「家庭礼拝の手がかり/平和を実現する人」(小山祐子)

わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのない事であらゆる悪口をあびせられるとき、あなた方は幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。(新共同訳)

 

 マタイによる福音書によると、イエスが伝道を始められたのは、ガリラヤ地方でした。ガリラヤ湖畔のカファルナウムに住みながら、ガリラヤ地方を巡回しました。イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣言しましたが、これは、バプテスマのヨハネの言葉と同じものです。

 しかし、イエスの伝道は、御国の福音を宣べ伝えるだけではなく、病の癒しをも伴うものでした。神の力の現れによって、人は、霊肉ともに癒されるということが示されています。人間の命の根源は、神にあるからです。

 イエスの評判を聞いて大勢の群衆が集まって来ました。イエスは、この群衆を見て、山に登られます。これは、シナイ山で、モーセが神から十戒を授けられる場面を連想させます。

 イエスは、小高い所で腰を下ろして語り始めます。弟子たちは、近くで、立ったままイエスの話を聞いたと思われます。教師が座り、弟子は立つのが、当時の習慣でした。

 イエスが語り始めたのが、「山上の垂訓」として知られる説教です。

 新共同訳聖書では、「心の貧しい人々は、幸いである」と訳されていますが、昔の文語訳聖書では、「幸福なるかな、心の貧しき者」と訳されています。「幸い」の位置が、前後逆になっています。

 ギリシア語の原文では、「幸福なるかな」に当たるのは、「マカリオイ」という言葉です。実は、原文では、「マカリオイ」という言葉から始まっています。ですから、「幸福なるかな、心の貧しき者」という文誤訳が、語順の点からも、原文に忠実な訳だと言えます。

 この「幸福なるかな」とは、この世の基準での「幸福」のことではありません。この世の基準で「幸福」と言えば、健康にも、経済的にも恵まれ、楽に暮らせることがイメージされると思いますが、「マカリオイ」が意味する内容は、違います。「マカリオイ」は、神に祝福された状態を指す言葉です。従って、「神から祝福を受けて幸いだ」ということです。

 本日は、特に、7番目の「平和を実現する人々」を取り上げてみたいと思います。

 ここで、神の祝福を受けているのは、単に、平和に暮らしている人々ではありません。平和な状態で暮らせることも、幸いなことですが、神から祝福を受けるのは、平和を作り出し、実現する人々のことです。

 私たちの住む世界が、争いに満ちているのは、イエスの時代も、21世紀も変わりがありません。人と人とが争い、国と国とが争い、果てることがありません。

 争いの根源にあるのは、神と人間との関係が正しくないからだということが、聖書の主張です。神と人との間に争いがあるから、人と人との間に争いがあるのです。

 神と人との間に、平和をもたらすためにこの世界に来たのが、イエス・キリストです。キリストの十字架の贖いによって、神と人の関係は、平和を回復しました。罪赦された者は、聖霊を受けて、その導くままに平和を実現するようになるのです。

 そして、平和を実現する人は、神の子と呼ばれます。犬の子どもが犬であり、人間の子どもが人間であるように、神の子は神です。神の性質を持つようになる、つまり、イエス・キリストの似姿になっていくということです。

 私は、昨年、沖縄を旅した時に、キリスト者として、平和の実現に取り組んでいる方々とお会いする機会がありました。  

 沖縄県那覇市の首里バプテスト教会には、付属幼稚園があります。その園長である柴田良行牧師は、園児たちにこう問いかけました。「平和って、なぁに?」

 園児たちの答えは、「友だちと仲良くすること」「友だちとけんかしたら、仲直りすること」「友だちをたくさん作ること」「お腹いっぱい食べること」などでした。園児たちは、一生懸命に考えて、答えてくれたそうです。

 那覇市の北東10キロ程の所に、宜野湾市があります。そこには、アメリカ軍の普天間基地がありますが、基地の周辺には住宅地が密集しており、大変危険です。以前、アメリカ軍の飛行機が大学のキャンパスに墜落するという事故も起きています。

 普天間基地のすぐ側には、普天間バプテスト教会があります。教会付属の緑ヶ丘保育園の屋根に、アメリカ軍のヘリコプターから物が落下する事故が起きました。2017年12月のことです。実は、私は、この時も、沖縄に滞在しており、落下事故が起きた丁度その時、沖縄キリスト教学院大学のキャンパスで、大学の先生と懇談をしていました。

 それまでは、にこやかに話していた先生の表情が、落下事故を知らされると一変し、険しい表情で大学の職員たちと対応を協議し始めました。

 被害にあった緑ヶ丘保育園の園長は、神谷武宏先生という牧師さんです。神谷先生は、事故直後から、原因究明と再発防止、そして、保育園上空の飛行禁止を求めて、アメリカ軍と日本政府を相手に交渉を続けています。しかし、アメリカ軍は、アメリカ軍の落とした物だとは認めようとしません。沖縄の警察が捜査に当っていますが、捜査も進展してはおりません。

 私は、神谷先生にお会いして、保育園の状況を尋ねてみました。保育園は、普天間基地から200メートルほどしか離れておらず、アメリカ軍の軍用機が低空飛行をする時は、園舎の中に居ても、会話が出来ないほどの騒音がするそうです。アメリカ軍の飛行エリアにはなっていませんが、実際には守られておらず、事故が起きてからも、飛行が続いているそうです。神谷先生は、「アメリカ軍が上空を飛ぶ実態をしっかり記録して欲しい。このままにしてはならないという人間の心を持って欲しい」と訴えていました。

