「イザヤ書を学ぶ」第9回(鬼沢力男)

モーセ自身も、カナンに入る直前で亡くなっています。次の世代になって、やっとカナンにたどり着いたのです。

 背信のイスラエルに対して、神は、審判の預言をもって向かわざるを得ません。イザヤが、エレミヤが、そして、エゼキエルが立てられ、神に立ち帰れと語り続けます。ところが、イスラエルは、必要な時は、当然、神が必ず守ってくれると思い耳を傾けません。そこで、神の審きとしての捕囚が起こったのです。

 エレミヤは、捕囚の長期化を預言して語りかけます。「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい」と。バビロンには、エルサレムのような神殿はなく、祭儀を行うことはできませんでした。人々は、代わりに、安息日を守ることを中心とする生活を送ることになりました。そして、哀歌が示すように、一部の人々は、自分たちの背信が捕囚をもたらしたことに、気づき始めていました。

 イザヤ書の後半(40章〜55章)は、第2イザヤと呼ばれていますが、その主題は、神による救出です。神は、クロス王によってバビロンを倒させ、イスラエルを捕囚から解放します。

 これは、何故なのでしょうか?矢内原忠雄は、次のように述べています。「傷める葦を折ることなく、ほのぐらき灯火を消すことなき神の愛が、葦が折れてしまわないよう、灯火が消えてしまわないようにと、配慮したもう故である。(第二イザヤ書の研究・講義」より)」イスラエルの民は、ぎりぎりのところで、神の恩恵によって解放されたのです。捕囚から解放した神は、「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負っていこう(464節)」と、民を担い背負う神であると示されています。

 49章の1節〜6節は、主の僕の使命について述べています。イザヤは、4節で「わたしはいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした」と、自分の働きが無駄だったと嘆いていますが、決してそうではありません。神は、きちんとした装備をさせるほどにイザヤを評価しているのです。そして、ここから、53章の苦難の僕の預言へと展開していきます。

 イスラエルは、このようにして守られ、主の牧場の羊のように生かされています。今日の私たちも、導かれています。しかし、今の情勢は、どうでしょうか?日本は、戦後70年が経過しました。平和憲法を与えられましたが、それが、為政者によって覆されようとしています。また、元号が令和に改元され、天皇が神とされる儀式が行われようとしており、これらは、大きな問題を孕んでいます。聖なる神によって裁かれる事態が起こるのではないかと懸念され、バビロン捕囚の時代との結びつきを感じるのです。