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「宗教改革から学ぶ」(小山哲司)

内村鑑三がルターと宗教改革について書いた文章は、1910年秋からの「ルーテル伝講話 第一回~第七回」と、1917年10月、12月の「ルーテル論叢」に集中しています。それらの文章を参考としながら宗教改革を振り返り、そこから21世紀に生きる私たちが、何を学びとれるかについてお話ししたいと思います。

 

 ルターの生い立ち

 

 ルターは、1483年に、神聖ローマ帝国のアイスレーベンという町に生まれました。ルターが生きた時代を知るためには、神聖ローマ帝国の成り立ちを理解することが必要です。

 古代から続くローマ帝国は、キリスト教を帝国の宗教として公認した後、395年にビザンツ帝国と西ローマ帝国に分裂し、西ローマ帝国は、476年に滅亡しました。その後、962年にオットー一世が、ローマ教皇によってローマ帝国の継承者として皇帝に戴冠されて、神聖ローマ帝国が始まったとされています。神聖ローマ帝国の皇帝になるためには、ローマ教皇による戴冠が必要だったという点が、重要です。また、皇帝とはいいながら、実際には名誉職であって権限は限られており、有力な諸侯の連合体だったということも、理解しておくべき点です。つまり、同時代の英仏のような中央集権体制は整備されておらず、国力は弱かったのです。その弱さが、カトリック教会に付け入る隙を与えたものと思われます。

 ローマ教皇を中心とするカトリック教会は、皇帝を戴冠し、正統性を与える見返りとして、神聖ローマ帝国から経済的な利益を受ける様々な仕組みを考案しました。その一つが、ルターが問題視した贖宥状でした。学校の歴史の授業では、「免罪符」と教えられましたが、正しくは贖宥状です。

 さて、ルターは、エルフルト大学で人文学の学位を取得したあと、法律家になって欲しいという親の期待に背いて、アウグスティヌス修道会の修道士となり、1508年にヴィッテンベルク大学の人文学部教授、1512年に神学部教授となります。 

 その頃、ルターは、「塔の体験」と呼ばれる回心を経験します(時期は不明)が、それについて、内村鑑三は、次のように述べています。「人はいかにして、神の審判の前に立ちて無罪なるを得るか」という大問題に取り組んだルターは、「実に模範的僧侶として朋輩の間に迎えられた。しかし彼の心には少しも平和は来たらなかった。」「彼の懺悔僧のスタウピッツは、ルーテルに告げて言うた。『聖書に神は罪を憎みたもうとあるが、同時にまた、罪を許したもうともある。エホバの神は、正義の神であると同時に、また、罪のゆるしの神である』『神の義は、人に逆らいての義ではない。人のためにする義である。われらは神の義を恐れてはならない。彼を信じて、彼の義

をわが有となすべきである。』・・・そうして、かくのごとくして、だんだんとルーテルを福音の平和に導いた。この時よりして、ルーテルは特に注意してロマ書の研究を始めた。・・・かくて奮闘数年の後に~彼は、信じて救わるるの、単純にして、しかも深遠なる奥義を知った。」(「ルーテル伝講話 第四回 ルーテルの改信」より)

 カトリック教会においては、教会の秘蹟に与ることによって天国に入ることができると教えられていました。生まれたら「洗礼」を受け、成長したら、信仰を強める「堅信」を受け、ミサの際にパンとぶどう酒の「聖餐」に与り、罪を犯せば「告解」を行うことによって、信者に天国の扉は開かれるのです。ただ、これは、平信徒の場合の話で、聖職者に関しては、別個の基準がありました。

 例えば、告解の秘蹟の場合、聖職者は、平信徒の罪の告白を聞いた上で赦しを与えますが、その際に、罪に対する罰として、数時間の祈祷を求めたり、断食や奉仕を求めたりすることがありました。生活に追われている農民などの平信徒には、そうした罰を果たすことができません。では、どうするかというと、平信徒の代わりに、修道士などの聖職者が、祈祷や断食、奉仕を行なったのです。ですから、聖職者には、平信徒とは違った信仰生活のあり方が求められ、倫理的にも厳しい基準が適応されました。

 ルターは、こうした厳しい基準に基づいた修道士の生活に飛び込み、徹底して実践しようとしましたが、挫折し、苦しみ抜き、そこから、信仰のみによって義とされるという贖いの信仰へと、心が開かれていったのです。

 

 内村鑑三の回心

 

 さて、内村鑑三にとって、ルターは「個人的友人」であり、「特別の親密を感ずる」存在でしたが、それは、内村自身も、ルターの「塔の体験」に相当する回心の経験があったためだと思われます。

 内村は、自叙伝(「ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか」)で書いていますが、1883年頃から心に「真空」を感じるようになり、「どうにかしてそれを何かで埋めなければならない」と「理由も行き先もわからぬまま」旅立つこととなります。これは、浅田タケとの結婚、そして、その破綻が関係しているものと思われます。

 渡米し、ペンシルバニア州のエルウィンで知的障害児施設の看護人になった時のことについて、「ぼくが病院の仕事に就いたのには、マルティン・ルターがエアフルトの修道会に入ることになったのと同じような目的があった。・・・そこでなら肉欲を抑え、自己を律し、心の清らかな状態に到達して、天の王国を受け継ぐことができる、と」と述べています。しかし、内村は、慈善事業に携わりながら、自分の利己心の罪深さを感じて苦しみます。

荒涼とした心の闇に圧倒されたのです。8ヶ月に渡って看護人としての仕事に従事しますが、「慈善という『人を愛する』事業は、ぼくの中の『自己愛』の傾向が完全に消えてなくなるまでは、ぼくの仕事ではないことがわかった。」という結論を出して、施設を去ります。そして、医者となって医療伝道に従事するか、福音伝道に従事するかという狭間で揺れながら、新島襄に勧められたアマースト大学に編入する道を選びます。

 アマースト大学で、内村は、彼の信仰に決定的な影響を与えた一人の人物に出会います。アマースト大学学長のJ.H.シーリー(1824~95)です。シーリーは、アマースト大学を卒業した後、神学校に学び、プロイセンのハレ大学に留学し、改革派教会の牧師を経てアマースト大学の教員となり、道徳哲学を講じた人物です。シーリーについて、内村は、次のように述べています。

