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「内村鑑三の再臨運動から学ぶ」(小山哲司)

内村鑑三の再臨運動から学ぶ

小山哲司

 

はじめに

 

 クリスマスまでの4週間をアドベント(Advent)と言います。待降節と訳されますが、アドベントには、キリストの来臨 ー 人としてこの世界に誕生されたこと ー という意味の他に、キリストの再臨という意味があります。アドベントの時期は、キリストの降誕を祝う時期であると同時に、キリストの再臨に向けての備えをなす時期であると言えます。  今年は、内村鑑三が、再臨運動を行ってから100年が経った年となりますので、再臨運動を取り上げて学んでみたいと思います。 さて、キリストの再臨は、クリスチャンの信仰において、非常に重要な位置を占めています。最も古い信条である「使徒信条」は、「父なる神」「子なる神」「聖霊なる神」の3つの部分からなっていますが、「子」であるイエス・キリストに関する部分は、次の通りです。(讃美歌566番に、全文が掲載されています。)

 

「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は、聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、 三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座し給えり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。」

 

 ここに取り上げられているのは、処女懐胎、十字架上の死、復活、昇天、そして、再臨です。

 また、主の祈りにも再臨が盛り込まれています。「御国を来らせ給え」とは、キリストの再臨を待望する祈りと解釈できます。

 初代教会のイエス・キリストに対する信仰の中核には、十字架、復活と共にキリストの再臨があったと言えると思います。

 福音書によれば、イエスは、十字架上で死んで埋葬された後、三日目によみがえりました。最初は、墓に出向いてきたマグダラのマリヤたち女性に現れ、次いで、エマオ途上で二人の弟子に現れました。それから、11人の弟子たちに現れました。

 イエスの復活については、イエスが、自分の体の傷跡を弟子たちに示され、また、一緒に食事をされたと記されていることから、具体的な身体を伴った復活だと分かります。その後、40日に渡って弟子たちに現れた後、天に昇られました。

 その時、白い衣を着た二人の人が弟子たちにこう告げます。「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」

 キリスト者の信仰の土台は、身体を伴ってイエスが復活した事実、そして、昇天の有様を目の当たりにしたという事実にありました。従って、そのイエスが、「同じ有様でまたおいでになる」という再臨の約束は、強烈なリアリティーを持って弟子たちに迫った筈です。

 イエス・キリストの再臨を待ち望む思いは、非常に切迫したものでした。いつ再臨が起きても不思議ではない。明日かもしれない、今日かもしれない。このように、初代のキリスト者は、強い終末意識を持ってキリストの再臨を待ち続けたのです。

 しかし、ヤコブが殉教し、ペテロが殉教しても、キリストの再臨はありませんでした。エルサレムが陥落して神殿が破壊されても、再臨はありませんでした。2000年が経った今でも、キリストの再臨はありません。時が経てば経つほど、信じることが難しくなるのが、再臨の信仰だと言って良いでしょう。

 内村鑑三は、1918年から1919年にかけて、中田重治(1870~1939)、木村清松(1874~1958)らと共に、キリストの再臨を宣べ伝える活動を行い、全国を行脚しました。内村が、何故、このような活動を行うようになったのか、そこで何を語ったのか、そして、それが、私たち、現在のキリスト者にどのような意味を持っているのかについて、学んでみたいと思います。

 

◯再臨運動の概要

 

 まずは、再臨運動の概要を掴んでおきましょう。

 内村らの再臨運動は、1918年1月6日の午後に東京基督教青年会館で催された、聖書の預言的研究演説会から始まります。1200名の聴衆を集めた大演説会でした。「再臨運動の記録」資料をご覧頂きたいと思いますが、こうして始まった再臨運動は、この年の暮れまでに61回を重ねて、年が明けたあとも暫く続きます。再臨運動が始まる以前には、精々百名ほどだった聴講者が、千人規模に膨らんで行きます。この数は、再臨運動が終結した後も維持されます。 

    再臨運動が開催された場所も、東京、大阪、京都、神戸、横浜、北海道、函館、箱根、軽井沢、岡山、千葉と、広範囲に渡っています。旅行嫌いだった内村が、短期間に、これだけの講演旅行を行ったのは、非常に珍しいことです。

 この再臨運動によって、「聖書之研究」の発行部数も、激増しています。資料をご覧下さい。再臨運動以前には、二千部から二千五百部であった「聖書之研究」が、短期間に千部も増え、その後も増え続けて、終刊の時点では四千五百部に達しています。

 内村鑑三にとっては、この再臨運動は、エポックメーキングとなる出来事だったと言えます。

 

◯再臨運動を行なった理由

 

 内村が、再臨運動を行った理由については、一般的には、3つの理由が挙げられます。1つ目は、ルツ子の死、2つ目は、第一次世界大戦へのアメリカの参戦、3つ目は、米国の友人が送ってくれた「サンデースクール・タイムズ」の記事を読んだことです。私は、この3つに加えて、4つ目として、バルフォア宣言、5つ目として、友人であるベルと内村鑑三の祈りを挙げたいと思います。

 

◯ルツ子の死

 

 ルツ子は、1894年の京都時代に、内村鑑三と妻静子との間に生まれた子でした。

 1891年の不敬事件で、職を失い、妻を失った内村は、失意のうちに各地を転々とします。静子と再婚した、この京都時代は、内村にとっては経済的にどん底の不遇の時代です。

 内村は、生涯に餓死を覚悟したことが3度あったと話していますが、京都時代がその1つだと思われます。そのような時に生まれたルツ子を、内村は大変にかわいがりました。

 ルツ子は、小学校を卒業した後、実践女学校に進学します。1911年に女学校を卒業したルツ子は、聖書研究社の事務員として働き始めますが、すぐに体調を崩して働けなくなります。そして、翌1912年1月12日に、「モー往きます」という言葉を残して亡くなります。内村にとっては、最愛の娘の死は、強い衝撃でした。

 実は、この時期に、内村鑑三が亡くしたのは、ルツ子だけではありませんでした。前年(1911年)の11月末に、内村宅に住み込んで働いていた高橋ツサ子という女性が亡くなっています。内村は、自分の養女にしたいとまでツサ子のことを信頼し、かわいがっていました。27歳の若さでした。更に、ツサ子の跡を追うようにして、12月28日に、石川一子が21歳で召されています。

   高橋ツサ子、石川一子、そして、ルツ子の3人を立て続けに失った内村は、「地上の花一時に散り失せて寂寞の情耐え難きものあり、我が苦痛は実に大なり、我は一時に三人の子を失ひしなり。」と嘆いています。

   ルツ子の葬儀が終わり、しばらくしてから、内村は、「我等は四人である」という詩を書いています。

 

我等は四人であつた、

而して今尚ほ四人である、

戸籍帳簿に一人の名は消え、

四角の食台の一方は空しく、四部合奏の一部は欠けて、讃美の調子は乱されしと雖も、

而かも我等は今尚四人である。

 

