「家庭礼拝の手がかり/霊的共同体の誕生」(小山哲司)

 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。(新改訳 2017)

 

 五旬節の日に弟子たちが集まって祈っていると、炎のような舌が現れて弟子たちの上に留まりました。イエスが約束していた聖霊が降ったのです。

 聖霊に満たされた弟子たちは、聖霊が語らせるままに、様々な国の言葉で話し始めました。

 五旬節を祝うために、周辺の国々からエルサレムに集まっていた人々は、自分たちの国の言葉で、弟子たちが話しているのを聞いて、呆気にとられます。無学なガリラヤ人が、外国語を話せるとは、とても思えなかったからです。中には、「ぶどう酒に酔っているのだ」と嘲る人もいました。

 この時、弟子たちは立ち上がり、ペテロが代表して語り始めます。これが、世界で初めてのキリスト教の説教でした。

 ペテロは、まず、旧約聖書のヨエルの予言を引用しながら、人々が目の当たりにした聖霊の働きは、終わりの日の到来を告げるものだと説明しました。この聖霊は、イエスが約束されていたものであり、父なる神の右に座しているイエスが、父なる神からお受けになって、この世界に送られたものです。

 次に、イエスの生涯は、旧約聖書の預言の成就だとしています。旧約聖書を、イエスが救い主だという観点から、読み解いて見せたものと言えるでしょう。

 ペテロは、聖霊の働きを繰り返し強調していますが、それと共に強調されているのが、イエスを十字架につけたイスラエルの人々の責任、罪です。神の計画ではあっても、罪を免れる訳ではありません。「神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」と告発して、最初の説教を結んでいます。

 ペテロの説教を聞いた人々は、「心を刺された」と記されています。この「心を刺す」という言葉は、新約聖書では、ここでしか使われていない、非常に強い意味を持った言葉です。鋭利な刃物で心臓をぐさっと刺されるかのような痛みを、心に覚えたのです。

 イスラエルには、旧約聖書の時代から、やがて救い主が来られるという信仰がありました。

 ダビデ王の時代に絶頂を迎えたイスラエルは、ダビデ王の息子であるソロモン王の死後、南北に分裂しました。北イスラエル王国は、紀元前722年にアッシリアによって滅ぼされ、南のユダ王国も、紀元前586年にバビロニアによって滅ぼされ、住民はバビロンへ捕囚民として連れ去られます。バビロニアがペルシアによって滅ぼされた後、捕囚民は、エルサレムに帰ることが認められます。

 しかし、イスラエルは、やがて、ギリシア、ローマの支配下に置かれ、国としての独立は認められませんでした。

 イエスの時代の人々は、ローマの圧政に苦しんでおり、自分たちを解放してくれる救い主の到来を待ち望んでいたのです。

 ただ、救い主の到来までの準備の仕方は、まちまちでした。パリサイ派の人々は、全ての人が律法を守れば、その時、救い主が来ると考えました。禁欲的な共同生活を送ったエッセネ派の人々は、集団でバプテスマを受けるなどの清めの儀式によって、救い主の到来への準備を行おうとしました。また、熱心党の人々は、国民がローマに対して武力をもって立ち上がり、抵抗する時に、救い主は到来すると考えていました。

 イエスは、人々のこうした思惑の中で、救い主、キリストとしての道を歩まれたのです。

 しかし、イエスが示されたキリストの姿は、パリサイ派、エッセネ派、熱心党の人々が思い描くものとは、全く違っていました。

 イザヤ書53章に示されている、「苦難の僕」としての救い主の姿です。

 

彼には、私たちが見とれるような姿もなく、

輝きもなく、

私たちが慕うような見ばえもない。

彼はさげすまされ、人々からのけ者にされ、

悲しみの人で病を知っていた。

(中略)

まことに、彼は私たちの病を負い、

私たちの痛みをになった。

(中略)

彼は痛めつけられた。

かれは苦しんだが、口を開かない。

ほふり場に引かれていく小羊のように、

毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、

彼は口を開かない。

(中略)

しかし、彼を砕いて、痛めることは、

主のみこころであった。

(中略)

彼は多くの人の罪を負い、

そむいた人たちのためにとりなしをする。

(イザヤ書53章  新改訳)

 

 こうして、人々の罪を担い、十字架への道を歩まれる救い主の姿は、当時の人々が思いも付かないものでした。

 もし、イエスの生涯が、十字架の死で終わったならば、救い主になり損ねた者の無残な人生だったことでしょう。

 しかし、イエスは、よみがえられたのです。復活の主として私たちの前に現れ、その具体的な姿をお示しになった。そして、今、父なる神の右に坐し、聖霊を私たちに送って下さったのです。

 「神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」というペテロの告発の言葉を聞いた人々の中には、イエスが十字架刑の判決を受けた際、その場に居合わせた人々も混じっていたと思われます。 

 ピラトは、民衆の前で「見なさい。この人は死に値することを何もしていない。だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する」と呼びかけました。

 しかし、群衆は一斉に叫んだのです。「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と。ピラトが、再度、釈放を呼びかけても、「十字架につけろ」と叫び続けました。

 自分たちが待望する救い主の姿を示そうとしないイエスを、冷たく見捨ててしまった罪。それを突きつけられ、心臓を刺し貫かれるような痛みを覚えた人々は、ペテロに尋ねます。「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか。」

 ペテロは、これに答えて言います。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」

 ペテロの答えは、ギリシャ語の原文で読むと、日本語の訳とは語順が大分違います。ギリシャ語では、「悔い改めなさい、そして、バプテスマを受けなさい」という語順となっており、ペテロの答えの力点が、「悔い改め」に置かれていることが示されています。

 では、この「悔い改める」とは、どのようなことでしょうか?

