「ガラテヤ書の学び」第7回(松本智昌)

ですから、律法に基づき、割礼を受けなければ救われないということはありません。では、律法とは、何でしょうか?パウロは、「律法は、違反を促すために、あとから加えられたものである」としています。私たちの罪を明らかにするために、モーセを通して、救いの約束に加えられたものである、という意味です。律法の目的は、私たちを「罪の自覚」へと導くことにあり、「約束されていた子孫」、つまり、イエス・キリストが来るまで存続するだけのものです。しかも、天使たちをとおし、仲介者であるモーセによって制定されたものに過ぎません。この律法を完全に守ることは、人間には出来ず、罪の下に閉じ込められることになりました。十字架上で死んでくださった贖い主イエスは、「律法」の審きにみずから打たれることによって、本来なら私たちが担うべき裁きを、身代わりに担って下さったのです。そのことによって、「律法」は「成就」され、神の義が貫徹されました。だから、十字架で死んでくださったイエスを信じる信仰によって、ユダヤ人もギリシア人もなく、全ての人が「神の国の民」とされるのです。どこまでも「福音」の約束、つまり、十字架のイエスが「本体」であり、「律法」は、それを証しする「影」に過ぎません。大切なのは、「本体」であるイエス・キリストのみなのです。