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感話会「神の真実は無になるであろうか」(萩野谷芳子)

 あの日はたしか大学三年の五月の末か六月の上旬だったと思います。前田護郎先生の「ロマ書講義」で「神の真実」という言葉を教えて頂いたのは--。

 前田先生は「西洋古典学」の教授で、私はすでに駒場キャンパスでギリシャ語の初級文法の授業を受けていましたが、この先生から聖書のお話を伺うのは初めてでした。

 その日はロマ書三章の三節と四節のお話でした。

 

すると、どうなるのか。もし、彼らのうちに不真実の者があったとしたら、その不真実によって、神の真実は無になるであろうか。断じてそうではない。あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。

(1954年改訳新約聖書による)→ 口語訳聖書を指します。

 

 その日の講義の主題は「信仰とは何か」というものでした。柏蔭舎聖書研究会で、「わからないことはそのままにして、わかった聖句を堅く信じて日々の生活を送って行くと、やがて神の御旨がわかってくる」と教えられて、その教えに従ってはいましたが、私は「もっと信仰に確信を持ちたい。どうしたら、これが神様の御旨だ、と確信がもてるのだろうか」という問いをずっと抱えていました。

 その日、前田先生が教えて下さったことはたくさんあったはずですが、私の脳裏に今も鮮やかなものは、その日、黒板に書かれた数式のようなものでした。それは、横書きで「信=πίστις=神の真実」と書かれていました。

 「ロマ書三章三節の<神の真実>っていうところは、ギリシャ語では τν πίστιν το θεο(テーン ピスティン トゥー テウー)となっています。<真実>と日本語に訳されている単語の主格は、πίστις なんですが、このピスティスっていう単語は、ロマ書五章一節の(このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから)っていう箇所の原文では <κ πίστεως (エク・ピステオース)>という形で出てきて、日本語では<信仰により>と訳されているんですよ。つまり、五章の一節の<信仰>と三章三節の<真実>とは、ギリシャ語の原文ではおんなじ単語なんですよ。つまりそれは、こういうことですね」

と言いながら黒板に書かれたのが、さきにあげた「信仰=πίστις=神の真実」という「数式」でした。

 前田先生は続けてこんな風に話されました。

 

「信仰ってのは、自分が信じることじゃないんですよ。神が真実な方だっていうことなんですよ。神からの一方的な恩恵なんです。私たちがどんなに罪深い、弱い人間であっても、神様は真実な方ですから大丈夫なんです。わたしたちが、こんなだらしない自分じゃ信仰者とはいえないんじゃないか、なんて、自分の姿を見て絶望する必要はないんですよ。なにしろ信仰ってのは、神の真実なんですから。」

 

 あの日は雨がザアザア降っていました。前田先生の講義が終わったあと、暗い大教室を出て、正門に向ってまっすぐに続いている銀杏並木の緑の下を一人で歩きながら、私は「信仰=ピスティス=神の真実」という数式を何度も反芻していました。そうか、信仰とは神の真実なのか、だから確実なのだ、と。そして、昔、今市教会の日曜学校に初めて出席した日に、「斯く我ら信仰によりて義とせられたれば、主イエス・キリストに頼り神に対して平和を得たり」という聖句をよく覚えておきなさい、大事な聖句だから、と牧師の吉村先生から教えられたことは本当だったと、驚きと喜びで胸がいっぱいになりました。」

 

 三浦安子さんの文章は、以上です。

 私は、前田先生の「信仰ってのは、自分が信じることじゃないんですよ。神が真実な方だっていうことなんですよ。神からの一方的な恩恵なんです。」という言葉をはじめて読んだ時に、大変ほっとしたことを記憶しています。前田先生の解説にひきつけられたのは、「信仰は神からの一方的な恩恵である」ということです。

 私は、神の存在を認め、キリスト教の教えが生きる上での指針だと自覚していますが、その考えは、自分が選びとっているようにも思えたのでした。前田先生は、信仰は、神からの一方的な恩恵だと言われます。信仰は、自分の意思で得られるものではなく、努力して持ち続けるものでもないということになります。

 聖書に向き合う時に、よく理解できないことが多く、こんな読み方で良いのかしらと悩んでいましたが、前田先生の説明によると、自分の姿を見て絶望する必要はないことが分かります。「何しろ信仰というのは、神の真実ということになるのですから。」

 前田先生は、ロマ書3章3節の「真実」とロマ書5章1節の「信仰」とは、ギリシア語の原文では、同じ単語であると説明しておられますが、その箇所を、2018年に発行された聖書協会共同訳で読んでみたいと思います。

 

ローマの信徒への手紙3章3~4節

それはどういうことか、彼らの中に真実でないものがいたにせよ、その不真実のせいで、神の真実が無にされるとでもいうのですか。

決してそうではない。人はすべて偽りものであるとしても、神は真実な方であるとすべきです。

 

ローマの信徒への手紙5章1~2節

このように、私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。

このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。

 

 神の真実=信仰と理解して、この箇所をつなげて読むと、私たちがイエス・キリストを通して神につながっていることが良く分かります。私が、この集会に出席して神を仰いでいることが、神からの一方的な恩恵といえるのでしょう。これは、大変不思議なことであり、幸せなことだと思います。これからは、聖書を素直な気持ちで読んでいきたいと思いました。

 このたびの準備をしながら感じたことがあります。聖書協会共同訳を読むと、内容が心に入ってくるように思えました。それは、表現の違いだと思います。例えば、新共同訳(1987年)では「神の誠実」と訳されている部分が、共同訳(2018年)では「神の真実」と訳されていました。「不誠実」という言葉から受ける印象と、「真実でない」という言葉からの印象が違うように感じます。内容が伝わるような聖書に出会えたら、それは幸せなことだと感じました。

 私の感話は以上です。

 

 萩野谷姉の感話について、出席者からは、聖書を聖書として読むことの大切さを感じる、自分も素直な気持ちで聖書を読むことに倣いたいといった感想が述べられました。良い分かち合いの時が持てましたことに、感謝します。