「ヘブライ人への手紙」第10回(萩野谷興)

礼拝する人の良心を完全にすることはできません。
 ここで、「一度かぎり」と言いましたが、ヘブライ人への手紙は、この「一度かぎり」、ないしは「一度」という表現が多く使われており、「一度かぎり」の手紙ということが出来るほどです。新約聖書全体では、18回使われていますが、その内の11回がヘブライ人への手紙に集中しています。このことは、キリストの十字架の死が、一度限りのものであったことと関係しています。
ローマ人への手紙6章10節~11節で、パウロは次のように述べています。「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」
 ヘブライ人への手紙では、旧約の礼拝と新約の礼拝が、徹底的に比較されて、大祭司キリストによる礼拝が、旧約の大祭司による礼拝を凌ぎ、圧倒し、廃止してしまったとしています。これは、言い換えれば、神が、新約をもって、人類の罪を赦し給うのであるから、もはや罪のための捧げ物を必要とはせず、旧約の祭司制度は無用であるということです。このことは、ローマ人への手紙で、パウロが述べた言葉を展開し、徹底したものと言えます。
 9章11節~14節では、キリストによる新しい贖いについて述べられています。動物による古い犠牲と、キリストご自身による新しい犠牲が対比されている箇所です。キリストご自身による新しい犠牲は、「ただ一度」行われて「すでに実現した」ものであり、このことと「永遠の贖い」が、固く結びついています。「キリストの血」とは、十字架の死を意味していますが、その血が私たちの良心を清めるのです。
キリストの血による清めについて、ヘブライ人への手紙の著者は、「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」と強調しています。これは、動物の血を流して、贖罪を行うという伝統の上に、キリストの十字架が行われ、理解されたことを表していますが、私たち日本人には、血で清めるという発想や習慣がありませんので、理解が難しい箇所だと言えるかもしれません。
 9章の結びは、「一度」という表現が3回使われていますが、そのことによって、キリストによる贖いの完全性が強調されていると言えるでしょう。
 こうして、イエスの贖いの犠牲以外のものは必要がなくなり、旧約の礼拝は廃されました。イエスの贖罪によって、我々は、直接、神に相見えることが出来るようになったのです。しかし、それぞれが、自分の十字架を担って、イエスに付き従うことが求められているのではないでしょうか?
 私は、最近、「沖縄・辺野古の抗議船 『不屈』からの便り」(金井創著/みなも書房)という本を読みました。著者の金井創氏は、日本基督教団佐敷教会の牧師です。その本には、次のようなことが書かれていました。

 

 海上抗議行動の危険性が高まったとき、仲間が言った。

「イエスは、負け続けたのだよね。」これを聞いて、静けさが心に迫った。

 イエスは、今、沖縄に生きておられる。イエスは、権力に負けたが、彼のやり方で、権力と戦ったのだろうと思う。

 復活とは、イエスの行いを、神が全面的に肯定したということではないだろうか?

 

 

 沖縄の人たちの抵抗の姿には、圧倒される思いがします。この本を通して、沖縄の人々の根底にあるものを、学ばせてもらいました。苦しいことが多いですが、神は、そこに意味を認めて下さるのだと思います。