「尊敬すべき学長その人ほどぼくに影響を与え、ぼくを変えた人はいない。」「白状すると、この人と接するようになってから、ぼくを圧倒していた悪魔の力が弱まりはじめたのである。」「大学生活が二年を過ぎた頃だったと思うが(ぼくは三年生になっていた)、自分が天に向かう道にいることを悟った。」「ぼくは主が慈悲深いことを知り、その息子を介してぼくの罪をぬぐい去ってくれたことを知ったからである。」

 こうして、内村は、シーリーの感化のもとで贖罪の信仰に目覚めていき、シーリーの授業の際に、クラスメートの前で信仰の告白をします。「朝の学長のクラスで、ぼくは自分がどのようにしてキリスト教を真理として信じるようになったかを語った。そして、クラスの同級生たちの前で、正直かつ率直に、ぼくがどのようにして『道徳的分裂』の和解をキリストのうちにのみ見いだすようになったかを述べ、最後にルターの『そうするしかないのです。神よ、助けたまえ』という言葉で締めくくった。」この締めくくりの言葉は、1521年に、ルターが帝国議会で自説の取り消しを求められ、それを命懸けで拒否した時の言葉です。自分がルターと同じ信仰に立っているという、内村の自己認識を示すものと思われます。

 ルターがスタウピッツに導かれたように、内村もシーリーに導かれて、人は信仰によって義とされるという信仰に立つようになりました。シーリーは、内村が卒業した後、健康状態が悪化して学長職を辞し、8年ほどで天に召されて行きます。シーリーの晩年における最大の事業は、内村を迷いの森から導き出すことにあったと言えるでしょう。

 

 贖宥状について

 

 ここで、話を16世紀当時のルターに戻します。

 1517年10月31日に、ヴィッテンベルク城の教会の扉に、「贖宥の効力を明らかにするための討論(いわゆる『95か条の提題』)」をルターが張り付け、それによって宗教改革が始まったとされていますが、ルターが問題視した贖宥状とは、一体どのようなものだったのでしょうか?

 深井智朗氏は、「プロテスタンティズム」(中央公論新社)で、贖宥の論理を次のように説明しています。人間が罪を犯すことは、神に損害を与えることになり、その弁済が必要になります。信者は司祭に懺悔をし、司祭は信者に赦しを与えると同時に、罪を贖うための罰を与えていたのです。その罰は、代理弁済が可能であって、司祭が課した罰(断食、祈祷や奉仕など)は、実際には、司祭や修道士が代理で行っていました。先ほどお話しした通りです。やがて、贖宥を経済的な利益を得るための手段として利用するようになると、カトリック教会には、キリストの贖いと功徳、聖母マリアや諸聖人の祈りや善行が「教会の宝」として蓄えられており、それを贖宥状と引き換えに引き出すことができるとしたのです。

 また、贖宥状の効力は、贖宥状を入手した本人ばかりではなく、煉獄にいる縁者にも及ぶとされていました。煉獄とは、天国と地獄の中間の領域で、死者の魂が、罪の贖いを行なって苦しみを受け、天国に入る前に浄化される場のことです。カトリック教会は、旧約聖書外典の第2マカベア書(カトリックでは正典)12章42~45節を根拠として、煉獄の教理を生み出しました。煉獄で罪の贖いに苦しんでいる親兄弟なども、この贖宥状で解放されると、人々の心に訴えかけたのです。

 当時のローマ教皇レオ10世(在位1513~21年)は、サン・ピエトロ大聖堂の建設を手がけますが、そのための資金を調達するために、贖宥状の大量発行を行いました。また、マインツのアルブレヒトという大司教は、大司教に就任する際の借金の返済のために贖宥状の販売を請け負い、テッツェルというドミニコ会の修道士に販売させました。

 テッツェルの販売チームは、教皇の旗を立てて町々を巡り、「箱の中でお金がチャリンとなるやいなや、霊魂は煉獄から飛んでくる」「贖宥状を買えば、聖母マリアを犯しても許されるのだ」と説いては、贖宥状を売りさばいたのです。なお、この贖宥状には、定価はありませんでした。購入者の経済力を見て、値段をつけていたようです。アルブレヒトがテッツェルのために書いた「指導要綱」という販促マニュアルには、購入者に応じて額を決めろと書かれておりました。

 テッツェルの唱えたキャッチフレーズは、かなりえげつないものですが、当時の聖職者には、聖職というイメージからかけ離れた者が少なからずおりました。教会は、その土地の支配者の所有物であり、その子どもたちが、聖職禄とともにその職を受け継いでいることが多かったため、特に地方の場合には、十分な神学教育を受けていない聖職者がほとんどだったのです。具体的に言えば、聖書を読んだことがなく、ミサの正式な順番を知らず、教義についての説明もできない者が、聖職者となっておりました。

 末端の聖職者のレベルが低いのは、頂点である教皇自身に問題があったからという見方も出来ます。レオ10世は、イタリアの富豪であるメディチ家の出身で、大変な浪費家であったと言われています。芸術文化に関心が深く、ミケランジェロやラファエロのパトロンとなって、湯水のごとくにお金を使い、趣味の狩猟に多くの時間を費やしておりました。「神が教皇制をお与えくださったのだから、せいぜい楽しもうではないか」とは、レオ10世が言ったと言い伝えられている言葉です。その前任者であるユリウス2世(在位1503~13年)は、教皇になると、教皇領から外国勢力を追い出すために鎧を着て戦場におもむく好戦的な教皇として知られております。またその前任者であるアレクサンデル6世(在位1492~1503年)は、十人もの

私生児をもうけ、亡くなった枢機卿や、獄死・戦死した政敵の財産を没収することが多かったため、意図的に殺したのではないかという噂がつきまといました。宗教改革前夜の教皇は、宗教的指導者というよりは、政治的、軍事的指導者というべき存在であり、その活動のために多額の資金を必要としていたという点は、共通しています。

