「イザヤ書を学ぶ」第10回(鬼沢力男)

多数者の下積みとなってこれを支え、その肥料となって、これを育てるのである。彼らの存在はいわば犠牲の存在である」と。心なき多数者のために犠牲となる少数者の使命は何か、そして、神は彼らをどうされるかということが、本日のテーマとなります。
 これまで学んできた第2イザヤの中に、そうした少数者が、主の僕という形で描かれています。
神はイスラエルに向かって、「あなたは私の僕、私はあなたを選び、決して見捨てない (41章)」と語り、「私の僕、私の支える者に霊を与え、彼は諸々の国人に道を示す (42章)」と、主の僕の使命を示されます。神に背ける諸々の国人には、光明はなく、希望はありません。彼らに、神の真理を示すためにイスラエルは選ばれたのです。そして、その使命は、政治的なリーダーの声や姿ではなく、「傷ついた葦を折ること (42章)」のない姿勢、やり方のうちに行われるものです。
 ところが、選ばれた主の僕、イスラエルは、神に不従順となり罪を犯します。「それゆえに主は燃える怒りを注ぎ出して戦いを挑まれた (42章)」のですが、「炎に囲まれても、悟る者はなく、火が自分に燃え移っても気づく者 (42章)」はありませんでした。藤井武は言います、「神は値せざるものを選ばれた、そして不従順の故に神は投げ捨てた。神はどうするつもりなのか?」と。
 それに対し、神は、贖いをもって応えられます。「恐れるな、わたしはあなたを贖う(43章)」そして、「あなたの罪を思い出さないことにする (43章)」更には、「堕落して背いているならば、私の霊を注ぎ、恩恵を与えて祝福し、水のほとりの柳のように育て繁栄させる (43章)」と語りかけます。
 第2イザヤによる主の慰めの言葉が響き渡ったのは、バビロン捕囚の生活が数十年経過した頃のことです。選民イスラエルの誇りは地に落ち、彼らの世界は闇に包まれていました。第2イザヤは、イスラエルを、枯れてしぼむ草花に喩え、取るに足らない虫けらに喩えますが、人とは草花や虫けらのような存在だと気づき、自分の身を投げ出す時に、神の憐れみは注がれるのです。ルカ伝15章の放蕩息子の姿が思われます。
 こうして、イスラエルは主に贖われて回復しますが、その中から、神は、更に少数の者を召し出されます。この選ばれた者の生涯は、犠牲を伴うものであり、イエスの姿に重なっています。本日の聖書の箇所に示されたように「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者に頰をまかせ、顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた (50章)」僕は、しかし、主が助けてくれるという確信を持って揺るぐことはなかったのです。