「ヘブライ人への手紙」第11回(萩野谷興)

至聖所の内外を仕切る垂れ幕は、イエスの肉体の比喩であり、イエスの肉体が引き裂かれた時に垂れ幕も裂けて、私たちが、至聖所の中に入れるようにして下さったのです。だから、「信頼しきって、真心から神に近づこうではないか(22節)」「希望の信仰告白に固着しよう(23節/NTDによる)」「愛と善い業とを励まし合うように互いに心掛けようではないか(24節)」という奨励の言葉が述べられます。

 奨励の言葉は、信徒の集まりがあることを前提としていますが、25節に「集会を怠ったりせず」とあるのは、集会に来なくなった人たちがいることを示しています。それは、信仰を表明することが危険な状況であったためかもしれませんし、最初に信仰を告白した時と比べて、信仰が弱まっていったということかもしれません。互いに励まし合うのは、「かの日」、つまり、終末の日、キリスト再臨の日が近づいているからです。

 次に、26節から31節は、「恩恵の聖霊を侮辱する者の罰(塚本による)」について述べています。神の賜物としての「真理の知識」を持ちながら、「故意に罪を犯し続ける」とすれば、それは、イエスの十字架の贖いを無視することになります。「かの日」は、審判の時であり、敵対する者たちに残されているのは、「焼き尽くす激しい火」です。イザヤ書26章11節、ゼファニヤ書1章18節などにも示されていますが、最後の審判における火の思想は、ユダヤ教の黙示文学に起源を持つものです。聖霊を冒涜することは、恐ろしいことなのです。

 28節に、モーセ律法を破る者への処罰が述べられていますが、イエスは、モーセよりも優れた方であり、イエスに対する反逆は、はるかに重い刑罰を伴います。30節で引用されている旧約聖書は申命記32章35~36節ですが、神は、自らの義を示して、契約を破る者を裁かれます。信仰を持って神の御手に抱かれることの幸福とは反対に、不信のままで、神の裁きの手に陥ることは、恐るべきことです。

最後に10章32節~39節について述べます。ここは、「忍耐をもって信仰を保て(塚本による)」という箇所です。

 ヘブライ人への手紙の読者たちは、「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験し(ヘブライ人への手紙 6章4~5節)」ました。これは、キリストを救い主と仰ぐ信仰に至ったということです。

 その後に襲いかかる嘲りや苦しみは、同胞であるユダヤ人が「 主イエスと預言者たちを殺した(1テサロニケ2章14節)」ほどの迫害が、念頭に置かれていると思われます。そして、死刑囚のように、人々の前に引き出され、「見せ物(1コリント4章9節)」とされました。手紙の読者たちは、こうした経験を持っていたようです。

 彼らは、何故、耐えられたのでしょうか?それは、「いつまでも残るものを持っていると知っている」からです。だからこそ、命を奪われるような迫害に耐えることができたのです。それを思い出して、ヘブライ人への手紙の筆者は、再び信仰の火を灯すように呼びかけたのです。

 信仰を維持するには苦難を伴いますが、忍耐こそが第一です。その意味では、忍耐はキリスト教の特質であると言えます。この点について、塚本虎二は、次のように述べています。「この手紙の読者たちは、いま2回目の迫害に遭っているらしくみえるが、よくはわからない。ただ注意を要するのは、この迫害に対する彼らの戦いが、ただ忍耐の一手であって、あくまでも消極的であることである。しかし、これが主キリストの戦法であり、今日までのキリスト教会の戦法であった。そしてキリスト教は、この一手でローマ帝国に勝ち、この世のすべての力に勝ってきたのである。」

 こうした忍耐を伴う戦いは、今日でも行われています。沖縄の辺野古新基地建設に反対する戦いもそうですし、私たちにとって身近な、原発の再稼働に反対する戦いも、またそうです。

 最後に、1コリント13章4~7節を引用して、本日の私の話を終わります。

 

 

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」


「ヘブライ人への手紙」第11回の概要を、自動読み上げソフトによる音声で聞くことができます。細かな字が読みづらい方は、お試しください。少々ぎこちない音声で、申し訳ありません。