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感話会「戦時下を生きたキリスト者から学ぶもの」(桐原邦夫)

日本軍の勝利を祈願することを義務づけたものです。 そのために、大勢の人が集まる場所には、 方向を間違えないようにと、「東京」 という張り紙が貼られていました。最初は、必ずしも強制的なものではなかったのですが、しだいに統制が強化されて、ついに教団も全教会での実施を要請せざるを得なくなったのです。 

 いつから始まったのかは正確に覚えていませんが、礼拝の最初に父が立ち上がって「最初に皇居遥拝を行います」 (と言ったと思います) と言うと、出席者全員が東京の方面に向かって「最敬礼」 という父の号令に従って一斉に頭を下げました。 最敬礼というのは、お辞儀をするときに手の指先が膝株の下までとどくように上半身を深く曲げるお辞儀のことです。 神さまを拝む前に天皇を拝ませたのです。天皇は神とされていました。 もちろん、キリスト教としては拝んではならないものでした。しかし、特高(特別高等警察)が監視に来ていましたから、拝まなければ礼拝は中止、 教会は解散させられてしまいます。すべての教会に特高の監視がついたわけではないのですが、私の父は、生まれたばかりの日本基督教団の東北教区長をしていたからでしょう。時折、特高が礼拝の監視に来ていました。普通の警察は犯罪を取り締まるのですが、特別高等警察は「思想」 を取り締まるのが任務でした。戦争反対とか天皇に対する批判的思想を取り締まったのです。「思想犯」 という言葉がありました。「思想」が犯罪だった時代でした。

 牧師たちには「教師練成会」というものが強制されて、合宿して軍から派遣された講師による「国体の本義」とか「大東亜戦争の本義及び大東亜共栄圏建設論」とか「日本精神史」などの講義が行われ、さらに近くの川で「みそぎ」もさせられました。教団議長は伊勢神宮官に参拝しましたし、「大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書簡」などという、今読めば顔から火が出るような恥ずかしい文書もありました。「興亜賛美歌」が編集されて「大東亜共栄圏の歌」 [資料2] が讃美歌として掲げられました。 

 一番悲しいのは、 教団の中のホーリネス系教会が弾圧された時に、教団がこれを見捨てたことと、朝鮮の教会に神社参拝を強制するために教団の代表が説得を行なったことです。 

 私の教会は軍隊に接収されて軍隊の倉庫か何かにつかわれていました。礼拝は会堂裏の和室で行なわれていました。あらゆる金属は、鉄瓶から門扉から火鉢の五徳に至るまで、すべて戦争用に献納させられ、教会には戦闘機献納献金の割り当てが来て、すべての教会が競争するように献金していました。婦人会は傷病兵の慰問に軍の病院へ駆り出され、必勝祈願祈祷会、必勝祈願礼拝が繰り返し行なわれました。

「仙台東三番丁教会の記録」

 キリスト教の対応はいくつかに分かれました。ほんの少数のキリスト者だけが、信仰を貫いて「抵抗」の道を選びました。 天皇を神とすることを拒んで刑務所に入ったキリスト者は数えるほどしかいません。それでも、バール [異教礼拝]に膝を屈しなかった人が少しでもいたことに、私は心から敬意と感謝の思いを表明したいと思います。 

 私の父と教会の取った道はそうではありませんでした。それは「屈従」の道でした。日曜日ごとに皇居選拝をし、必勝祈願を守り、戦闘機献納献金にはげみました【資料3】。

 

 「必勝の信」というようなスローガンが教数会の標語として掲げられています【資料4】。もちろん、私に父を非難する資格はありませんし、そのつもりもありません。あのような時代に、強権的なファシズム政府の圧対に対して屈服しない信念を通すことのできる人は、よほど強い人だけです。私のような弱い人間は、すぐに屈服してしまうのだろうと思います。ですから、 父の弱さを非難することは私にはできません。ただ、だからこそ言える時に言わなければならないのだと思うのです。 そのような時代がきてしまったら、言いたくても言えないかも知れません。

