「ヘブライ人への手紙」第9回(萩野谷興)

性質やレベルが異なるものです。新しい契約は、古い契約と比べて、はるかに優れたものであり、地上の幕屋で行うものではありません。

 新しい契約が、どのような性質であり、どのように優れているかについては、8節以下で引用されているエレミヤの言葉が示しています。エレミヤは、命懸けでイスラエルの人々を神に立ち返らせようとしましたが、人々は聞く耳を持ちませんでした。絶望に近いものを感じたことでしょう。そこから、新しい契約に思いが向いて行ったのかもしれません。

 石板に刻まれた古い契約は、人を外側から律するのに対して、新しい契約は、人の心に律法を書き付ける性質があります。心の中に内面化させると言っても良いでしょう。これが、新しい契約の第1の性質です。次に、個人的であるということ。神を知るということは、イスラエルという共同体の体験でありましたが、それと同時に、キリストを受け入れて従うことによって、人々が個人的に体験できるようになりました。これが、第2の性質です。こうして、神と個人的な関係を結び、罪を赦された者は、徹底して罪と対決するようになっていきます。これが、第3の性質です。そして、聖霊が、個人個人に働くようになっていきます。これが、第4の性質です。

 神は、この新しい契約が結ばれることによって、古い契約は必要がなくなり、やがて消えていくとされました。イエスの十字架によって、新しい段階に達したことが分かります。

 最後に、この新しい契約と自分との関係について、考えてみたいと思います。罪の赦しという問題です。この罪の問題について、内村鑑三と矢内原忠雄の言葉を紹介します。

 内村は、明治43年に書かれた「罪とは何ぞや」という文章で、罪とは、盗むこと、偽ることなどと思われているが、罪そのものではない。罪そのものとは、神に対する叛逆である。神が除こうとされたのは、この叛逆であり、そう理解すると義が分かる。義とは、神に立ち返ることであると述べています。

 矢内原は、学生から罪の問題について相談を受けたことがありました。「神の存在は信じるけれども、罪の実感がない」と訴える学生に対して、矢内原は、「無理に実感を持つ必要はない。湧いてくるのを待つしかない。神の存在が信じられるということを感謝すれば良い。神は、祈りに答えて、罪の自覚を与えてくれる。罪の自覚がないと感じることが、罪を感じているということである。」と答えたそうです。

 以上で、本日の私の話を終わります。