我等は今尚四人である、

地の帳簿に一人の名は消えて、天の記録に一人の名は殖えた、

三度の食事に空席は出来たが、

残る三人はより親しく成つた、

彼女は今は我等の衷に居る、

一人は三人を縛る愛の絆となつた。

 

然し我等は何時までも斯くあるのではない、

我等は後に又前の如く四人になるのである、

神の箛(らっぱ)の鳴り響く時、

寝れる者が皆起き上がる時、

主が再び此地に臨り給ふ時、

新らしきエルサレムが天より降る時、

我等は再たび四人に成るのである。

(内村鑑三全集第19巻  p46「我等は四人である」)

 

 家族の心の内にルツ子がいるという思いは、キリストの再臨の際の再会の希望へと展開していくのです。ルツ子の墓碑には、内村によって「また会う日まで」と刻まれました。

 

◯第一次世界大戦へのアメリカの参戦

 

   内村は、日清戦争の際には「日清戦争の義」を著し、日清戦争を支持しました。

 内村が、公けに非戦・平和を唱え始めたのは、日露戦争開戦間近の1903年6月です。「戦争廃止論」を萬朝報に発表して、「余は日露非開戦論者である許りでない、戦争絶対的廃止論者である」と、自分の立場が変わったことを明らかにしました。

 非戦論者となった理由について、内村は「余が非戦論者となりし由来」(1904年9月「聖書之研究」56号)という文章の中で、4つの理由を挙げています。

 1つめは、聖書、特に新約聖書です。

 2つめは、個人攻撃をされて、無抵抗主義をとった時の体験です。

 3つめは、過去十年間の世界歴史です。日清戦争の結果に加え、自由の国と思っていたアメリカが、世界第一の武装国になろうとしている現状を嘆いています。

   4つめは、平和主義の論調に立つ、The Springfield Republican という新聞を20年に渡って読み続けてきた結果だとします。

  そして、この文章を、「微力ながらも、出来る丈けの力を尽して、平和克復の期を早め、敵国との好意交換の基を作りたく思ひます」と結んでいます。

 ここで、注目したいのは、「出来る丈けの力を尽して」という部分です。非戦・平和主義に転換した時期の内村は、戦争に反対し、平和な時代を創り出したいという意欲を持っていました。

   私は、こうした内村の発想の根底には、進化論があると考えています。

 札幌農学校時代に、内村が専門としたのは、自然科学、特に魚類学でした。そして、ダーウィンの「種の起源」を愛読していました。

 アマスト大学でモース教授の歴史学の授業を受けた時に、内村は、それまで抱いていた生物学上の進化論が、生物学を超えた広がりを持つことに気がつきました。

 

博士曰く『歴史は人類進歩の記録なり』と、此言を聞いて余は思うた、是ある哉、人類の發達も亦天然の發達と異ならずと、卽ち余の歴史観と天然観とが茲に全く一致したのである。斯くの如くにして進化論を基礎とする余の知識は一層堅きものとなった。(「聖書研究者の立場より見たる基督の再臨」 1918年1月6日「聖書之研究」 211号)

 

 こうして、内村は、進化という観点から、この世界を統一的に理解できると考えるようになりました。この世界は、進化、発展して、戦争のない平和な社会が実現できるという歴史観です。

 ところが、日清戦争、日露戦争に続いて、第一次世界大戦が始まります。アメリカは、武装国家への道を歩み、第一次世界大戦への参戦を表明するに至りました。内村の描いていた、社会が進化し、平和が実現するという見方は、破綻します。この時の自分の状態を、内村は次のように述べています。

 

今や平和の出現を期待すべき所は地上何處にも見當らないのである。斯くの如くにして、余の學問の傾向と時勢の成り行きとは余をして絶望の深淵に陥らしめた、余は茲に行き詰まったのである。(「聖書研究者の立場より見たる基督の再臨」 1918年1月6日「聖書之研究」 211号)

 

◯サンデー・スクール・タイムズ

 

 こうして行き詰まってしまった内村のもとに、友人であるベルから、「サンデー・スクール・タイムズ」が送られて来ました。1916年8月のことです。そこに掲載されていた「キリストの再臨は果たして實際的問題ならざる乎(Is the Truth of Our Lord’s Return a practical Matter for To-Day?)」という記事を読むことで、内村は行き詰まりを打開することが出来たとしています。

 こうした経緯は、再臨問題を取り上げた本には、必ず書かれていますが、記事の内容ついては、あまり触れられておりません。

 この記事の筆者は、サンデー・スクール・タイムズの編集者であるトランブル氏(Charles B. Trumbull) で、1916年3月に、彼が行なった講演の速記録です。

 この記事を読むと、再臨研究の重要性が強調されるのと並行して、キリスト教会の使命は救霊にあり、社会改良は、副次的なものだとされています。

 この記事で注目したのは、再臨研究のテキストとして、ブラックストーン(William E. Blackstone 1841~1935))の書いた「イエスは来る(Jesus Is Coming)」が推奨されている点です。

 確実に、内村は、この本を読んでいます。それも、原書で愛読しています。中田重治がこの本を翻訳しており、しかも、内村は、「聖書之研究」にこの本の広告をし、書評を書き、聖書研究社で販売の取り扱いを行うなどの便宜を図っているのです。

   ブラックストーンの「イエスは来る」は、内村と中田の信仰の紐帯として、非常に重要な本だと思います。

 

○中田について

 

   ここで、中田について触れておきたいと思います。

 中田重治(1870~1939)は、1870年に弘前市で、足軽の三男として生まれました。母親に連れられて教会に通い、ミッションスクールである東奥義塾に入学しています。17歳で洗礼を受け、18歳で東京英和学校(現在の青山学院大学)の神学部に入学しましたが、学業よりも柔道の練習に明け暮れるなど、勤勉な学生ではありませんでした。その結果、成績不振で卒業が認められませんでした(青山学院大学神学部の卒業生名簿には、中田重治の名前はありません)が、校長の温情によって、メソジスト教会の伝道師として採用されることになりました。

 中田は、北海道、千島列島、秋田県大館で牧師として働いた後、1896年にアメリカに留学し、ムーディー聖書学院に入学します。

 ムーディー聖書学院は、アメリカを代表する世界的な大衆伝道者であったムーディー(D.L.Moody 1837~99)によって設立された学校でした。

 ムーディーは、経済的理由のために満足な教育が受けられず、靴屋の小僧として働きました。18歳の時に明確な回心の体験をした後、日曜学校の奉仕を行なったり、YMCAで働いたりしているうちに、伝道活動に専念するようになります。世界的な伝道者ではありましたが、神学校教育を受けてはおらず、牧師としての按手は受けませんでした。