 ルターが「95か条の提題」で指摘したのは、教皇の赦免の権限は、全ての罪に及ぶわけではないこと、また、煉獄に対しては及ばないことなどです。

この「95か条の提題」は、グーテンベルクの印刷術によって瞬く間に拡散し、ラテン語の原文はドイツ語に翻訳もされ、2週間ほどでドイツ全土に広まったと言われています。神聖ローマ帝国を金づるとしていたカトリック教会にとって、これは実に厄介な問題であり、バチカンのローマ教皇庁は、事態を収拾するために、1518年7月にルターをローマに召喚することを決定しますが、神聖ローマ帝国の諸侯の反対を受けて頓挫します。ルターの審問は、10月に神聖ローマ帝国内で非公開で行われましたが、自説の撤回を穏便に促されたルターは、それを拒絶してしまいます。次の両者の接触は、1519年6月のライプチヒ討論に持ち越されました。

 当初は、穏便な収束を模索していたバチカンは、ルターの拒絶によって方針を変え、ルターを異端として認定しようと図ります。そのために送り込まれたヨハン・エック(1486~1543)という神学者は、ローマ教皇の権威を否定するルターに対して、「もし、あなたが教皇の権威を認めないというのであれば、その考えはヤン・フス(1369?~1415)と同じことにならないだろうか?」と問いかけます。ルターは、「ヤン・フスの語ったことの中にも福音が含まれている。」と応じ、更に、ヤン・フスの異端認定に関して、「教会の歴史の中で、教皇も公会議も誤ることがある。」と述べました。これによって、バチカンは、ルターが異端であるという証拠を得たのです。

 

 宗教改革の3つの原則とルターの破門

 

エックに誘導されて、罠に陥れられたルターは、自分の立場を主張するために、ライプチヒ討論の翌年(1520年)に、重要な文書を3つ執筆します。所謂、宗教改革三大文書と呼ばれるもので、「キリスト教界の改善についてドイツのキリスト者貴族に宛てて」「教会のバビロン捕囚について マルティン・ルターの序曲」「キリスト者の自由」です。

 ルターは、教皇の無謬性を否定しましたが、それに代わる権威は、聖書だとしました。「教会のバビロン捕囚について」の中で、ルターは、当時行われていた7つの秘蹟(サクラメント - 洗礼・堅信・聖餐・告解・病者の塗油・叙階・婚姻)を2つ(洗礼・聖餐)に減らしましたが、その根拠となったのは、聖書でした。聖書の権威によって、教皇の権威に対抗したのです。

「聖書のみ」の原則です。この原則を突き詰めていった結果、ルターは、旧新約聖書全巻のドイツ語訳を行うことになります(新約聖書は1522年、旧約聖書は1534年に完訳)。これによって、ラテン語の読めない一般庶民でも、自分たちの言葉で聖書を読むことが可能となりました。

 一人一人の信徒が、印刷された聖書を自由に読むことができるということは、当時としては画期的なことでしたが、ルターは、これまでは祭司しか読めなかった聖書を、信徒が自由に読んで解釈できるということを、「万人祭司」という言葉で表しました。祭司に限らず、誰でも聖書を解釈する権利があるということです。この原則は、「キリスト教界の改善についてドイツのキリスト者貴族に宛てて」の中で主張されました。

 そして、「キリスト者の自由」の中で、人間が救われるためには、人間の側の努力は必要ではなく、罪の贖いのために十字架に架かったイエス・キリストを信じることによるのだと主張しました(カトリック教会の信仰の捉え方は、「愛によって形作られた信仰」であり、人間の側の愛の業が強調されています)。これが、「信仰のみ」の原則です。

 こうして、「聖書のみ」「万人祭司」「信仰のみ」の3つの原則は、異端認定を迫るバチカンとの闘争の中で生み出されたものでした。こうしたルターよる自説の主張に対し、教皇レオ10世は、自説を撤回しなければ破門するという警告を発しますが、ルターは、その文書をヴィッテンベルクの人々の面前で焼き捨ててしまいます。それによって、カトリック教会との断絶が決定的なものとなり、1521年に、ルターの破門が正式に通知されることとなりました。

 

 内村鑑三によるルター批判 

 

 実は、内村鑑三の「ルーテル伝講話」は、ライプチヒ討論までしか取り上げておらず、突然、尻切れトンボのような形で終了してしまいます。宗教改革の3原則についても、特に触れてはおりません。ライプチヒ討論の時点で、ルターは、まだ36歳。63歳の生涯であったことを考えると、人生の折り返しを過ぎて間もない時期です。これは、どうしてでしょうか?

 尻切れトンボのようにして打ち切ってしまった真意は、内村鑑三自身に尋ねてみなければ分かりませんが、私は、1917年に発表された「ルーテル論叢」から、打ち切りの理由を推察することができると考えています。

 「ルーテル論叢」は9編の論文から成っていますが、それらの内容から判断すると、「宗教改革の精神」及び「ルーテルの遺せし害毒 付 第二宗教改革の必要」の2編が中心だと思われます。

 「宗教改革の精神」は、1917年10月31日、まさに宗教改革400周年の当日、東京神田基督教青年会館で、1500人の聴衆を前に内村が語った講演の草稿にあたります。その内容を手短にまとめれば、「宗教改革の精神は、・・・ルーテルの信仰である。人の義とせらるるは律法のおこないによらず、信仰によるというその信仰である。」ということになります。内村は、ルターの人生の前半、特に彼の内面的信仰に焦点を合わせ、肯定的な評価を下しています。

 一方、「ルーテルの遺せし害毒」は、ルターの人生の後半に焦点を合わせ、2つの害毒を残したと厳しく批判しています。その2つとは、何でしょうか?内村は、次のように指摘しています。「ルーテルは、ローマ天主教会なる大勢力を倒さんと欲して、二個の勢力にたよった。その第一は政権であった。その第二は聖書であった。そうして、政権、聖書二つながら、彼と彼の後従者とを禍したのである。」

 内村が、ルーテル伝講話をライプチヒ討論まで書き進めながら、そこでぷっつりと筆を折ったのは、そこから先のルターの人生を語ることに肯定的な意義を見出せなかったからではないかと推察します。ルターの内面における罪の問題との格闘が、次第に政治的、社会的色彩を帯びるようになり、この世の権力との関係が切っても切れなくなるにつれて、宗教改革の負の側面がクローズアップされてくるからです。

 

 政権にたよる害毒

 

 カトリック教会から破門されたルターは、カトリック教会に反感を抱く諸侯の保護のもとに置かれ、神聖ローマ帝国内の政治的権力者との関係が深まっていきます。その一方、ルターの言動が引き金となって始まった改革の動きは、ルター個人がコントロールできる範疇を超えてしまい、大きな社会的なうねりとなってルターを翻弄していきます。

