「家庭礼拝の手がかり/霊的共同体の姿とは」(小山哲司)

 ペテロは、人々が目の当たりにした聖霊の働きは、終わりの日の到来を告げるものだと説明しました。この聖霊は、イエスが約束されていたものであり、父なる神の右に座しているイエスが、父なる神からお受けになって、地に送られたものです。

 次に、十字架、復活、昇天に至るイエスの生涯は、旧約聖書の預言の成就だとしています。

 ペテロは、聖霊の働きを繰り返し強調していますが、それと共に強調されているのが、イエスを十字架につけたイスラエルの責任、罪です。神の計画ではあっても、罪を免れる訳ではありません。「神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」と告発するかのように述べて、最初の説教を結んでいます。

 ペテロの説教を聞いた人々は、「心を刺された」と記されています。鋭利な刃物で心臓をぐさっと刺されるかのような痛みを、心に覚えたのです。

「私たちは、どうすればよいでしょうか」と尋ねる人々に、ペテロは、「悔い改めなさい。そして、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」と勧めました。その結果、三千人もの人々が、悔い改め、イエスが救い主であると信じたのです。ここに、聖霊によって導かれ、大きく膨らみ始めた霊的共同体を見ることができます。

 では、この霊的共同体が、どのような姿であったかについて見ていきましょう。

 彼らは、使徒たちを中心として集まり、4つのことを生活の中心としていました。

 1つ目は、「使徒たちの教えを守ること」です。ペテロが説教の中で語ったような、イエスの十字架と復活を中心とする教えを聞き、それに従ったということです。「守る」と訳されていますが、原文では、寝食を忘れるほど専念する、没頭するという意味の言葉が使われています。

 2つ目は、信者同士の「交わり」を行ったということです。ここで交わりと訳されているのは、「コイノニヤ」という言葉です。英語にも取り入れられており、耳に馴染んでいる人もいることでしょう。この「交わり」には、その元になるものがありました。それは、過越の祭りを祝う時の仲間のことです。過越の祭りの夜に、子羊を屠って食べる習慣がありましたが、家族の人数が少ない場合には、隣の家と共同で、子羊を屠って食べるものとされました。こうした家庭的な交わりが、生まれたばかりの霊的共同体でも行われたのです。十人ほどの小さなグループに分かれつつ、慰め合い、励まし合い、助け合って「交わり」を持ったのです。

 3つ目は、「パンを裂いたこと」です。その家の主人が、まず祈ってから、パンを裂き、食卓についている者に配ることが、当時のユダヤ人の習慣でした。ですから、「パンを裂き」とは、一緒に食事をしたことを意味しています。それと同時に、最後の晩餐の時に、イエスがパンを裂いて「これは、あなたがたのために与えられる、わたしの体です。わたしを覚えて、これを行いなさい」と言われたことを思い起こしたとも考えられます。イエスの臨在を信じつつ、食事を共にしたのだと思います。

 4つ目が、「祈り」です。イエスは、弟子たちに、主の祈りを教えていました。天にいます神を父と呼ぶことから始まる祈りは、それまでのユダヤ教にはない祈りでした。私たちが、神に対して、父と子の関係に入れるのは、イエスの十字架の贖いと復活によるものです。そして、主の祈りの中でも、「御国を来らせ給え」は、イエスの再臨を求める祈りでもあります。こうした祈りを共に捧げることで、人々は、イエスと交わり、礼拝したのです。

 彼らの生活の中には、ユダヤ教の伝統と、芽を出したばかりのキリスト教の新しさが同居していました。多分、彼らは、キリスト教という、新しい宗派を結成したとは考えてはいません。エルサレムの神殿の一角を自分たちの集合場所とし、旧約聖書を尊重し、イエスが救い主であるのは、旧約聖書の成就だとしたのです。ユダヤ教の中に、パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派があるように、自分たちは、ナザレ派であると受け止めていたかも知れません。

 しかし、イエスによって「終わりの日」が到来し、天に昇られたイエスが送った聖霊が働き始め、人々の思いを越えて、霊的共同体は、その新しい姿を見せ始めます。

  イエスは、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と宣言した後、会堂で教え始める一方で、病人を癒しました。この病の癒しが、終わりの日の到来のしるしとなったのと同じ様に、使徒たちもまた、多くの不思議としるし、つまり、奇跡を行うようになったのです。ここに、聖霊の働きを見ることが出来ます。そして、人々の間に、こうした業を行われる神に対する恐れが生じました。この「恐れ」は、恐怖ではなく、畏怖の念を抱いたということです。

 聖霊の働きは、使徒たちの行う癒しの奇跡に留まりません。霊的共同体の経済的な面にも現れるようになりました。それは、財産の共有です。

 信者たちは、自発的に財産や所有物を持って集まり、それを共有するようになりました。この点については、4章32節から35節に、より詳しく書かれていますので、読んでみましょう。

 

さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。使徒たちは、主イエスの復活を大きな力をもって証しし、大きな恵みが彼ら全員の上にあった。彼らの中には、一人も乏しいものがいなかった。地所や家を所有している者はみな、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足元に置いた。その金が、必要に応じてそれぞれに分け与えられたのであった。(新改訳)

 

 この財産の共有は、自発的な意思によるもので、義務でも強制でもありませんでした。経済理論がある訳でも、組織的な申し合わせがある訳でもなく、自然に出来上がったのです。聖霊の働きによる、愛の共産制と言えば良いでしょう。