 ムーディーは、1872年11月、神に触れられる体験をします。それにより、自分の生涯を神に捧げる決心をし、伝道のためにイギリスに渡ります。

 彼が説教の中で語った有名なフレーズがあります。

「私には、この世が難破船のように見える。神は私に救命艇をくださり、こう語っておられるのだ。『ムーディー、できる限り救うのだ』と。」

 ムーディーは、イギリスで伝道する中で、2つの事柄の影響を受けます。1つは、ホーリネス運動(イギリスではケズイック運動と呼ばれていました)。これは、神の恵みのもとで、罪を贖われた人間が漸進的に清められていくという教えです。もう1つは、千年王国説です。ヨハネの黙示録20章の解釈を巡る世界観ですが、これについては、後で詳しく取り上げます。千年王国説と関係するものとして、ディスペンセーショナリズムという歴史観があり、ムーディーは、その影響も受けています。

 ムーディーは、保守的な立場の人々をまとめる働きをしたので、根本主義運動(ファンダメンタリズム)の源流とされています。

 実は、ブラックストーンの「イエスは来る」は、こうした影響のもとに書かれた本でした。この本を通して、内村は、アメリカの根本主義運動(ファンダメンタリズム)の影響を受けたと言って良いと思います。

 さて、中田重治は、ムーディー聖書学院で学んでいた時に、カウマンという夫婦と親しくなります。カウマン夫妻は、1901年に宣教師として来日し、中田と共に東京の神田神保町に「中央福音伝道館」を立ち上げます。後に、新宿の柏木に移転しますが、そこは、内村の自宅から歩いて3分ほどの場所でした。こうして、中田と内村の出会いが近づきます。

 

◯バルフォア宣言

 

 1917年11月に、イギリスは、ユダヤ人が民族国家を建国することを支持するバルフォア宣言を発しました。内村は、このバルフォア宣言によって、ユダヤ人国家が建設に向かうことに、時の徴を読み取っています。

  内村は、再臨運動が始まる直前の1917年12月23日のクリスマスに、ルカ伝2章14節をテキストとして次のように述べています。

 

「パレスチナの地が再び神の選民に復帰せん事は聖書の明白に預言する所である、而して其事の実現はキリストの再臨と密接なる関係を有するのである、之れ所謂時の休徴である。(中略)世界に撒布せる千二百万のイスラエル民族が再び父祖の国に帰るの日も決して遠くはないであらう、かくて神のアブラハムに約束し給ひし所は悉く実現するのである、而して後に主イエスキリストは再び臨み給ふのである。」(全集24巻 「平和の告知」p50)

「エルサレムの回復、猶太人の帰国等は皆其前徴である、かくて終に平和の主自ら平和を此地に齎らし給ふのである。」(全集24巻 「平和の告知」p54)

 

   キリストの再臨の徴としては、背教、偽預言者、偽キリストの出現、迫害、戦争、疫病、地震などが、聖書に述べられていますが、これらと、バルフォア宣言、つまり、ユダヤ人のエルサレムへの帰還が決定的に違うのは、紀元70年にエルサレムが陥落し、神殿が破壊されてから、いまだ経験した事のない出来事だということです。

   ゼカリヤ書には、イスラエルの帰還を預言する箇所があります。

 

わたしは彼らを国々の民の間にまき散らすが、

彼らは遠くの国々でわたしを思い出し、

その子らと共に生きながらえて帰って来る。

わたしは彼らをエジプトの地から連れ帰り、

アッシリアから寄せ集める。

わたしはギルアデの地とレバノンへ

彼らを連れて行くが、

そこも彼らには足りなくなる。

(ゼカリヤ書10章9節~10節 新改訳)

 

 内村は、旧約聖書の預言から、ユダヤ人のエルサレム帰還が、キリストの再臨を知らせる時の徴だと受け止めたと思われます。また、ブラックストーンはシオニストで、ユダヤ人のエルサレム帰還を支援していた為、その影響もあったと思われます。

 

◯ベルと内村の祈り

 

 これも、再臨運動について書かれた本には、あまり取り上げられていませんが、ベルと内村の祈りが、重要な意味を持っていると思います。

 デイヴィッド・C・ベル(1841~1930)は、内村がエルウィンで働いていた時に出会った、年の離れた友人です。2人は、鉄道馬車の中で偶然出会い、數十分話し合っただけの仲でした。その後、街で偶然出会って握手をしたことがあるだけです。それが、生涯の友となろうとは、内村には、想像もつかなかったことだろうと思います。

 ベルは、小さな私立銀行の頭取を務めていた人物です。再臨信仰に厚く、内村のもとに、再臨に関する書物を度々送って来ていました。「サンデー・スクール・タイムズ」も、その1つでした。

 内村は、再臨信仰によって、行き詰まりを打開することが出来たとベルに知らせましたが、ベルからの返事には、次のように書かれていました。

 

「然る乎、終に君も之を信ずるに至りし乎、余は告白す、三十一年前華府に於て相識りしより今日に至る迄未だ一日も君の為に祈らざりし日を覚えず(中略)、而して余は特に君が再臨の信仰を獲んが為に祈れり。」(全集24巻 p445「再臨信仰の実験」)

 

  これを読んで内村は言います。

 

 如何、誰が1人のために此祈りを献げたか、余をして再臨信者たらしめしものは実に余の基督的友人が卅年の熱心なる祈禱であったのである。此れ此事に就て問ふ者に対して余の与ふる唯一の答である。余の信仰は誠に祈禱の産物である。(全集24巻 p445「再臨信仰の実験」)

 

 内村は、ベルの祈りについて述べた後、自分自身の祈りの体験についても述べています。

 再臨運動が始まる前の年、1917年10月31日、宗教改革400周年の記念日に、内村は、記念講演(「ルーテル伝講話」)を行いました。重責を担う不安に押しつぶされそうになった内村は、神に祈って誓いを立てます。

 

「神よ願はくは今夜の集会をして汝の栄を顕はさしめ給へ、之を以て恵に充ちたるものたらしめ給へ、汝若し此願を聴き給はばそは汝が余をして書斎を出でて市中の講壇に立たしめ給はんとの証徴なる事を信ず、余は謹んで其命に従はん」と、斯くて余は神に言質を取られたのである。(全集24巻 p446「再臨信仰の実験」)

 

 宗教改革400周年記念講演は、内村の不安を他所に、大盛況のうちに終わりました。「神に言質を取られた」内村は、いよいよ再臨運動に乗り出す決意を固めます。

 

◯中田重治との出会い

 

 中田重治は、1904年に、神田から柏木に、自分が運営する聖書学院を移転します。内村鑑三の自宅から3分ほどのところです。しかし、二人の交際には発展しませんでした。

 二人があまり接触しなかったのは、人間的にも、信仰的にもタイプが違っていた為だと思われます。

 内村は、当時の最高の学歴を身につけた知的エリートと言って良いでしょう。不敬事件がなければ、一高、東大の教授として人生を送ったかもしれません。一方、中田は、東京英和学校を成績不振で卒業できず、ムーディー聖書学院も、卒業生名簿に名前がありませんが、柔道で鍛えた強靭な気力、体力がありました。気性が激しく、伝道者にならなければ、ヤクザの親玉になったと評する弟子もいるほどです。