 1525年に起きた農民戦争は、そうした出来事の一つと言えます。ルターは、聖書に根拠がないことを理由に、カトリック教会の7つの秘蹟を2つに減らしましたが、こうした発想に刺激を受けた農民たちは、農民が諸侯に仕える根拠も聖書にはないとして、諸侯に対して、聖職者の選任権や税の軽減などの様々な要求を突きつけ、暴動を起こすようになります。ルターは、諸侯と農民の間に入って調停を試みますが、最終的には、諸侯側について農民の鎮圧を求めるようになり、次のように述べます。「これらの農民は、・・・その体と魂とにおいて幾重にも死に値するのである。」「なしうる者(領主)は、突き、打ち、締めるがよい。(「農民の強盗的・殺人的徒党に対して」より)」こうして、ルターの支持を得た領主たちは、農民の暴動を鎮圧して、推定で10万人の農民を処刑しました。処刑は、打ち首や生きたままの火あぶりなど、極めて残酷な方法で行われました。その結果、ルターは、農民戦争の舞台となった南部での支持を一気に失います。自分を支持する諸侯によって身の安全を守られたルターにとって、農民の側につく選択肢はありませんでしたが、農民を弾圧し、殺すことを支持したことは、非難されて然るべきことでした。

 この農民戦争直後から、ルターを支持する諸侯たちは、自分の領地内の教会をルター派に統一する動きを加速させていきます。カトリック教会を支持する神聖ローマ皇帝や諸侯たちとの衝突が繰り返される中、ルター没後の1555年に、アウグスブルクの帝国議会は「アウクスブルクの宗教平和」という議決を行い、諸侯には、カトリック教会かルター派の教会かを選択する権利が認められ、ルター派の教会は、神聖ローマ帝国内での法的な地位を確立するようになっていきます。この時点では、カルヴァンの改革派の教会は、選択肢に含まれませんでした。

 具体的に言えば、Aという地域を治める諸侯が、カトリック教会からルター派に変わると、Aという地域の教会は、全てルター派の教会となり、カトリック教会ではなくなります。その地域に住む住民は、否応なしにルター派の信者とならざるを得ません。それが嫌な場合には、他の地域への移住する自由は認められましたが、土地とともに生きる農民の場合には、移住の自由は、絵に描いた餅のようなものであり、実際には不可能でした。喩えてみれば、当時の教会は、義務教育の小中学校のような存在であり、その地域に住む以上は、その地域の教会に通うしかありませんでした。自分の住む地域の教会を決定する権利は、支配する側の諸侯には認められましたが、支配される側には認められなかったのです。

 ルターは、地上の権力は地上の権力者が握り、霊的な権力は教会が握るという二王国論を唱えましたが、実際には、諸侯がルター派の教会とするかどうかを選択し、ルター派を選択した場合には、自分の領地内の教会の監督に当たることによって、教会が世俗の権力に従う体制をつくりだすことになりました。一応、政治と宗教を分離した上で、事実上は、宗教が政治の下に置かれるということです。

 こうして、ルター派の教会は、その土地を支配する権力者との結びつきを強め、権力者にとって「使い勝手の良い」教会となりました。そして、権力者は、軍事力を持ちますから、ルター派の教会は、権力者が関わり、推進する紛争、戦争の問題と直面するようになります。この問題については、後ほどまた触れたいと思います。

 内村鑑三が、「ルーテルの遺せし害毒」で指摘している「その第一は政権であった」というのは、今、お話しした状況を指していると思われます。

 

 聖書にたよる害毒

 

 では、害毒の「その第二は聖書であった」というのは、どういうことでしょうか? 

内村は、「聖書もまた人によって書かれし書である。ゆえに、人に在るすべての不完全はまたこれを聖書において見るのである。」とし、言語の不完全、謄写の不完全、伝達の不完全、解釈の不完全があると指摘しています。

「ゆえに聖書は神の言なりと称して、いかなる意味または程度において神の言なるかは、これ、誤りやすき人間の何びとも判定することのできないことである。」「しかるにルーテルは、無誤謬的教会を倒さんと欲して、無誤謬的聖書をもって、これに当たったのである。」「しかしながら聖書はたして無誤謬なるか。これ、いまだ解決されざる問題である。ルーテル彼自身が聖書に誤謬のあることを認めたのである。」

 ヤコブの手紙を「藁の書簡」と呼んだことは良く知られていますが、ルターは、聖書の各書に序列をつけていたようです。例えば、ローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙は「金の書簡」、また、「銀の書簡」「宝石の書簡」がありました。旧約聖書に関しても、内村によれば、「ヨナ書について、ヨブ記について、ルーテルは、毀貶的批評を下して、はばからなかった。」「しかるに教会の羈絆をまぬかれんがために、彼は聖書によったのである。そうして誤謬なき教会に代わるに誤謬なき聖書をもってした。これ戦術としては確かに巧みなものであった。」

 内村の説明を噛み砕けば、ルターは、聖書が無誤謬だと堅く信じていたわけではないけれども、教皇の無誤謬を標榜するカトリック教会に代わるものとして、聖書の権威に頼らざるを得ず、その手段として聖書の無誤謬性を主張したということです。

 先ほど、宗教改革の3つの原則として、「聖書のみ」「万人祭司」「信仰のみ」があるとお話ししましたが、聖書にたよることの害毒には、「聖書のみ」と「万人祭司」の2つの原則が関わってきます。無誤謬の教皇の代わりに無誤謬の聖書の権威を立て、さらに、誰でも、自らが祭司として、自由に聖書を読み、解釈する権利があるということですから、100人の信徒が聖書を読めば、100通りの解釈があり得るということになります。カトリック教会の場合には、最終的には教皇が解釈を確定させますが、教皇のいないプロテスタントの場合には、解釈を統一し、確定することができません。その結果は、教派の分裂ということになります。

 1529年、ルターは、彼の影響を受けてスイスで宗教改革を行なっていたツヴィングリ(1484~1531)と、ドイツのマールブルクで会談を行いました。当時は、カトリック教会を支持する勢力と宗教改革を推進する勢力との対立が激しさを増していた時期であり、宗教改革陣営の共同戦線が必要とされていました。