 しかし、他方では、このような父の歩みをたどるうちに、私の中に言いようのない大きな疑問が生まれてくるのをおさえることができませんでした。 それは、このような父の歩みは、本当に「屈従」だったのだろうか、ということです。 [天皇は本当は神ではない。しかし、弾圧が恐ろしいので、心ならずも踵を曲げる]ということではなかったのではないかという疑問です。 むしろ本心から天皇を崇敬し、本心から天皇中心の国家体制を誇りに思っていたのではないかという疑問です。もちろん、私は父の信仰心を疑ったことはありません。 明治生まれの典型的なピューリタンでした。ひたすら聖書を読み、熱烈に祈り、禁酒禁煙,、貧困に耐えて伝道に励む信仰者でした。しかし、その父にとって、同時に「皇居遥拝」も「君が代斉唱」も「万歳三唱」も、決して「心ならずも」強制されてやむを得ず行なっているのではなく【心から】進んで行なっていたことなのではないかという疑問です。 これは【屈従】ではなく「自発的信従」だったのではないでしょうか。(中略)

 戦争中の責任について、私の父も、内面的には悩んだこともあったのかも知れませんが、公的には、ついに一度も戦時下の天皇崇拝について反省の言葉も自己批判の言葉も述べたことはありません。 いつの間にか、最初から、民主主義者であったようなことになってしまいました。

 

「義認と聖化」の問題

 戦争中の多くのキリスト者の「天皇崇拝」の問題は、伝統的な神学用語で言えば、おそらく「義認と聖化」の問題なのでしょう。信仰によって義とされた人間が現実の生活の中でどのように聖化への道を歩むかと言う問題です。信仰によって義とされた人間が、天皇を礼拝することができた。しかも、そこに矛盾を感じずにできた、ということはどういうことなのでしょうか。矛盾は感じていた、心ならずも弾圧に屈服したのだ、というなら分かります。 そういう人もいたでしょう。しかし、私は、多くのキリスト者はそうでなかったと思います。私の父を見ても、「令達第十四号」を見ても、あれは「自発的服従」であったとしか思えません。「屈服」だったというのは、後からの言い訳であって、本当は「神と天皇」と「二人の主」に仕えた、それも矛盾を感じずに仕えたのではないかと思われてならないのです。

 

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 以上のように川端純四郎氏は述べています。それを我々はどのように考えるべきでしょうか。

(参考文献)

富坂キリスト教センター編『『協力と抵抗の内面史 一 戦時下を生きたキリスト者たちの研究』(新教出版社、2019年)

吉馴明子・伊藤猟彦・石井麻耶子編『現人神から大衆天皇制へ - 昭和の国体とキリスト教』(刀水書房、2017年)

 

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 桐原兄の発題の後、参加者から、様々な感想や意見が出されました。

 

◯水戸幼稚園の創立者は、実際に特高に追い回されたことがあったそうです。キリスト教の集まりは、スパイの住処だと思われていた時代だったのです。

 

◯日本人は、原爆で多くの犠牲者を出したため、被害者としての意識が強いけれども、果たして、どれだけ抵抗したのかという反省があるという、戦争体験者の声の紹介がありました。

 

◯本日の聖書の箇所であるロマ書13章1~7節に関しては、ドイツの哲学者ハイデガーの生き方について触れた方もおられました。彼はナチスに入党してヒトラーを支持しましたが、戦後、それは、ロマ書13章に従ったまでだと説明したそうです。ロマ書13章の解釈が問われる問題かもしれません。

 

◯日本基督教団については、ドイツのルター派の教会が、戦後間もなく戦争責任の告白を行ったのに対して、1967年まで戦争責任の告白が出来ませんでした。これは、実際に「自発的信従」があったからではないかという感想もありました。

 

 

◯水戸無教会聖書集会では、第4日曜日を感話会とし、発題を受けて互いに語り合う機会を設けています。本日も、良い語り合いが出来て感謝です。