 神学的には、内村が、ピューリタンに由来するカルヴァン主義に立つのに対し、中田は、修正カルヴァン主義とでも言うべきアルミニウス主義に立ちます。両者の違いを簡単に言うと、カルヴァン主義が「神の選びによって、救いが予定されている者は、信じて救われる」のに対し、アルミニウス主義は「神を信ずる者は、誰でも救われる」のです。

 こうした人間的、神学的な違いが、伝道のスタイルにも現れており、内村が、「聖書之研究」の読者に限定して、一高や帝大の学生を含む少人数の集会を行なっていたのに対し、中田は、中流以下の庶民を対象とした大衆伝道に力を注いでいました。また、内村は、外国からの援助に頼ることを嫌っていましたが、中田は、アメリカからの援助を受けていました。

 こうして、二人は、すぐ近くに住んでいながら、10年以上も接点のない状態が続いていたのです。

 さて、1916年7月17日、内村の隣家が火事になりました。隣家は、原の湯という銭湯です。すんでの事に全焼となる火の勢いでしたが、この時、中田が、聖書学院の生徒を引き連れて、内村邸に駆けつけます。中田は、自ら内村の家の屋根によじ登り、陣頭指揮をとって類焼を防いだのです。内村は、こうした中田のバイタリティーに心を打たれたのだと思います。翌日から、中田を「友人」と呼び、後日、改めて中田のもとに礼を言いに訪れた内村は、中田と語り合い、次第に心を許すようになっていきます。そして、丁度その頃、友人ベルから「サンデー・スクール・タイムズ」が届くのです。

 先程、ブラックストーンの「イエスは来る」を中田重治が翻訳したと言いましたが、「新生・聖化・神癒・再臨」を「四重の福音」として強調するホーリネス教会にとって、この本は再臨信仰の教科書的な本でした。

 こうして、ホーリネスの中田と無教会の内村は、再臨信仰によって強い信頼関係で結ばれ、生涯の友人として交際を続けていきます。

 

◯木村清松を誘って三人に

 

 宗教改革400周年記念講演会を成功のうちに終えた内村は、中田と相談して再臨運動を始める決意を固めます。そして、木村清松に参加を求めます。木村は、ムーディー聖書学院で中田の後輩に当たります。

 実は、木村は、内村に再臨信仰を紹介したことがありました。

 木村がアメリカから帰国した直後、1902年頃のことです。内村のもとを訪ねて語りあった時、アメリカの再臨信仰を紹介すると、内村は、「フン!」と云ってそっぽを向き「それは如何にも米国人らしい考だネ。主が再び地上に来ると云うのかね」と吐き出すように云ったそうです。その頃の内村は、主の再臨を全く信じていなかったということです。

 再臨運動が始まってから、木村が、内村との雑談の際に、その時のことを話題にすると、内村は、「木村さん、思い出しました。私はあの時、聖書に教えてあるこの大切な問題に全く気がつかなかったのです。そして君に対し、又此問題に対して嘲笑したのは全く私の不明の致す所であります。誠に恥しく存じます。今あらためてあなたに謝罪申上げます。どうぞ赦して下さい」と、わざわざ机を持ち出し、それに手をついて、三度も謝罪を繰り返されたそうです。

 内村は、義戦論から非戦論への転換が有名ですが、再臨信仰に対しても、180度の転換を行なったことが窺われます。

 

◯内村鑑三の再臨信仰

 

 再臨運動の際に内村が語ったことに基づき、内村が再臨について信じていたことを取り上げてみたいと思います。

 内村は、再臨運動の期間中、実に70回以上もの講演を行い、キリストの再臨を語り続けましたが、その中心となるのは、1つは、千年王国と再臨との関係です。もう1つは、主の再臨のあり方です。

 この点について、内村は、「聖書之研究」211号(1918年1月)の「余がキリストの再臨に就て信ぜざる事共」において、次のように述べています。

 

キリストの再臨とはキリスト御自身の再臨である、是は聖霊の臨在と称する事とは全然別の事である、又之と同時に死せる信者の復活があり、生ける信者の携挙があり(テサロニケ前書四章一七節)、天国の事実的建設が行はる、即ち再臨がありて天国が現はるるのであって、人類の自然的進化、又は社会の改良、又は政治家の運動に由て神の国は地上に現はるるのではない、余は今は此等のことを疑はずして信ずるを得て神に感謝する、即ち余は今は所謂Pre-millennialists(先づ再臨ありて然る後に神の国の出現ありと信ずる者)の一人であつて Post-millennialist(再臨は神の国の完成の後にありと信ずる者)の一人ではない。

 

 「信ぜざる事共」という題名のもとに、反語的に、信じていることが明らかにされています。

 まず、再臨とは、聖霊の臨在といった内面的、霊的なものではなく、キリストご自身の、具体的、有体的な再臨であるということです。

 

キリストは其身体を以て復活し給ふた、而して其復活体を以て今尚存在し給ふとは聖書の亦明に示す所である、彼は栄光化されたる人の身体を以て父の許に還り給ふたのである、而して時至れば其身体を以て再び現はれ給ふとは是れ亦聖書の明かに示す所である、基督教の奥義は此に在るのである。(全集24巻 p118「復活と再臨」「聖書之研究」213号)

 

 次に、キリストの再臨によって実現する神の支配は、神によって建設が行われるものであり、人間の進化や社会的な活動によって造られるものではないとしています。

 キリストの再臨と神の国との関係については、再臨は神の国の完成の後にあるのではなく、先づ再臨があって、その後に神の国の出現があるという立場だと、明らかにしています。

 内村が用いている、Pre-millennialists と Post-millennialist とは、千年王国前再臨説信者、千年王国後再臨説信者と訳されますが、ヨハネ黙示録20章4節~6節の解釈の違いによるものです。

 

 また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。残りの死者は、千年が終わるまで生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかるものは幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の復活は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。(ヨハネ黙示録20章46節 新改訳)

 

 千年王国前再臨説と千年王国後再臨説の大きな違いは、自分が生きている間にキリストの再臨があるか否かという点になります。現時点で、千年王国が始まっていないとすると、千年王国後再臨説では、少なくとも、これから千年の間は、再臨がありません。

 千年王国については、初期の教会は、千年王国前再臨説でした。ローマ帝国による迫害に苦しむ初期のキリスト者にとっては、キリストが再臨し、サタンの勢力に対して勝利を収めるという信仰は、大きな希望でした。

 ところが、392年に、キリスト教がローマ帝国の国教となると解釈が変わっていきます。アウグスティヌスが「神の国」という著書の中で、現在の地上の教会が神の国であり、教会による現在の支配を表すとしたのです。これを「無千年王国説」といいますが、カトリックでは、現在も、この考え方が有力です。また、ルター、カルヴァンらも、この立場に立ちます。

