「イザヤ書を学ぶ」第11回(鬼沢力男)

創造主なる神ご自身が行われたことでもあるのです。
 46章で、神は、イスラエルに対する思いを次のように言い表しています。「わたしは、あなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負っていこう。わたしは、あなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」と。ここに、民の立ち返りを待つ神の思いが示されていますが、旧来のイデオロギーに凝り固まった長老や祭司ら国粋主義者たちは、異邦人の王が油注がれた者となることなど、あり得ないと考えました。イスラエルが思いもよらない神の計画によって起きたのが、キュロスによるイスラエルの解放だったのです。
 48章に、イスラエルに対して「バビロンを出よ。カルデアを逃げ去るが良い。」と呼ばわるイザヤの言葉が示されています。これが、イスラエルの解放宣言でした。これによって、キュロスの使命は完了し、これ以後、彼の名前が出てくることはなくなります。
 こうして政治的には解放されましたが、バビロンで70年も生活し、イスラエルは、世代が大きく変わりました。信仰の強制は強くはなく、解放以降も、そこで生活しようという人もいたのです。政治的解放の次に問題となったのは、人々の霊的解放でした。 
 先ほども触れましたが、矢内原は、政治的解放者と霊的解放者について述べ、次のように言います。
 「政治的解放者は王であり、政治家であり、その道は軍事的征服であり、政治的支配である。一方、霊的解放者は、預言者であり、僕であり、その道は征服にあらずして犠牲にある。国民の為には、政治的解放と霊的解放との両方が必要となる。最も完全なる意味において、これはイエス・キリストの再臨によりて成就せられる。霊的解放者たるの使命を以って、「主の僕」が遣わされねばならない。この使命を帯びるものは、現代においては、基督者である。」
 「主の僕」の言葉は、49章から始まります。53章の苦難の僕のピークまで、選ばれた「僕」は、神の使命を全うすべく、与えられた運命をもって神の前に立つのです。「僕」の壮大な使命は、「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」という神の言葉に示されています。
 本日の箇所、52章13節から53章12節には、「主の僕の苦難と死」という見出しが付けられています。
 人々は、主の僕の哀れな姿に驚かされます。砂漠の地の植物の根が枯れてしまうように、僕は貧弱に育ち、みすぼらしい姿でした。人々からは蔑まれ、のけ者にされました。病や痛みなど、彼の苦悩は私たちによって引き起こされたものです。私たちが平和を得るために、彼に懲罰が課せられたのです。彼は、へり下って耐え忍び、あたかも子羊のようにして、屠られる為に引かれて行きました。そして、殺されて、犯罪者と共に葬られました。
 これらは、「僕」の生涯を見、彼の言葉を聞いていた人々が、彼の死後に、告白した言葉です。
 神は、この「僕」を慈しまれます。「僕」の苦しみによって、多くの人が義とされるためです。「僕」は、多くの人の罪を負い、とりなしをしますが、この「僕」の姿は、十字架上のキリストの姿と重なります。

 

 さて、今日から12月に入りますが、12月8日に第二次世界大戦が始まりました。私の長兄は、召集されて戦死しました。遺骨は戻らず、木箱に紙切れが入っていただけでした。2番目の兄も召集されましたが、無事に戻って来ました。今年、その兄が亡くなり、次第に戦争経験者が亡くなっていくのを感じます。私は、終戦時4歳でしたが、終戦を知らないまま亡くなられた方が大勢おられます。そうした方々にとっては、戦争は終わってはいません。今だに続いているのだと思います。沖縄の現状を見ても、そう思います。また、ローマ法王が来日して、広島、長崎、福島の現状をご覧になり、原子力の問題に疑問を投げかけたということ、新天皇の就任に、皇居前に集まった人たちが「天皇陛下、万歳!」と16回も叫んだということなどを思う時、私たちキリスト者の役割を感じます。