 ツヴィングリの立場は、「聖書のみ」「万人祭司」を認め、信仰そのものの重要性を唱えた点でルターと概ね一致できるものでしたが、聖餐式に関する考え方が異なっていました。カトリック教会は、パンとぶどう酒は、聖職者によって聖別されると、実体的にキリストの体と血に変化するという実体化説ですが、ルターはこれを修正して、パンとぶどう酒の実体は変わらずに、それらと共にキリストの体と血の実体が存在するという共在説を唱えていました。それに対し、ツヴィングリは、パンとぶどう酒は、単なる象徴であり、記号に過ぎないと主張しました。こうして、ルターとツヴィングリは、聖餐式の一点において一致できず、共同戦線を巡る会談は決裂してしまいます。

 ルターとツヴィングリの会談決裂は、一つの事例に過ぎませんが、内村は、こうした状況を次のように述べています。「まことに聖書の言に拠って、いかなる神学説をも唱うることができるのである。誤謬なき聖書あり、しかして信者は何びとも、各自の判断に従い、これを解釈するの権利を有すと言いて、何びとも教派を立つるを得べく、また何びとも法王たり監督たり得るのである。ここにおいてかプロテスタント教内に激烈なる宗派戦が始まったのである。そうしてその戦争は、四百年後の今日、なお、やまないのである。」

「彼らはその信仰箇条においては、西と東と異なるが如くに相違なるところありといえども、聖書に拠るという一事においては、新教六百有余派はその主張を一つにするのである。これ、誠に奇異(ふしぎ)なる現象である。」

 

 再洗礼派に対する攻撃

 

 内村が言うところの「激烈な宗派戦」は、単に教派が分裂するだけではありません。ルターは、カトリック教会だけではなく、彼の影響を受けて誕生した他のプロテスタント各派をも攻撃しました。特に、再洗礼派(アナバプテスト)に対する攻撃は、熾烈を極めたものとなりました。

 内村は、「彼(ルター)は、アナバプチストと称して極端の信仰自由を主張する者を憎むこと、ローマ教徒を憎むよりもはなはだしく、彼らのあるものが領主に対して反乱を起こすに当たっては、彼は貴族の味方となりて、残忍をきわめたる鎮圧法を是認した。」と述べています。

 再洗礼派は、宗教改革の影響を受けながら、ヨーロッパ各地に自然発生的に生じたグループで、ルターのような強力な指導者はおりませんでした。そのあり方も多様なものでしたが、1527年、スイスのシュライトハイムに各地の再洗礼派の指導者が集まり、「シュライトハイム信仰告白」をまとめました。それによれば、再洗礼派の共通項は、信仰告白に基づいた成人洗礼のみを認め、幼児洗礼を否定することや、教会と国家の分離を説き、兵役や戦争税を拒否することなどです。教会は、成人洗礼を受けた信者によって構成されるべきであるとし、自主的な教会形成を行いました。ルターは、再洗礼派の人々を「狂信の徒」と呼んで非難しました。

 再洗礼派は、カトリック教会に加えて、ルター派からも弾圧を受けましたが、これは幼児洗礼の否定が大きな原因だったと思われます。ルター派は、その土地の支配者と結びつき、支持を受けて、その領邦内の全ての教会をルター派の教会とするようになって来ました。領邦内の住民を全てルター派の教会の支配下に置くためには、幼児洗礼を授けることが鍵になります。この幼児洗礼を否定し、成人洗礼を受けた自覚的な信者たちが、ルター派とは別の教会を作ったのでは、そうした領邦教会体制が崩れてしまいます。また、熟慮の末に洗礼を受けない者が現れれば、その人々に教会の力は及ばなくなりますから、これを異端として、徹底した弾圧を加えて排除しようとしたのです。

 現在のドイツ北西部、オランダに近い所にミュンスターという都市があります。ここに、再洗礼派の人々が集まり、市長を輩出して、再洗礼派の都市国家を造った時期がありました。1534年のことです。再洗礼派の人々は、各地での迫害を逃れて、続々とミュンスターに集まるようになりました。再洗礼派のこうした動きに対し、カトリックとルター派は、合同で包囲軍を編成して攻撃しました。1535年に、ミュンスターは陥落し、捕虜となった男性の殆どが処刑され、女性も、再洗礼派の信仰を捨てなかった者は処刑されました。特に、再洗礼派の三人の指導者は、拷問を受けて殺害された後、亡骸が檻に入れられ、見せしめのために市内にある教会の尖塔から吊るされました。この3つの檻は、500年経った今でも聖ランベルティ教会の尖塔

から吊るされたままです。内村が、「彼らのあるものが領主に対して反乱を起こすに当たっては、彼(ルター)は貴族の味方となりて、残忍をきわめたる鎮圧法を是認した」と言っているのは、この事件を念頭に置いているのだろうと推察します。

 このように、再洗礼派の人々の歩みは、迫害と殉教の歩みでした。日曜日の午前中は、カトリックやルター派の教会で礼拝に出席し、午後は、何食わぬ顔をして、こっそりと自分たちの家や人目につかぬ場所(森の中、洞窟の中など)で礼拝を行ないました。しかし、再洗礼派だと分かれば、捕らえられ、拷問を受けるのは良い方で、生きたままの火あぶり、打ち首や溺死などの残酷な方法で処刑されたのです。宗教改革当時の再洗礼派の殉教者の記録を集めた「殉教者の鏡」と言う本が、1660年に出版されていますが、その千ページほどの本には、4000名もの殉教者が掲載されています。

 「殉教者の鏡」に掲載されている記録を一つ紹介します。それは、ディルク・ウィレムスという男性で、1569年に成人洗礼を受け、禁じられている宗教的集まりを自宅で開いた罪で捕らえられました。城のなかの牢に入れられたウィレムスは、毛布をつないでロープを作り、窓から脱走します。それに気づいた看守が、村長とともに追跡を始めます。ウィレムスの行く手には凍った池がありました。春先で溶け始めた氷を、彼はかろうじて渡り終えます。ところが、看守が運悪く割れ目から池に落ち、溺れかけてしまいます。

