「家庭礼拝の手がかり/聖霊の降った日」(小山哲司)

私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」人々はみな驚き当惑して、「いったい、これはどうしたことか」と言い合った。だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。(新改訳)

 

 イエスは、復活ののち、40日に渡って弟子たちに姿を現し、寝食を共にしながら、彼らを訓練しました。そして、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受け、地の果てまで、わたしの証人となります」と告げてから、昇天しました。

 ルカによる福音書は、イエスの昇天を見送った弟子たちは、「大きな喜びとともにエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた」と記して、福音書を結んでいます。

 この時の弟子たちは、イスカリオテのユダを除いた11人と、イエスの母マリアを含む女性たち、そして、イエスの兄弟たちが中心でしたが、他にも仲間がおり、120名ほどが集まっていました。

 彼らは、いつも心を一つにして祈っておりました。イエスが教えた「主の祈り」に加えて、昇天する前に約束された「聖霊によるバプテスマ」を求める祈りがなされたものと思われます。

 そして、イエスが復活されてから七週間が過ぎ、八週目を迎える日、五旬節、別名ペンテコステの日がやって来ました。

 イエスが十字架にかけられたのは、過越の祭りの時でしたが、この祭りは、イスラエルが、エジプトを脱出したことを記念とする祭りです。この時、収穫された麦の初穂が、神にささげられました。一方、五旬節は、元々は、収穫感謝祭でしたが、エジプトを脱出してから50日目に、モーセがシナイ山で、神から律法を授かったという言い伝えと結びついて、盛大に祝われるようになりました。

 五旬節は、1日限りの祭りです。この日には、エルサレムから32キロ以内に住むユダヤ人の男性は、参加する義務がありました。また、国外に住むユダヤ人たちも、祭りに参加するために、エルサレムに集まって来ますので、相当な賑わいを見せていたはずです。

 この五旬節の朝に、事件が起こります。

 弟子たちが集まって祈っていると、天から激しい風が吹いて来たような響きが起こり、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上に留まったのです。

 これは、超自然的な現象です。実際に、どんなことが起きたのかは、正確には分かりません。ただ、この出来事の後で、弟子たちが「聖霊に満たされた」と記されていますので、聖霊がもたらした出来事であることは、確かです。

 五旬節は、神が、モーセにシナイ山で律法を授けたことを記念する祭りですが、シナイ山で、神が現れた時の様子が、出エジプト記に記されています。19章16節と18節です。

 

三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民は震え上がった。

シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。

 

 雷といなずまが鳴り響き、火で煙る中に、神がシナイ山に降りてくる場面です。この後、神は、モーセに十戒を授けたとされますが、十戒を授かることによって、エジプトを脱出したイスラエルは、国民としての歴史を踏み出していきます。

 五旬節の日に、激しい風が吹き轟き、炎のような舌が現れた場面は、神がシナイ山に降りて来た場面と、イメージが重なります。

 しかし、シナイ山で授けられたのは、石の板に刻み付けられた十の戒めでしたが、五旬節に弟子たちが授かったのは、それとは違うものでした。彼らは、聖霊に満たされ、御霊が導くままに、他国のいろいろな言葉で話し始めたのです。

 ここで、ギリシア語の原文を読むと、気がつくことが2つあります。

  1つ目は、「炎の舌のようなもの」の「舌」という単語と、「他国のいろいろな言葉」の「言葉」という単語が、同じギリシア語の単語であるということ。

  2つ目は、「他国のいろいろな」という部分は、原文では「別の」という単語が使われていることです。「外国であること」をはっきり示す単語ではありません。

 ですから、炎のような舌が現れて、弟子たちの上に留まると、弟子たちは、別の舌で話すようになったと読むことが出来ます。

 別の舌とは、異言のことだとも理解されますが、諸外国から来たユダヤ人たちが、「自分たちのお国言葉だ」と言っているので、「他国のいろいろな言葉」と訳されている訳です。

 私は、「別の舌」という表現には、他にも意味が込められていると考えています。それは、聖霊のバプテスマを受けることで、弟子たちが内面から変えられ、それまでとは違った、聖霊の力による言葉を語るようになったという意味です。人が変われば、言葉も変わるのです。

 4つの福音書は、揃って、バプテスマのヨハネに、「聖霊のバプテスマ」を語らせています。特に、マタイ(3章11節)とルカ(3章16節)では、イエスを指して「その方は、聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます」と語っています。このヨハネによる預言を受けて、イエスは、昇天する前に、「あなたがたは、間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」と言い残しました。

 この「聖霊によるバプテスマ」について、パウロは、次のように語っています。

 

キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したのです。(ローマ人への手紙8章2節)

 

文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。(ローマ人への手紙2章29節)

 

私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。(コリント人への第一の手紙 12章13節)

 

 旧約時代の律法は、それによっては罪が示されるだけで、私たちを罪から解放する力がありませんでした。しかし、聖霊によるバプテスマを受けることで、心に割礼を受ける、つまり、聖霊によって新しい命に生きることが出来るようになります。そして、一つの御霊によって、一つのからだ、イエス・キリストのからだの一部となって、霊的な共同体が形造られるのです。