 これに対して、歴史上の教会と来るべき千年王国を区別しようという観点から、ピューリタンたちは、千年王国説を蘇らせました。但し、千年王国の後に再臨があるという千年王国後再臨説です。千年王国を建設する場所として選ばれたのが、アメリカであり、メイフラワー号に乗ったピューリタンたちは、千年王国を実現するためにアメリカに渡りました。アメリカでは、南北戦争までは、千年王国後再臨説が支配的でした。

 これが変わるのは、プリマス・ブレズレンという教派から出てきたディスペンセーション主義が切っ掛けです。この考え方では、歴史を7つに区分し、現在が恵みの時代で、次に、キリストの再臨をもって始まる「御国の時代」が来る。これが、「千年王国」だとします。これが、千年王国前再臨説と結びついていき、それを積極的に広めていったのが、大衆伝道者のムーディーでした。彼が設立したムーディー聖書学院が、ディスペンセーション主義と千年王国前再臨説の牙城となり、中田重治は、そこで学んだ訳です。

 先程、中田重治が翻訳したブラックストーンの「イエスは来る」が、中田と内村を結びつけるものとして大切だと申しましたが、この本はベストセラーとなり、ディスペンセーション主義と千年王国前再臨説は、アメリカ中に普及していきました。

 ディスペンセーション主義と千年王国前再臨説は、ムーディー聖書学院で学んだ中田重治を通して、日本に入り、次第に広まっていきます。そして、ベルが送付したサンデー・スクール・タイムズによって内村の再臨信仰が呼び覚まされ、それを、中田が強力にサポートするという構図を読み解くことが出来ると思います。

 果たして、内村が、本心からディスペンセーション主義に基づく千年王国前再臨説を受け入れていたかという点については、「基督再臨を信ぜし十大偉人」(全集24巻 p124 「聖書之研究」213号)という文章が参考になります。この文章は、内村が再臨信仰に関して影響を受けたキリスト者を10名列挙したものですが、この中に、ジョージ・ムラーとトレゲレスというプリマス・ブレズレンのキリスト者が入っています。内村の本心だったと思われます。

 

◯再臨信仰と他の教義との関係について

 

 再臨信仰は、キリストの贖罪、復活、聖書論、非戦・平和主義との結びつきがあります。内村が再臨運動の中で述べた言葉から、それらとの関係を掴んでおきたいと思います。

 

◯再臨と贖罪  →  再臨は贖罪の結果である

 

贖罪と再臨との間に密接なる関係がある。再臨は贖罪の結果であると云ふ事ができる、主はご自身が贖ひ給ひし者の救を完成せんがために再び臨り給ふのである。而して信者は主に贖われし其結果の身に於て実現されんがために彼の再臨を待ち望むのである。(全集24 p116 「贖罪と再臨」「聖書之研究」213号)

 

◯再臨と復活  →  再臨の前提となり、根本をなすのが復活である

 

而して初代信者に取て再臨の前提を為し且つ其根本を為すものは復活であった、哥林多前書十五章の前半に於てパウロの論じたるが如く復活は罪の赦しに関する唯一の確実なる証明であったのである、何となれば罪の証拠は死にあり、故に若し罪を赦されなば必ずや死したる体は復活せざるべからず、然るにキリストは復活し給へり、我等も亦彼に倣ひて復活せしめらると、是れ初代信者の信仰であった、而して復活を信ずる者に取て再臨は決して難問題ではない、復活昇天せるキリストの再来は最も信じ易き真理である。(全集24 p180「基督の復活と再臨」「聖書之研究」214号)

 

◯再臨と聖書論

 

基督再臨問題は更に一の大問題を喚び起した、聖書問題即ち是れである。(中略)

余は聖書無謬を信ずる、余は四十年の信仰生活の結果斯く信ぜざるを得なくなつたのである。(全集24巻 p367~ 「聖書之研究」220号)

 

而して斯く十字架を仰ぎて救拯の実験を経たる者のみが復活を信じ再臨を信ずる事を得るのである、福音的信仰の出発点は罪の赦の実験に於て在る。(中略) 故に再臨問題は一転して聖書問題に移り再転して罪の問題に帰着するのである、再臨を拒む者は聖書を拒み聖書を拒む者は罪の罪たるを否定し、十字架の贖罪的威力を否定する、贖罪聖書再臨は相関聯する問題である。(全集24  p254「イエスの変貌」「聖書之研究」216号)

 

 暫く前になりますが、私は、前田護郎先生の「新約聖書概説」(岩波全書)を読んで、驚いたことがあります。牧会書簡(テモテ前後書、テトス書)が、全てパウロ自身による手紙であるという立場だったからです。牧会書簡は、パウロ自身が書いた手紙ではないというのが、通説です。余程保守的な立場の学者でなければ、パウロ自身による手紙という結論は出しません。

 前田先生は、文献批評学の成果を踏まえおられますが、著者問題に関しては、聖書の主張をそのまま受け入れています。また、黒崎幸吉先生も、パウロ自身が書いたという見解です。

 前田先生や黒崎先生の見解は、内村の見解と関係があるのだろうかと、内村のテモテ書の注解を調べてみました。すると、「疑わしき書簡」(「聖書之研究」1909年9月~11月)の中で、内村は、パウロ著者説を否定して、次のように述べています。

 

教会に拠って立つ学者はパウロ論を維持し、教会を離れて自由攻究に従事するものは非パウロ説を取ると。(中略)自由独立の観察者としてこれらの書簡を読んで、余輩はいかにしてもこれをもってパウロの手より出でたる書簡として認むることができない。

 

 前田先生、黒崎先生とは裏腹に、内村は、牧会書簡の著者は、パウロではないとしています。 両先生の説は、内村説とは関係がないのだと思いました。

 ところが、「トロアスに残せし上着  テモテ後書四章九~二一節」(1918年10月 「聖書之研究」219号)で、内村は、一転して、パウロ著者説に立って論じています。

 

パウロ、ローマ市にありてまさにその最期の近づかんとせし時、一書をテモテに送り、彼を招くと共に、付言していうた、なんじ来たる時、わがトロアスにてカルポのもとに残しし上着を携え来たれ、と。(中略)

ゆえに、トロアスに残せし上着に関する一言は、パウロの最後の状況を知るがために最も貴き一言である。

 

 内村の見解が大きく変わったのは、どうしてなのでしょうか?