このままでは死ぬと思った彼は、先を行くウィレムスに助けを求めます。ウィレムスはその声に立ち止まり、看守を救いに戻ります。そして、敵に手を差し伸べて、慎重に安全な場所に助け上げたのです。こうして看守が救い出されるや否や、村長は彼を再び捕らえて、火刑に処せと命令します。ところが、処刑は最悪のものになってしまいます。ウィレムスの上半身に燃え広がった炎が強風で消されたために、死の業苦がかえって長引いてしまったのです。

敵を赦すウィレムスの絶叫は風に乗って隣村まで響き、その数は七十たびを超えた、と「殉教者の鏡」は伝えています。

 こうした再洗礼派のグループの一つが、メノー・シモンズ(1496~1561)という指導者のもとに集まったメノナイトで、特に絶対非戦・平和主義を強調しました。絶対非戦・平和主義は、絶えず戦争の脅威にさらされていた神聖ローマ帝国では、ルター派からも歓迎されることはなく、却って激しい迫害を受けて多数の殉教者を出しました。殉教者たちは、ウィレムスのように、自分を処刑しようとする者のために祈り、赦しを与えながら死んでいったといいます。そして、メノナイトの信仰のあり方を、もっと厳格にしたいと考えたヤーコプ・アマン(1656?~1730?)によって始められたのが、アーミッシュと呼ばれるグループです。メノナイトからアーミッシュが分離したのは、1693年のことでした。

 メノナイトもアーミッシュも、ヨーロッパでの迫害を避けるため、18世紀にアメリカに移住します。彼らは、アメリカでも絶対非戦・平和主義を貫き、独立戦争にも、南北戦争にも参加することはありませんでした。金銭を支払って、兵役の義務を免れる道を選んだのです。

 

 プロテスタントの2つの類型

 

 ルター派と、メノナイトやアーミッシュのような再洗礼派を対比させてみると、プロテスタントの中にも、2つの類型があることに気付かされます。

 一つは、その土地の権力との関係を深め、権力と教会が一体となるような形をとるプロテスタント。その場合には、教会は、国教会や領邦教会となり、その土地に住む者は幼児洗礼を受け、自覚的な信仰を持つ者も持たない者も、全てその教会の信者として扱われます。権力と一体ですので、非戦・平和主義に立つことは難しくなります。ルター派や改革派(カルヴァン派)が代表です。もう一つは、権力とは距離を置き、自覚的な信者が教会を設立するプロテスタント。その場合には、成人になってから自発的に洗礼を受け、権力の干渉を排除して教会を設立します。従って、教会員は、全て自覚的な信仰を持った信者となります。権力とは距離を置き、弾圧・迫害を受けた歴史がありますので、絶対非戦・平和主義に立ちやすいのも、特徴です。メノナイト、アーミッシュや、共有財産制を採るフッタライトなどがあります。アメリカのバプテスト派も、成人洗礼や信者による自由な教会形成という点は共通していますが、絶対非戦・平和主義に立っているとは言えません。従軍チャプレンとして、大勢のバプテスト派の牧師が活動していることで分かります。

(南部バプテスト派出身の従軍チャプレンは、2013年時点で1400名ほどで最大のグループとのこと/「How Can Southern Baptist Military ChaplainsContinue to Serve ‘God and Country’?」という記事より   https://www.huffingtonpost.com/tom-carpenter/military-chaplainslgbt_b_3870436.html)。

 

  権力と協力的なキリスト教

 

 ドイツ軍に従軍チャプレンがいることは、ルター派と権力との関係から当然のことですが、アメリカ合衆国は政教分離であり、かつてのドイツなどとは違って、国教会は存在しません。しかし、伝統的にキリスト教の聖職者が軍と関係してきました。国民の多くがキリスト教の信者であり、その結果、軍人の多くもキリスト教の信者であるため、独立戦争当時から従軍チャプレンが存在していたのです。アメリカ合衆国の場合、軍には従軍チャプレン育成のための訓練学校があり、従軍チャプレンは、軍人としての階級を持ち、大佐や少佐などの士官として勤務にあたります。彼らの最も重要な仕事は、礼拝ですが、兵士たちの悩みに耳を傾けたり、親睦の場を設けてストレスを和らげたり、士気を高めるなどの活動も行うそうです。

 一人の従軍チャプレンが、第二次世界大戦の際、爆撃機の出撃の前に祈った祈りをご紹介します。

 「全能の父なる神よ、あなたを愛する者の祈りをお聞きくださる神よ、わたしたちはあなたが、天の高さも恐れずに敵との戦いを続ける者たちとともにいてくださるように祈ります。彼らが、命じられた飛行任務を行うとき、彼らをお守りくださるように祈ります。彼らも、わたしたちと同じく、あなたのお力を知りますように。そしてあなたのお力を身にまとい、彼らが戦争を早く終わらせることができますように。戦争の終わりが早くきますように、そしてもう一度地に平和が訪れますように、あなたに祈ります。あなたのご加護によって、今夜飛行する兵士たちが無事にわたしたちのところへ帰ってきますように。私たちはあなたを信じ、今もまたこれから先も永遠にあなたのご加護を受けていることを知って前へ進みます。イエス・キリストの御名

によって、アーメン。」

 これは、1945年8月6日、テニアン島から広島に向けて出撃するエノラ・ゲイの乗組員を前に、従軍チャプレン、ウィリアム・ダウニー大尉が祈った祈りです。彼は、殺傷能力が極めて高い特殊爆弾(原子爆弾)を搭載していることを知った上で、この祈りを準備しました。祈りの中では、原爆投下によって死傷し、長期にわたって苦しむ広島の住民については、全く触れられておりません。

 一方、第二次世界大戦時の日本軍には、従軍牧師はおりませんでしたが、日本基督教団は、1943年11月の総会で軍用機献納運動を決議します。

次に述べるのは、その際に建議案を提出した平松実馬中央委員が作成し、各教会に配布された文書(ビラ)の一節と思われます。「今や教団の軍用機運動は燎原の火の如くに拡大し、白熱化しています。教会がこの運動により霊的に目覚め信仰の大躍進

を来たしておるのです。身命を皇国に捧げ死闘血戦、南方の海に散り行く将兵を思う時我等はいかにしてもこの事の完遂を果たさねばなりません。飛行機を、飛行機をと叫びつつ、戦死せし英霊に今こそ私共は応えなければなりません。」こうして、機体に「日本基督教団」と描かれた4機の軍用機が献納されたのです。