 「悔い改める」の意味を掴むために、「後悔する」という言葉との違いを考えてみましょう。

 「後悔する」とは、自分が過去に行った行為や判断が誤りであったことを認めて、残念に思うことです。「あぁ、失敗してしまった」という気持ちが、「後悔」です。それに対して、「悔い改める」とは、そうした「後悔」の気持ちを前提として、自分の考えや行動を大きく変えることを意味しています。

 例えを用いて説明します。登山中に道を間違えてしまったとします。幾ら歩いても、目的地は見えてきません。段々、道が荒れてきて、人が通った跡も感じられなくなって来ました。この時に感じる気持ちが、「後悔」です。「道を間違えて、失敗してしまった。」という後悔です。

 では、このような時には、どうしたら良いでしょう?後悔したまま、ぼんやり立ち止まっていてはいけません。最も的確なのは、クルッと後ろを振り返り、これまで歩いて来た道を逆に辿ることです。そうすれば、やがて正しい道に戻れます。こうして、「クルッと振り返って、正しい道に向けて歩みを戻すこと」が、「悔い改め」です。心が変わり、行動も変わるのです。そこには、決断が求められます。

 「悔い改め」の次に、「バプテスマを受けなさい」が続いています。「バプテスマ」は、異邦人がユダヤ教に改宗する際の儀式として行われていました。また、「悔い改め」による「バプテスマ」は、バプテスマのヨハネが行なっていましたので、当時の人々にとっては、目新しいことではありませんでした。これまでのバプテスマと、ペテロが求めたバプテスマの大きな違いは、「イエス・キリストの名によって」という部分です。そして、それが罪の赦しに繋がるということでした。

 「イエス・キリストの名によって」とは、何を意味しているでしょうか?

 これは、イエスが、キリスト、つまり、救い主であるという信仰告白を前提としています。「名によって」の「名」とは、その人の全存在を表します。誕生から、十字架の死、そして、復活、昇天に至る、イエスの全存在を表しています。イエスが、救い主であることを信じ、その信仰を持ってバプテスマを受けなさいということです。

 そうすれば、ヨハネのバプテスマではなし得なかった、完全な罪の赦しが得られるのです。ヨハネは、自分のバプテスマが不十分であることを認め、「私の後に来られる方」は、「聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます」と述べています(マタイ伝3章11節)。

 この聖霊が、五旬節の日に降ったのです。聖霊は、イエスにつき従って来た弟子たちの独占物ではありません。弟子たちも、イエスを否み、見捨てたのです。イエスは、そんな弟子たちを愛し、復活した姿を現され、寝食を共にする生活の中で訓練されました。「十字架につけろ」と叫び続けた人々であっても、悔い改めるならば、聖霊を受けるのです。

 これまで述べた中で、大切なことが3つ出てきました。「悔い改め」、「イエス・キリストの名によるバプテスマ」、そして、「聖霊を受けること」です。この三者の関係について、述べておきましょう。

 ペテロの言葉は、先ず、「悔い改めなさい」で始まっています。最も大切なことは、「悔い改める」ことです。「悔い改め」を伴わず、「イエス・キリストの名によるバプテスマ」を受けても、意味がありません。新約聖書では、生まれたばかりの赤ちゃんが、バプテスマを受ける場面はなく、バプテスマを受けているのは、全て成人です。これは、バプテスマの中核は、悔い改めであることを示しています。

 ローマ人への手紙で、パウロは、次のように述べています。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです(10章10節)」救われるために必要なこととして、パウロが挙げているのは、信仰と、その告白であり、「バプテスマ」ではありません。「バプテスマ」は、信仰告白のしるしであるということです。

 次に、「バプテスマ」と「聖霊を受ける」ことの関係です。ペテロの言葉は、バプテスマを受けることによって、聖霊を受けると読めます。「バプテスマ」が先で、「聖霊を受ける」ことが後になっています。

 しかし、使徒行伝10章44節~48節では、ペテロの言葉を聞いていたコルネリウスら異邦人に、先ず聖霊が降ります。それを見たペテロは、彼らにイエス・キリストの名によるバプテスマを受けさせました。聖霊を受けたしるしとして、バプテスマが施された場合だと言えるでしょう。

 まことの悔い改めは、聖霊の導きによるものであり、まことの悔い改めが行われ、心に信じ、口で告白する時に、その人は、神に義と認められ、救われます。教会のキリスト者となりたい人は、バプテスマを受ければ良く、無教会のキリスト者でありたい人は、そのままで良いのです。

 ペテロは、多くの言葉をもって論証し、「この曲がった時代から救われなさい」と勧め、その結果、三千人ほどが仲間に加えられました。三千人もの人々が、悔い改め、イエスが救い主であると信じたということです。ここに、聖霊によって導かれ、大きく膨らみ始めた霊的共同体の姿を見ることができます。

 この聖霊の働きは、ペテロが言うように「私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」そして、その時、私たちも、この霊的な共同体の一員となり、キリストの体の一部となるのです。

 

 以上で、本日の私の話を終わります。