「家庭礼拝の手がかり/イエスの昇天」(小山哲司)

こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして、雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。イエスが上がって行かれるとき、使徒たちは天を見つめていた。すると見よ、白い衣を着た2人の人が、彼らのそばに立っていた。そしてこう言った。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上がっていくのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」(新改訳)

 

 イエスの昇天は、「天に昇り」という文言で使徒信条に含まれており、古くからキリスト教信仰の重要な部分とされてきました。

 一方で、イエスの十字架上での死と復活については、4つの福音書全てが取り上げているのに対して、イエスの昇天を明確に記しているのは、マルコとルカの2つの福音書に限られます。マルコが昇天について記している部分は、その部分が欠けている写本もありますので、信頼できる形で記されているのは、ルカによる福音書、そして、その続編である使徒行伝となります。

 ルカは、テオフィロという人物にささげる形で、福音書と使徒行伝を書きました。第1巻である福音書の末尾と、第2巻である使徒行伝の冒頭は重複していますので、それを整理して、昇天に至る状況を捉えてみましょう。

 ルカは、イエスが復活してから昇天するまでの期間を「40日」としています。40という数字は、モーセに率いられたイスラエルが荒野で過ごした年月であり、また、イエスが荒野でサタンの誘惑を受けられた日数でもありますから、試練や訓練を表します。イエスが、復活した後、直ぐには昇天せず、40日に渡って弟子と過ごされたのは、弟子たちを訓練するためでした。

  訓練の内容は、概ね2つです。

 1つは、「数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された」ということです。ご自分の手や脇腹の傷跡を見せ、疑い深いトマスに対しては、「手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい」とまで言いました。弟子たちが、復活の確信を持つまで、何度でも証拠を示して見せたのです。弟子たちが、「十字架で死んだイエスは、今、復活し、生きておられる」と、確信をもって証言できることが、非常に重要でした。

 初代のエクレシアの信仰は、簡明率直なものです。「イエスは、死者の中から復活されて、今、生きておられる」という事実の上に成り立っていました。感情や意見は変わることがあっても、事実それ自体を変えることはできません。それを、はっきりと示されたのです。

 2つ目は、「神の国のことを語られた」ということです。使徒行伝には、詳細が省かれていますので、ルカによる福音書で補うことにしましょう。24章27節では、エマオに向かって歩いて行く2人の弟子に対して、「イエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに解き明かされ」ました。また、24章44節から49節では、イエスは、旧約聖書の預言の成就であり、聖書に書いてある通りに「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ことが、語られました。

  こうした訓練は、寝食を共にする中で行われました。4節で「一緒にいるとき」と訳されている部分は、「一緒に食事をしているとき」と訳すこともできます。ルカによる福音書には、イエスが弟子たちの前で焼いた魚を食べる場面が記されていますし、ヨハネによる福音書にも、ティベリア湖で漁をした弟子たちに、朝食を振るまう場面が記されています。寝食を共にしながらの訓練ですから、40日間の合宿訓練を行なっていたと言えるでしょう。イエスの処刑後のエルサレムは緊迫した状況でしたので、強い緊張感の下で、密度の濃い訓練が行われたのだと思います。

 この合宿訓練の終了間際に、食事をしながら、イエスは彼らに命じて言います。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたはまもなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。」

 ルカ以外の福音書は、復活後のイエスがガリラヤで姿を現したとしていますが、ルカは、復活後のイエスの活動の場をエルサレムに限っています。ガリラヤで姿を現されたことを知りつつも、エルサレムこそが、救い主の活動の場として相応しいという判断があったようです。

 それは、ペンテコステの出来事と関係があるのだと思います。ペンテコステの日に、弟子たちの上に聖霊が降りましたが、その場所は、エルサレムでした。

 ルカは、福音書をエルサレムの神殿での出来事から書き始め、また、聖霊の働きを頻繁に取り上げています。イエスはもとより、バプテスマのヨハネの誕生にも聖霊が関わったとします(ルカ1章15節)。幼いイエスを腕に抱いた、老いたシメオンも、聖霊に満たされていました(ルカ2章25節~28節)。バプテスマのヨハネは、イエスを指して「聖霊と火で、バプテスマを授けられる」と預言し(ルカ3章16節)、イエスがヨハネからバプテスマを受けた際には、聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られました(ルカ3章22節)。その後、イエスは、御霊によって荒野に導かれてサタンの誘惑を受けられ、それを退けてから宣教を始めたのです(ルカ4章)。