 再臨信仰に立つ前と後では、聖書に対する見方が変わったからだと思います。パウロ著者説を否定した文章は、1909年に書かれたものですが、パウロ著者説を認めている文章は、再臨運動の最中に書かれたものです。再臨信仰は、聖書論とも密接に関わっていることが窺われます。

   内村は、自分の聖書論の変化について、次のように述べています。

 

茲に至て余の信仰は極めて単純なる者となつたのである、聖書を余の小き頭脳に適合せしめんと欲するが故に其或る部分を削らざるべからざるの必要を見るのである、故に余は苦しき努力を要するのである、此の小き七百頁の一書を解せんが為に何故余は余の書斎に転々せる数百冊の書を耽読したのである乎、其入り難きものを強ゐて余の頭脳に入れんと欲したるが故のみ、聖書の一部を削るに好き思想を発見すれば余は之を大発見なりとして喜んだ、然しながら何ぞ知らん斯くて余の頭脳に入りしと思ひし聖書は依然として余の有とはならなかつたのである、之れ実に長き苦しき実験であつた、然るに今や神の恵により余は聖書を此儘に呑んで之を我ものとするの態度に導かれたのである、之を我が中に入れんと欲せずして我れ其中に入るの態度である。(全集24巻 p430  「聖書と基督の再臨」「聖書之研究」222号  下線部分は、本文では傍点)

 

 聖書は神の霊感に基づくものであるという立場を、聖書霊感説と言います。大きく2つに分けることが出来ますが、聖書の言葉そのものが、神の霊感によるという立場を、言語霊感説といいます。この立場では、聖書の言葉が真理の言葉だということになります。それに対して、聖書の言葉そのものではなく、聖書の伝えている思想・信仰が、神の霊感によるという立場を、思想霊感説と言います。この立場では、聖書の中に真理が含まれているということになります。

 内村は、以前は、思想霊感説だったのが、再臨信仰を得て、言語霊感説に変わったのだと思います。ここでも、大きな転換が見られます。

 

◯再臨と非戦・平和主義

 

 内村が、再臨運動を始めた理由を説明した際に、アメリカが第一次世界大戦に参戦したことにより、内村の社会進化論的歴史観が行き詰まったことを指摘しました。

 内村は、日露戦争に際して、絶対的非戦・平和主義を唱えました。その非戦・平和の実現に対する見方は、2つの立場が並存しているように思われます。

   1つは、反戦・平和活動によって、戦争を止めさせていくという立場です。

人に勝つの武器は永久の忍耐と無限の愛とを措いて他に有るなしとは決して惟り理想家の言のみではありません、是れは人類が二十世紀に入つてより、其惨憺たる過去の経歴を顧みて、始めて心附いた「智慧の言葉」であると思ひます、私共はドウゾ此日露戦争を以て人類最終の戦争と為したいと思ひます。(「近時に於ける非戦論」1904年8月18日 「聖書之研究研究」55号)

 

 もう1つは、人の力では、戦争を止めさせることはできず、神の力によってしか実現しないという立場です。

 

人は平和会議幾回を重ぬるとも兵を廃むることは能はざるべし、然れども神が再びキリストに在て栄光の主として斯世に顕はれ給ふ時に、彼は地の極までも戦闘を廃めしめ給ふべし。(「平和の希望  詩篇四十六篇」1904年9月22日「聖書之研究」56号)

 

 2つの立場が、ほぼ同じ時期(1904年)に「聖書之研究」に掲載されています。それが、再臨運動を行う時期になると、「キリストの再臨時に、神の力によってしか完全な平和は実現しない」という立場 ー 終末論的非戦・平和主義 ー に収斂していきます。

 

平和は戦争に由て来らず、外交に由て来らず、教会に由て来らず、市からば平和は遂に来らざる乎(中略)

世界の平和は如何にして来たる乎、人類の努力に由て来らず、キリストの再臨に由て来る、神の子再び王として来る時人類の理想は実現するのである。(全集24巻  p135「世界の平和は如何にして来る乎」「聖書之研究」213号」)

 

 内村が到り着いた、この終末論的非戦・平和主義は、千年王国前再臨説と密接な関係になります。ただ、この立場には、問題点があります。

 その問題点は、社会に対して関心を持たなくなり、社会的な活動を行う意欲も乏しくなることです。人間の活動によっては、平和は実現しないと断言してしまえば、基地建設反対運動も、核兵器廃絶運動も、意味がなくなります。

 

◯再臨信仰を抱きつつ、社会的活動に向かわせたもの

 

 内村には、キリストの福音によって個人が変革され、個人が変革されることによって、社会が変革されるという発想がありました。再臨に力点を置いて、キリストの福音を宣べ伝えるということは、個人の変革をもたらすという点で、社会を変革する働きかけであったと思います。萬朝報時代に仲間だった社会主義者たちには理解できなくとも、内村流の社会改革運動だったのでしょう。

 私は、個人を変革して社会を変革するという発想のほかに、内村を社会的な活動に参加せしめるものがあったと思います。それは、宇宙論的無教会観、そして、万物の復興に対する信仰だったのではないかと思います。

 

◯宇宙論的無教会観

 

「無教会」は教会の無い者の教会であります。即ち家のない者の合宿所とも云うべきものであります。(中略)真正の教会は実は無教会であります。天国には実は教会なるものはないのであります。(中略)然し此世に居る間は矢張り此世の教会が必要であります。(中略)此世に於ける私共の教会とは何であって何処にあるのでありましようか。神の造られた宇宙であります天然であります是れが私共無教会信者の此世に於ける教会であります(中略)、羅馬(ローマ)や竜動(ロンドン)にあると云ふ如何に立派なる教会堂でも、此私共の大教会には及びません。無教会是れ有教会であります。教会を持たない者のみが実は一番善い教会を有つ者であります。(「無教会論」1901年3月「無教会」創刊号   下線部は筆者による)

 

 教会堂を持とうとしない無教会にとって、宇宙全体が教会であるという捉え方は、この世界の森羅万象の全てが無教会の構成要素だということになります。従って、森羅万象の全てが、無教会の問題であり、無教会のキリスト者にとって、自分自身の問題だということになる筈です。

 

◯万物の復興

 

 内村は、この世の森羅万象が、無教会を構成するものだと捉えましたが、キリストの再臨時には、その森羅万象 ー 即ち、万物 ー  が、復興すると理解しました。ロマ書8章16節~25節の講解として、次のように述べています。

 

或る時迄待たば神は必ずキリストを以て完全なる救拯を為し給ひ我等の愛する者は再び我等に返され、我等の聖き霊に適合ふ敗壊なき身体は与へられ又天地万物は改造せられて此新たなる身体を以て生活するに適する新天新地が実現せらるるのである。(中略)

又此理想を抱きて人は万物に対し無限の同情を寄せざるを得ない、自己一人救わるるに非ず、全人類全宇宙と運命を共にするのである。(全集24巻 p99 「万物の復興」「聖書之研究」212号)

 

 キリストの再臨時に復活するのは、人間のみではなく、私たちの生活環境である天地万物が、神の恩寵に預かり、新天新地となって姿を現わすということです。人間と、人間を取り巻く生活環境に断絶を認めない捉え方、共々に、神の恩寵に与るパートナーという捉え方です。その結果、「人は万物に対し無限の同情を寄せざるを得ない」こととなり、万物の問題は、己の問題となるのです。