 国教会であろうとなかろうと、権力と協力的な関係に立ち、使い勝手の良いキリスト教、キリスト者として組み込まれていくと、紛争・戦争という現実に直面した際、従軍チャプレンの祈りや軍用機献納運動に示されたような立場でしかいられなくなるということを、肝に銘じておかなければならないと思います。

 

 第二の宗教改革の必要性

 

 さて、内村は、再洗礼派(アナバプテスト)に対するルター派の弾圧について述べた後、ポーランド貴族ジョン・ラスコという人物が、カルヴァン主義の信者となり、英国で迫害を受けてデンマークに逃げ、コペンハーゲンのルター派の信者に助けを求めたところ、援助を拒絶されたことを取り上げて、次のように述べています。「そうして、この憎むべき精神は今なお絶えないのである。」「世に冷たき所とて、プロテスタント教会のごときはないのである。ここに信仰は有っても愛はない。聖書は読まれても兄弟は愛されない。」「そうしてこの憎むべき精神は、外国宣教師、ことに英米宣教師によって、われら日本人の間に伝えられたのである。」「日本においても、聖書をもって、幾多の無慈悲、幾多の背信、幾多の冷酷、幾多の争闘が、新教徒相

互の間に行われつつあるのである。」「されどもこれ、もちろん聖書の罪ではない。聖書濫用の罪である。」

 「世に冷たき所とて、プロテスタント教会のごときはない」とは、実にショッキングな言葉です。しかも、それが、ルターが聖書により頼んだ結果だといいますから、言葉を失います。

 ここで、内村は、第二の宗教改革の必要を唱えて、次のように述べます。

「さらばわれらは今何をなすべきか」「われらはルーテルになろうては足りない。キリストになろうべきである。キリストはルーテルのごとくに、政権に由りて改革をおこないたまわなかった。キリストは政権の捨つるところとなりて、十字架につけられて、人類を救いたもうた。」「キリストは教敵に対して親切でありたもうた。」「かくしてキリストとルーテルとの間には雲泥の差があるのである。」「第十六世紀の改革者らは、信仰より愛を引き抜いて、大いに誤りたるのである。信仰だけでは神はわからない。」「聖書を研究しただけでは神はわからない。その教示(おしえ)に従い、人を愛して初めて神がわかるのである。」「ここにおいてか、われらは第二の宗教改革を要するのである。」「信仰を経過して、しかる後に愛に到達せる改革である。ルーテルの改革を改革する改革である。」

 

 第二の宗教改革へのヒント ―アーミッシュの赦し―

 

 内村は、「第二の宗教改革」は、「信仰を経過して、しかる後に愛に到達せる改革である」として、私たちに課題を与えたのだと思います。この課題をどう捉えていったら良いのでしょうか?

 この問題を考える上でヒントになるのは、7月の公開講演会で、佐藤邦也さんが紹介して下さったアーミッシュの学校乱射事件です。「アーミッシュの赦し」(クレイビル他著 亜希書房刊)を参考にしながら、お話ししていきたいと思います。

 この事件は、2006年10月2日(月)に、ペンシルベニア州のニッケル・マインズ付近のアーミッシュ学校で起きました。ニッケル・マインズは、内村鑑三が看護人として働いたエルウィンから、西に4~50キロほど離れたところにあります。

 アーミッシュは、自分たちの信仰と文化を守るために、独自の8年制私立学校を設けて、子どもたちの教育を行なっています。8学年に渡る子どもたちを、1クラスに収容して運営する複式学級の学校です。ここに、その付近に住む心を病んだ男性が、拳銃を持って侵入し、子どもを人質にとって立て籠り、警官に包囲される中で、拳銃で撃って5人の女の子を殺し、別の5人の女の子に重傷を負わせて、自分も拳銃で自殺するという事件でした。犯人には、妻であるエイミーと3人の子どもがおり、メソジスト教会の教会員でした。

 この事件は、世界に衝撃を与えました。絶対非戦・平和主義に立ち、世間から隠れるようにして静かに暮らす、アーミッシュの村を襲った悲劇という衝撃に加えて、事件の直後からアーミッシュの人々が示した、犯人とその家族に対する赦しと思いやりが、二重の衝撃、驚きとなって受け止められたのです。

 事件の起きた日の夜、数人のアーミッシュが、犯人の妻子、両親を訪ねてお悔やみを述べ、翌日から、アーミッシュたちは、次々に妻子のもとを訪れては、赦しと慰めの言葉をかけ、見舞いの品を置いて行きます。殺された子どもの親たちは、犯人の家族を殺された娘の葬儀に招待し、自殺した犯人の葬儀の出席者は、半分以上がアーミッシュでした。

 わが子を埋葬したばかりのアーミッシュの親たちも、墓地に出向いてエイミーにお悔やみを言い、抱擁しています。また、事件から数週間経ったある日、犯人の家族たちと、子どもを失ったアーミッシュの家族たちが面会したのです。その時のことを、出席したアーミッシュの指導者は、次のように語っています。

「私たちは輪になって座り、順番に自己紹介しあいました。」「エイミーはただもう泣きじゃくるばかり。ほかの者も話しては泣き、話しては泣きしていました。私はエイミーのそばにいたので、彼女の肩に手をかけ、立ち上がって慰めようとしたんですが、自分も泣いてしまいました。本当に心が震えるような経験でした。」

 アーミッシュの犯人の家族に対する思いやりは、お金の面でも表されました。被害者のもとには、世界中から寄付金が寄せられて来ましたが、その一部を犯人の家族に渡すことを決めたのです。

 なぜ、アーミッシュは、即座に犯人とその家族を赦し、憎むべき犯行に対して、愛と思いやりを返すことができたのでしょうか?