 イエスが「父の約束」と語ったのは、この聖霊のことです。間もなく、聖霊のバプテスマが授けられるので、エルサレムで待機するようにと弟子たちに命じたのです。

 弟子たちは、イエスから訓練を受ける中で、共通の関心が芽生えていました。それは、旧約聖書が預言しているように、ダビデ家の系統から新しい王が現れて、イスラエルを復興するのは、イエスが復活された今、この時なのかということです。

  イザヤは、次のように預言しています。

 

エッサイの根株から新芽が生え、

その根から若枝が出て実を結ぶ。

その上に、主の霊がとどまる。

それは知恵と悟りの霊、

はかりごとと能力の霊、

主を知る知識と主を恐れる霊である。(イザヤ書11章1~2節)

 

その日、

エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、

国々は彼を求め、

彼のいこう所は栄光に輝く。(イザヤ書11章10節)

 

主は、国々のために旗を揚げ、

イスラエルの散らされた者を取り集め、

ユダの追い散らされた者を

地の四隅から集められる。(イザヤ書11章12節)

 

 「イザヤ書の預言するような、イスラエルの復興の時は、今なのですか?」という弟子たちの問いに、イエスは、穏やかだけれども、はっきりと答えて言います。

 「あなたがたの知るところではありません」

 これは、弟子たちに託された使命は、イスラエルの復興に参加することではないということです。それは、父なる神の業であって、弟子たちの任務ではないのです。

 では、弟子たちの任務とは、何でしょうか?

 それは、聖霊の力によって、エルサレムから、ユダとサマリアの全土、さらに地の果てまで、イエスの証人となることです。聖霊に導かれるままに、自分たちが実際に経験した事実を、そのまま語り伝えることが、彼らの任務であり、使命なのです。

 使徒行伝は、別名、聖霊行伝とも言われます。聖霊ないしは御霊という表現が、50回以上も登場するからです。この聖霊に導かれるままに、弟子たちは、イエスの証人となり、神の国の福音を全世界に宣べ伝えて行くことになります。

 こうして、40日という地上の期間が過ぎ、イエスの昇天の時が来ました。

 イエスの昇天の場所は、オリーブ山とされますが、この山の東の斜面にベタニアがあったとされます。ルカによる福音書では、イエスが弟子たちをベタニアに連れて行ったと記されていますが、同じ場所を指しています。

 イエスは、弟子たちが見ている間に上げられ、雲がイエスを包んで、見えなくなりました。雲は、神と私たちを遮断し、見えなくするものですが、それと同時に、神が臨在するシンボルでもあります。

 昇天は、超自然的な出来事で、私たち現代人には、理解が困難です。霊の体をもって復活されたということ自体が、超自然的な出来事でした。永遠なる世界の影が、有限なる地上に差したと言い表すしかありません。有限な人間が、永遠なる世界を掌握することは、出来ないのです。

  ただ、昇天の記事から分かることが幾つかあります。

 1つ目は、イエスが、弟子たちの目に見える具体的な体をもって昇天されたということです。体を脱ぎ捨てて、イエスの霊だけが昇天したとは書かれていません。イエスを信ずる者たちは、やがて、イエスと同じような霊の体で復活しますが、そうした者たちの先駆けとして、イエスは天に昇られたということです。

 2つ目は、2人の天使の告知に示されているように、イエスは、同じ有様で、目に見える体をお持ちになって、またおいでになる、つまり、再臨されるということです。

 宗教改革を行ったマルチン・ルターは、イエスの昇天について、次のように語ったとされます。

 「主が近くおられた時、主は私たちから、遠くあられた、主が私たちから遠い時、主は私たちに近くおられる」

  ルターは、イエスが昇天せず、今も復活の主として、目に見える形で地上におられたらどうだろうかと言います。その場合には、救いを受けたいと思う人は、皆エルサレムに集まらなければなりません。それでは、ごく限られた人しか救いに与かれないことになります。そこでイエスは、すべての人々と共に事をなすため、天に昇られ、聖霊を降し給うたのです。目に見えない遠い世界にお出でになったが故に、聖霊なる神として、私たちの近くにいて下さるということです。

 イエスは、昇天されたことで、ご自分のすべての業を完了されました。イエスは、聖霊なる神にバトンを渡され、神の霊が、この地上で、私たち信じる者一人一人を通して働き始めるという時代がスタートしたのです。

 

 以上で、本日の私の話を終わります。