 その背景にあったのは、貧しい信徒が多いという現実でした。彼らの中で、最も貧しかったのは、ガリラヤから出てきた、古参の弟子たちだったと思われます。彼らは、ガリラヤで持っていた財産も仕事も捨てて、イエスに付き従いました。また、エルサレム自体も、決して豊かな町ではありませんでした。標高が800メートルと高く、農業には適しておらず、神殿があるから人が集まって来るという町でした。エルサレムの住民の多くは、その日の家計を支えることで精一杯の人々だったのです。そうした人々が信仰を持ち、仲間に加わることで、経済的な配慮が求められるようになりました。

 信者たちは、聖霊によって導かれ、日々、お互いに助け合い、祈り合い、励まし合いながら生活しましたが、やがて、まるで一つの家族のようになっていきました。理論でもなく、組織でもなく、制度でもなく、結びつきの強い家族が、しっかりと支えあうようにして成立したのが、愛の共産制だったのだと思います。

 ここには、イエスの教えが現れているように思います。イエスは、永遠のいのちについて尋ねた者に、次のように告げました。

 

「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」

(マタイによる福音書19章21節 新改訳)

                                  

 これを聞いた人は、悲しみながら立ち去って行きました。金持ちだったのです。一方、イエスの言葉に忠実に従ったのが、愛の共産制でした。

 しかし、この愛の共産制は、生産手段を共有してはいませんでした。ですから、財産を全て売却して、それを分けてしまえば、また経済的な困難に直面しなければなりません。続けるのは、困難を極めたと思われます。

 実際、エルサレム教会は、貧しい教会として知られ、パウロたちが、遠方の教会から、援助の献金を募るようになっていきます。

 こうした困難を抱えつつも、聖霊によって導かれ、喜びと真心をもって歩み始めたのが、誕生したばかりの霊的共同体の姿でした。

 ところで、キリスト教の歴史の中で、誕生したばかりの霊的共同体のように、愛の共産制を実践したグループがありました。宗教改革の頃です。

 宗教改革といえば、マルティン・ルターが有名ですが、同じ時期にエラスムスという人文主義者が、ラテン語で注をつけたギリシア語の聖書を、スイスのバーゼルで出版しました。

 彼は、カトリック教会の堕落を正すには、ギリシア語で新約聖書を読むことが大切だとしました。ギリシア語で、イエスの福音に直接触れることができれば、人々をキリスト教の本来の姿に連れ戻すことができると考えたのです。

 そして、バーゼルで、ギリシア語聖書研究のための家庭集会を普及させて、聖書研究を指導しました。彼の影響を受けた者の中から、再洗礼派と呼ばれるグループが現れて来ます。

 再洗礼派の人々は、聖書研究を通して、カトリック教会が行なっている幼児洗礼には、聖書的な根拠がないことを知り、洗礼は、信仰を持った成人が、信仰告白を行なった上で受けるべきだと考え、それを実践するようになりました。幼児洗礼を受けた者にも、再び洗礼を授けたため、再洗礼派と呼ばれるようになったのです。

 再洗礼派は、カトリックからも、ルター派からも敵視され、迫害されました。数千人の殉教者を出すほどに、酷い迫害を受けたのです。その土地を治める支配者の宗教が、その土地の宗教になることに反対し、自覚的な信仰を持った信者が、自分たちで教会を形成することを主張したためです。戦争に反対し、兵役や軍事費の納税を拒んだことも迫害の理由でした。カトリックも、ルター派も、徹底的に再洗礼派を迫害しました。支配者の宗教が、その土地の宗教になるという点で、また、戦争を容認するという点で、カトリックとルター派は、同じ立場だったのです。

 この再洗礼派には、メノナイト、アーミッシュ、そして、フッタライトがありました。彼らは、文字通りに聖書の言葉を生きようとしました。「自分の敵を愛しなさい」というイエスの言葉に忠実に、戦争を否定し、絶対的平和主義を唱えました。軍事費の納入を拒み、兵役を拒否して、迫害されました。イエスの山上の説教には、実行するのが困難な言葉がありますが、彼らは、それを生きようとしたのです。

 この中で、ヤコブ・フッターが率いたフッタライトは、本日取り上げた箇所のように、財産を共有する共同体を生み出し、迫害を耐え忍びつつ500年近く生きて来ました。彼らは土地を共有し、それを耕作して得た収入は共有の金庫に入れ、必要に応じて分配しました。彼らは、迫害に耐えきれなくなるたびに、モラヴィアからハンガリー、ルーマニア、ウクライナと各地をさすらい、19世紀後半にアメリカに移住します。兵役からの自由、信仰の自由を求めてのことでした。

 しかし、第一次世界大戦では、フッタライトの青年が、兵役を拒否したことを理由に刑務所に送られ、拷問を受けた挙句に殉教するという事件が起きます。親元に戻された遺体には、彼らが着ることを最後まで拒んだ軍服が着せられていました。

 この事件が切っ掛けで、フッタライトはカナダに移住しますが、そこでも、フッタライトに土地を売却すること、貸すことを禁じる法律が制定されるなどの迫害を受け、良心的兵役拒否が法律として成立したアメリカに戻らざるを得なくなります。

 このように、イエスの言葉に忠実であろうとするが故に、迫害を受け続けたフッタライトですが、アメリカに移住した当初は数百人だったメンバーが、今では4万人を超える規模まで成長しています。

 イエスの言葉に忠実であればあるだけ、迫害は免れませんが、それと同時に、聖霊の守り、導きがあり、恵みも満ち溢れることを教えられました。

 

 以上で、本日の私の話を終わります。