 弟子たちは、聖霊のバプテスマを受け、新しい命を生き始めたため、それまでとは「別の言葉」で、イエスの証人となることができるようになりました。イエスを証しする霊的な共同体が、ここに誕生したと言えるでしょう。

 興味深いことですが、イエスが昇天され、聖霊のバプテスマを受けるまでに、十日ほどの空白期間がありました。イエスは天に帰ってしまい、未だ聖霊は来ておらずという状態で、導き手のいない弟子たちは、自分たちの判断で、動き始めていました。

 彼らが行ったことは、死んでしまったイスカリオテのユダの後任を決めることです。イエスから、ユダの後任を決めるように求められた訳ではありません。詩篇69篇と109篇の言葉をもとに、自分たちの判断で選ぶことにしたのです。

 後任の条件は、ヨハネのバプテスマから昇天に至るまで、自分たちと行動を共にした人であることでした。その条件を満たす者が2人いました。ユストというヨセフと、マッティアです。そして、祈った上で、くじを引いて、マッティアが選ばれました。

 くじ引きという方法は、旧約時代には、よく使われていました。レビ記には、神にささげるヤギを選ぶのに、くじを用いる箇所があります(16章8~10節)。サムエル記には、預言者サムエルがサウルを王として選ぶ際に、くじを用いたと記されています。神の御心を尋ねる方法として、くじは、一般的に使われていたようです。

 こうした習慣に則って、弟子たちは、マッティアを後任として選びましたが、マッティアについては、ユダの後任として選ばれたということ以外に記録がありません。多分、あまり目立たない存在だったのだろうと思います。そして、この記事以降、新約聖書でくじ引きが出てくる場面はありません。

 聖霊のバプテスマを授かってからは、弟子たちは、旧約時代の名残りのくじを用いることはありません。聖霊の導きを祈り求めつつ、導きのままに判断し、行動するようになっていきます。

 さて、聖霊が語らせるままに、弟子たちが語るのを聞いている人々の中に、外国出身のユダヤ人や、ユダヤ教に改宗した外国人たちがいました。聖霊が降った時に、激しい響きがした上、弟子たちが口々に語るので、その音で集まって来たのです。弟子たちは、集まっていた家から外に出て、宮に移動したようです。

 集まって来た人たちの出身地は、ユダヤの東の方のパルティア、メディア、エラム、メソポタミア、そして、かつてはユダヤの領土で、今は他国に占領されている地域、ユダヤの西では、カパドキア、ポントス、小アジア、フリュギア、パンフィリア、アフリカでは、エジプトとクレネに近いリビア地方の名前が挙げられています。更に、ヨーロッパでは、ローマが挙げられ、クレタ島、アラブと、再び東に向かいます。当時のユダヤを取り巻く、周辺諸国の名前が網羅されていると言えます。こうした国々に、自分たちのコミュニティを作り、会堂を建てて、彼らは、信仰生活を守っていました。「敬虔なユダヤ人」と記されているのは、宗教も文化も異なる社会に暮らしながらも、彼らが、ユダヤ教徒としての自覚を大切に生きていたためです。やがて、パウロは、彼らのコミュニティを足掛かりとして、世界伝道の旅に出ます。

 彼らは、弟子たちが、自分たちのお国言葉で語るのを聞き、驚きました。「無学なガリラヤの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは」「いったい、これはどうしたことか」と。中には、「新しいぶどう酒に酔っているのだ」と嘲る者もおりました。

  何故、弟子たちが、外国語で語ることができたのかは、はっきりしたことは分かりません。説明は、色々なされていますが、聖霊の御業であるとしか言えません。

 大事なことは、聖霊が弟子たちの上に臨んだとき、イエス・キリストの福音が、周辺世界の人々に理解される形で語られたということです。昇天する前に、イエスは、「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」と預言しましたが、弟子たちは、その実現に向けて、最初の一歩を踏み出したと言えるでしょう。

 水戸無教会聖書集会は、1954年6月に発足し、翌年の3月に水戸無教会誌の創刊号を発行しています。立ち上がったばかりの集会で、その中心を担った半田梅雄さんは、水戸無教会誌に、ご自身の初めての聖書講解として「使徒行伝研究」を連載しています。多分、産声を上げたばかりの水戸無教会を、五旬節の頃の弟子たちの状態になぞらえたのではないかと思います。

 「使徒行伝研究」の中で、半田さんが述べた言葉を引用して、本日の私の話を終わります。

 

「使徒行伝を学ぶ上に極めて重要なことが二つある。一つはこの書が聖霊行伝と呼ばれる理由であり、他の一つは使徒行伝は今日も尚続いて綴られているということである。 

 

 聖霊行伝とは、この伝記が単に人間としてのパウロやペテロその他の人々を画くことが目的ではなく、神が一人ひとりを造り変えて使徒となし、これを用いて神の力と愛とを人類に示し給いし事実を云い、使徒の伝記は今日も続いて書き綴られているとは、召されて神の僕となったすべてのクリスチャンは、日々の言行を通して使徒伝に新しい一頁を加えつつあるという意味である。」(水戸無教会誌第6号より)