 メノナイトにしても、アーミッシュにしても、再洗礼派の流れを組む人々は、イエス・キリストを信仰の対象とするのは勿論ですが、イエスの弟子となり、イエスに倣うことを重んじる傾向が強いのです。従って、彼らの関心は、新約聖書の中でも、特に福音書に集中していきます。アーミッシュの礼拝では、毎年、最初の12週間をかけて、マタイの福音書の1章から12章までが読み聞かされます。この中でも、5章から7章の山上の説教が重んじられるようです。また、彼らは、春と秋の礼拝の中で行われる聖餐式の際に、マタイによる福音書18章23~35節の「仲間を赦さない家来」のたとえ話が朗読され、説教のテーマとされるため、これが、アーミッシュの赦しに関わる重要な聖書の箇所だとも考えられます。

 日々の生活において重要とされるのは、「主の祈り」です。アーミッシュは、すべての礼拝において「主の祈り」を唱えるほか、結婚式でも、葬式でも、聖職者の叙任式でも唱えます。家庭においても、朝の祈り、夕べの祈りにおいて、主の祈りが祈られます。なぜ、「主の祈り」が重視されるかというと、彼らは、自己主張を嫌い、公の場で自作の祈りを祈ることをしないからです。彼らが礼拝の際に祈るのは、「主の祈り」と数百年前から続いている祈祷書の祈りの2つだけです。彼らは、食前の祈りを黙祷を持って行いますが、その際に心の中で祈るのは、やはり「主の祈り」だそうです。「主の祈り」にある、「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪を赦し給え」という祈りを、彼らは何百年もの長きに渡って、日々繰り返し、生活

の中、心の中に刻み込んで来ました。福音書と主の祈りによって培われた信仰が、学校乱射事件の際に、犯人の家族に対する赦しと思いやりとなって現れたのだろうと思います。

 事件の報道の後、犯人の家族に対するアーミッシュの赦しと思いやりに対する賞賛の声が上がる一方、アーミッシュの態度を批判する声も上がって来ます。「憎しみが常に悪いわけではない・・・我々のなかに、子供が虐殺されたのに誰も怒らないような社会に住みたいと本気で思っている者が、どれだけいるだろう?」(ボストン・グローブ紙)。「彼らは無垢な者の大量殺戮を前にしても、主は与えたもう、主は取りたもう、と繰り返すばかりだ・・・無意味な殺戮が容認される、希望のない世界の住人」(イギリス/オブザーバー紙)「こんな異常な事態が起きたときは、感情をぎゅっと抑えつけるのではなく、時間をかけてなだめていくことが必要だ」(USAトゥデイ紙)。

 こうした、アーミッシュに批判的な論評の根底にあるのは、アーミッシュにとって赦すのは簡単なことだという理解です。「アーミッシュの赦し」の著者たちは、事件について多くのアーミッシュにインタビューする中で、それは誤解だと言います。アーミッシュにとっても、赦すということは、終わりのないハードワークであり、乱射事件の犯人のような外の人間よりも、教区の人間(アーミッシュである家族や隣人)を赦すほうが難しいことがあるそうです。

 乱射事件で亡くなったある少女の父親は、インタビューに答えて「赦しとは、復讐する権利を放棄することです」と語りました。彼らにとっての赦しとは、最初に復讐する権利を放棄し、それから長く続くハードワークの重荷を担っていくことの宣言とも受け取れます。こうした赦しの大変さを熟知しているからこそ、彼らは、赦しをテーマとする聖書の箇所に親しみ、主の祈りを唱え続けているのではないでしょうか?

 

 結び

 

 再洗礼派の人々の多くは、カトリック教会とルター派の双方から弾圧され、多数の殉教者を出しながらも、弾圧する者たちを赦し、絶対非戦・平和主義を貫いて生きて来ました。この世とあまり関わろうとせず、電気・電話も引かず、自動車も所有しないなど、現代文明に背を向けるような彼らの生き方は、ともすれば奇異の目で見られ、乱射事件の犯人の家族に対する赦しと思いやりですら、マスコミの批判を浴びて賛否の渦に巻き込まれることになりました。

 内村の自叙伝には、多くの教派名が登場しますが、メノナイトもアーミッシュも出て来ません。世に隠れるようにして生きる小さき群でしたから、多分、在米当時、彼らと接触する機会がなかったのではないかと思います。その当時のアーミッシュは5千人足らずでしたから、知らなかったとしても不思議はありません(現在は、20万人ほど。20年ごとに倍増しているそうです)。もし、彼らの信仰の在り方を内村が知っていたら何と評したでしょうか?内村が言う「第二の宗教改革」「信仰を経過して、しかる後に愛に到達せる改革」を考える上で、宗教改革に起源をもつ彼らの信仰の在り方は、21世紀の私たちに多くの示唆を与えてくれるものと思います。

 以上で、本日の私の話は終わりとさせて頂きます。最後にお祈りをしますが、アーミッシュを取り上げましたので、彼らに倣って「主の祈り」をもって祈りに代えさせて頂きます。

 

 天にまします我らの父よ、願わくは御名を崇めさせ給え、御国を来らせ給え、御心の天になるごとく地にもなさせ給え、我らの日用の糧を今日も与え給え、我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え、我らを試みに逢わせず悪より救い出し給え、国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり、アーメン。

 

(参考資料)

「内村鑑三信仰著作全集6」(教文館)

「ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか」(内村鑑三著 河野純治訳 光文社)「内村鑑三の生涯」(小原信著 PHP研究所)

「内村鑑三と再臨運動」(黒川知文著 新教出版社)

「ルターと内村鑑三」(高橋三郎・日永康共著 教文館)

「ルター著作選集」(教文館)

「マルチン・ルター 原典による信仰と思想」(徳善義和編 リトン)

「マルティン・ルター 言葉に生きた改革者」(徳善義和著 岩波書店)

「プロテスタンティズム」(深井智朗著 中央公論新社)

「宗教改革の精神と日本のキリスト者」(中村敏著 いのちのことば社)

「キリスト教の歴史」(マイケル・コリンズ&マシュー・A.・プライス著 BL出版)「入門講義 キリスト教と政治」(田上雅徳著 慶應義塾大学出版会)

「戦場の宗教、軍人の信仰」(石川明人著 八千代出版)

「キリスト教と戦争」(石川明人著 中央公論新社)

「日本基督教団史資料集第2巻 戦時下の日本基督教団」(日本基督教団宣教研究所)

「宗教改革著作集8 再洗礼派」(教文館)

「アナバプティスト派古典時代の歴史的研究」(榊原巌著 平凡社)

「千年王国の惨劇 ミュンスター再洗礼派王国目撃録」(ハインリヒ・グレシュベック著 平凡社)

「アーミッシュの赦し」(ドナルド・B・クレイビル他著 亜紀書房)

 

「アーミッシュの人びと」(池田智著 二玄社)など