「家庭礼拝の手がかり/世界で最初の説教」(小山哲司)

主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼び求める者は、みな救われる。』(新改訳)

 

 イエスの復活から50日が経った五旬節の日に、弟子たちが集まって祈っていると、天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、炎のような舌が現れ、一人ひとりの上にとどまりました。すると、弟子たちは、聖霊に満たされ、他国の言葉で語るようになりました。

 この出来事に、他国出身の大勢のユダヤ人が集まり、自分たちの国の言葉で弟子たちが語るのを聞いて、呆気にとられてしまいます。何故なら、弟子たちは、片田舎のガリラヤの出身で、教養がない人々だと思われていたからです。ガリラヤ地方の長官を務めたことのある歴史家のヨセフスは、ガリラヤ人は、気が短く、衝動的で、喧嘩に夢中になるような性格だと記しています。ですから、「無教養なガリラヤの人たちが、様々な外国語を語るのは、どうしたことか?」と、疑問に思う人もおりましたし、「新しいぶどう酒に酔っているのだろう」と嘲る人もおりました。

 この時、弟子たちは、人々の前に立ち上がり、ペテロが声を張り上げて、語り始めます。これが、世界で初めて語られたキリスト教の説教です。

 それまで、弟子たちは、他国の言葉で、それぞれが口々に語っていましたが、語り手の役目をペテロに委ねて、沈黙します。ペテロが、弟子たちを代表するスポークスマンとなり、初代のエクレシアの宣教の中心となりつつあったことが窺われます。

 それにしても、ペテロは、変わりました。イエスが十字架に架けられる前には、「彼を知らない」と三度も否定し、ユダヤ人を恐れて、戸を閉じて隠れていたのに、大勢の人々の前で、声を張り上げて語り始めたのです。

 復活されたイエスが、四十日に渡って弟子たちに現れ、寝食を共にする生活の中で訓練されたことによって、彼らは、イエスがキリスト、即ち、救い主であると確信したのです。更に、この五旬節の日に聖霊を注がれて、イエスを救い主だと宣べ伝える知恵と勇気が与えられたのだと思います。

 ペテロが語る説教に耳を傾けてみましょう。

 ペテロは、まず、「新しいぶどう酒に酔っているのだろう」と嘲る人たちに向かって語り始めます。

 「今は朝の9時だから、酒に酔っているのではありません。」

 当時の習慣として、特に五旬節のような祝祭日には、敬虔なユダヤ人は、朝の10時ごろまでは飲食を行わず、断食を守ったそうです。まして、酒を飲んで酔っ払うなど、あり得ないことでした。

 そして、酒に酔っているのではなく、聖霊に満たされているのだと説明します。

 ペテロの説教の特徴は、ユダヤ人たちが良く知っている旧約聖書を引用し、その秘密を解き明かすという点にあります。これは、最初の頃の宣教活動が、主にユダヤ人に対して行われていたためです。

 ペテロは、自分たちに聖霊が降ったことについて、ヨエル書を引用して語り始めます。

 ヨエルは、旧約時代の預言者です。彼が活動した時代には、イナゴが大量に発生し、大きな災害をもたらしました。

 聖書には、イナゴの害が度々登場します。実際には、バッタの一種のトビバッタだとされますが、出エジプト記では、その被害の大きさについて、次のように記されています。

 

いなごの大群はエジプト全土を襲い、エジプト全域にとどまった。実におびただしく、こんないなごの大群は、前にもなかったし、このあとにもないであろう。

それらは全土の面をおおったので、地は暗くなった。それらは、地の草木も、雹を免れた木の実も、ことごとく食い尽くした。エジプト全土にわたって、緑色は木にも野の草にも少しも残らなかった。(出エジプト記10章14~15節)

 

 ヨエルの時代にも、こうしたイナゴの大量発生が起きました。ヨエルは、自分が体験した被害の状況を、次のように記しています。

 

かみつくいなごが残した物は、いなごが食い、いなごが残した物は、ばったが食い、ばったが残した物は、食い荒らすいなごが食った。(ヨエル書1章4節)

 

 様々な種類のいなごが大量に発生し、国土が荒廃したことが窺われます。食料が失われて、人々は、飢餓に陥ったのです。

 ヨエルは、これを神の裁きと捉え、人々に神への立ち返りを迫っています。そして、人々が、悔い改めて神に立ち返るならば、終わりの日を迎え、新しい恵みと祝福の時代が始まるとするのです。

 この終わりの日には、全ての人に神の霊、即ち、聖霊が注がれると、ヨエルは、預言しました。

 旧約聖書の時代において、神の霊が注がれるのは、神に選ばれた預言者など、特別な場合でした。その神の霊が、年齢、性別、社会的な身分に拘らず、全ての人に注がれるという点で、ヨエルの預言は、大きな意味を持っています。

 そして、彼らは、幻や夢を通して神のビジョンに接し、預言をするようになります。18節の「すると彼らは預言する」という部分は、元々のヨエル書にはありません。聖霊が注がれた結果起こることを強調する意味で、書き加えられたものと考えられます。

 この終わりの日は、「主の大いなる輝かしい日」と読み換えられ、そのしるしは、太陽が闇に、月が血に変わるような天変地異だとも、預言されています。これは、イエスが十字架で息を引き取った際に、「地が揺れ動き、岩が裂け(マタイ27章51節)」「太陽が光を失い(ルカ23章45節)」ましたので、成就したと言えるでしょう。

