「イザヤ書を学ぶ」第13回(鬼沢力男)

   63章では、イスラエルを悩ます他民族への、主の報復が預言されます。「エドムから来るのは誰か。ボツラから赤い衣をまとって来るのは。」という預言者の問いかけに、主は答えて言います。「わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとりわたしに伴わなかった。(3節)」「わたしが心に定めた報復の日、わたしの贖いの年が来た(4節)」「わたしは怒りをもって諸国の民を踏みにじり、わたしの憤りをもって彼らを酔わせ、彼らの血を大地に流れさせた(6節)」と。主がまとう赤い衣は、主が踏みつけた者の血で染まっていたのです。

    矢内原忠雄は、この神の姿を「孤独な収穫者」として、次のように描きます。「ここにただ一人にて酒ふねを踏んで来られた孤独のエホバが立ち給うのである」「誰も正視に堪えない」「神は一人にて酒ふねを踏み給うが、また一人にて新酒を造り給う。審判も神一人の御業、救贖もまた神一人の御業である」「この奥義を啓示するものはキリストの十字架である」と。そして、酒ぶねを踏む、赤い衣をまとった主なる神の姿と、黙示録5章に描かれた、屠られた小羊としてのイエス・キリストの姿とを対比させつつ、矢内原は言います。「彼は唯一の審判主にして、同時に唯一の救済主にいます。審判と救贖は同一の義の発現であるから、審判者と救贖者は同一人たらざるを得ないのである」「神はいきどおりをもってキリストを踏みくだき、その血を流れしめたもうた。これは『屠られ給いし小羊』をば、人類の救贖主として立て給わんがためである。実に悲壮の極みである。キリストの十字架は、我らの罪の刑罰を原因とし、同時に罪の救贖を目的として起こった聖悲劇である。」

    内村鑑三は、同じ神の姿を「単独の勢力」と捉えます。内村は、イザヤ書の注解の中で「人々は事をなさんとする時、多数によってなさんとする」「しかるに不思議なることは、聖書は多数の勢力を認めないのである」「聖書によれば、神は大事を為すにあたって多数の勢力をもってせずして、単独の力をもってしたもうた」「イエスはただ一人、世の罪を担いて十字架の上にこれを除きたもうた。イスラエルの民族運動ではなかった。イエス一人の贖罪の生涯と死であった。人類はこれによって救われたのである」「世界改造の実力は、一人の霊魂が神の霊に接するところにおいてある。」アフガニスタンで一人井戸を掘り続けて緑の大地を作った中村哲医師、そして、アメリカで黒人差別撤廃の先頭に立ったキング牧師は、内村が言う「単独の勢力」だったのだと思います。

    イザヤ書は、神に背くイスラエルの人々の罪の故に、国が滅び、バビロン捕囚が起きたのだとしますが、内村も、晩年に、国家の滅亡の兆しは人を神とすることにあると指摘しています。日本の教育、政治の腐敗、その根本の理由は、人間を神として拝ませるからだ、と述べ、偶像崇拝を恐ろしいと語っています。「人間を神様として祭るからだ。そして神様としてこれを拝ませるからだよ。Idolatry(盲目的崇拝)とは実に恐ろしいものだよ(石原兵永著「身近に接した内村鑑三 下」)」偶像崇拝と平和の間には、確かな関係があると思われます。

    イザヤ書において、預言者によって述べられた神の声、「立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることこそ力がある(30章)」という神の声は、これからも人類に呼びかけ続けることでしょう。神に立ち帰れ、と。

    最後に、マタイによる福音書の5章9~10節を引用して、イザヤ書の学びを締めくくりたいと思います。

 

 

「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。」