 柴田牧師と神谷牧師のお二人は、毎週月曜日の夕方に、普天間基地のゲート前で、ゴスペルを歌う活動を続けています。この活動は、2012年10月に、オスプレイが沖縄に配備されることに反対して始まりました。

 月曜日の夕方になると、県内各地から、否、全国各地からキリスト者が集い、心を一つにして祈り、讃美歌を歌います。沖縄戦を体験したある女性は、兄弟姉妹をみな失い、自分だけが生き残ったのは、神様がなさったことだと証しをし、戦死した家族の分も、思いを込めて歌い続けていると話してくれました。テーマソングは、キング牧師も歌った「We shall overcome!」です。

 沖縄の平和活動は、武力、暴力に訴えることなく、平和的に行われることが特徴です。アメリカ兵もよく知っているゴスペルを歌いかけることによって、基地返還を通して平和を実現したいという沖縄の人々の思いを伝える狙いがあります。

 普天間基地ゲート前でゴスペルを歌う会で、しばしば朗読される聖書の箇所があります。イザヤ書2章4節です。

 

主は国々の間をさばき、

多くの国々の民に、判決を下す。

彼らはその剣を鋤に、

その槍をかまに打ち直し、

国は国に向かって剣を上げず、

二度と戦いのことを習わない。

 

 最終的に平和を実現するのは、イザヤ書が示すように、神のわざです。その日が来ることを待望しつつ、平和を実現する道具として働き続けていくならば、それは正に「神から祝福を受けて幸い」なことです。

 こうした平和を実現することに、積極的に取り組んでいる学校として、沖縄で出会った2つの高校を紹介したいと思います。島根県にあるキリスト教愛真高等学校と、三重県にある愛農学園農業高等学校です。

  この2つの高等学校の修学旅行は、「命の授業」として沖縄で行われます。戦跡を巡り、戦争体験者の証言を聞き、琉球文化に触れるプログラムが組まれます。キリスト教主義の高等学校ですから、日曜日には宿泊先でも礼拝を守ります。

 私は、たまたま同じ宿舎に泊まっていたものですから、愛真高等学校の礼拝に参加することができました。

  メッセージを担当されたのは、那覇聖書研究会の友寄隆静さんです。友寄さんが選んだ聖書の箇所は、詩篇46篇8節~9節。特に、口語訳聖書を選んで、朗読されました。

 

来て、主のみわざを見よ

主は驚くべきことを地に行なわれた。

主は地のはてまでも戦いをやめさせ、

弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。

 

 友寄さんは、愛真高等学校の生徒を前に、次のように語りかけました。

 

「私たちに命を与えて下さった神様が、最も喜ばれることは、互いに愛し合うことです。逆に、神様が最も嫌われることは、戦争です。今から74年前の沖縄戦では、20万人近い住民が犠牲になりました。消えない悲しみを抱えて生きている沖縄の人たちにとっては、戦争は絶対にやってはいけないものなのです。基地建設に関する県民投票によれば、現在、政府が行なっている新基地建設に反対する人は72%にも達しています。新基地建設が、沖縄の人たちに喜ばれているのかどうか、命の授業を受けている皆さんは、自分の頭で考えてみて下さい。」

 

 そして、最後に、内村鑑三の言葉を紹介して、メッセージを締めくくられました。

 

キリストに由る平和を獲たる者は戦争を悪む事蛇蝎の如くになるのである、真の平和論者は絶対的非戦論者である。(「平和の到来」「聖書之研究」第223号より)

 

 友寄さんは、短く引用されましたが、内村鑑三の言葉には、続きがあります。

 

先づ平和を各自の心に獲得せよ。而して至る處に平和の光を放てよ、キリスト世に降りて平和は地に臨んだ、即ち彼を信じて神の心に適ふ者の間に臨んだ、而して之全世界に臨むべき平和の源である。

 

 山上の説教を取り上げた際にお話ししましたが、人と人との間に争いがあるのは、神と人との間に争いがあるからです。イエスが、人となってこの世に来られたのは、神と人との間に平和をもたらすためでした。友寄さんが引用された「キリストに由る平和」とは、そのことを指しています。

 内村鑑三が言うように、神と人との平和が、全世界に臨むべき平和の源となります。それを得ているキリスト者は、イエス・キリストの似姿となって、率先して平和の光を放つようになるのです。

 山上の説教は、別名、「八福の教え」とも呼ばれます。「心の貧しい人々は幸いである」のように、「幸いである」が8回繰り返されるからです。

 ところが、ギリシア語の原文を読むと、「幸いである」を意味する「マカリオイ」は、8回ではなく、9回繰り返されています。数え間違いではないかと、何度数え直しても9回です。

 これは、11節の「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのない事であらゆる悪口をあびせられるとき、あなた方は幸いである。」という部分も、「マカリオイ」で始まるからです。

 「心の貧しい人々」から始まり、「義のために迫害される人々」まで、8つの「幸い」が示されましたが、9回目の、最後の「幸い」は、目の前にいる「あなた方」、つまり、「私たち」に向けられています。

 今の時代に、この日本で、平和を実現しようとするのは、簡単なことではありません。本当に、「ののしられ、迫害され、身に覚えのない事であらゆる悪口をあびせられる」かもしれません。沖縄で平和の実現を望んで活動している人々は、実際に、そうした体験を重ねています。

  しかし、イエスは、私たちが、そうした辛さを体験するときに、それが「幸い」だとしています。

  何故でしょうか?

  それは、私たちが、イエスの似姿となり、天国の市民であることの証しとなるからではないかと思います。闇の只中で、平和の光を放つことが、神の子の姿なのです。

 

 以上で、本日の私の話を終わります。拙いメッセージを読んで頂いて、ありがとうございました。