「ヘブライ人への手紙」第13回(萩野谷興)

 それを受けて、11章1節では、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と、信仰を定義しています。実際、昔の偉大な信仰の先輩たちは、この信仰を持ち、神からよしとされました。アベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク以下、多数の旧約の偉大な信仰の先達が引用されています。ここで注意したいのは、彼らは、信仰的に立派だったけれども、神が約束して下さったものを現実に手にした訳ではないということ(39節)です。それは、キリストの出現と贖罪によって初めて実現するものです。

 12章1~3節は、「信仰の創始者であり、完成者であるイエス」について述べられています。「おびただしい証人の群れに囲まれている」とあるのは、ギリシアの競技場で競走するような場面が想定されています。旧約の信仰の先達たちが、観客席にずらりと並んでおり、我々が競技場で競走するという場面です。競走する選手は、出来るだけ身軽になる必要があります。「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて(1節)」身軽にならなくてはなりません。その目標は「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめる(2節)」ことです。イエスの姿は、気力を失い、疲れ果ててしまう私たちに対する戒めであると同時に、励ましでもあります。

 私は、「自分に定められている競走(1節)」に注目しました。私たちは、神から夫々の人生が与えられています。そこには、挫折、苦しみ、悲しみがあり、忍耐が必要になります。この箇所に関連して、福島第一原子力発電所の事故の際、自殺してしまった酪農家がおられたことを思い出します。彼は、原発事故の苦しみの最中でも、希望がある間は生きようとしておられましたが、希望を失って命を絶たれたのです。

 「続・一日一生」の今日(3月15日)の箇所で、内村鑑三は、次のように述べています。「私は、何びとをもまねない。アウガスティンをも、ルーテルをも(以下略)。私は、私自身である。神は、私を特別の目的をもって造り、私を特別な位置に置き、私に特別な仕事をあてがいたもうた。私は、神の特別の器(うつわ)であるがゆえに、彼は、私を特別の道に導き給う。(中略)神は、同一に二人の人を造りたまわない。人は、各自神の特別の聖手(みて)の業(わざ)である。」

 大小に関わらず、人生の長短に関わらず、神は、各自に人生を与えておられます。だから、「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか(1節)」との呼びかけがなされるのです。

 12章4節から11節は、「信仰の訓練」について述べられた箇所です。ここでのポイントは、「主の訓練を軽んずるな。主は、あなたがたを子として扱い、ご自分の神聖にあずからせるために訓練されるのである。」ということです。「訓練」「鍛錬」という言葉が、動詞と名詞を併せて10回出て来ます。「鍛錬」は、当座は、悲しいものと思われますが、後になってから、神の愛の下になされたことが分かります。第一テモテ4章7~8節が、ここと関連しています。

 12章12~17節は、「信仰の道」です。「平和と聖潔を追い求めよ」と要約できる箇所です。12節には、イザヤ書35章3節「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。」が引用されています。それに続く4節に「神は来て、あなたたちを救われる」とあるように、神が救って下さるから、「よろめく膝を強く」することができるのです。

 14節に、「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい」とあります。この「すべての人」には、敵対する者も含まれます。パウロは、ユダヤ教徒の時代にクリスチャンを迫害しました。彼は、自分の罪を充分に知っており、自分のことを罪人の首とさえ言っています。それ故に、イエス・キリストの赦しを味わい、敵対する者とも平和を保つことができるのだと思います。「聖なる生活」は、ロマ書6章22節が参考になります。

 15節の「苦い根」は、詳訳聖書によると、「憤り、悩み、憎しみ」のことで、それが激しい苦痛の原因となり、多くの人々が、それによって悪に染まらないように注意しなさいという意味だということです。

 16~17節には、一杯の食物のために、長子の権利を売ったエサウが取り上げられています。私が注目するのは、神によって定められた長子の継承権を、安易な気持ちで放棄してしまったこと。エサウは多くの妻を持って性的に淫らであり、俗悪な者、つまり、霊的なものに対して無関心であったようです。後に、エサウは、涙を流しながら父に祝福を懇願しますが、認められませんでした。ここで、悔い改めたにも関わらず、許されないのかという問題が出て来ます。それは、単に遅かったということではなく、重要な決断の際の選択は、後で取り返しがつかないということだと思います。

 12章18~24節は、「信仰の目標」について述べられた箇所です。シナイ山上の事象とシオン山を対比して、後者が、神の恵み深い天のエルサレムであることを示し、現在のクリスチャンの受けている恵みの大きさを、旧約時代のモーセと対比しながら強調しています。

 12章25~29節は、「信仰に対する審判」です。天からの御旨を告げる方を拒むことは、罰から逃れることができない。私たちは、御国を受け継いでいるのだから感謝しよう、と述べています。塚本虎二は、「慰め、励まし、脅しを述べざるを得なかったことに、当時の戦いの激しさが推察される」としています。

 13章1~19節は、「終わりの勧め」です。ここは、「倫理的勧め(1~6節)」と「霊的勧め(7節~17節)」に分かれます。

 私は、「倫理的勧め(1~6節)」として、4節の「結婚はすべての人に尊ばれるべきである」という箇所に、まず注目しました。詳訳聖書は、「結婚とは、価値のある、貴重な、即ち、価が高く、特別な、大切なものであることを認めなさい」と訳しています。結婚の重要性を、改めて感じさせられました。

 次に注目したのは、金銭のことです。「金銭に執着しない生活(5節)」が勧められていますが、これは、「お金を愛することから解放されているようにしなさい」ということです。金銭を愛することには、地上のものを所有しようとする貪り、欲望が含まれます。ものを持とうという欲望は、不安から出て来ますが、その必要はありません。神は、「決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」のです。神は、私たちと共にいて下さいます。

 「霊的勧め(7節~17節)」については、ポイントとなるのは、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」ということです。

 18~19節には、「祈りの求め」が述べられていますが、そこからは、ヘブライ人への手紙の著者が、読者たちからは離れた場所におり、読者たちの元に戻ろうとしているという状況が読み取れます。

 最後に、塚本虎二の「ヘブル書講義」を引用して、私の講話の結びとさせて頂きます。

 

 

「本書が最も強く示そうとするのは、このイエスが大祭司であって、旧約の祭司制度は彼によって置き換えられ、旧約自身もまた完全に廃棄されて新約の新しい礼拝が生まれたこと、すなわち、もはや人間によらず、このイエスなる大祭司を通して直接に神に交わることができるようになったということである。旧約の祭司制度廃止と各人祭司主義、これが本書の示す最大、最後の真理である。」