「イエスの復活 第1回 トマスの告白」(小山哲司)

 マタイによる福音書によれば、11人の弟子たちは、ガリラヤに行き、イエスが指示された山に登って、イエスに会い、礼拝しました。しかし、イエスを目の当たりにして礼拝しながらも、「疑う者たちもいた」と記されています。

 マルコによる福音書では、復活されたイエスと会ったマグダラのマリアは、弟子たちにそのことを知らせましたが、彼らは、イエスが彼女にご自分を現された、と聞いても信じませんでした。

 ルカによる福音書には、イエスが、弟子たちの真ん中に姿を現された場面が描かれています。弟子たちは、復活されたイエスを目の当たりにしているにもかかわらず、おびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思ったのです。そして、イエスから「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。」と叱責されています。

 ヨハネによる福音書によれば、イエスが弟子たちに姿を現した時、その場に居合わせなかったトマスは、「私たちは主を見た」という弟子たちの証言を聞いても、「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言い張りました。

 「自分は、復活したイエスに会った」と証言する人がたった一人で、それを簡単には信じられないというのなら、まだ分かります。しかし、弟子たちは、大勢の人が証言しても信じられない。それどころか、復活したイエスを目の当たりにしていながら、それを認められないという状態でした。

 十字架に架けられる前、イエスは、弟子たちに対して、繰り返し、自分の死と復活について教えておられました。

「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならない(マルコ8章31節)」と。イエスは、このことをはっきりと話されたのです。ペテロは、それを聞いて、イエスをわきにお連れし、諌め始めました。しかし、ペテロは、逆に、イエスによって叱責されました。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

 イエスは、自分の果たそうとしている使命を、弟子たちに対して、繰り返し、はっきりと語っていましたが、弟子たちは、それを全く理解していなかったのです。イエスは、「長老たち、祭司長たち、律法学者たち」で止めましたけれども、「弟子たち」も、自分を捨てて見殺しにすることを、良くご存知でした。

 弟子たちが、イエスの復活を受け入れられず、目の当たりにしてさえも、あたかも幽霊が出たかのように恐れおののいたのは、イエスの言葉、そして、使命を全く理解していなかったからです。理解していなかった分だけ、弟子たちの心の闇は、深いものでした。目の当たりにしていながら、イエスの復活を認めることが出来なかったことに、闇の深さが表れています。

 科学が発達した現代に生きる私たちにとって、死者の復活を認めることは難しいことです。迷信のはびこる古代の人々だからこそ、死者の復活を信じ、認めたのだろうと思いがちです。

 しかし、弟子たちも、簡単には信じませんでした。トマスのように、自分が納得できるまで確認することに拘った弟子もいたのです。

 イエスは、繰り返し、弟子たちの前に姿を現し、疑い深いトマスには、「あなたの指をここにあてて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。」とまで言いました。自分を見捨ててしまった弟子に対する、この態度に、イエスの愛が示されています。そして、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と呼びかけました。すると、トマスは、手を脇腹に入れることもなく、呼びかけに応えて、「私の主、私の神よ」と信仰を告白しています。

 弟子たちの信仰の背後には、このようにして復活のイエスと出会ったという事実があり、事実のもたらすリアリティーがありました。それがあったからこそ、イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たちが、イエスの復活を証しする証人となり、殉教をも恐れぬ使徒として働き始めたのです。

 今、私たちの周りには、疫病のもたらす闇が広がりつつあります。病の苦しみへの不安、死への恐怖が、私たちの心を捉えて放しません。しかし、イエス・キリストは、私たちの罪を担って十字架に架けられ、死んだ後、三日目に復活されました。イエスを信じる私たちは、イエスとともに、この復活の命に与ることができるのです。

 最後に、内村鑑三が復活について述べた文章を紹介して、本日の私の話を終わります。

 

 

「われらは作り話に自己を託することはできない。われらは事実に自己をゆだぬる。われらは信ずる、作り話の上に築かれたるキリスト教はキリスト教でないことを。われらは使徒パウロと共に信ずる、もしキリストの復活が事実でないならば、われらの信仰はむなしく、われらは今なお罪におることを。われらの救いは復活の堅き真(まこと)の事実の上に立つのである。」(1914年6月「聖書之研究」より)