 再臨時のキリストは、王としてのメシアですが、内村は、この王は、軍事的な指導者ではなく、牧者であり、農夫であって、平和の君であるとします。

 

キリスト再現の結果として国は国にむかひて剣をあげず戦闘の事を再び学ばざるに至つて地は一大農園と化して元始の平安に還ると云ふのである。(全集24巻 p337「再臨と豊稔」「聖書之研究」219号)

 

 再臨によって絶対的平和が実現し、天地万物が復興した情景を、預言者イザヤの言葉に読み取ることができます。

 

狼は子羊とともに宿り、

ひょうは子やぎとともに伏し、

子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、

小さい子どもがこれを追っていく。

雌牛と熊とは共に草を食べ、

その子らは共に伏し、

獅子も牛のようにわらを食う。

乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、

乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。

わたしの聖なる山のどこにおいても、

これらは害を加えず、そこなわない。

主を知ることが、

海をおおう水のように、地を満たすからである。

                    (イザヤ書10章6~9節  新改訳)

 

 そして、このイザヤの描いた世界に生きる者は、神の子として、山上の垂訓に示されるような愛の戒めに則って生きるのです。

 内村は、こうしたメッセージを携えて、個人を変革し、社会を変革すべく、再臨運動に向かって行ったのだと思います。

 

  ◯再臨運動に対する批判の動き

 

   内村、中田、木村らが、再臨運動を始めたのが、1918年1月6日でしたが、再臨運動が始まると、直ぐに批判運動が起こります。

   批判は、まず、再臨運動を批判する論文という形で現れます。「六合雑誌」「新人」など、自由主義神学の立場に立つ雑誌に、海老名弾正を中心とする組合教会の牧師や信徒が、次々と再臨運動を批判する論文を発表するようになります。

 中田重治の伝記によると、3月ごろから、再臨運動の講演会の翌日には、海老名弾正らの再臨批判講演会が開かれるようになり、6月に入ると、海老名弾正の教会(本郷教会)で、再臨運動を批判する講演会が開かれ、500名もの聴衆を集めます。こうした活動の結果、特に、東京では、再臨運動の講演会への参加者が減少していきます。

 また、当初は、内村、中田と協力していた木村が、4月ごろから参加に消極的になり、9月には離脱を表明します。自分が所属する組合教会の海老名らが再臨運動批判を行い、それに内村や中田らが反論するという応酬について行けなくなったためです。内村の弟子である畔上賢造も、再臨運動に参加せよという内村の要請に対し、研究していないので良く分からないという理由から、断っています。再臨運動の側が、一致結束していたという訳ではありません。

 

◯海老名弾正の再臨運動批判

 

   海老名弾正(1856~1937)は、福岡県出身で、熊本洋学校時代に入信し、同志社大学で新島襄に師事し、後に同志社大学の総長を務めました。内村とは、再臨運動では対立しましたが、アメリカ留学以前から付き合いがある友人でもあります。海老名の再臨運動批判を見ておきましょう。

 

キリストが雲に乗りて来ると云ふ思想のごときは浅薄なる猶太思想の継承であつて、基督教本来の思想ではない。基督教本来の基督観は、神の子キリストの清く高き霊に於て、キリストと結ばるるにあるのであつて、そこに即ち神の国が出来るのである。故にキリスト再臨の信仰は異端の信仰にして須くクリスチヤンの捨つべき妄説であると主張するに至つたのは、一大見識と言はねばならぬ。(「基督教世界」1798~1800号   1918年3月28日~4月11日)

 

 海老名は、言語霊感説(聖書無謬説)を否定し、聖書の言葉を文字通りに解することは出来ないとします。

 これに対して、内村は反論して、次のように言います。

 

学者と長老の集れる中に立ちて祭司の長の問に答へて「我れ汝等に告げん、此のち人の子大権の右に座し天の雲に乗りて(雲の上に)来るを汝等見るべし」と言ひて彼等の憤怒を買ひ死刑を宣告せられし者は是れ又イエス御自身であつた(マタイ伝廿六章六四節以下)、イエスは再臨を唱へない、猶太亜人たりし彼の弟子等が彼に就て又は彼に代りて之を唱へたのであるとの説は福音書全体を壊つにあらざれば維持することの出来ない説である、新約聖書は明白にキリストの再臨をイエスの確信又使徒等の信仰として我等に伝へる。(全集24巻 p193「猶太亜的思想なりとの説」「聖書之研究」215)

 

 さて、再臨運動を批判する立場の代表として海老名弾正を取り上げましたが、再臨運動批判論者の大半は、海老名と同様に、聖書には誤謬があり、キリストの再臨は、霊的再臨であるとする立場です。この立場では、キリストの統べ治める千年王国も、字義通りには認めないことになります。認めたとしても、再臨との関係では、千年王国後再臨説だと思われます。

 この両者の立場の違いを、どのように受け止めるべきかについて考えてみました。

 海老名は、平田篤胤の研究に没頭した時期がありました。日本の神道は、八百万の神々を統べ治める、天之御中主神や天照大神のような中心的な神がおり、その意味で一神教であって、神道とキリスト教との関係を連続したもの、同質的なものと理解するようになっていきます。そして、天照大神の子孫である天皇による統治、つまり、天皇制に相応しい宗教としてキリスト教を捉えるようになり、神道的キリスト教が示されるようになっていきます。

 海老名弾正が、神道的キリスト教を模索することで目指したのは、キリスト教の日本への土着のあり方を示すことだったと思います。天皇制と折り合いをつけた、日本人が受け入れやすいキリスト教を示すことで、日本伝道を推し進めて行こうというアプローチ。言うならば、福音の日本化です。

 それに対して、内村や中田が目指したのは、聖書が説くキリスト教によって、日本を福音化することだったと思います。

 

◯再臨運動の終わり

 

 1918年11月11日に、第一次世界大戦が集結します。

 内村らの再臨理解の前提となる、千年王国前再臨説は、迫害や戦争など、世界が絶望的な状況であればあるだけ、力を持ちます。逆に、平和であって、人間が、自分たちの力を楽観的に見られる状況では、力を失います。

 海老名たちの再臨運動批判に加えて、第一次世界大戦が終結したことにより、再臨運動に逆風が吹くようになります。逆風は、再臨運動の中からも生み出されて来ます。再臨狂のような人々、自らを再臨のキリストと自称するような者が、出始めたのです。

 内村は、再臨信仰は持ち続けますが、講演のテーマとしては、次第に再臨を語ることを避けるようになります。「聖書之研究」の目次を見ると、1919年の4月号以降は「再臨」の文字が消えます。

 内村らが、再臨講演会の会場として使用して来た東京基督教青年会館の使用に、1919年3月末に反対意見が出され、6月以降は使用できなくなり、この時点で再臨運動は終わりを告げたと思われます。「運動」とは言いましても、講演活動ですから、講師が「再臨」を主題として語らなくなったら、再臨運動は終りです。