  ペテロは、ヨエルの預言を引用しながら、「ヨエルの預言の通りに聖霊が降ったのだ、酒に酔っているのではない」「終わりの日が始まったのだ」と、預言が成就したことを宣言していると言えます。

 続いて、ペテロの説教は、核心部分に入っていきます。

「イスラエルの皆さん」と、呼びかけの言葉を変えつつ、ペテロは、解き明かしの焦点をイエスに絞ります。

 22節から24節で、ペテロは、イエスの生涯を、実にコンパクトにまとめています。

 人々が承知しているように、イエスは、ナザレ人であり、イエスを通して、神は様々な奇跡を行なわれた。「力あるわざ」「不思議」「しるし」と挙げられている言葉は、神の奇跡を表しています。それを、あなた方は、自分の目で見たではないか。神の力が働いているということは、これらの奇跡によって証明されているではないか、と。

 では、何故、イエスは、無惨な死に方をしなければならなかったのでしょうか?

 それは、神の計画と予知によるものだとします。当時の人々にとって、十字架で処刑されるということは、神の呪いを受けるということと同じ意味でした。申命記21章23節には、「木につるされた者は、神にのろわれた者だ」とあります。十字架で処刑されて、神に呪われたイエスが、救い主である筈がないと、考えられていました。ペテロは、これに、真っ向から反論し、神の計画ではあるけれども、十字架につけた責任は、イスラエルの人々にあると訴えます。

 そして、神の計画に従って十字架にかけられたイエスを、神はそのままにはなさらなかったとして、詩篇16篇を引用しますが、そのポイントは、次の部分にあります。

 

あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。(使徒行伝2章27節)

 

 ペテロは、ここでいう「私」と「あなたにある敬虔な者」が、イエスのことだと説明します。この預言の通りに、イエスは復活したとするのです。

 多分、ペテロの説教を聞いていたイスラエルの人々は、首を傾げたり、困惑した表情を浮かべたりしたのでしょう。詩篇16篇は、ダビデが書いた詩篇ですから、「私」や「あなたにある敬虔な者」は、ダビデ自身を指す筈ではないか、と。

 ペテロは、「兄弟たち」と、また、呼びかけの言葉を変えて説明を続けます。

 ダビデは、死んでしまって、墓もあるではないか。甦らなかったではないか。それに、ダビデの子孫から、王が誕生するという預言があるではないか、と。

  サムエル記下の7章には、次のような預言があります。

 

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。

彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。(サムエル記下 7章12~13節)

 

「とこしえの王国の王座に就く、この世継ぎの子どもこそが、イエスなのだ。我々は、復活されたイエスと、生活を共にして来たから、確信をもって証言できる」と、ペテロは断言します。

 そして、ペテロの説教は、再び、聖霊に戻ります。「この五旬節に降った聖霊は、神の右に上げられたイエスが、父なる神からお受けになった聖霊だ。それを我々に注いで下さったのだ」と。イエスが、神の右に座していることは、聖書に書かれていることだとして、詩篇110篇を引用します。

 

主は、私の主に言われた。

あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。

わたしがあなたの敵を

あなたの足台とするまで。(使徒行伝2章34~35節)

 

 冒頭の「主」は、父なる神を指し、「私の主」は、イエスを指します。また、旧約聖書においては、「右」とは、力や権威の象徴でした。これは、右手を利き腕とする人が多いことと、関係があるようです。戦う時に、武器を持つのは、利き腕になります。そして、右の座とは、自分が大切に思う者を座らせる場所でした。

 ですから、父なる神の右に座しているとは、神の力、権威を身に帯び、親密な関係にあるということを意味します。天から注がれた聖霊は、父なる神の霊であると同時に、イエスご自身の霊でもあります。それが、今、注がれているのです。

 最後に、ペテロは、「イスラエルの全家よ」と呼びかけ、「神が今や主ともキリストともされたイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」と言って説教を結んでいます。

 これが、ペテロが行なった世界で初めての説教でした。

 ペテロは、まず、人々が目の当たりにした聖霊の働きは、終わりの日の到来を告げるものだと説明するところから始めました。そして、イエスの生涯を、奇跡の業、十字架、復活、昇天に要約し、旧約聖書の預言の成就だとしています。旧約聖書を、イエスが救い主だという観点から、読み解いて見せたものと言えるでしょう。

 繰り返し強調されているのが、聖霊です。終わりの日の到来を告げ知らせるほか、聖霊が降った時に、全ての人が預言をすると述べられています。この聖霊は、イエスが約束されていたものであり、父なる神の右に座しているイエスが、父なる神からお受けになって、私たちのに送られたものです。

 聖霊とともに、繰り返し強調されているのが、イエスを十字架につけたイスラエルの罪です。神の計画ではあっても、罪を免れる訳ではありません。神から、主であり、キリストであるとされたイエスを、十字架にかけて殺したのは、あなた方だと告発するかのように述べて、最初の説教を結んでいます。

 私たち日本人には、旧約聖書の伝統がありませんが、イエスが十字架で担われたのは、私自身の罪でもあると受け止める時、「イエスを十字架につけたのは、あなた方だ」と語るペテロの眼差しは、「この私をじっと見つめている」と感じられるのではないでしょうか。

 

 以上で、本日の私の話を終わります。