分、このヤボクの渡しでの物語は、ヤコブの個人的な体験に遡ることができるものだと思われます。人間と格闘するかのごとくに神と格闘したとしか表現できないような、極めてリアルでユニークな経験が根源にあったとしか言うことができません。そして、腿を脱臼したとはいえ、神と格闘しながらもそれに打ち負かされず、最後には祝福を得たという点は、一連のヤコブの物語の中で最も衝撃的です。

 「何者か」は、ヤコブの腿を脱臼させた後、「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから。」と懇願します。これは、川の精は夜明けと共に消えてしまうという当時の伝説の名残とも読めますが、夜明けの光の中で「何者か」の姿を見て、ヤコブが死ぬことがないようにするための配慮であったとも考えられます。当時は、神を見たものは死ぬと考えられていたからです。

 

 モーセが、「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言うと、主は言われた。「わたしはあなたの前に全てのわたしの良い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとするものを恵み、憐れもうとするものを憐れむ。」また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」               

(出エジプト33章18~20節)

 

 ヤコブは、「何者か」に対して「祝福してくれるまでは離しません。」と答えて離そうとしませんが、ここから先のやり取りは、ヤコブの個人的な体験が民族全体の問題となる重要なポイントとなります。

 ヤコブは、「何者か」の問いに答えて自分の名を告げますが、「何者か」は、「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。」と宣言します。その理由を「お前は神と人と闘って勝ったからだ」と

説明しますが、イスラエルの元来の意味は「神は争う」であって、神が主語ですが、ここでは、神が目的語となって「神と争う」と読み替えられています。この言葉によって、ヤコブが格闘した相手が神であることが分かります。

 この読み替えは示唆的であり、イスラエルの人々は、しばしば、自分たちを選ばれた神と争う姿勢を見せました。アブラハム、ヨブ、そして、詩篇の詩人などにその例を見ることができます。

 

「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁く方は、正義を行われるべきではありませんか。」   (創世記18章23~25節)

 

 だからわたしは言う、同じことなのだ、と

 神は無垢な者も逆らう者も

   同じように滅ぼし尽くされる、と。

 罪もないのに、突然、鞭打たれ

   殺される人の絶望を神は嘲笑う。

 この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。

 神がその裁判官の顔を覆われたのだ。

 違うというなら、誰がそうしたのか。   (ヨブ記9章22~24節)

 

 わたしの神よ、わたしの神よ

 なぜわたしをお見捨てになるのか。

 なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず

 呻きも言葉も聞いて下さらないのか。

 わたしの神よ

 昼は、呼び求めても答えてくださらない。

 夜も、黙ることをお赦しにならない。     (詩篇22篇1~2節)

 

 神と争ったアブラハムは義と認められ、ヨブは祝福を受け、詩人の言葉に至っては、十字架上のイエスに口ずさまれます。神は、この世の不条理を巡って、人が神と争うことを欲しているかのようにさえ思われます。実際、イスラエルの人々は、周辺の諸国の脅威の下で国を滅ぼされ、捕囚の悲哀を味わい、迫害の苦難のうちに民族のアイデンティティーの危機を迎えていくのです。神に選ばれた約束の民がこうした運命を辿るのはどうしてなのか・・・。神との出会い、そして、神との争いは、イスラエルの歴史の中に繰り返し登場していきます。

 さて、ヤコブは、人と争い、神と争うことによって、イスラエルと名前が変わりました。もはや欺く者でも、ごまかす者でもなくなったのでしょうか。ヤコブの改名は、アブラハムやサラの場合とは異なり、改名の後もヤコブという名は使われ続けます。創世記の最後の章の葬りの場面に至るまで、イスラエルと並行してヤコブという名は使われていきます。ヤコブはあくまでもヤコブであって、それと並行する形で、新しい霊的な状態が伴われたと解釈すべきであると思われます。ペヌエルでの格闘は、悪い人間が善良な人間に生まれ変わるというレベルでの話とは違います。ヤコブは、万策尽きたとき、神と顔と顔とを突き合わせるようにして格闘し、神を掴んで去らせようとしませんでしたが、こうした点に、後代のイスラエルの人々が自分たちの信仰のルーツを見い出し、イスラエルという称号で彼を呼ぶようになったとも理解できるでしょう。

 ヤコブは、神が立ち去った後、顔と顔とを合わせて神を見たことから、その場所をペヌエルと名付けました。極限的な状況の中で神と格闘して得たものは、祝福と同時に腿の脱臼による激痛。足を引きずりながらそこを通り過ぎた時、太陽が彼の上に昇りますが、それは、ヤコブの新しい出発を象徴する希望の光でした。しかし、腿の脱臼によって、祝福と希望に伴う代価(痛み)の存在が示されます。

 

 <結 語>

 本日は、ヤコブがマハナイムで御使いの陣営を見、ペヌエルで神と格闘する場面を取り上げました。

 ペヌエルでの神との格闘によってヤコブはイスラエルとなり、その名に象徴される新しいヤコブが登場します。エサウに先だって神との関係を新たにしたヤコブが、今、エサウに会いに出かけるのです。

 

 

<今回の参考書>

 

「創世記」(関根正雄訳 岩波文庫)/「創世記」(月本昭男訳 岩波書店)/「ヘブライ語聖書対訳シリーズ 創世記Ⅱ」(ミルトス)/「創世記講義」(政池仁著 聖書の日本社)/「現代聖書注解 創世記」(ブルッグマン著 日本基督教団出版局)/「ケンブリッジ旧約聖書注解 創世記」(デヴィッドソン著 新教出版社)/「新聖書注解 旧約Ⅰ」(いのちのことば社)