 再臨狂を生み出すような弊害もあり、70回もの講演で「再臨」を語り尽くしたという思いもあったでしょうが、こうして、内村は「再臨運動」に区切りを付けたのだと思います。

 

◯再臨運動による実り

 

 再臨運動が始まるまでの内村は、「聖書之研究」を発行しながら、柏木の自宅において、少数の会員を相手に聖書講義を行っていました。それが、再臨運動が始まると、聴衆の数が桁違いに増え、「聖書之研究」の発行部数も急増します。萬朝報を退社した後は、世の片隅にいた内村に、再び、明々とスポットライトが浴びせられるようになったのが、再臨運動でした。

 また、アルミニウス主義に立つ中田との交友によって、内村の伝道に対する考え方に変化が生じたのではないかと思われます。再臨運動に区切りが付いた後も、大日本私立衛生会講堂において、数百名の聴衆を相手に、聖書講義を続けていくことになります。

 

◯再臨運動 ー その後

 

 内村は、再臨運動が終了した後は、再臨信仰を抱きつつも、再臨に力点を置いた講演活動は行わなくなります。

    一方、中田重治の伝記には、「内村鑑三師と一度も衝突しなかったことは、誠に幸いであった」とあり、再臨運動が終結した後も、二人が信頼関係を保っていたことが窺われます。そして、東洋宣教会ホーリネス教会は、再臨を含む四重の福音を強調する信仰であり、 中田は、 再臨を説き続けていきます。

 海老名弾正は、神道的キリスト教の立場から、神社参拝を肯定し、奨励します。日韓併合後の朝鮮半島では、海老名が中心となる組合教会は、朝鮮総督府との信頼関係を築き、総督府の機密費から年間6000円もの支出を受けて、潤沢な資金をバックに伝道を行い、朝鮮人キリスト者に対しても、神社参拝を求めます。

 中田は、天皇制は認めましたが、神社参拝に対しては、神社は宗教であるとして、参拝への反対を明らかにします。また、宗教団体に対する国の介入を強める宗教団体法にも、反対しました。その結果、ホーリネス教会と信徒は、迫害を受けます。

 1933年(昭和8年)、再臨信仰及びユダヤ人の民族的回復と救いを過度に強調したことが原因で、中田は、東京聖書学院で教授を務める弟子たちによって、ホーリネス教会監督の地位を解任され、ホーリネス教会は、きよめ教会(中田側)と日本聖教会(弟子側)とに分裂します。

 両者は、1941年の日本基督教団結成時に加入しますが、1942年から43年にかけて、教職者が、治安維持法違反容疑で逮捕されます。日本基督教団に加わらなかった者も含めて、合計で134名が逮捕されたのです。

 主な逮捕の理由は、神社参拝に反対したこと、そして、再臨信仰でした。これが、「国体を変革する」行為だと判断されたのです。車田秋次という牧師は有罪判決を受けましたが、判決理由は「聖書神言説は千年期思想を必然的に招来せしむべく、千年王国思想はすなわち反国体的なり」ということです。

   同じ時期(1943年)に、無教会信徒の浅見仙作も、再臨信仰を理由として治安維持法違反容疑で逮捕・拘留され、裁判を受けましたが、幸いなことに、大審院では、無罪判決を受けることができました。

 強い信頼関係で結ばれ、再臨運動を共に担った無教会の内村と、ホーリネスの中田の継承者たちは、揃って、再臨信仰(千年王国前再臨説)を理由として、当局の弾圧を受けました。このことは、王としてのキリストが、具体的、有体的な再臨をし、千年王国を統べ治めるという信仰が、独裁的な権力と相容れないことを示しています。

   

◯結び

 

   再臨運動は、1903年に萬朝報を退社してから、柏木の自宅で、ひっそりと少数の会員を相手に聖書講義を行なっていた内村に、再びスポットライトを当てる機会となりました。聖書講義の聴講者数は激増し、「聖書之研究」の購読者数も大幅に増えました。

   内村は、再臨運動に際し、キリスト教を日本化しようとする海老名弾正らと対立しました。そして、その際に示した、言語霊感説(聖書無謬説)に基づく再臨信仰(千年王国前再臨説)は、福音を日本化し、天皇制へ埋没させようとする流れ、圧力に対して抵抗する、信仰の立場を形造ったものと評価できます。天皇の代替わりが行われ、天皇制をシンボルとする右傾化が懸念される時代に、私たちが再臨運動から学ぶべきものは、大きいのではないでしょうか。

 

(参考文献)

内村鑑三全集第19巻(岩波書店)

内村鑑三全集第24巻(岩波書店)

内村鑑三日録8(鈴木範久著 教文館)

内村鑑三日録9(鈴木範久著 教文館)

内村鑑三日録10(鈴木範久著 教文館)

内村鑑三選集2「非戦論」(岩波書店)

内村鑑三選集6「社会の変革」(岩波書店)

内村鑑三選集7「聖書のはなし」(岩波書店)

内村鑑三聖書注解全集第十四巻(内村鑑三著 教文館)

内村鑑三信仰著作全集第2巻(内村鑑三著 教文館)

内村鑑三と再臨運動  救い・終末論・ユダヤ人観(黒川知文著 新教出版社)

「紙上の教会」と日本近代  無教会キリスト教の歴史社会学(赤江達也著 岩波書店)

内村鑑三の生涯  日本的キリスト教の創造(小原信 PHP研究所)

内村鑑三研究第26号(教文館)

内村鑑三研究第43号(教文館)

無教会史Ⅰ 第一期 生成の時代(無教会史研究会編著 新教出版社)

中田重治傳(米田勇著 中田重治伝刊行会)

中田重治とその時代(中村敏著 いのちのことば社)

日本の説教1 海老名弾正(日本キリスト教団出版局)

海老名弾正の思想と行動  近代日本キリスト教と朝鮮(金文吉著 明石書店)

使徒信條講義(塚本虎二著 聖書知識社)

高校生と学ぶ使徒信条(武祐一郎著 新教出版社)

絶対的平和主義とキリスト教(武祐一郎著 武福音社)

新約聖書概説(前田護郎著 岩波書店)

イエス・キリストの再臨(ルネ・パーシュ著 いのちのことば社)

アメリカのキリスト教がわかる(大宮有博著 キリスト新聞社)

アメリカ・キリスト教史(森本あんり著 新教出版社)

アメリカ福音派の歴史(青木保憲著 明石書店)

福音と平和の証人  浅見仙作(田村光三著 シャローム図書)

小十字架  戦時下一キリスト者の証言(浅見仙作著 待晨堂)

無教会主義キリスト教における社会正義 ―内村鑑三の社会正義とキリスト教思想の関連を中心に―(岩野祐介著 現代キリスト教思想研究会 第3号)

註解新約聖書Web版(黒崎幸吉著 高橋照男氏のHPより http://www.asahi-net.or.jp/~EJ2T-TKHS/index.html)

 

Jesus Is Coming (William E. Blackstone)