「ヘブライ人への手紙」第12回(萩野谷興)

旧約の偉大な先輩たちも同様の試練に耐えてきたことを挙げて、励ますために書かれた箇所だからです。

 1節は、新共同訳では「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあり、信仰の定義を示す箇所です。岩波訳では、「信仰とは[私たちが]希求している事の基であり、見えないものの証明である」と訳されています。「確信」と「基」の訳の違いをもたらしているのは、ギリシア語原文の υποστασις (ヒュポスタシス) の扱いです。新共同訳のように「確信」という意味を持つ一方、「土台」や「実体」という意味もあるために、違いが生じるのです。前田護郎は、「信仰は望むことの実体、見えぬものの証拠です」と訳していますが、実体とは現象を背後で支えるものですから、分かりやすい訳だと思います。
 では、「望んでいる事柄」とは、何でしょうか?これは、漠然とした将来に対する確信ではなく、「体が贖われて」「神の子とされること」への期待です(ローマ人の信徒への手紙8章23~25節参照)。パウロは「目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」と述べていますが、これは、ヘブライ人への手紙と同じ思想です。信仰の偉人たちは、こうした信仰を抱いていたが故に、神に称賛されました。
 3節では、再び、見えるものと見えざるものが対比されます。創世記1章にあるように、世界が、神の言葉によって創造されたということは、目に見えることによっては証明されません。これは、信仰によらなければ分からないことです。創世記をまとめた者の信仰が、ここで告白されたのだと思います。日本で、キリスト教が中々広まらないのは、見えないものに対する捉え方が関係しているのかもしれません。
 4節からは「信仰の先輩の模範」が示されていますが、6節は、信仰の本質を示す箇所として理解してよいと思います。神に近づく者は、神の存在を信じ、求める者に報いて下さる方だと信じることが要件となります。神が現にいまし、すべてを支配していたもうと信じることは、生やさしいことではありません。このことを、深く考えさせられました。
 4節以下に示されている旧約時代の信仰の先輩は勿論、私たちが直接、間接に知っている無教会の先輩たちの信仰の生涯も、神を信じ、イエス・キリストを真に信じるとはどんなことかを教えてくれています。
 最後に、内村鑑三の言葉を引用して、本日の私の話を終わります。

 

「信仰は心にひびく神の声に対する信者の応諾である。彼は形体を見ない、また証明を持たない。しかしながら彼はたしかに信ずるのである。しかり、信ぜしめられるのである。彼にとりては、信仰そのものが見ざるところの物の証拠となるのである。」(内村鑑三著「一日一生」2月15日より)